修学旅行の前日にはホットのはちみつレモンがいいらしい(証拠不十分)。
『でさー、あいつったら、歯ブラシまで持ってくっていうんだよー』
「えー? 歯ブラシなんか、どうせ向こうのホテルに完全常備でしょー。持ってくだけ無駄だって、止めときなよー。そっち連絡通じるんでしょ、私アイツの連絡先知らないからー」
『いや、それがさぁ、さっきからあいつ、電源切ってるのか、全然繋がらなくてー』
「あー、空港のセキュリティ対策かなー。まぁ、不安材料はない方がいいし、…… あいつが持ってくっていうんならしょうがないかぁ」
『そんなもんかなぁー。…… あっ、もうこんな時間! 私明日、日が昇る前に家出なきゃ、空港間に合わないんだよー。ゴメン、優衣! ここで電話切るね』
「あ、うん、大丈夫だよー。じゃあ、また明日、空港でねー」
『うん! 優衣こそ、遅刻すんなよーっ!』
その言葉を最後に、無機質な一音を細切れに発するだけになった携帯を伏せ、
「はぁーっ……」
ベッドの上で、壁に寄りかかった優衣は、深いため息をついた。
ベッドの傍らには、普段の通学カバンよりも小さいサイズの、手提げにもなるタイプのリュックサックが一つだけ。
もうすっかり、片付けも終えてしまい、優衣は今、絶賛暇を持て余し中なのであった。
「……まだ寝るには早いし…… どうしよう……」
寝る前にやることは、もうすでに済ませた。
優衣は、傍らのリュックサックを引き寄せる。一度閉めたファスナーをもう一度開け、中から冊子を一冊取りだした。
表紙には、やたらと凝ったデザインの中心に、
【修学旅行のしおり】
と大きく書かれている。
「……もう一回、読み返しとこうかな」
誰へともなく呟いて、優衣は修学旅行のしおりをぱらぱらとめくり始めた。
優衣はとある高校の二年生。二年生といえば修学旅行がある。
そして、明日はまさに、修学旅行当日だ。
着替えなどを詰め込んだ重い荷物は三日前にホテルに送り、本人が当日持っていくのは、財布などの最低限のものを詰め込んだ手荷物だけ。行きも帰りも私服でいい(ただし、ベルトは注意。あと携帯も、うっかりポケットに入れていようものなら空港のゲートで派手に警報を鳴らすことになる)。一応携帯は所持不可なのだが、それを正直に守る人間ははたしてどれほどか。
優衣はもうすべての用意を終えてしまい、後は明日に備えて眠ればよかった。
だが、哀しいかな、小さい時から、楽しみなことがあると前日眠れなくなる質。
今回も例によって眠れずにいた。
今電話をしていた相手も優衣と同じタイプなのだが、彼女の場合は優衣よりも空港から遠いところにいる。
優衣より早く寝なければならないのは当たり前。というより、前日は早く寝るのが当たり前なので、誰も優衣に付き合ってくれる人間などいないのが現実だった。
(……いや)
ひとり、いるか。
優衣は、それまでも読んでいるというより眺めているだけだったしおりから目を逸らし、伏せたままの携帯を、ちらりと視界に入れた。
しおりを一旦わきに置いて、携帯を手に取り、電話帳メニューを開く。
しばらく電話帳をめくって、そいつの名前を見つけた。
塩谷。
あいつなら、起きてるかもしれない。
けど。
「……いやいやいや、無理無理。無理だって」
優衣は自分で否定して、メニューを消さないまま携帯を再び伏せて置いた。
塩谷は中学からの付き合いで、現在はクラスメートだ。普通に軽口叩ける間柄だし、お互いにお互いへの過度な気遣いも息苦しい遠慮もない。気楽な友人だ。
だが、近頃の優衣には、簡単にそういうふうにできない理由があった。
「……こんな夜に電話かけて、おかしいやつって思われるって。非常識だって、相手が寝てたらどうすんの」
誰に、ではない、自分に、戒める。至極まっとうなことを言って、一旦舞い上がりかけた気持ちを落ち着かせようとする。
けれど、携帯のメニュー画面を切っていないことを、頭の片隅では覚えていた。
優衣は、塩谷が好きだった。
いつから、という明確な期日は覚えていない。
ただ、きっかけは覚えている。きっかけは、他愛もない、無駄話の中だった。優衣はいつも通りふざけていて、あいつの結構広い背中とかたくましい腕とか肩とか、思いっきり叩いたりもしていた。
すると急に、あいつが言った。
『お前、女にしては結構力あるよな…… 毎回毎回痛ぇんだけど』
それまで全然気にしていない風だったのに、急にそんなことを言われ。
優衣は一気に申し訳なくなって、「ごめん」と謝った。
そうしたら、あいつはふいと顔を逸らしながら。
『あ、いや、…… けど、お前が叩くのなんか、…… 全然オレは、平気だけどな』
――いや、それは痛いのか痛くないのか、どっちなんだ。
我ながらどうしてこんな言葉で、と優衣は思う。心の中でツッコミまで入れたのに。
だがどうしてだろう。優衣はこの言葉に、おとされてしまった。
あいつが、顔なんか逸らすから。急にあんなことを言ったりするからだ。
優衣は今でも、その時のことを思い出すと、なんとなく恥ずかしくて、頬が熱くなってしまう。
そんなわけで、今までずっと。表面上は何事もなかったかのように振舞いながら、陰では想い続ける、自分でも思う変な女として。優衣は塩谷とふざけてきたのだ。
「いや、…… でも……」
優衣は、一旦手放した携帯を、もう一度未練がましく見つめた。
今は深夜というほどの時間帯ではない。今電話を掛ければ、いつも準備の遅い塩谷なら、電話がつながるかもしれない。
繋がったら、もしかしたら、――行きの電車の待ち合わせとかが、出来るかもしれない。
そうしたら、…… 二人きりになることも、あるかもしれない。
「いやいやいやっ、何考えてんの私ッ!!」
自分の考えていることが恥ずかしくて、優衣はつい、枕を布団に投げた。ぼふっ、と不毛な音がして、自分はそれほどすっきりもしないで。ますます恥ずかしくなって、
「……うぅー……」
もどかしさに呻きながら、枕を取りに布団の上を這った。
携帯が急に小刻みに震えだしたのは、優衣が電話を掛けようか掛けまいか散々迷っている時だった。
「うわぁあっ!?」
不意を突かれてついベッドから飛び降りて携帯から距離を取った。そうしている間に、着信の相手の名前が画面に表示される。
『塩谷』。
「ふおぉぉおおっ!?」
自分では無意識に奇声をあげながら、しかしそれ以上どうしようもなく、かといって無視することもできず、優衣は震え続ける携帯を、恐る恐る手に取った。
通話のボタンを、震える指でどうにか押し、携帯を耳にあてる。
『――平本?』
「はっ、はいぃっ、平本ですっ!! …… あ」
言ってから気づいた。
――私、…… テンパりすぎだって……!!
なんかもう自分が嫌になって来た。すると、
『……っぷはははっ!! 何だお前、何でそんなテンパってんだよ』
「あー、そのー、これはー、ですねー」
『ははっ、悪ぃ。こんな真夜中に電話しちまって。なんか妙に寝つき悪くてよ』
とりあえず、おかしくは思われていないようで安心した。そして同時に、
――同じだ。
『今、ちょっと話せるか?』
電話の向こうから聞こえてくる塩谷の声に、優衣はできる限り普通の声を保とうと努め、
「……うん。大丈夫だよ」
答えを返した。
「それで?」
優衣は、もう斜に構えるような気持ちのつもりになり、壁に思いきり寄りかかった。
「何の用事?」
『いや、用事っていう用事はない』
「何それ? 私だってこれでも忙しいんだからねー」
『嘘だろお前、どうせ準備全部終わったけど全然寝れなくて、夜中に誰かに電話するのも気が引けるから仕方なく一人で修学旅行のしおり読み返したりしてたんだろ』
「……っ!!」
――何ですべてをドンピシャしてくるんだろうか、こいつは。
もしかして部屋に監視カメラでもつけられているのだろうか。塩谷を部屋に招いたことなど、もちろん一度もないのだが。
『当たってたか?』
電話の向こうでにやにやしているのが分かる。
「……そうですよ、悪うございました」
『何怒ってんだよ。からかったのは悪かったっての』
「そっちこそ何謝ってんのー? 別に怒ってなんかないっての」
『そうかー?』
「そうだよー」
『そっか。…… なら、いい』
――何がいいんだ。こっちは全然よくないっての。
『……明日、楽しみだな』
どうやら話題に困ったらしい塩谷が、明日のことを話題に出してきた。
「……うん。そうだね」
返事を返した、ちょうどその時、優衣はごくりと唾を飲み込んだ。
今なら、誘えるかもしれない。
――けれど、なんて言う?
『オレ何気に飛行機とか初めてなんだよなー。お前ってどっか飛行機で行ったことあるか?』
「あるよ。一回だけだけどね」
『まじか。すげぇな』
――もし、塩谷がすでに、誰かと約束していたら、どうする?
『お前って、三日目の体験、海?』
「そりゃ海でしょ。あそこ行くんなら海は絶対入っとかなきゃ」
『だよな。オレも海なんだわ。自由時間とかあったら、なんか遊ぼうぜ』
「そりゃいいね。ビーチバレーとか?」
『お前バレー部のクセにそりゃないだろ。絶対手加減しねぇよ』
――もし、断られたら?
一人で行きたいって言われたら。私はどうすればいい。寂しさを抱えて、空港まで行って、そこで出くわしたりなんかしたら、気まずいことこの上ないじゃないか。
『お前土産とか買うか?』
「そりゃ買うよー。頼まれてるしさ」
『うちも頼まれてんだけどさぁ、正直聞いたこともねぇ名前ばっかなんだって。お前さ、向こうでよかったら一緒に土産とか見てくれねぇか?』
「え? …… いいよ」
――一緒に。
――塩谷と一緒に、行きたい。
――空港まででもいい。一緒に行けるなら、一緒に行きたい。
「あ、…… あのさっ、塩谷!」
優衣は、沸き上がった衝動を抑えきれず、つい叫んだ。
『……はい』
塩谷も不意を突かれたのか、大人しい返事だ。だが、もう止まれなかった。
「あのっ! …… 明日、朝、よかったらっ、駅で待ち合わせして、一緒に行きませんかっ!!」
『……え?』
塩谷の、疑問がいっぱい詰まったような、間の抜けた声が、優衣の耳朶を撃つ。何だか痛かった。
心臓が、バクバク言ってうるさい。こんなに直接聞こえるみたいな音がするのか。初めて知った。
――どうしよう。どうしよう。言っちゃった。言っちゃったよ。もうリセットできないよどうしようマジで。
『あれっ…… オレ、お前に言ってなかったっけ?』
「……へっ?」
『オレ、最初からそのつもりで、こっちからお前に、そのことを言ったと思ってたんだけど』
「……えっ? …… えっ? えぇっ!?」
すべてがひっくり返されたような気持ちになって、またつい叫んでしまった。
『……うわっ、結構耳に来るなそれ……』
「えっ、それ、私聞いてないよ!?」
『まじか。悪ぃ言わなくて。…… んじゃまぁ、声が聞こえてなかったんだな。あるいは伝達ミスか』
「……どうやって言ったの?」
『覚えてねぇ』
「それ絶対言ってないって!!」
『まぁまぁ、いーじゃん別に。…… お前が言ってくれたし』
――あぁもう、なんて奴だ。
――さらっとこっちのテンションを上げて来る。
『んじゃ、明日の始発で、駅集合な。着き次第連絡ってことで』
「う、うん。…… わかった」
『じゃ、そういうことな。…… あー、よかった。伝達ミスとか聞いてねぇし』
「こっちもびっくりした。…… でも、ホントによかったよ」
心底よかったと思った。今ベッドの上に座っていなければ、力が抜けて座り込んでしまうところだった。
『……っていうか、もう十二時じゃねぇか。もういい加減に寝ようぜ。明日朝の飛行機の中で爆睡とか、カッコつかねぇだろ』
「それは知らないけど、まぁわかったよ。んじゃ、また明日だね」
『おう、明日朝にな。…… 寝坊すんなよ』
「誰が! …… あ、もう切れた」
あっという間に通話が切れてしまった携帯を耳から離し、優衣は、はぁ、と安堵の息をついた。
――とにかく、よかった。
これで明日、ものさびしく惨めな思いを抱えていかずに済む。
何より、塩谷と一緒に行くなら、朝早い電車の中で寝落ちしないで済みそうだ。
「よーっし。絶対、良い修学旅行にするぞーっ!」
優衣は意気込みも新たに、携帯電話の電源を切り、バッグの中に放り込んでから、布団の中にもぐりこんだ。
なんだかよくわからないが、少しだけ幸せな気持ちがしていた。
短いお話なので、読みやすくはあると思います。
気に入っていただけたら、嬉しい限りです。