01.プロローグ
人生をどこかで間違っていたとは思っていた。
だけど自分の過去をどれだけ振り返っても直したい箇所なんてなかった。
人並みに幸せで、人並みに不幸せを送っていた。
俺は二十八歳の無職。
両親は既に他界していて、叔父の家に居候していた。
無職とはいっても働いていない訳ではない。
叔父の翻訳家の仕事と生活を少しだけ支えている。
それだけといってしまえばそれだけなのだが。
叔父は俺の生き方に納得していないようだった。
俺がいたら助かるしできればいてほしいけれど、ここはお前の帰る場所ではないし巣立つ場所でもないと耳にタコになるくらい言われ続けていた。
“元々ここはお前の干渉すべき場所ですらない”
……その家で俺は、『ただいま』という言葉を忘れた。
いつからか煙草を吸い始め、賭博を行い、生活は堕落し始めた。
そうしてようやく俺は叔父から遂に追い出される事になった。
「仕事の邪魔だ」
ただそれだけ言われて準備する時間も与えられずに追い出された。
……俺はその後、何をしたんだっけか。
思い出せない。
薄っぺらい生活を少しだけ経験して……それくらいだったか。
………。
「 」
誰かが横たわる俺に向かって叫んでいた。
俺はその声を聞く事ができなかった。
なんで俺は横たわっているんだ。
この人は誰だ。
弱弱しい俺の頭では何も分からず表情を固くする。
本当は溜め息を吐きたかったんだけど、頭、動かないし。
「 」
俺の目の前にいる人は男性だった。
……俺に触れた手には血が付いていた。
「ああ……」
ぼんやりとした記憶が流れ、何かを思い出した。
俺は体の感覚と視覚を頼りにその男性に話し掛ける。
「轢かれたのか……俺…?」
彼は俺の言葉に頷いて何かを言っていた。
俺の質問への返答に何かを付け加えて返答したのだろう。
だが俺の耳には届かない。
「……そうか」
一言呟いてから俺は目を瞑った。
……本当に本当に薄っぺらい人生の走馬灯が流れ、消えていった。
でも、俺の人生は悪くなかった。
自分の事が好きだったし、時間の流れも、たまにいく散歩も好きだった。
血液型のABってのは、自分の事が嫌いになれないらしいけれど、そういう面では自分の血液型がAB型で良かったと切実に思う。
……変な性格と言われる事も多かったけれど。
そういうのも含めて楽しい人生だった。
真面目な人からしたら理解できないかも知れない。
プライドは低かったから、そんな事はどうでもよかった。
…………。
意識は遠のき闇の中へと潜っていく。
天国へ行くか、地獄に行くか、それとも現世に戻れるのか。
俺は考える事をやめて蠢く闇に身を委ねる。
次に俺が向かう場所はどこなのか。
生きるか死ぬか、どちらに傾こうとも俺の生き方は変わりそうにない。
……そんな事を思っていた。
――――――――――
起きた場所は灰色の天井が見える毛布の上だった。
何か声を出そうとしたが先程轢かれた後遺症からか上手く声が出せず、母音の五文字以外の言葉を出す事ができなかった。
体すら動かせない。
まるで頭と身体が繋がっていて首がないかのような感覚だ。
「あら、起きたのね?」
誰だか分からない女性が俺の顔を覗き込んできた。
女性は俺よりも顔の大きさが三倍くらいある巨人だった。
その姿に恐怖して俺は大きく叫んだが、その巨人は俺を抱き上げてよしよしとあやし始める。
一体これは何の冗談だ……?
「あなた、シャロルが起きましたわ」
「元気そうだな。他に比べて一番元気が良い」
女性の後ろには男性もいた。
その後ろにはメイド服を着た女の子もいる。
俺以外の全員が巨人であった。
……いや、この場合俺が小さくなっていると考えるのが妥当だろうか。
俺は回らない首で今いる場所を確認し、巨人用に作られた家具や時計、俺用に作られたベビーベッドを見て何となく理解する。
どうやら生き返ったらしい。
ただ、俺の体ではない別の体だけど。
転生ってやつか。
今俺を抱き上げている女性が母親でここにいる男性が父親なのだろうか。
どちらとも黒髪の似合う良い夫婦だ。
俺の両親はどちらとも髪を染めていたから、黒髪を貫いていた俺はいずれ髪が勝手に染まって行くのだろうとよく錯覚していたものだった。
ああ、懐かしい。
「安寧、燈す力を。『ファイア』」
父親は何かを言った。
その瞬間、中学生でも思い付きそうにないその台詞に馬鹿らしくなって笑ってしまう。
こちらが赤面してしまうほどの台詞を吐く父親だったとは。
恥ずかしい。
……ただその行動の後に一つの現象が付いてきた。
父親の指の先から火が現れ、彼はその火を蝋燭の先に付けたのだ。
糊を付けるかのように。
蝋燭に火を付け終わると彼は指に息を吹きかけてその火を消した。
……今、何をしたのだろうか。
魔法?
父親が黒魔術を使えるとかちょっとした自慢に……ならないけど。
一体何をした?
分からない。
「シャロル、ごめんなさいね。今日はちょっと遅くなるの……フィオナ、この子をお願いするわ」
「かしこまりました」
母親はフィオナと呼ばれた十歳くらいのメイド服の女の子に俺を渡し、蝋燭を持った父親の後に続いて俺のいる部屋から出て行ってしまった。
このメイドさんはフィオナというらしい。
……というか、メイドが雇えるって事はそれなりに金持ちなのだろうか。
メイド服を着ている人なんて久々に見たな。
前世の後半は秋葉原に行く電車賃なんて無いに等しかったからなあ。
メイド服もちょっとだけ懐かしい感覚だ。
「シャロル様、おむつを取り替えさせていただきますね」
両親が部屋を出て行った後、フィオナさんは俺のおむつに手を当てた。
赤ん坊とはいえ恥ずかしいな、自分の一物を見せるなんて。
だがそこに興奮しなくもない。
変態だ。
彼女は俺のおむつを外し、テッシュよりも固そうな紙を取り出して俺の股を拭き始めた。
……?
そこで俺はようやく何かに気付いた。
俺の一物が立たないなとか、そういう事を思ったわけではない。
というか赤ん坊の頃からそんなんだったら気持ち悪すぎる。
―――俺の一物がなかった。
あるものがなくて、俺にあってはならない物がそこにあった。
……どうやら俺は性別を間違ってしまったらしい。
その現実にただ俺は絶望するしかなかった。
――――。
まあ、そんな絶望もいつの間にか自分の中で面白いなと思えるようになっていった。
女でもいいやと思えるようになるまでに一年くらいは掛かったが、俺に与えられた時間は沢山あったのでどうだっていい話だ。
ハイハイができるようになるまでの間、ベビーベッドの上に転生した俺はこれからどのように生きるべきかとか、どんな世界なんだろうとか考えを巡らせてきた。
赤ん坊には本来ないはずの想像力を使って妄想を膨らませてきた。
母親や父親の書いた文字を見てこの世界の文字を覚えたり、常識を覚えたり。
ハイハイができるようになってからは家の中を探索して本を読んだり自力で魔法が使えるか試してみたりもした。
文字は違うが使用言語は日本語だったので覚えやすかった。
何か特別な物で翻訳されている可能性もあるが認識できれば何でもいい。
父親の部屋には剣があって、母親の部屋には杖があった。
この世界の両親は昔冒険家だったらしく、北国に住む竜を討伐した有名な冒険者なのだそうだ。
家名はアストリッヒ。
その家名さえ言えば両親の逸話を思い出す者も少なくないようだ。
竜を倒した話が数年前くらいで案外最近だから皆記憶に新しいのだろうと父親は笑って誤魔化していたが、それが真実ならこの世界は俺が思っている以上にファンタジーに溢れた世界だ。
竜とは一体。
魔法だけではなく魔物まで存在するのだろうか。
わくわくしない訳がない。
二足歩行ができるようになってから俺は自分の生き方について考えた。
後悔ばかり……ではなかったけれど、良い人生とはよべない前世を体験した俺は何の意図があってかは分からないがその記憶を引き継いでこの世界に転生した。
剣と魔法がある夢のような世界へ。
前世の記憶を辿って後悔した事を思い出す。
どう生きようが自分が楽しければそれで良かったし、馬鹿にされようが惨めになろうが自分には関係がないかのように生きていた。
仕事がなくてもニートと呼ばれても他人事だった。
仕事に就こうという全力さが、やる気が湧かなかった。
いや。
やる気は湧いていたが他よりもその度合いが遥かに小さかったのだ。
やる気と努力は比例するから俺は誰よりも劣ってしまった。
……。
俺には拘りや誇り、自慢できる物、プライドがなかった。
それが前世で駄目人間になった理由だと察した。
どうなってもいいと思ったから、どうにもならない結果になった。
もし、この人生を全力で生きたのならどうなるのだろうか。
一度死んだ俺はそんな事を思った。
男ではなく女の体になってしまったけれど、性別はどうあれ俺は前世で本気になった事なんて数回しかない気がする。
明日から本気出すの無限ループ。
明日っていつだったんだろうか。
俺にとって、明日っていつなんだろうか。
―――明日って今じゃないか?
本気になってこの世界を生きてみたい。
ここには俺の求めていた理想や二次元めいた物が沢山あった。
剣に魔法にメイドに異世界に転生。
俺は前世でやれなかった事をこの世界で成し遂げたいと心に決めた。
楽しむために。
そして、後悔しないために。