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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
99/139

六日目 その拾壱

「感情は理解は出来るよ」

 包丁がまな板を叩くような声だった。

「でもそこまでだ」

 滲んだ視界の中にウォッカがいた。相変わらず頬杖を突きながら射抜くような目で宙を睨んでいた。

「彼がした事は生に対する冒涜だよ。いや、それ以上だな」

「それ以上、ですか?」

 頭を両手で抱えたまま、司祭様が茫然と呟いた。

「妻と娘を無事生き返してその後も平和に暮らしていればお伽噺くらいにはなったかも知れません」

「彼は、何をしたんですか?」

 司祭様の声が怯えたように震えていた。咄嗟に耳を塞ぎたくなった。何が起ころうとしているのか、それが見えそうなのに実際は陰すら見えない。それを知ろうとする好奇心と目を背けようとする恐怖心が胸の中でせめぎ合っていた。

「今申し上げた通りですよ。生に対する冒涜です」

 感情がない訳ではない。でも乾いていて何より冷たい声だった。そんな変な声で話さないでよ、らしくないわね。そう毒づいたらこいつは果たして笑ってくれるだろうか。

「生き返すと言っても遺体を完全な形で再生させる事は非常に困難でした」

「でも、彼はご家族を甦生させたんですよね?」

「妻か娘か、その何れかは完全な状態で甦生させたそうです。ただそのどちらかは判っていません」

 数百年では利かない程古い時代の話だ。それを示す文献や資料が残っているとは思えない。十中八九口伝に依るものだろう。

「完全な甦生と不完全な甦生とおっしゃいましたが、具体的にはどのような違いがあったんですか?」

「泣きもするし笑いもする、腹が減れば食うし眠くなれば寝る。見た目は生きていた頃と全く変わりません」

 ヨハンが驚いたように顔を上げた。ウォッカは明らかにからかうような目でヨハンを見ている。

「ただ、栄養の摂取と代謝が劇的に変わりました」

 な? 同意を示すように首を傾げると、ヨハンは竦めた首を思い切り左右に振った。

「どのように変わったんでしょうか?」

「普段食べるものから一切栄養を吸収する事が出来なくなりました。それでも空腹は満たされましたが、それじゃ気休めにもなりませんからね」

 お腹が膨れるだけだとしたら、何をどうすれば肉体を維持出来たのだろうか。

「じゃあ、何を食べれば栄養になったの?」

「生きた人間の血と肉だよ」

 目を剥いていた。猛然と込み上げた吐き気を口を押さえて遣り過ごす。

「それの何処が生き返ったのよ! それこそ完全な化け物じゃない!」

「だから今言ったろ、これは本当に不完全な状態の甦生だよ」

 甦生ではない。ただ化け物を産み出しているだけではないか。

「お伽噺にもならないわね。ただの怪談よ」

「俺も最初は怪談として聞かされた。真夏の夜に聞くにはピッタリだからな」

「で、血や肉を摂取しないとどうなるの?」

「そこはヨハンが詳しい」

 今度はヨハンが目を剥いた。

「俺に振るなよ!」

「折角得た知識を披露するには丁度いい機会だろ」

「イヤだ」

「お前、老けた見た目に似合わず案外ガキだな」

「お前が言うな」

 ウォッカにだけは言われたくない。この顔で一つしか歳が変わらないと聞いた時は本気で耳を疑った。

 この男と知り合ってまだ一週間も経っていない事に今更ながらに気付いた。その僅かな期間で一体どれだけの事が起こったのだろう。誰かの老け顔以上に信じ難い事実だった。

「で、どうなるの?」

「肉が腐って骨が剥き出しになって、腐敗臭を放ちながらも生きてはいた、らしい」

「結局説明してんじゃねえかよ」

「うるせえ。ここまで来て退けるか」

 笑うべきか顔を歪めるべきか真剣に迷った。確かに世間話をするような感覚で聞けるような話ではない。

「肉が腐って骨が剥き出しになるって、化け物と言うか生ける屍と言うか、それじゃとても生きてるなんて言えるような状態じゃないわね」

「だから不完全なんだよ。初期段階の帰死人はほぼこれと考えていい」

「これが初期段階って事はまだ先にもあるんでしょ?」

「ああ」

 考えただけで吐き気と眩暈に襲われた。仮に、本当に仮に命を落としたとして、生き返ったとしてもそんな状態ならば絶対に甦生は望まない。潔く死を選ぶ。絶対に死にたくなんかないけど。

「それと、帰死人になった時点で非常に重い足枷を嵌める事になる」

「足枷?」

 死から帰る事が出来るなら本人にとっても残された家族にとってもこれほど嬉しい事はないに違いない。でも決してタダではない。確かに、そんな上手い話が転がっているハズがない。何かを得る事は同時に何かを失う事でもある。

 ならば、帰死人は命を取り戻した事で一体何を失ったのか。

「実に興味深いな」

 腕を組みながら話を聞いていたリーゼルが不敵に笑った。ある程度と言うか無駄にと言うか予備的な知識があった影響か、さっきからビビりっ放しの弟と違って落ち着きと余裕を取り戻していた。

 死人が生き返ると聞いた時は流石に動揺を隠せなかった。でも一度事実として受け容れられれば異常とすら言える事も対してある程度の理解は示している。思考の在り方としては非常に柔軟なのかも知れない。イリナも含め、彼の弟やミリアムも見習うべきだと思う。そう、ミリアムは絶対に。

「それは、単純に身動きを封じられる、って事なのかな」

「いえ、全てを完全に掌握されます」

 言葉の意味合いを図りかねているのか、リーゼルは怪訝そうに眉を潜めた。

「つまり、帰死人は完全に生き返した奴の掌の中にある、と」

「そうです。血は増やす事も、逆に減らす事も出来る。血を減らせば体内に循環する酸素の量も低下するから脳や臓器もタダでは済まない。別に機能を停止させる事も訳ないしな」

 息が止まりそうになった。

 さっき、ウォッカは血が術者の手足でしかないと言っていた。操り人形に過ぎないのだろう。そして、血を与えられて甦生した人間もその延長上の存在でしかないとしたら。

「死から戻った、生き返った人間を帰死人、それに対して甦生させた人間は黄泉人(よみびと)と呼ばれました」

「甦らせる人間、って事か」

「そうです」

「そう言やさっきの詩にもあったな」

「よく聞いてますね」

 リーゼルはわざとらしく顔をしかめてみせた。

「おいおい、こいつなんかと一緒にしないでくれよ。冗談キツいぜ」

「そうですね、失礼致しました」

「おい」

 ヨハンが椅子から腰を半分浮かせた。どちらに対する突っ込みだろうか。

「黄泉より戻りし化け物ってのが帰死人で、それを甦らせたのが黄泉人か」

「つまり、妻子に死なれた彼が最初の黄泉人なんだな?」

「そういう事になるな」

 鋭い兄と鈍い弟はウォッカの言葉にそれぞれ腕を組むと低く唸り声を上げた。片方は兎も角、もう片方が何も考えていないようにしか見えないのは気のせいだろうか。

「帰死人を生かすも殺すも黄泉人の匙加減次第だよ。生殺与奪を黄泉人が握っていると考えて差し支えない」

「……それ、生き返ったって言えるのかよ」

「知るかよ」

 痰を吐き出すように言葉を吐き捨てたウォッカに対して別に何の嫌悪感も抱かなかった。

 どうして生き返ったのか、本人の意思に依るものか遺族の希望なのか、それは判らない。本人も、そして家族も生き返った事を知った時は飛び跳ねんばかりに喜んだ事は想像に難くない。でもそれは本当に仮初めの命に過ぎなかった。紛い物の生に懸命に縋っていただけだった。機嫌一つで簡単に消し飛ばせるような命に希望などない。

「でも、その人って凄く真面目で優しい人だったんですよね? そんな、折角生き返した人の命を弄ぶような真似なんか……」

 希望を見出だして呟いたアリスの言葉が尻切れトンボのように霞んでいく。ウォッカは表情を曇らせたまま首を横に振っただけだった。

 彼が生み出した力を正しい事だけにしか使わなかったら、そもそも諍いなど起こらない。それに気付かない妹の幼さがこの時ばかりは堪らなく愛おしく思えた。彼がそんな風に考えて生きていたら、その力は後生に残る事が出来たのかも知れない。もしそうなっていたら、それはどんな姿を人前に晒していたのだろう。

「彼が甦生法を編み出すと、程無くして反摂理主義の評議長に結果を報告したそうです」

「相当ビックラこいただろうな」

 ビックラこくとかそういう次元の話ではないと思う。それでも弟の頭を叩こうとしないのはセージもそれ以外に適切な言葉が見つからない事の顕れなのかも知れない。

「反摂理主義を唱えていた大半の連中は自ら命を捨て、帰死人になったと言われています」

 言葉が出なかった。人である事を止めてまでなる価値など絶対にない。生きているのか死んでいるのかすら判らない中途半端な存在に成り下がるなんてまともな人間のする事とは到底思えない。

 息を呑む音が聞こえた。カティが口を両手で覆ったまま怯えたような目でウォッカを見ている。

「ひょっとして、誰も知らされなかったんじゃ……」

 何を知らされなかったのか、頭が半回転した頃には答えが見えていた。同時に目の前が真っ暗になった。

 詐欺どころの話ではない。知りながら何も説明していないのだとしたら、いや知っていたら誰一人として自ら命を絶とうなどとは絶対に考えない。

「さっき話したように、帰死人の生殺与奪は黄泉人の手の中にある。帰死人を生かすも殺すも黄泉人の自由だ。でも一概に死から帰ると言ってもいくつか段階がある」

「段階?」

「まず、単純に生き返しただけの状態。これは意識を取り戻しただけで肉体や臓器は死滅したままなんだ。だから通常摂取する食糧では体を維持出来ない。でも脳の機能自体は正常に機能するから本当に生き返ったようにしか見えない」

 ウォッカは真っ直ぐに人差し指を立てた。

「脳がまともに働いてるから、痛みも疲労も眠気も、空腹も感じるんだろ?」

「ああ。それはあの時にも話した通りだよ」

 昼寝する直前に部屋の隅でゴキブリを見つけた時のように顔をしかめると、ヨハンはとうの昔に冷め切っているお茶で舌を湿した。

「ここまで聞けば判ると思うけど、帰死人としては完全な失敗作だよ。肉体が徐々に腐敗して行くんじゃとても生きてるとは言えないからな」

「生き返ると言うより生ける屍って考える方が正しい気がする」

「おっしゃる通りです」

 顔をしかめたのはリーゼルだけではない。

 無意識で腕に触れていた。傷もアザもないけど、この皮膚が日に日に朽ちていくとしたら、少しずつ腐敗臭を放つようになったとしたら、絶対にまともではいられない。発狂して生に縋りつくか潔く死を選ぶか、何れにしても尋常ならざる感覚に支配される事は明らかだった。

「これに対して、ここから一歩前進した第二段階は肉体の甦生も完全に行われている。初期段階のように肉体の腐敗は一切起こらない」

「今度こそ、完全に生き返ったんだな?」

 ウォッカが頷くと、今度こそヨハンはホッとしたように溜め息を吐いた。ウンコをギリギリまで我慢してようやく便器に跨がれたような顔だった。

「ただ全てを黄泉人に掌握されている点では初期段階と変わらない。気分次第ですぐ燃えるゴミに早変わりだ」

 子供が遊び飽きたオモチャを投げ捨てるようにして、折角取り戻した命をいつでも吹き消されるとしたら。

 全く以て気分の悪い話だ。意識や肉体は生き返れたとしてもこのままでは一欠片の希望もない。

「ねえ、今生きているような状態で甦生させる事は出来なかったの?」

「勿論出来たよ」

 一瞬、本当にずっこけるかと思った。突き出した拳に後の先で反応するような速さで言う事ではない。

「そこまで行くと黄泉人の力が完全に複製された事になる。だから死から帰ってはいるけど帰死人じゃない。黄泉人として生まれ変わる訳だ」

「完全に、摂理を覆したのね」

「ああ」

 傷を癒す。それだけでも人が扱うには余りに大き過ぎる力だった。それが人の欲求、いや欲望に晒されるに連れ少しずつではあるけど確実に姿を変えて行き、最終的には完全に生死を司るまでに到った。

 生まれ落ちた事を後悔した経験はない。生まれたからには笑いながら生きたいし、笑いながら死にたい。でも彼が生み出したものは従来人の持つ死生観を根底から覆すものだった。生かすも殺すも彼の自由、機嫌が良ければ生かすけど虫の居所が悪ければ殺す。そこに命の尊厳は存在しない。彼が生き返した人の全てを殺したと聞いた訳ではない。甦生法を生み出した後、彼が具体的にどんな行動を取ったのかもまだ把握していない。

 でも。

 方向性が完全に転換した彼がその後まともな道を進むとはとても思えなかった。確かに真面目で勤勉には違いない。でも途中で進むべき方向を完全に誤ってしまった。だからこそ突き詰めるまで突き詰めて、人の、生物の摂理を覆してしまった。

 人を生かすために授けられたハズの力が生と死の概念を根底から崩壊させている。地獄の入口、ウォッカは自らの持つ力をそう評した。彼が生み出出した力は絶対に肯定出来ない。でもその根っこにあったものは誰しも当たり前に考えている事だ。だから誰にも否定出来ないし、その権利もない。

 そして、形は違えどウォッカもその一端を受け継いでいる。

「まず、彼は反摂理主義を掲げていた評議長を帰死人にしました」

 生者から死者へ、そして死から還った者へと姿を変えた。要は殺した事に他ならない。それが重苦しく全身にのし掛かる。

「騙したんですよね?」

 カティは依然として口を両手で覆っていた。目は恐怖で潤み、全身が小刻みに震えている。

「どうして、どうしてそんな事……!」

「そうするだけの理由があったんだよ」

 口を突いて出た溜め息はやたらと重かった。物憂げに歪めた顔をウォッカは右手で覆う。

「推測の域を出ないけどな」

「聞かせて」

 考えるより先に言葉が出ていた。かつての仲間を腐った死体に変えるだけの理由があるとしたらそれは一体どんなものだったのか、それが純粋に知りたかった。

「真面目で誠実で善良だった彼を黄泉人に変える切っ掛けを作ったのが反摂理主義の連中、それを裏で糸を引いていたのがその評議長だった、俺ら忌人の間ではそう考えられてる」

 咄嗟に言葉が出なかった、二の句が継げなかった。地面から頭を出している石につまずくようにして吐き出しかけた息が肺の奥の奥にまで引き戻される。

「なっ……」

「何でそうなるんだよ!」

 心臓が口から飛び出しそうになった。それくらい驚いた。疑問をそのまま言葉に変えてくれる素直さは有り難いけど少し心臓に悪い。

 椅子から立ち上がったトージが拳を握り締めたままウォッカを睨んでいた。

「それじゃまるで……」

 トージの目尻が目に見えて釣り上がっていく。物凄く怒っている。尋常でないくらいの怒りだった。

「少し落ち着けよ」

「うるせえ! これが落ち着いてられるか!」

 嗜める兄の言葉を遮るとトージは尚もウォッカを睨み付ける。

「殺された、って事だろ?」

 弟の肩に手を置いたまま、セージは気不味そうに言葉を吐き出した。

「人を死から戻す力は彼ら反摂理主義の連中には喉から手が出るくらいに欲しいものだった。でもそれを明確な形に変えられる可能性を秘めていたのは彼だけだった」

「だから、殺したって言うの?」

 自分達が成し得ない事を、渇望して病まないものを得るために誰かを利用する。いやそれを遥かに凌ぐ。そうせざるを得ない方向に仕向けたのだから。

「飽くまで可能性の話だよ。それが事実かどうかなんて今更確かめようがない」

 確かにそれを裏付ける証拠があるとは思えない。でもウォッカも確信しているハズだ、彼の妻子は殺された、と。取り戻せないから死に物狂いで甦生法を編み出した。殺されたから、殺した連中を腐りながら生き続ける化け物に変えた。

「彼も自身の主張と矛盾する研究を進めている事に関しては常々批判を浴びていた。同時にそれが需要として非常に大きな比重を占めている事にも気付いていた。

 妻子を殺された確たる証拠を示す事は出来なくても状況を見ればそういう推測に到る事は比較的容易だった」

 証明する手立てがなくても成果として求めていたものを差し出せば、その反応を見れば充分だ。誰が何を目論んだか、その思惑も透けて見える。

「彼は帰死人の性質について細かくは説明しなかったそうです。生き返す術を得た事を伝えただけだと」

「それだけで、騙されちゃうものなの?」

 何せ死んだハズの人間が息を吹き返すのだ。俄に信じられるような類いの話ではないけど、それをすぐに信じてしまうのはいくら何でも単純過ぎる気がした。もし失敗したら、生き返らなかったらどうするつもりでいたのだろう。

「死人を目の前で生き返らせたんだと。百聞は一見に如かずだ、或いは論より証拠と言った方がいいかな。何れにしても、そんなものを見せつけられたら信じちまうのも無理はないだろ」

 もし、身近にいる誰かが亡くなっていて、それを受け容れる事が出来なかったら。そんな光景を目の当たりにしたら。

 一も二もなく縋りつく。全てを擲ってでも甦生を望む。生に対する執着は、渇望は何よりも強い。我が身でなくても、誰かのためであっても変わらない。そして、その誘惑に絡め取られたが最後、もう永久に抜け出せない。肉体が朽ちるのを待つか黄泉人に破壊されるか、選択肢はその何れかであってそれ以外はない。

 恐ろしい魔性を秘めた罠だった。そして多くの人間がそれにかかった。

「でも、肉体が朽ちているなら防腐処理を施さないとすぐに腐敗が進行してしまうんじゃ……」

 実に利に叶った、至極全うな指摘だった。それでは甦生させる事は出来てもすぐにバレてしまう。

 ウォッカは静かに首を横に振った。

「それすら黄泉人の匙加減一つで如何様にも出来る。腐敗を進行させる事も遅らせる事も訳はない」

 完全に生き返った、そう錯覚した彼らが実はただの化け物に成り下がっていた事を知った瞬間、一体どんな顔をしたのだろう。体は徐々に腐り、次第に腐敗臭を放ち始め、繋がりを失った細胞が肉体から切り離されていく。腐ったジャガイモを鷲掴みにした時とは比較にならないくらいの絶望に襲われた事だろう。ミリアムは呆然と目を見開いたまま宙に視線を漂わせていた。濁流に呑み込まれようとしているのに何一つ抵抗する手立てを持たない。真っ暗だった。

 これが彼らの望んだ新しい生の形なのか。何を求め、何を期待して彼の妻子に手をかけたのだろう。有り得るハズもない、絶対にあってはいけない事を求めた挙げ句、無辜の人間を殺す事すら厭わない。報いとしてはむしろ自然と言える気もする。入口がある以上、必ず出口がある。だが出口の向こうに見えたものは希望の光ではなく全てを絶望に染める闇だった。しかも、それすら因果すら自ら招いたものに過ぎないのだ。

 有り得ない欲望に駆られて誰かを殺める事も、死人を甦生をさせる願望、いや狂気に取り憑かれる事も絶対に肯定出来ない。

「実現させたのは彼だけど、発想自体はもっと古くからあったんじゃないのかな」

「でしょうね」

 リーゼルは腕を組むと視線を宙に浮かせた。幼かった頃にやらかした大失敗を思い出した時のように唇を不格好に歪めている。

「ただそういう発想を持つ事自体が禁忌とされていた。だから、考える事はしても本腰入れて手を付けるような人は一人も現れなかった」

「だろうな」

 まともな精神状態ならまずそんな事は考えない。常軌を逸した考えに捕らわれた時点で彼の精神にも崩壊の兆しが見えていたのかも知れない。

「かなりまとまった人数で彼を殺そうとしたけど無駄だった。相手にもされなかったって話だ」

 返り討ちどころの話ではない。完敗、いや惨敗と言ったところだろう。

「そんなに圧倒的だったの?」

「術を作り変える過程でより攻撃的なものに変えていった。消術も単純に焔を起こすだけじゃなく更に温度を上げたり、」

 掌の真上で空気が渦巻いた。空気に厚さを伴った別の空気の層が割り込むようにして空間が歪む。透明な球体が音を立てて掌に落ちた。

「気温を急激に低下させたり、」

 よく見ると湯飲みに残っていたお茶が完全に凍り付いていた。最初は錯覚だと感じたさっきとは違い、肌が痛むくらいに空気が冷え切っている。その気になればこの部屋を丸々凍り漬けにする事も出来るに違いない。

「雷を発生させる事も出来た」

 基本を応用して少しずつ発展させていく。何をやるにしても基本が大事だと耳にタコが出来るくらいに散々聞かされたけど、その基本を完璧に理解した上で更に応用させる。並大抵の努力で成し得る事ではない。でも、それがあったからこそ普通ならば絶対に開かない扉を開けてしまったのだ。それが彼が失ったものの、そして彼らが奪ったものの重さだった。失ったものは取り戻す、奪った奴らは許さない。その二つを彼は見事に実現した。

「その気になれば気象を操る事も出来るでしょうね」

「理論上は可能です」

 司祭様は眩暈を堪えるように頭を抱えている。

「神にも等しい力ですね」

 今度はイリナが頭を抱えたくなった。アリスは既に頭を抱えながら唸っている。

 本来の消術の力を逆転させて気温を急激に低下させるまでは何となく理解は出来る。そこから先は理解はおろか想像すら及ばない。

 でも手掛かりくらいはあるハズだ。少なくとも司祭様にはそれが判っている。つまり理屈で解明出来る部分もあると言う事だ。考えろ考えろ。答えが提示されるまで待っていたら何ら子供と変わらない。

「気温を自在に操れる、って事は気圧にも変化を与える事が出来る、そういう事だよな」

「そうです」

 兄は隣で腕を組んだまま唸り声を上げている弟を睨むとわざとらしく溜め息を吐いた。

「お前、学校で何を習ったんだよ」

「兄貴と同じ事だよ」

 大袈裟に肩を竦めた兄をヨハンが睨み付けた。

「どうせ全部右から左だろ」

 露骨に顔が引き攣った。結構痛い言葉だ。でもあいつと同列に扱われるのはかなり真剣にイヤだった。

「槍が降るとは言うけど、槍のようなものを降らせて敵を全て串刺しにした、そんな記録も残ってる」

「その、槍のようなものって、」

 何? アリスが素直に首を傾げた。ミリアムも降参するように肩を竦めたまま首を振っている。

「雨だよ」

 焦点がブレるようにして言葉が耳を素通りした。

 確かに空から降るものである事は間違いない。でも何故それが凶器に変わるのか。

「雨滴を瞬時に凍り付かせた。人に限らず大抵のものは穴だらけだっただろうな」

 武器など必要ない。焔を起こし、空気を凍てつかせる事も出来るなら身の周りにあるもの全てが凶器になる。

「ひょっとして、その雨雲すらそいつが作った、とか……」

「局地的にではあるけど、積乱雲を発生させたらしい。始末するなら霧雨よりも豪雨の方が確実だろ」

 最初は傷を癒し、焔を操るだけだった。それだけでも充分凄いけど、死者を甦生させる方法を得る過程で劇的な進化を遂げている。

「もう、人間じゃねえな」

「彼だけじゃない」

 唾でも吐き捨てるような言い方だった。唇を窄めたままそっぽを向いているヨハンに、ウォッカは静かに言った。

「元々人が扱うには過ぎた力だったんだ。それを与えられた時点でこうなる事は決まってたし、得た事で人とは明らかに違うものに変化したんだよ」

 摂理を覆し、人の心を狂わせ、破滅へと導く。そうなる事が決まっていたのだとしたら。人としての在り方を根底から覆してしまったのだとしたら。

 何故神は人にそんな力を授けたりしたのだろう。

「相手にされなかったと言うか相手にもならなかったと言うか、殺そうとした相手にほぼ皆殺しにされた」

「それだけじゃねえよな?」

 リーゼルの横顔には何かを確信している優越感が微かに漂っていた。それを全開にしないのは雰囲気がそれを許さないのもあるけど、それだけではない気がした。

「今度は殺された仲間が襲って来た、そうだろ?」

 息を呑む音がハッキリと聞こえた。

 仲間を殺されただけではない。死者を黄泉人の手で甦生させれば、血を注がれれば黄泉人の走狗になる。そうなったら抗う術がない。帰死人にされた以上、生殺与奪は黄泉人の手の中にある。

「昨日の友が今日の敵とは言うけど、それを地で行く展開だな」

 笑うに笑えなかった。溜め息すら出ない。

 死者は化け物として生き返り、仲間は敵になり、殺す事も叶わない。

 完全に手詰まりだ。これ以上の八方塞がりもないに違いない。少なくとも希望を見出だせる要素はない。

「こうして、世界は地獄に変わった」

 傷を癒す力が少しずつその形を変え、ついには絶望をもたらすものに変貌した。一体どんな皮肉だろうか。

「生きてれば殺されるし、まともに死ぬ事も出来ない。一度帰死人にされたら最期、散々弄ばれた挙げ句、惨たらしく殺される。そんな事が繰り返された」

「その人って、とても真面目な人だったんですよね?」

 カティだった。縋るような目でウォッカを見ている。

「優しくて誠実な人だったんですよね? その人がどうしてそんな酷い事をするんですか?」

 震える目から滴が溢れた。

 大切な家族とずっと一緒にいたかった。特別な事なんか何処にもない。単純で有り触れていて、誰しも深く考える事もしないし意識もしない。日常の中にあるものを大切にしたかっただけだ。でも、それを奪われてしまった。

 椅子を引く音がした。母だった。震えるカティの背中を両腕で思い切り抱き締める。父も立ち上がると娘の頭に手を置いた。

「もし、もしお前が今ここにいなかったら、俺も殺した連中を絶対に許さなかった」

 決して大きな声ではなかった。でも耳の奥深くまであっという間に吸い込まれた。

 レンが隣にいたリーゼルの手を置いた。ここにいる事を、存在を確かめるように強く握り締める。

 司祭様は顔を俯かせたまま微かに体を震わせていた。レンがそうしているように、息子二人が差し出した手を力一杯握り締めた。離した瞬間、全てが跡形もなく消えてなくなる、そんな強迫観念に駆られているのかも知れない。セージとトージも腕を引くような真似はせず、父の手に指を絡ませていた。

「誰かをなくすのは、人を殺めるのはそれくらいに重い事なんだ」

 父の言葉がずっしりと全身にのし掛かる。

 昨日ここに来た兵隊をぶちのめした時、殺意に近い感情が何度か胸の中で膨れ上がった。でも行動には移さなかった。奴らと同じ外道になる事は死んでも御免だった。許す事はしないけど同時に殺す事もしない。それが人に残された最後の矜持だった。

 彼はその一線を超えてしまった。

「俺も昨日、奴らを殺してやりたくなった」

 心を何処かに置き忘れたように、呆然と父が呟いた。

 母も、ミリアムもアリスも、そしてカティま、水を浴びせられたような顔で父を見詰める。

「傷だらけになったお前を見て、気が狂いそうになるくらい体中が熱くなった」

 父の声が微かに震えた。カティの肩に置いていた腕に少しずつ力を込めていく。

 肌に触れる、息遣いを感じる、大切な誰かの温もりに包まれるだけで心が安らぎで満たされる。それを失った絶望を想像しただけで吐き気がした。絶対に、許す事なんか出来ない。

「あなたのお陰で、誰も死なずに済みました」

 父は直立したままウォッカに深々と頭を下げた。母がすぐさまそれに倣う。

 確かに誰も死ななかった。同時に殺される事もなかった。奴らに対して明確な殺意を抱いたのはイリナだけではなかった。一瞬であるにせよ、娘を殺されかけた父の胸にもどす黒い殺意が渦巻いていたのだ。殺意に捕らわれた瞬間に父が凶器を手にしていたら、それを許す状況にあったら。でも実際には血が流れるような事はなかった。娘の命が救われた事で、殺意は陽の目を見る事なく消え去った。

 父の言葉にはそれも含まれている。

「顔を、上げて下さい」

 居心地が悪そうに歪めた顔を背かせたまま、ウォッカは言った。本当に頭を下げられるのが嫌いなのだろう。

 両親が頭を上げた。今度は目で会釈した。感謝を伝え切れていない事に未練があるのかも知れない。確かに、頭を下げるだけで済む程軽い話ではない。

「どんな人であれ、命が繋がるならそれに越した事はありません」

 間違いなく殺せるだけの力を持ちながら、ウォッカは誰一人として手をかけていない。怒りに火が点いてもそれを鎮めるだけの理性をこの男は備えている。

 それに初めて純粋に驚いた。荒れ狂う濁流のように力を暴走させるような真似は絶対にしない。

「ただ、あいつらだけは別です」

 拳に視線を落としたままウォッカは言った。

 あいつらと言うのが砦にいた兵隊共でない事は明らかだった。それは本来のウォッカの敵ではない。

「黄泉人、そして帰死人を完全に消滅させるために造られた生命体、それが忌人です」


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