六日目 その拾
「ねえ」
イリナがウォッカを見た。声が微かに上擦っている。
「その、帰死人って一体なんなの?」
「一度死んで、その後甦った人間の事です」
司祭様の声も明らかに震えていた。さっきから混乱に継ぐ混乱の連続だったけど、ここに来てそれが最高潮に達した。
死んだ人間が生き返る。そんな話俄に、いや絶対に信じられない。信じられる訳がない。それが話だけならまだしも実在していたなんて、いや実在していたかどうかもイリナには判らない。話だけしか聞いていない、実物を目にした訳ではないからだ。
「司祭様は、これまでその帰死人を見た事は……?」
「ありません。話に聞くか書物に記載されたものを目にしただけです」
表情に出ていたかは判らない。でも内心ではかなり安堵していた。人に限らず、生まれた以上死は避けられない。そして失われた命は二度と戻らない。それが摂理だ。それ以上もそれ以下もない。人が死から帰る事も、そして死から帰す事も間違いなくそれに反する。でも通常ならば絶対に有り得ない事だ。それが実現した切っ掛けは人智を超えた力を人が授かった事に他ならない。
「大嘘吐きやがって」
床に尻餅を突いていたヨハンがいつの間にか椅子に座っていた。でも相変わらず子供のように震えている。
「やっぱりいるんじゃねえかよ」
「いないとは一言も言ってない」
「でも近所のジイサンから聞いたみたいな言い方してたじゃ……」
「それも全て事実だったってだけだろ。ある程度覚悟が出来てりゃそこまで大袈裟に驚くような事じゃない」
忠告を無視して結果的に大いにビビっている事への腹いせなのか、やたら素っ気ない態度だった。震えているヨハンに目をくれようともしない。
いやそんな事よりも。
「どうしてあんたがその帰死人の事を知ってるのよ」
先を越された事が純粋に悔しかった。寄りによって一番無学なこいつに。でもウォッカとのやり取りから察するにヨハンが元々持っていた知識ではなく、何かの時にウォッカから得たのだろう。
「剣の砥ぎを頼まれた時、偶々ウォッカから聞いたんだ。昔司祭様から死人を崇める宗教があるって話を聞いた事があったし、兄貴の部屋にも異教に関する本が何冊かあったから、ちょっと気になってて……」
最悪気になるのは理解は出来るけど、それを偶々店に来たウォッカに聞くのが判らない。客に振るような話ではない。親方さんとリーゼルが左右から挟み込むようにしてヨハンを睨み付けている。
「最初聞いた時は偶々詳しく知ってただけなのかなと思ってたけど、」
ヨハンは上目遣いにウォッカを見た。さっきと違ってヨハンの視線を真っ向から受け止めている。
「当然、雑学なんかじゃないよな?」
「俺には、忌人には不可欠な知識だよ」
傷を癒す力は本質的に変わらないならば、何処かで枝分かれしたハズだ。いや、そうじゃない。既に枝分かれしている。人で在り続けようとする側と、人を捨ててでも生に縋りつこうとする側とに綺麗に分断されている。最初は思想だけだったそれが明確な手段を伴って目の前に現れたのだ。
歓迎されたのか忌避されたのか、不謹慎かも知れないけど、咄嗟にそれが気にかかった。人は神から与えられた術に何処まで可能性を見出だしたのだろう。
「その……実際彼はどうやって死人の甦生を実現させたんだ?」
これまで比較的豪胆に構えていたリーゼルが恐縮したように言った。 肝が冷えたのは何も弟だけでは、彼だけではない。
「いくつか段階を踏む必要がありますが」
「最初の段階としては何をしたんだ?」
さっきからガタガタ震えている割には随分積極的だった。口調にも態度にも迷いがない。
「遺体の保存だよ」
「どうやって?」
「こうやって」
ウォッカはさっきやって見せたように真っ直ぐ立てた人差し指の先端に火を灯した。
「おいおい、それじゃ保存どころか焼却じゃ……」
頭を抱えそうになったヨハンの目が真ん丸に見開かれた。火が姿を消したと思った途端、周辺の空間が歪んだ。錯覚かも知れない。でも端からはそう見えた。
不意に肌寒さを覚えた。無意識に腕を擦っていた。窓からは春の日差しが差し込んでいる。さっきまで半袖一枚で何の寒気も感じなかった。隣にいるアリスは歯を鳴らして震えている。そう、間違いなく錯覚ではない。明らかに気温が下がっている。それも極端なくらい急激に。
瞬間、さっきそうだったように目の前の空間が歪んだ。空気が凝縮、いや凝結した。砕けるような音と共に落ちて来た何かをウォッカが掌で受け止める。テーブルに置くといかにも重そうで硬い音が聞こえた。
澄んだ透明の物体が斜めに差し込んだ日差しを跳ね返してきらびやかに光っている。思わず目を剥いていた。大人の拳大はある巨大な氷だった。
一体何処から湧いて出たのか。質の悪い冗談か、手品を見ているようにしか思えない。
「消術を逆に作用させるとこうなる」
開いた口が塞がらない。ヨハンは口を半開きにしたままテーブルに突如として出現した氷を茫然と見詰めている。
「火を起こす力を逆向きに使う、って事?」
「単純に言うとな。発想としては古くからあったらしいけど」
「誰も、それを形に出来なかったの?」
「ああ」
人が神から最初に与えられたのは傷を癒すための術と消去するための術だった。その消去する術を逆に作用させて氷を産み出したのなら、それを更に傷を癒す術に応用すると一体何が起こるのか。
「それを明確な手段を以て確立させたのが彼だと言われている」
考え方としては存在していた。でも誰もそれを形に変える事は出来なかった。どのような過程を経て実現に到ったかは判らない。でも思い付きに近い代物に対して目に見える形を与え、手段として確立させる。生半可な努力だけでは成就しないのではないか。
「その人って、物凄い天才なんじゃない?」
「それは間違いないだろうな。でもここまではまだ入口の手前だよ」
「入口?」
「地獄に向かうな」
低く、そして硬い声だった。
それに、今ウォッカが見せたものは死体を保存するための手段であって死人を甦生させる方法ではない。まだ本題に触れる事すらしていない。
「こうして彼は……」
「氷を沢山作ったの?」
アリス以外の全員が音を立ててコケた。
確かに間違いではないかも知れない。だったら何のためにそんな事をしたのか。まさかかき氷を食べるためとか言い出しそうな気がして本気で怖くなる。
「君といると退屈しないよ」
「そうですか?」
照れたように笑っているアリスの頭に肘を落とした。後頭部を掴んだミリアムが無理矢理頭を下げさせる。苦笑いしているカティの後ろで父と母は深い溜め息を吐いていた。
「確かに間違いではないけど、遺体を長期間保管出来る部屋を用意してそこに二人の亡骸を安置した」
「一つ質問」
セージが律儀に手を挙げた。
「時代や文化が違ったとしても死者を弔うやり方なんてそこまで大袈裟に変わるもんじゃないだろ? 国一つの行く末を左右するような立場の人間の身内が死んだならそれなりと言うか相応の葬儀をした訳だよな」
「何が言いたいんだよ」
隣から同じ顔が横槍を入れた。
セージはこめかみの辺りを人差し指でトントン叩く。
「家族とは言えよく死体を保管出来たなと思ってよ」
「死体の処理に関する扱いを変えた」
「具体的に、何をどう変えたんだ?」
「死体、と言うか死者を弔う場合は全て彼を通して行う事にさせた。責任ある立場を利用してな」
「何で……」
口を開きかけたトージが顔を強張らせた。
胃がもたれるようにムカムカする。イヤな予感しかしない。
「どうして、そんな事したの?」
よくぞ聞いてくれたと思う一方でアリスの口か、或いは自分の耳を思い切り塞ぎたくなった。安易に好奇心を晒すと絶対に後悔する。
「研究の対象だよ」
ウォッカはアリスを一瞥すると気不味そうに顔を歪めた。
「死者を甦生させる方法を探るためのな」
さっきとは明らかに違った意味で室内の温度が下がった。
そうだ、彼は死者を甦生させているのだ。当然ぶっつけ本番で成功したとは思えない。限りない失敗の山を乗り越えて得た成功に違いない。その失敗の山の一つ一つが彼の元に集められた死体である事は明白だった。
口元を手で押さえていた。
「彼の妻と娘に関しては、死後しばらくは彼の元に置かれていた。で、彼自身が弔ったと周囲に伝えていたらしい。飽くまで表向きの話だけどな」
その裏で、彼は本気で死者を甦生をさせようとしていた。考えただけで吐き気がした。死者が甦るような事があったら、一体人はどうなってしまうのか。
「ウォッカさん」
司祭様が顔を半分俯かせながら言った。声が震えていた。
「あなたがお持ちの力では、傷を癒す事は出来ても死者を甦生させる事は出来ない、それは確かなんですよね?」
「そうです」
心底ホッとしたように溜め息を吐いた。それは絶対に有り得てはいけない事だ。
でも……でも。
「え……?」
胸の中から誰かの声が聞こえた。
「ど、どうしたの?」
カティを抱く腕が、肩が音を立てて震えている。人肌の温もりを、命の息吹きを肌で感じているのに一向に鎮まる兆しを見せなかった。
もしカティがここにいなかったら、無事戻る事が出来なかったら。考えただけで轟音と共に足元が崩れ落ちそうだった。想像しただけで腕が、体が震えた。今ここにいてくれる事を、助かった事を確かめるように全身で抱き締める。
「イリナ姉?」
カティが肩にかかっていた腕を握った。
「泣いてるの?」
頬を伝った雫が腕に落ちた。今は片時もこの子を、カティを離したくなかった。こうして傍にいてくれる。一瞬でも手を離したら永久に会えなくなる、そんな恐怖に襲われる。
「大丈夫か?」
ウォッカだった。相変わらず気不味そうにしかめた顔でイリナを見ている。
頷く事しか出来なかった。
彼は絶対に開けてはいけない箱の蓋を開けてしまった。ウォッカはその中身を知っている。そしてイリナ達はそこを覗こうとしている。体の芯から、骨の髄から震え上がるような得体の知れない恐怖を目の当たりにするかも知れないのに立ち止まる事も振り返る事もしない。そのまま戻れば怖い思いなど何一つせずに済むのに。
「途中で退席されるならばそれは構いません。先程も申し上げましたが決して愉快になるような類いの話ではありませんので」
誰も席を立とうとしなかった。肩を、腕を震わせながらウォッカを見る。ここまで来てしまったからにはもう後戻りは出来ない。聞いても、そして引き返しても絶対に後悔する。それは確かだった。
「妻と娘の遺体を保管しながら、彼は死者を甦生させる研究を開始しました」
静まり返った食堂にウォッカの声だけが不気味に響いていた。決して大きな声ではないのに吸い込まれるようにして耳に入っていく。
「我々の力は体細胞や体組織の生成や増殖を活性化させる事が基本です。血液を補う場合も本人の血液を元にして生成を行います」
「って事は、やっぱり……」
話の腰を折るとは思わない。ヨハンは明らかに何かを期待するような目でウォッカを見た。
「ウォッカの力とそれは明らかに別物なんだよな?」
「ああ。だが大元は変わらない。ここから大きく枝分かれする」
枝分かれの意味は先刻承知している。
方向性が変わった。さっきウォッカが言った言葉だ。ようやくその輪郭が見え始めて来ている。
「だから、細胞や組織が死滅している場合は元には戻せない、と」
トージが念を押した。
そこまでならまだ理解は出来る。壊れる前なら兎も角完全に壊れてしまったものを元に戻す事は出来ない。でも彼が実現させたのはそれを遥かに凌いでいる。
確かに全く異質なものだ。
「それを、一体どうやって……?」
ヨハンは腕を組んだまま唸り声を上げた。別にこいつでなくても頭を抱えたくなる。間違いなく人智を、人の領域を超えている。
「これだよ」
短剣を鞘から抜いた。切っ先を人差し指に軽く突き刺す。隆起した血液が指の真ん中に載っている。
「血を、使ったの?」
「ああ」
血がなければ人は生きられない。命の、そして全ての源だ。首を切り落とされても生きられる、ウォッカはそういう人間だ。そんなウォッカですら血を失えば死んでしまう。それは本人も認めた通りだ。
彼はそこに希望か、或いは活路を見出だしたのかも知れない。だが行き着いた先は真っ暗な絶望だった。
「まず生術の持つ力を血液に凝縮しました」
「つまり、どういう事ですか?」
司祭様は困ったように頭を掻いている。言わんとしたい意味がよく判らない。
「血液を体内に送り込む事で内部の病巣や損傷を治療する方法に関しては先程ご説明差し上げた通りです。ですがそれは飽くまで相手が生きている場合にのみ有効でした、当たり前ですが」
「血液に術を凝縮する事によって何が変わったんですか? いや、何をしようとしたんですか?」
「これまで術を行使出来るのは力を与えられた術者のみでした。血液に感覚を与える事で体内の治療を行えるようになりましたが、それは術者の手足に過ぎません。術者がいなければ他人の血が体の中で混じるだけです。却って有害でしかない」
血は飽くまで術者の操り人形に過ぎない。操られない限り動けない、いや動かない。
「血に術の力を付与する事で死滅した細胞の再生を試みたんです」
「そして、成功させたんですね」
司祭様の問いに、ウォッカは黙って頷いた。
でもイマイチ掴み所がない。確かに一度死んだ細胞が再生する事は通常では絶対に有り得ない。でも、人が甦生するにはそれだけでは足りない気がした。一番肝心なものが抜けているように思えてならない。
「仮に脳細胞がダメになってしまったとして当然脳死した事になるので脳の活動は一切停止しますが、その方法で甦生させた場合、脳の機能や記憶に障害は残らなかったんですか?」
「生きていた頃と同じように機能します。記憶も生前のものが甦ります」
司祭様は掌で額を叩いた。お手上げ、と言ったところだろう。
脳の機能にも体にも損傷や障害が残らず元に戻るのであるならば、死んだ本人からしてみれば眠りから覚めたのと感覚は殆ど変わらないハズだ。
死んだ家族が再び目を開けたのだ、遺族にとっては一体どれほどの歓びだろうか。その遺族と言う表現すら適切ではない。もう死んでいないのだから。
「ただ、血液がなければ全身に栄養や酸素を供給出来ない。先程ウォッカさんは術者の血を体内に注ぎ込む事で死滅した細胞を甦生させたとおっしゃいましたが、全身に巡る血液の全てを術者が賄えば今度は彼の身が危うくはなりませんか?」
その通りだ。細胞や臓器の機能を復旧させる事は出来てもそれを持続させられなければ全く意味がない。術者が手を離したら死んでしまうのだ、生まれたての赤ん坊より頼りない。
「いえ、そう言った問題はありませんでした」
指摘を予見していたと言うより問題そのものが最初から存在しないような雰囲気を漂わせていた。どうして言下に否定出来るのだろう。
「何でよ!」
思わず食ってかかっていた。細胞や組織が元に戻ったとしても体内には凝固した血が残っている。それを除去して新しい血液を体内に循環させなければ生命活動を維持出来ない。
「細胞を甦生させた後は術者の血液を体内で生成すればそれで済んだからな」
「血を生成する、って……」
ヨハンが目を見開いたまま愕然とウォッカを見詰めている。何かを予感したような目だった。
そうだ。そしてそれはこいつだけ、ヨハンだけではない。
「術者の血を体内で増やせば、それが死者だった人間の血液に成り変わる」
脳天を木刀で思い切り唐竹に割られたような衝撃を感じた。術者の血液を体内で生成する、血を増やす事が可能ならば。
「あなたと同じじゃない!」
場が一気に静まり返った。気付けば立ち上がっていた。肩で息をしている。食堂にいる誰もが、息を呑んだような顔でイリナを見ていた。明らかに注目を集めているけど気恥ずかしさは欠片も感じなかった。代わりなのか、さっきまで肌を覆い尽くしていた寒気が毛虫のように這い廻っている。
無意識に腕を擦っていた。
「今の言い方は正確じゃないな」
無駄口を叩く事もなく流れ作業を片付ける作業員なように淡々とした口調だった。少なくとも動じているような気配はない。
「奴らが俺らと同じなんじゃない。俺らが奴らと同じなんだ。丁度逆だな」
「同じって、生き返す事は出来ないって……」
「死滅した細胞の再生は無理だよ。同時に術者の血を死者の血に変える事もな。ただ生きてる細胞の再生と増殖、それと血を増やす事なら俺らにも出来る。それはイリナも知っての通りだよ」
傷を癒すだけだったら、失った血を増やす事が出来なかったら助からなかった。今ここにいられるのはウォッカがその二つを備えていたからだ。
それが死者を甦生する力に通じている。
「枝分かれした、さっきも言ったと思うけど」
「反摂理主義の考え方に基づいている、そういう事よね」
「ああ」
傷を癒すまでならまだ理解は出来る。でも死人を甦生させる事は絶対に人が踏み込んではいけない領域だ。
「でも、ずっと傍にいて欲しかった、死なれたくなかった、それだけでしょ?」
「そうだな」
怒っているのか、それとも拗ねているのか判らない横顔だった。誰とも目を合わせようとせず、ウォッカは頬杖を突いたまま床を睨んでいた。
手を見詰める。握る事も開く事も出来るし感覚もある。串刺しにされた肩には痛みなど欠片もない。間違いなく動脈を切断されていた。ウォッカが戻って来なかったら、間に合わなかったら今ここにいる事は叶わなかった。
家族の死を、現実を突き付けられた時、彼は一体何を思ったのだろうか。温もりの失われた肌に触れ、絶望的な死の冷たさを知ったその瞬間、それを受け容れる事が出来なかった。それ故に死から再生させる事を心底望んだ。それこそ気が狂う程に渇望したに違いない。傷を癒す力はあっても失われた命を元に戻す事は出来ない。こんなに素晴らしい力を以てしても摂理は覆せなかった。
膝が震えた。視界が小刻みに震えている。立っていられなかった。堪らず椅子に腰を下ろす。誰かの声が、嗚咽が聞こえた。啜り泣く母の頭に父が手を置いていた。そんな父の手も、沸き上がって来る何かを抑えるように震えている。歯を食い縛っていたアリスが両手で顔を覆った。震える妹の肩をミリアムが背中から抱き締める。
テーブルに投げ出していた腕に誰かが手を添えた。カティだった。それこそ指先で軽く突いただけで涙が溢れそうな顔をしている。妹が肩に縋った。喉の奥から隙間を風が通り抜けるような音を立てて嗚咽が漏れる。父がそうしているように、カティの頭に手を載せた。いつものように揉みくちゃにはせず、温もりを確かめるようにゆっくりと撫でる。
みんな泣いていた。なくしかけたものの大きさと命の重さが音もなく全身にのし掛かっている。堪え切れなかった。なくしかけていた、家族を失う寸前だった。彼はどんな思いで家族の亡骸を抱いたのだろう。温もりを取り戻さないと知った時、彼が見ていた世界はどう変わったのだろう。
気が狂うくらいに哀しかった、辛かった、絶望した。実際彼は狂気に駆られていたハズだ。僅かでも息があれば助けられたかも知れないのに、そんな暇すらなく家族の体は完全に冷え切ってしまった。
胸が張り裂けそうだった。喉の奥から込み上げた嗚咽が唇から漏れる。失う辛さを知ったから、ここにいてくれる事の有り難さが判った。有り触れてはいるかも知れない。でもそれが故に得難かった、絶対になくしたくなかった。ずっと傍にいて欲しかった。別に大袈裟でも何でもない。誰しも無意識に思う事だ。
彼が実現させた事は確かに間違っている。生物の摂理を根底から覆しているからだ。そんな事が罷り通れば命の尊厳すら失われる。
でも、誰にも否定出来なかった。なくしたくないが故に甦生を望む彼の気持ちは痛いくらいに判る。声を上げて泣きたいのに息が上手く吸えなかった。吐いても頼りなく震えるだけだった。窓から陽は差し込んでいるのに、胸の中は枯れた井戸の底のように真っ暗だった。




