六日目 その九
「ある宗教が発端だったそうです」
「宗教?」
「差し支えなければ、どんなものか教えて頂いてもよろしいでしょうか?」
首を傾げる息子の隣で司祭様が律儀に手を上げた。
「日の光も雨も、天からの授かり物として崇める、何処にでもあるような有り触れたものですよ。天の恵みに感謝し、五穀豊穣を祈る。食べるものに困らなければ飢える者もいない。やがてそれは国の繁栄にも繋がる」
「失礼ですが、」
司祭様が周囲を憚りながらもう一度手を上げた。悪いとは思いつつも気になって堪らないのだろう、それがよく判った。
「今の話し方から推察するに、ウォッカさんご自身もその宗教についてそこまで深く把握されていないように聞こえるのですが」
「その通りです」
誰もが顔を歪めた。司祭様は無精髭で埋め尽くされた顔を右手で覆った。ウォッカは全くの無反応だった。時折瞬きするだけだ。
「何故でしょうか?」
「我々が滅ぼしたからです」
司祭様は言葉をなくしたようにしばらく茫然と椅子に腰を据えていた。何故滅ぼされなければならないのか、それが咄嗟に理解出来なかったに違いない。そしてそれはみんなも同様だった。
「より厳密に言えば私と同じ血を引く祖先が、ですけど」
「どうしてそんな事をする必要があるのよ。諍いや小競り合いなら兎も角、滅ぼすなんて……」
「人の歴史の中に存在してはいけないものなんだ、それ以外に理由はない」
板を剣で一刀両断するようにイリナの言葉を退けると、ウォッカは少しだけ肩を上下させて息を吐いた。
「じゃ、滅ぼされなければならない理由があった、そういう事でしょ?」
「ああ」
「聞かせて」
ウォッカは唇に湯飲みを宛がった。
「宗教とは言っても価値観を共有出来る人達が崇めていただけでした。だから布教する事も他の宗教から改宗を迫るような真似もしませんでした」
宗教がどんなものなのか、カティにはよく判らない。でも価値観を共有出来る人達が手を取り合うように祈りを捧げるだけならば、それを誰かに強要もしないならそれに越した事はないと思う。非常に理想的な形を築いていたのではないか。
では、何故それを滅ぼすに到ったのか。それが判らないから余計に不可解だった。
「ですが、時間が流れる中でそれが少しずつ人々に受け入れられ、次第に拡がって行きました。それ自体には別に何の問題もありませんが、それを面白くないと思う連中がいた事もまた事実です」
「他の宗派を崇める人達、ですね」
ウォッカは湯飲みを傾けると小さく頷いた。
「弾圧の対象にされた、と」
「おっしゃる通りです」
「別段珍しい話ではありませんね。改宗を強要されたり弾圧されて存在そのものが消し去られる宗教など枚挙に暇がない」
「そういうもの、なんですか?」
司祭様は苦渋に満ちた顔で頷いた。
「宗教とは言っても結局は人の作ったものに変わりはありません。そこに人の感情や良からぬ思惑が絡めば大抵の事は起こるものですよ」
神や教えを崇める者として抱える苦悩のようなものが見え隠れしていた。隣にいる誰かが気に入らないから、人より秀でているあいつが憎たらしいから、そんな理由で誰かを傷つける事があったとしたら、宗教家以前に人として終わっている。そして別に珍しい事でもない。
そんな事実に背筋に怖気が走った。人って一体何なのだろう。
「仲間は捕らえられ、彼は厳しい拷問を受けました。改宗しなければお前を殺した後に家族や仲間を皆殺しにする、そう迫られても彼は首を縦には振らなかったそうです」
彼と言うのはその宗教の長に当たる人だろう。家族や仲間を人質に取られ、自分自身も死に到るような拷問を受ける。砦での出来事が鮮明に脳裡に甦った。反射的に口を手で押さえていた。
「命が尽きようとした時、有り触れた言葉で大変恐縮ですが奇跡が起きたそうです」
「奇跡って、具体的にはどういう事?」
イリナは腕を組んだまませっつくように先を促した。
上に向けたウォッカの掌が淡い光を放ち始めた。それが徐々に強まっていく。
「死の淵から生還したんだよ」
「それは一度死んで、それから生き返った、って事?」
「その辺りはハッキリとは判ってない。ただ九割九分九厘死んだ状態から甦生した事は間違いない」
イリナも、あの時それと殆ど変わらない状態だった。死にかけていたイリナを引き上げてくれた事を感謝するようにウォッカを見る。
「それが地獄の始まりだよ」
骨が芯から凍り付くような声だった。ゾッとするを通り越して卒倒しそうになった。
「判らないわ」
アリスは震える体を両腕で抱えながら上目遣いにウォッカを見た。
「みんなを救ってくれた力がどうして地獄の発端になるの?」
「力の性質が理解出来れば、自ずと答えは見えて来るよ」
人の命を救う力が何故滅びの道の入口になるのか。納得出来ないのか、アリスは険しい表情でウォッカを睨んでいる。ウォッカが自分自身の力を否定する事が許せないのかも知れない。気持ちは本当によく判る。
当の本人は意に介した様子もなく話を進める。
「我が身を捨ててでも信仰を貫き通した彼に、神は二つの術を授けた、と言われています」
「術、ですか」
理解が及ばないのか納得が出来ないのか、司祭様は軽く頭を抱えながらウォッカを見ている。
「何故、神は彼に力を授けたのでしょうか?」
「宗教家らしいご意見ですね」
何がどういう事なのかサッパリ判らない。人が死の淵から生き返る事も既に充分有り得ないけど、力を授けた授けた事に疑問を呈する司祭様にウォッカが納得する理由がもっと判らない。
そんな疑問を表情から感じ取ったのか、ウォッカが言葉を添えた。
「さっき司祭様がおっしゃったように、宗教弾圧なんてそこまで珍しい話じゃない。昔からずっと続いてるし今この瞬間にだって世界の何処かで起こっているとしても何の不思議もない」
「諍いで人が殺される事を有り触れてるとは言いたくはないけど、何でその時に限ってその神ってのはそんな大層な力を人に授けたりしたんだ?」
「私も特別扱いしているようにしか思えません」
次男の疑問を父親が受け継いだ。それが事実だとしたら偉く優遇されている事になりはしないか。
「それも何れ判ると思います。ただそれに関して推測の域を出ませんが」
死の危機に瀕しても信仰を捨てなかった人間に対して敬意を表した結果がこれだとしたら、その神は彼に、人に何を期待したのだろう。
「具体的に、その神ってのはどんな力を授けたんだよ」
置いていかれそうになっている事が気に食わないのか、ヨハンが怒ったように言った。
ウォッカは右手の人差し指と中指を真っ直ぐ立てた。
「一つは人を生かす為の術、もう一つは過ちを消し去る為の術」
「人を生かす術ってのは判るけど、過ちを消し去る為の術って……」
何? 首を傾げる仕草が微妙に笑いを誘う。ミリアムが吹き出しそうになるのを懸命に堪えていた。
「授かった力を完全に打ち消すための術、って事だよ。彼は傷を癒す力を与えられた訳だけど、それを更に誰かに授ける権利も同時に与えられた」
「それって、物凄い権利なんじゃないか」
「その分責任も重い。だから過ちは絶対に許されない。そうなった時は彼の存在そのものが消される、それが与えられた責任の代償だよ」
「存在そのものが消されるって……」
意味がよく判らない。首を傾げていたヨハンが今度は頭痛を堪えるように頭を抱えている。
「こういう事だよ」
真っ直ぐ立てた人差し指の先端に火が灯った。蝋燭のように弱々しかった火が少しずつ勢いを増していく。気付けば掌全体が焔で覆われていた。
「力を授けた事が誤りならば、それを打ち消すだけでは足りないなら、存在そのものを完全に消し去るしかない」
掌の上で燃え盛っていた赤い焔が折り畳んだ指で握り潰された。その名残のように黒い煙が上がる。
「そんな事まで出来るの?」
傷を癒すだけに留まらず、まるで手品のように焔まで操る事に驚きを隠せないようだった。イリナだけでなく、みんな満足に表情を選ぶ事すら出来ずにただ茫然とウォッカを見詰めているだけだった。
「これが過ちを消し去る為のより具体的な手段です」
「互いに相反する二つの術を与えられた訳ですね」
ウォッカは正面を睨んだまま頷いた。司祭様が吐き出した溜め息だけが長く尾を引いていた。理屈でも化学でも説明出来ないものを目にしたら、大抵の人間はすべき事も言うべき事も見失う。そしてそれまで積み重ねて来た経験と、そこから培った僅かばかりの自信を疑う。これまで信じて来たものは一体何だったのだろうか。
「生かす為の術と消し去る為の術、その二つを併せて我々は生術と呼びました」
「生かす為の生術と、」
「消し去る為の消術か」
お師匠さんは掌と裏側を何度も裏返して見せた。隣にいる親方さんと目を合わせる。
「一見すると酷く矛盾してるように思えるが利には叶ってるな」
「同感だ」
親方さんは腕を組みながら肩を揺すった。
完全に相反する力を授けられたのにどうしてそれが利に叶うのか。
「全然意味が判らないんだけど」
アッサリ匙を投げたアリスの隣でミリアムは眉間に指先を添えたまま頻りに何か考えていた。イリナは怒っているとしか思えない表情でウォッカを睨んでいる。
「別にそんなに難しい事じゃない」
カティも含めた娘四人を順繰りに見ると父は斧で薪を割るように言った。
「表裏一体、併せて一つ。そういう事ですよね?」
ウォッカは返事の代わりに黙って頷いた。
「恐らく、ですが」
父も満足そうに笑っている。それにしても、どうして断言しないのだろう。或いは出来ないのか。
「アリス」
腕を組んだまま低く唸っているアリスを見かねるようにしてお師匠さんが声をかけた。
「俺から今教わってるものは一体何だ?」
唸り声が止んだ。代わりなのか、眉間に深いシワが寄った。しかも相当深い。多分、いや絶対に言葉の意味が、お師匠さんの言わんとしたい事が伝わっていない。
「イリナとミリアムはどうだ?」
「剣術と格闘術」
「それと槍術です」
淀みなく応えた。でも二人とも舌を思い切り噛んだような顔で虚空を睨んでいた。ひょっとしたら本当に噛んだのかも知れない。
「もう少し根本的な質問にするか」
親方さんがヨハンとリーゼルを交互に見遣った。二人の背筋が自然と伸びた。
「鍛冶打ちとして剣を扱ってるが、その剣ってのはそもそも一体何だ?」
「人を殺めるための道具です」
答えに迷いがなかった。即答に近い速さだった。隣にいる弟は露骨に目を剥いている。親方さんは満足そうに笑った。
「俺がお前らに鍛冶打ちを教える前に言った事がある。覚えてるか?」
「刃物を扱う者としての責任を知れ、そう教わりました」
ヨハンが睨むような目で親方さんを見据えた。リーゼルが微かに笑った、ように見えた。口笛でも吹くように唇を窄めている。
「それだけ判れば充分だろ」
親方さんはお師匠さんに預けられた本を返すようにして顎をしゃくった。
「丁度いい、弟子全員に聞こう。殴る事も斬る事も突く事も一通り教えて来たが、何故武を養おうと思った?」
「自分自身が強くなるため、そして誰かを守るためです」
間髪入れずにイリナが応えた。お師匠さんが射抜くような目でイリナを見ているけど、逃げる事も避ける事もせず真っ向から受け止めている。
「教えると同時に、禁じた事は?」
「それで人を傷付ける事です」
セージが詩を朗読するように淀みなく応えると、隣にいた弟は悔しそうに唇を歪めた。
「お前が一番やらかしそうだよな」
「張っ倒すぞ」
アリスは双子から微妙に視線を外すと汗の浮き始めた頬を掻く。
「でも、それがさっきの表裏一体とどう関係があるのかちょっと……」
笑顔がぎこちない。教える立場にいる人達が何を伝えようとしているのか、それがまだ掴めない。でも輪郭程度なら朧気ながらに見えて来た。
「アリス、ウォッカと組み手した時に眉間に肘を入れた事は覚えてるだろ」
「はい」
忘れたとは言わせない。声にも態度にもそれが窺えるだけの迫力があった。父と母は眉間に指先を添えると深く溜め息を吐いた。
「何故眉間を攻撃してはいけないんだ?」
「急所だからです」
「力を扱う者がそれを知らずにいたら?」
遅刻ギリギリで教室に滑り込んだ直後にお弁当を忘れた事に気付いた時のようにアリスの顔が歪んだ。気不味そうに下唇に前歯を突き立てるとお師匠さんから視線を逸らす。
「仮に誰かと闘う事があったとしても、別に相手を傷付ける事が目的じゃない。基本的にそんな事は絶対にあったらいけないんだよ。でもな、そんな事すら知らずに拳を振るえば本当に相手を殺しかねない」
最悪、自分の身を守る事は出来ている。でも安易に良しとする事なんて出来る訳がない。
「だから知っておく事は絶対に必要だ。それが力を扱う者の責任なんだよ。同時に、力を授ける者の義務でもある」
教える立場にいる者として、弟子が目に見えて頭角を現せば嬉しいに違いない。でも必ずしも真っ直ぐ伸びるとは限らない。時には曲がる事も、或いは歪む事もあるかも知れない。それを正す事は力を授ける者の責務だ。いや、そうじゃない。正せなければ授けるべきではない。力や技術を身に付けてもそれが害を成すならそんなものは最初からない方がいい。
だから過ちは絶対に許されない。完全に消し去る事が力を授けられた者に課された重大な義務と責任だ。
表も表もない、併せて一つだ。切り離す事は有り得ない。
「彼は、それからどうされたんですか?」
「与えられた責務を全うしました」
「傷を癒し力を授けたのですね」
「そして過ちを消去しました」
司祭様は目を閉じるとゆっくり息を吐いた。壁のシミを雑巾で必死に落とすように何処かも判らない宙を睨み続けたまま微動だにしない。
「ただ完全に消し去る事はまずありませんでした」
「どうして?」
アリスは小さく首を傾げた。仕方なさそうに笑うと、ウォッカは噛んで含めるように言った。
「与えた力を消し去るだけで充分だったんだよ」
腕を組んだまま背中を丸めていくアリスの肩にミリアムが手を置いた。
「どうして? とか言わないでね」
餌をねだる鯉のように口を半開きにしたまま顎を上げる。格好悪いと言うより恥ずかしい。
「与えた力を消去すれば何も持たないただの人間に戻る。それ以上すべき事があるとは思えない」
ウォッカは湯飲みのお茶を口に含んだ。
「オモチャを取り上げられた子供みたいに泣き叫んだのかしら」
「知るかよ」
ウォッカは竦めた首を小指の先で掻く。頭を抱えるアリスの後ろで姉二人が苦笑いしている。
「それに……」
「何?」
口ごもる母をアリスがせっつく。
「そんなに悪い人がいたとも思えないから……」
核心と言うより真理を突いた言葉だった。力を授けるからにはそれなりに見込みがあった人のハズだ。それを覆されたとなれば与えた方に余程人を見る目がないか、或いは授けられた方が騙すのが上手いのか、何れにしても人として大事な何かが欠けている気がした。
「方々を行脚しながら飢えや病で倒れた人を助けていた、って話です」
「こんな事聞くのは不謹慎かも知れないけど、実際どんな事をしたら力を剥奪されたんだ?」
素直である以上に痒い所に手が届く質問だった。アリスが称賛するようにトージを見ている。
「助けた人に見返りや過度な施しを求める事は絶対に禁じられた」
「野暮な事を聞くようだけど」
「じゃ聞くなよ」
隣から水を差す兄をヨハンは思い切り睨み付けた。リーゼルは涼しい顔で先を促すように顎をしゃくる。
「具体的にどんな事をしたら力を消去されたんだ?」
「肉体関係を強要する、それと自分に隷属するよう求める事とかかな」
刻んだ野菜を水洗いするようにサラリと言っているけど中身はかなり下衆だった。助けてくれた事に感謝はしてもそこに邪な気持ちがあったら一瞬で醜く歪む。誰かを救う事に義務はあってもそこから先には何もない。ただ、そんな事を求めるような人間なら、その程度の器なら仮に力を授けられたとしてもたちまち馬脚を表すのは目に見えている。消去されるのも必然だろう。人は誰しも過ちを犯す。それを授ける権利があるとしたらそれを正す義務と責任が生じる事もまた必然だ。
ウォッカは頭を下げられる事を極端に嫌う。その気持ちが改めて判ったような気がした。そして、同時に与えられている責任とその意味も理解している。簡単に背負えるようなものではない。迂闊に人目に晒せるものでもない。
「ただその過程で一つ問題が浮上しました」
「問題?」
「これ、遺伝するんですよ」
ウォッカは人差し指を立てると本当に爪に火を灯した。
「生術、消術、両方ですか?」
「そうです」
低く唸り声を上げると司祭様は悩ましそうに頭を抱えた。
イリナがミリアムの脇腹を肘で軽く突っついた。妹はこめかみの辺りを指先で叩くと首を横に振る。アリスは試験で問題と格闘するように両肘を突いたままテーブルと睨めっこしていた。
「つまり、力のある者が子を持つと子にもその力が受け継がれる、そういう事ですよね」
「ああ」
「ごめんなさい」
アリスは素直に白旗を上げた。
「生まれながらにして力を持っているのに、それがどうして問題になるんですか?」
もっとも過ぎるくらいもっともな疑問だと思う。少なくとも問題が生じる要素を見出だせない。
どういう経緯で子を宿す事になったのかは人それぞれだろうけど、それ自体を問題と捉える事に違和感を覚えた。しかも本来ならば喜ばしい事のハズなのに。
「力を授かる方はね」
そう、授かる方には。悪いどころかいい事しかない。
そこで初めて見方が変わった。ならば力を授ける側は何らかの不利益を被るハズだ。傷を癒す事はしてくれていた。それが彼らの存在意義の全てとまでは言わないけど、非常に大きな比重を占めている事は間違いない。でも力を持つ人の子供を授かれば、それを労せず得られたとしたら。
「権威を失うんだよ」
ウォッカは吐き捨てるように言った。
「或いは薄らぐと言うべきかな」
「開祖と言うといくらか語弊がありますが、最初に力を授けられた方にご家族はいらっしゃらなかったんですか?」
「子供が三人いたそうです。ただ上二人は力を授かる前に既に生まれていたので当然力はありませんでした。九死に一生を得た後に生まれた子供がその力を引き継ぎました」
「上のお二人に力は授けなかったのでしょうか?」
「勿論授けました。ですが力そのものは末っ子が最も強かったそうです」
血を介して力を受け継いだ者が最も強い力を持つのであるならば話としては充分に納得出来る。
「力を継承する権利と言うより義務があった、そう判断する方が自然でしょうか」
「そうですね。資質のある者に義務や責任を託すのはどんな世界でも変わらないでしょうから」
既に冷めかけているお茶で喉を潤すと司祭様は持っていた湯飲みを静かにテーブルに置いた。
特殊な力でなくても素晴らしい技術や発明なら、それが多くの人に伝播すればそれに越した事はない。でもそれには大きな義務と責任が伴う。
「ですから力を授かった者が勝手に婚姻する事は絶対に許されなかった。能力を持った者を管理する組織が自然と形成されました」
「じゃ、何処の誰が好きだから一緒になりたいなんて事は……」
「絶対に罷り通らなかった。初期は恋愛程度なら目は瞑っていたようだけど、子供が出来た事が明るみに出たら真っ先に力を消去された」
どの程度の期待を抱いて投げ掛けた言葉かは判らない。でも取り付く島もないくらいにアッサリ否定されると、ヨハンは試合で完敗した直後のように肩を落とした。
「軍隊で捜査や戦闘に宛がわれる犬も交尾は出来ない。力を得る代わりに飼い殺しにされるか自由に生き続けるか、後は本人が決めればいい」
「ただの驕りにしか聞こえねえな」
別に悪意は感じなかった。でもリーゼルの言葉はナイフのように深く胸に突き刺さった。
「気を悪くしたら謝るよ。でもそれが率直な感想だな」
「全く以て同感です」
ウォッカは苦笑いしながら頭を掻き毟る。
「力を得た、勘違いして自意識過剰になった人間が抱く傲慢ですよ」
「勘違い、ですか?」
「ええ」
目を閉じると司祭様は眉間を指先で何度か叩いた。言葉を、かなり慎重に選んでいるのかも知れない。横顔に苦悩が滲んでいた。
「人を救う義務と責任を与えられていても、ですか?」
「勿論です。力を与えられたと言ってもそんな彼らですら元々はただの人間ですから。思い上がって勝手に垣根を作ろうとしている時点で人として終わってます」
容赦や情けなど欠片も感じさせないくらいに冷淡だった。少なくとも力の存在を肯定的に受け止めていない事は明白だ。
傷を癒し、死の淵から掬い上げる事が出来る力なのに、何故それを否定するのだろう。
ならば、
「どうして、ウォッカさんはこの力を得たんですか?」
ウォッカが人と彼自身を悪い意味で区別しているとはとても思えない。力を得た一部の人間が彼らと人間を見えない壁で隔てていたならば、それと同じ力を持っている自分を何故ここまで否定するのか。
「必要だったんだよ」
「誰かを助ける為に、ですか?」
「それもあるけど、それ以外にもある」
目を逸らす事も伏せる事もなく、ウォッカは真っ直ぐ前を、カティを見た。何かしらの意思を漲らせた目だった。それがどんなものかはまるで判らないけど。
「それに、より厳密に言うと根本的な部分は同一だけどそこからかなり手を加えてる。俺達が引き継いでいるのはそういうものなんだ」
「どう、手を加えたんですか?」
「より強く、より頑丈に」
軽く頭を叩かれたような錯覚に陥った。そうだ、まだウォッカの、彼らの本質に触れる事すらしていない。これまで彼の口から語られたのは癒す術だけだ。それに、力を与えられただけでそれ以外は普通の人間と変わりはないならば、さっきの詩のように首を切り落とされても生きているような事は絶対に有り得ないハズだ。ようやくそれに気付いた。
「ま、人の感情を縛り付けるなんて端から出来る訳がない。勿論律儀に守る奴もいたみたいだけど、そうでない連中もそれなりにいた、って話だよ」
「好いた惚れたは人の自由ですもんね」
母は隣に座っている父の右手に指を絡ませた。女将さんは親方さんの顔を覗き込むと嬉しそうに笑う。旦那二人は年甲斐もなく頬を赤らめると目を逸らした。
どうしてこんなに素直なんだろう。見ているこっちが恥ずかしくなる。でも本当に嬉しそうだった。だから恥ずかしいは恥ずかしいけどそれ以上に嬉しい。
「自分や家族を救われて感謝されたり、献身的に支えになってくれたり、そんな風にされたら情も移る。それを一部の人間だけのものにしようなんて発想がそもそも間違ってる。だから驕りなんだよ」
「全くだな」
リーゼルは一笑に伏すようにしてウォッカの言葉を一刀両断した。
「で、瓦解したと」
「そうです」
判る気がする。人が権威や力の上に胡座をかくと大抵ロクな事が起きない。 欲求が過ぎれば足元が崩れ落ちそうになっていてもそれにすら気付かない。
彼の持つ術に限った話ではない。どんなに素晴らしいものでも過ぎれば魔性が宿る。それに踊らされるだけならまだいい。狂わされたら、果たして人はどうなるのか。
「そうなるまでの過程に興味があるな」
「ですね」
皮肉っぽく笑うリーゼルに釣られるようにしてセージとトージが頷いた。ヨハンは呆れるように顔をしかめている。司祭様は腕を組んだまままんじりともせず黙っていた。
「多少のいざこざはあったようですけど、しばらくは平穏に時間が流れたそうです」
「しばらくってどれくらい?」
「具体的には聞かされてない。ただ数百年じゃ利かない事は確かだな」
「数百……」
イリナがフラつきそうになった頭を右手で支えた。
「それだけ栄華を極めてたんだよ。でも永遠には続かなかった」
人の生死を司る、いや操る力を持っていたのだ。絶大な権力を誇っていた事は想像に難くない。それでも永続する事は叶わなかった。
「誰しも力は欲したけどそれが一箇所に偏る事は避けたかった。そんな事が起こればそいつの思うがままになるからな。だから力がある者の中から三人を選出して力を分散させた。評議会と呼ばれていたようだけど」
「判断としては賢明ですね」
「建前に過ぎませんよ。そこまで大した代物じゃない」
「ただ権力の集中や偏りを回避する構造を構築する事はやはり必要ですよ」
何だか司祭様の言葉がウォッカを慰めているように聞こえて来た。そしてウォッカは決してそれを聞き入れようとはしない。頑なまでに拒絶する。この力を、いや存在そのものを忌み嫌っているのかも知れない。
「力の授与や剥奪、はたまた婚姻に到る全てを評議会が決定しました。評議長三名に対して評議員を配置して民主的な話し合いの元に彼らが表向きの全てを司りました」
力が偏る事を回避し対立の未然防止を図る。組織の在り方としては何も間違っていない。
「ある時、一つの問題が浮上しました」
「問題?」
「生と死の扱いに関してです」
それまでいい意味で脱力していたリーゼルの顔が取っ組み合いを始める寸前の子供のように目に見えて引き締まった。ヨハンも緊張した面持ちでウォッカを見る。
「力を与えられた事で彼らは非常に長い寿命を得るに到りました。それを少しでも長く維持したい、そういう思想が徐々に広まって行きました。簡単に言うと極端に死を恐れるようになったんです」
どんな傷でも瞬時に癒してしまうほどの力なら、それを最大限に活かそうとするのはむしろ自然に思えた。実際、カティもその恩恵に預かったからこそ今ここにいられる。
それを否定する余地も権利もない。
「でも、具体的にはどういう事なんだ? それまでだって傷を癒す事で命を永らえて来た訳だろ。それを更に強めるって事なのかな」
「意味合いとしてはほぼその通りです。その力をより深い部分にまで及ぶようにする、と言う事です」
リーゼルは眉間に寄ったシワを解しながらウォッカを睨んでいる。まだ話の核心に触れていない。
「外傷なら立ち所に治す事は出来ました。ですが体内の傷や損傷の場合、怪我や病巣の部位が把握出来ていても完治させる事は極めて困難でした」
「何で?」
「手が届かないからだよ」
椅子からズリ落ちそうになった体をヨハンは辛うじて支える。答えが余りに単純明快すぎて拍子抜けしたのかも知れない。
ミリアムが咄嗟に右側の肋骨、折られた辺りに手を当てた。一体どういう事だろう。
「ウォッカさん、私の骨って確か……」
「君は本当に察しが速いな」
ウォッカは感心したように笑うと頬を掻いた。
「折れた肋が肺に突き刺さってた」
「具体的に、どうやって治したんですか?」
「まず肺に刺さってた肋を除去、いや消去して、」
「消去って……」
ミリアムの顔がハッキリそうと判るほど歪んだ。体内で折れた骨を一体どうやって消去すると言うのだろう。
「消術の応用だよ。それを手が届かない所でも発揮出来るように技術を向上させた」
「……その後は、どうやって?」
「周辺部位の体細胞や筋繊維を急激に増殖させると同時に損傷した部位を修復した。それと並行して血液の生成を促進しつつ体力を回復させる」
「ウォッカ」
ヨハンが上目遣いにウォッカを見ていた。肩が震えている。
「あの時、ミリアムの治療をした時間なんて五分もなかった。精々三分かそこらだったろ?」
「そう、だったかな。俺もよくは覚えてないけど、十分はかかってないと思う」
ミリアムは呆気に取られたような面持ちで砕かれた肋骨に手を当てる。本人が一番信じられないに違いない。
そして何より、
「体内の傷を修復する技術が確立されてる、って事だよな?」
「そうです」
降参するように両手を上げるとリーゼルは口笛を吹いた。確かにお手上げと言いたくなる気持ちも判る。
「ただ、以前ヨハンにも話しましたが万能ではありません。ミリアムの傷を修復出来たのは損傷していた部位が特定出来ていたからです。これが体内のより深い部分や箇所が不明な場合はこうはいきません」
「どんな場合がそれに該当するんですか?」
「判りやすい例を挙げるなら癌ですかね。癌でなくても内臓系の疾患は病巣が特定出来ないと完治させるのは非常に困難です。これに関しては一般的な医療も変わらないと思いますが」
触れるだけで、場合に依ってはそれすらせずに治す事が出来ても万能ではない。素晴らしい力ではあっても厳密に限界は存在している。
「特定出来ていない状態で病気を治す事は出来ないんですか?」
「出来ない訳じゃない。術を広範囲に及ばせれば修復は出来る。ただその場合は術者に相当な負担がかかる」
質問を浴びせていたミリアムの顔が強張った。
ウォッカの肩から、表情から力が抜けた。ゆっくりと息を吐き出す。
「助かって良かった」
ウォッカが父を、そして母を、イリナにミリアム、アリスを見てから最後にカティと目を合わせた。
「本当に良かった」
潤んだ目尻が窓から差し込む光を受けて微かに光っていた。
誰しもなくす事は怖い。臆病だと、あの時、ウォッカは自分をそう評した。だからなくさないように最大限努力する。力一杯、限界まで走り回って何一つなくさずに済んだのだ。嬉しいに決まっている。それこそ涙が出るくらいに。
イリナがミリアムの肩を抱いた。ミリアムは姉の手を強く握り締める。日常の中に戻れた事に、それが現実である事に改めて思い到ったのかも知れない。今ここにいられる事は絶対に夢ではない。
「でも、こうして体内の傷も治せる技術が開発されてるって事は、その問題も無事に解決したんだろ?」
「いや」
即座に否定された。考える余地など欠片もない。ヨハンは浮かせていた腰を椅子に据えると茫然とした面持ちで肩を落とす。
「そうだな、生術を与えられた事が地獄に通じる最初の扉なら、差し詰めこの問題は第二の扉ってところだな」
「って事は……」
「確実に地獄に向かって進んでる」
場の空気が音もなく張り詰めていく。声を出す事すら躊躇われた。沈黙が鼓膜の中で耳鳴りのように響き渡っている。
人に希望を与えるハズの力なのに、どうしてそれが真逆に作用するのか。カティを、家族を救ってくれた力が、救ってくれたくれた人から否定された事が泣きたくなるくらいに耐え難かった。どうして、どうしてそんな事言うの?
「非常に優秀な術者がいた」
誰に話しているのか判らない。子供に昔話を読み聞かせるようにしてウォッカは淡々と言葉を紡いだ。
「真面目で誠実で、誰に対しても優しかった。それに何より努力家で熱心だったから術の扱い方について日々研究に明け暮れるような、そんな人だったらしい」
真面目で誠実で優しくて、そして努力を惜しまない。顔を見た訳ではないけど何となく想像する事は出来た。
無意識にウォッカを見る。
「最初はな」
階段で足を踏み外したような衝撃を感じた。
「ちょっと! 変なところで話を落とさないでよ!」
怒鳴りつけるイリナの気持ちもよく判る。悪い意味で頃合いを見計らったとしか思えない。
「今の言い方には語弊があるな。別に性格が変わった訳じゃない」
「じゃ、何が変わったのよ」
「方向性だよ」
毒気を抜かれると言うより言葉の意味合いを図りかねた。何故方向性が変わる事で問題が生じるのか。
「研究に明け暮れるような毎日だったらしいけど人並み以上に人付き合いも出来たし誰からも愛された。結婚すれば奥さんを気遣いながら大切にするし、子供が生まれたら猫可愛がりするし」
友達と世間話でもしているような気分になって来た。アリスは困惑するように頭を抱えている。そんな何処にでもいそうな優しい人が一体何が起こったのか。
「で、本人には別にその気はなかったんだけど、研究結果が評議会から高い評価を得て評議員に推薦された」
「研究って、どんな事を研究してたの?」
「今話して聞かせた事だよ」
人ならば誰しも懸命に生きようとするハズだ。それに誤りがあるとは考えたくなかった。
「体内の治療法については元々彼が研究を進めていたところに評議会から改めて要請された。是非成果を出して欲しい、ってな」
「どうし……」
疑問を素直に言葉に変えようとした瞬間、開きかけていた口をアリスは両手で塞いだ。
「もう判るだろ? みんな死にたくなかった。幸いそれを可能にする力もあった。だからそれの持つ可能性を最大限に引き出そうとした」
「そういう探求心自体は何も間違っていないと思う」
「単細胞のお前にしては珍しくまともな事言うじゃねえかよ」
「黙ってろ」
茶化す兄をトージは横目で睨み付けて牽制する。当然その程度ではセージも怯まない。頬杖を突いた姿勢で先を促すようにウォッカに視線を送る。
「ただ例外と同じように物事には大抵の場合限度ってもんがある」
「それを越えたのか」
ウォッカは応えなかった。食堂にいる人達と順繰りに目を合わせる。これまで重ねてきた罪を洗いざらい白状する悪人のように拗ねたような顔をして横を向いた。
「当時、評議会を二分する議論が巻き起こってた」
そこで言葉を区切るとウォッカは改めて全員の顔を眺めた。
「どんな話だと思う?」
傾げそうになった首に力を入れて無理矢理真っ直ぐに伸ばした。顎に手を当てたまま宙を睨む。
完全な手探り状態ではない、と思う。そこに行き着く手掛かりは絶対に転がっている。そんな確信があった。だからウォッカもこちらに話を振って来たに違いない。
「人の生死に関わる事、これは間違いないわよね」
「それを彼らに当て嵌めてより具体的に表現すると?」
応えに対して突っ込まれた事に反発もせず、イリナは腕を組み直すと思考を再開した。間違ってはいない。でも正解とも言えない。まだ材料が足りないのだ。
「知恵も金も力も、あるものを最大限に活用する事に意義や誤りはない。それが有効利用されるならばな。だがさっきも言ったように、越えてはいけない一線は厳然とある」
「それを超えようとしていた、って事?」
「ああ」
彼らが人ではないとは言わない。でも持っている力は人のものではない。見様に依っては遥かに手に余るものだ。それすら超えようとしている、そういう事だろうか。
「人に限らず生物は生まれた瞬間に死が決定付けられる。誰であれ、何であれ絶対に避ける事は出来ない。それが生物に与えられた摂理だからな。その中で生きる事が全てだ」
「でも、極一部の人間は生死を司る、いや左右する力を与えられてしまった」
言葉を継いだ司祭様に無意識に視線が移っていた。
それでは、まるで力を与えられた事が誤りのようにしか聞こえない。どうしてそんな言い方をするのだろう。
「ならば、この力を使って最大限生き永らえよう、そういう考え方が蔓延し始めた」
咄嗟に言葉が出なかった。司祭様は思い詰めたように顔を歪めたまま溜め息を吐いた。この答えが返って来る事は司祭様には充分予見出来た。そうか、だからか。
最大限生き永らえる事が具体的にどんな事を指すのかは判らない。でもそれが生物の、人の摂理に反する事は間違いない。
「それに対して怪我や病気の治療は治せる範囲に留めて天寿を全うすべきだと主張する者も同時に現れた」
「真っ向から対立する二つの意見が生まれた」
「そうです」
頭を抱えたくなった。髪をクシャクシャにして悲鳴の一つでも上げられたらどれだけスッキリするだろう。
「天寿を全うしようと主張する側が摂理主義、生術を最大限に活用して限界まで生きようとする方が反摂理主義、この二つの意見が評議会を完全に二分した」
何か言いたいのに言葉が出ない。気持ちを上手く言葉に変えられない。もどかしさに胸を掻き毟りたくなった。
カティには否定も肯定も出来なかった。いつか死ぬけど今はまだ生きていたい。誰かに死なれるのもイヤだ。みんな仲良く、笑って暮らしたかった。求めるものなんてそんなに大袈裟なものじゃない。有り触れた日常を手離したくないだけで欲求そのものは何処にでも転がっている。だから、ずっと大切にしたい。それは本当によく判る。こうしてみんなと再会出来た今だからこそ余計にそう思う。
でも、一生一緒に過ごす事は出来ない。どんなものにも必ず終わりが訪れる。それを無理矢理引き伸ばそうと言うのならば、それは間違いなく摂理に反している。
そしてその発想を否定出来るだけの権利も今のカティにはない。聞いているだけで胸が苦しくなって来た。 どちらの側につく事も出来ない。
何が正しくて何が間違っているのか、それを人が決めようと言う事自体が既に誤りではないか。誰にもそんな事は決められない。
いい案配に頭が混乱して来ている。でも全てを知るまでここから離れたくなかった。核心には近付いていてもまだそこには到っていない。
「論争が徐々に加熱していく中で、彼は術の扱いに関して研究を進め、ついには評議長にまで登り詰めました」
「そういう出世には縁がなさそうに聞こえたけどな」
「別に本人も特別望んでいなかったと思います。気持ちの赴くままに研究を進めた結果が評価されただけ、そういう感覚だったのかも知れません」
出世する意欲も願望もないのに気付けば天辺にまで登り詰めていた。ある種の天才肌と言える。同時にそれを疎ましく思う人の気配も感じる。
「でもそこまで出世出来たって事は、彼の研究が需要に応じたものだった、そういう事だろ?」
「そうです。体内の治療法を確立した事もそうですが、数年後にはそれを更に改良しました」
かなりとんでもない事をサラリと言った気がする。それまであった技術を進歩させるだけでなくそこに更に改良を加えるだけの意欲は一体何処から湧いてくるのだろう。
「具体的に、どう改良したんだ?」
「さっき申し上げたやり方だとまず術の扱いに相当熟達していないと出来ません。それを誰にでも扱えるように敷居を下げたんです」
「どうやって?」
「遺伝する性質を利用しました。そして遺伝させなくてもそれを授ける事も出来ます。体内の異物の消去や細胞の生成を、技術ではなく感覚で扱えるようにしたんです」
胃が痛くなるような沈黙が室内を満たした。サッパリ訳が判らない。
「でも、感覚でやるにしてもないといけないものまで間違って消去しちゃったら一大事なんじゃ……」
「だから損傷した部位を正確に把握しておく必要があるんだよ」
一瞬、ヨハンに物凄く期待した。指摘としてはもっともだからだ。でもそれすら盾で矢を弾くようにしてアッサリ外される。やっぱり人の理解が及ぶような類いの話ではないのかも知れない。
「後は血を有効に利用する事かな」
「どういう風に?」
「傷付いた箇所に自分の血を流し込む事で体内の状況をより正確に把握出来るようになった。簡単に言えば血が手や指の代わりみたいになるって事なんだけど」
頭を抱えるヨハンの隣でリーゼルが軽く手を上げた。
「血が感覚器を備えるようになった、って解釈は間違いかな?」
「概ねそれで正解です。このお陰で開腹や切開しなくても比較的容易に内部の治療が行えるようになりました。先人達の寿命の向上に大いに貢献した訳です」
「意図的にと言うか恣意的にと言うか、人が自らの意思で寿命を延ばせるようになったんですね?」
司祭様は息子の赤点の答案を目にして苦悩する父親のような顔で宙を睨んでいる。どうしてさっきからずっとこんな怖い顔をしているのだろう。
「それが彼らの望みでしたから」
「確かに摂理に反しますね」
持っているものの力を最大限に高める探求心や向上心自体は褒められるかも知れない。でもこれが過ぎたら人は一体どうなってしまうのか。花は咲き誇る事はあってもいつしか枯れる。それが自然の摂理であり命の営みだ。その均衡を、人だけが意図的に崩す事に他ならない。
「ウォッカさん、一つ窺いたい事が」
「どうぞ」
司祭様は気持ちを整理するようにゆっくり息を吐くと真っ直ぐにウォッカを見た。
「彼は、やはり摂理に反する生き方を望んでいたのでしょうか?」
「いえ」
司祭様の目がお皿のように見開かれた。前のめりになった体を膝に手を当てて何とか支える。
「彼は反摂理主義の筆頭格でした」
「では何故こんな研究を……?」
驚きを隠せないのか、司祭様は半ば茫然とした様子でウォッカを見詰める。
「彼は飽くまで生術の持つ可能性を最大限に引き出そうとしていただけです。生物の命を恒久的に維持する事は本来の目的ではありませんでした。それが偶々時流の需要に合致していただけに過ぎません」
「反摂理主義の方々は納得されなかったでしょうね」
「ご指摘の通りです。では何故主張と矛盾する研究を進めるのか、そういう批判を常々浴びていたそうです」
研究者としての探求心とそこから得られた成果がものの見事に噛み合っていない。矛盾と言う謗りを受けても絶対に申し開きは出来ないのは明白だ。
「それでも人と言う限られた種だけが永続的な生を享受する事に彼は最後まで反対していました。ですから生を永続させるための研究の要請を受けても頑として受け容れませんでした」
生は生、死は死、それを超える事は絶対に罷りならない。そんな意思を感じさせるには充分だった。人としても、研究者としても大いに尊敬出来る。
本当に立派な人だったのだろう。
「議論の加熱が最高潮を迎えた時、ある事件が起こりました」
「事件、ですか」
ウォッカは応えなかった。既にすっかり冷め切っているであろうお茶で舌を湿らせると物憂げに目を伏せる。
「彼の妻と娘が亡くなりました」
胸を拳で握り潰されるようにして息が詰まった。同時に、いや瞬時にある疑念が脳裡を掠めた。偶々死んだのか、それとも……。
「亡くなったと言うのは、一体どういう事なんでしょうか? 事故で……?」
仰天しているのか、司祭様は椅子から中途半端に腰を浮かせている。ウォッカは首を横に振っただけだった。
「詳細は判りません。ただ彼の目の前で、助ける事も、癒す暇もなく亡くなった事だけは間違いありません」
誰も口を利かなかった。いや利けなかった。
傷を癒す力を、命を永らえる力を持っているのに、それを使う暇すらなかった。彼は一体どんな気持ちでその事実を受け容れたのだろう。いや、果たして受け容れる事が出来たのだろうか。
「遺体の外傷は直ちに修復しましたが、当然二人が息を吹き返す事はありませんでした」
絶望的な冷たさが、死の温もりがゆっくりと全身に覆い尽くす。寒い訳でもないのに、さっきから震えが止まらない。アリスは懸命に歯を食い縛りながら頻りに掌で腕を擦っている。
ウォッカは顔を上げると誰かを見た。何かを警告するような物騒な光が目の奥に見え隠れしていた。
「最愛の妻と娘の亡骸を抱えながら、彼は必然的にこう考えました。
人を、傷を癒すだけの力は持っている。でも死を前にしてはそんなものなど何の役にも立たない。何と無力なんだろう。ならば……」
さっきから何かが小刻みにぶつかる音が聞こえる。テーブルが、そこにいる誰かが震えているのだ。
「おい、どうしたんだよ!」
不意にリーゼルが声を荒げた。無意識に自然の先を見る。ギョッとした。
顔を真っ青にしたヨハンがテーブルに肘を突いたまま全身を震わせていた。震わせているのは体だけではない。目もすっかり焦点を失っていて何処を見ているのかも判らない。
「だから止めとけって言ったのに」
ウォッカは同情するように、そして仕方なさそうに溜め息を吐いた。
「ウォッカ、って事は……」
「もう判っただろ?」
ウォッカの目付きが一気に鋭くなった。針のような目で床の一点を睨む。
「ならば、彼は一体何を考えたの?」
アリスは怯えた目でウォッカを見ている。
一気に肝が冷えた。聞きたくても聞けない、いや聞いてはいけない事だった。でも聞かずにはいられない。そう、ここまで来てしまったからには。後に引く事は、もう出来なかった。
「地獄に通じる最後の扉を、彼は開けてしまった」
静寂が支配する食堂にウォッカの言葉が静かに木霊した。
「ならば、この力を使って、死者を甦らせる事は出来ないのだろうか……」
何かが倒れる音がした。
椅子から転がり落ちたヨハンが子供のように震えながらウォッカを見ている。目が完全に泳いでいた。焦点も、そして像も結んでいないに違いない。
「それじゃあ……!」
「流石にもう判っただろ?」
息を吐いて全身から力を抜くと、ウォッカは左右の肩を手で揉み解す。
「彼は生術を利用して死の再生、死者を蘇生させる事を決意しました」
「ちょっと待って下さい。いくら何でも無茶にも程がある。人にそんな事出来る訳が……!」
すっかり動転しているのか、司祭様は椅子を後ろに引っ繰り返して立ち上がった。
ウォッカは目を閉じたまま首を横に振った。
「そして、彼はそれを実現させました」
悪寒が尾骶骨から脳天までを一気に走り抜けた。一瞬にして全身が、芯から冷え切る。
「やっぱり……!」
相変わらず床に尻餅を突いたままのヨハンを見遣ると、ウォッカは苦々しい表情で頷いた。
「帰死人は実在するんだよ」
ヨハンは見えない何かを懸命に拒絶するように頻りに首を左右に振っている。
暗い井戸の底に突き落とされたような不気味な沈黙がいつまでも尾を引いていた。




