六日目 その八
イリナはまんじりともせずに腕を組んだままウォッカを睨み付けている。
「ねえ」
「ん?」
「その忌人ってのは首を切り落とされても死なないの?」
「切り落とされただけなら死にはしない。非常に深刻な怪我である事に変わりはないけど」
「じゃあどうなったら死ぬの?」
「完全に失血するか頭部を破壊されるかしたら流石にな。あと体を消し飛ばされるくらいの衝撃を受ければ。でもそう簡単に失血しないし頭部も易々とは破壊出来ない」
「どうして?」
「体は頑丈なんだよ、体はな」
頑丈とかそういう問題ではないと思う。不死身までとは言わないけどそれにかなり近い位置にいる事になる。少なくとも、首を切断されて生きている脊椎動物なとこれまで聞いた試しがない。
「頑丈って、どの程度頑丈なの?」
「骨も鉄より硬いし細胞が破壊されてもすぐに修復出来る。首が切れてもしばらくくっつけてれば取り敢えず元には戻る。試してみるのは流石に遠慮したいけど。今の状態じゃ無理だ」
「今の状態?」
イリナが眉を潜めた。
「血が起きてない」
「血が起きてないって、どういう事?」
「こういう事だよ」
ウォッカはゆっくり息を吸い込んだ。それと同じくらいの速さで息を吐き出す。
「え……?」
ミリアムが口を両手で覆うと半歩後退った。アリスはまともに声を上げる事も出来ず目を見開いている。
ウォッカの髪が、まるで意思が宿っているかのようにゆっくり波打ち始めた。やがて血が染み込んだような深紅に色が変わる。
赤い目がイリナを見た。充血しているのではない。虹彩そのものが赤く染まっている。
「赤毛の狂戦士って二つ名は伊達じゃねえな」
滅多な事では動じないお師匠さんの声が微かに震えている。
「それとも、戦場の吸血鬼って呼んだ方が相応しいのかな」
「いえ」
赤く染まった髪を揺らめかせながらウォッカは頭を振った。
「確かに狂戦士ではありますが吸血鬼ではありません」
ならば何故そんな通り名が残るのか。疑問に感じるより先に、ウォッカが壁に立て掛けていた短剣の鞘を握った。
「血が苦手な人は見ない方がいい」
場の空気が音もなく張り詰めた。一体何をしようと言うのだろう。想像もしない事が起ころうとしている事は確かだった。迂闊に見たら絶対に後悔する。でも不気味な好奇心が胸の中で頭をもたげていた。怖いもの見たさと言う有り触れた言葉では片付けられない。未知の存在に対する純然たる興味だった。それが恐怖心を軽く凌駕していた。
鞘から抜き放たれた短剣の切っ先がウォッカの掌に刺さった。それを何の躊躇いもなく横に引く。赤い線が見えたと思った時には掌が赤で、血で埋め尽くされていた。空になった器に音もなく滴る。
ウォッカは溢れ出る血を拳を握り込んで受け止める事もなく滴らせると血溜まりの上に掌をかざした。
次の瞬間、滴り落ちようとしていた血が重力を無視するようにして引き上げられた。掌の中に、パックリ裂けた傷口に逆戻りしていく。
それだけではない。
既に器に溜まっていた血までもが傷口に吸い込まれていった。さっきまで真っ赤だった器にはその名残すらない。血が全て掌に戻った頃には傷口も姿を消していた。完全に元に戻っていた。
「これが吸血鬼と呼ばれる所以ですよ」
意味が判らない。どうして血が傷口に吸い込まれるようにして戻って行ったのか、何故それが吸血鬼と言われる理由になるのか。
「どうして、そんな事が出来るの?」
イリナが右手で口を覆ったまま怯えたような目で器を、ウォッカの掌を見ている。血が苦手とかそういう問題ではない。血に意思が宿っているとしか思えないような光景だった。
「血は一滴たりとも無駄に出来ない。だからこうして回収する」
「こうしてって……」
回収する手段がまず有り得ない。そして言っている意味も判らない。血を無駄にする事が出来ないのは判るけど、今見たものは人の常識や認識が遥かに及ばない場所にある。
「そんなに、血が大事なの?」
「血がなければ生きられない。これが俺らの力の源なんだ、いや全てと言っていいな」
血が人を生かしているのは何もその忌人だけではない。人も、それと全く変わらない。でも人にそんな、滴り落ちた血をまた体に戻すような真似は絶対に出来ない。
人ではない。確かにさっきウォッカはそう言った。人の理解を超えた、人とはまた違った存在、と言うことなのだろうか。でも姿形は人と全く変わらない。そして彼の中にも赤い血が流れている。
どうして彼はこんな力を持っているのか。
「今のを見た奴は自分の血も吸われるって考えたんだろうな」
多分。納得しているのか呆れているのかいるのかよく判らない顔で親方さんが頭を掻いている。
「恐らくそうでしょうね」
それを見た人は一体どんな状況でこの瞬間を目撃したのだろう。まさか今のように手品でも披露する感じで目の当たりにしたとも思えない。
「ウォッカ、赤毛はよく判った。でも何でそれが狂戦士になるんだ?」
何を何処から理解すればいいのか判らないのか、ヨハンは顔を歪めながら言った。物凄く真っ当な疑問だと思う。
「この状態を長時間維持出来ないんだよ」
「この状態って……」
アリスが震える指でウォッカの顔を指差した。
頷いた拍子にウォッカの髪が黒に戻った。目を開けると虹彩も元の黒に変わっている。それだけで涙が出そうになるくらいホッとした。髪も目も、血が染み込んだとしか思えないくらいに真っ赤だった。残酷で、何より暴力的な雰囲気しか窺えない。そんな彼は見たくなかった。絶対にイヤだった。
「その間にどれだけ体を酷使するかにも依るけど、精々持って四、五時間ってところかな」
「酷使ってどういう事よ」
話を聞けば聞くほど訳が判らなくなる。イリナの声が怒ったように硬くなるのも致し方無いと思う。
「血を覚醒させる時は純粋に闘う事が目的なんだ。それ以外に理由はない」
「じゃあ何? 精神的にも相当な興奮状態にあるって事?」
「だからそうならないように常に理性を維持しておかないとダメなんだ」
ウォッカは溜まった疲労を放り出すようにして息を吐いた。よく見ると額や頬が汗で埋め尽くされている。
「あの、これ……」
咄嗟に鍋の取っ手にかかっていた布巾を差し出した。
「水で綺麗に洗ってあるし、まだ何も拭いていませんから」
「ありがとう」
ウォッカの頬が綻んだ。見ているだけで安心するような笑顔だった。
滴っていた汗を拭き終えるとウォッカは布巾をテーブルに置いた。
「つまり、理性を保てなくなるとどうなるんだ?」
「目の前にあるもの全てを破壊する」
ヨハンは文字通り絶句した。いや、ヨハンに限らずこの場に居合わせた全員が真冬の池に放り込まれたようにに凍り付いている。
「それで血が鎮まるならまだマシかな。最悪の場合は元に戻れない」
「戻れないと、どうなるんですか?」
ミリアムは泣き出しそうになるのを懸命に堪えるようにして震えている。
「まず自我が崩壊する。勿論体の方もタダじゃ済まない、と言うより終わりだ。崩壊するのは精神だけじゃないからな」
場の空気が凍り付くとは言うけど、それとは全く異質な雰囲気が食堂を満たしていた。もっと黒くて真っ暗で、何より絶望的な空気が肌にまとわりつく。
「やがて死に至る。忌人としては最低の死に方だよ」
死に方に最低も最高もない、と咄嗟に思ったけどそれもまた違う気がした。あの時みんなが助けに来てくれなかったら間違いなく吊るされていた。息が詰まって苦しみ抜いて死んでいたか、或いは頸椎が脱臼して即死していたか。そうでなくても死を歓迎する人なんて絶対にいないし、せめて楽に逝きたい。息がある限り、生がある限り生きる事に執着する。
人って、そういうものだと思う。
だから、懸命に自分を生かしてくれた人が吐き捨てるようにして死を語って欲しくなかった。
「敵と本気で闘う時は血を覚醒させる必要がある。でも時と場合に依っては自分の意思とは関係なくそうなる事がある。だから非常に厄介なんだけど……」
「心の底から、本気で怒った時ですね?」
穏やかに微笑む父に、ウォッカは気不味そうに唇を歪めたまま頷いた。混乱した。何故ウォッカがこんな顔をするのか、父がいつ本気で怒ったウォッカを目にしたのか。
「あの時、あなたは私の娘を助けるために懸命に走って下さった。事情はお察ししますが決して恥じるような事ではないと思います」
顔を俯けたまま、ウォッカは首を横に振った。
「カティを助ける事と奴らに怒りをぶつける事は全く別の話です。たとえ怒りを覚えたとしてもそれに呑まれるような事は絶対にあってはいけないんですよ」
顔を上げたウォッカはやっぱり頭を振った。
頑固とは少し違う。何がどうあっても感情に火を点けるような事は、それだけは絶対にあってはならない。要はそういう事なのだろう。そこには見えない一線が明確に引かれている。ハッとした。あの時と一緒だ。絶対に譲れないのではなく譲ってはいけない。
感情に火を点ける、いや支配される事はそれだけウォッカにとって禁忌なのだ。カティも怒りに呑まれた彼の顔など絶対に見たくなかった。
「感情に火が点かなくても理性が失われたら最後、って事か」
「ああ。一貫の終わりだ」
理性をなくすか感情に火が点くか、その何れかが彼を、いや彼らを狂わせる切っ掛けになる。
「一度そうなったら目の前にあるもの全てを破壊する、確かに狂戦士だな」
納得すると言うよりヨハンは身震いするように首を竦めている。
「噂話でしか聞いた事はなかったけど、こうして実物が目の前にいるんだからなあ」
「どんな風に聞いていたんですか?」
世間話でもするように質問を投げ掛けるウォッカに、親方さんは何処か無愛想に髪を掻き毟りながら言った。
「剣で斬られても槍で刺されても銃弾で全身を穴だらけにされても死なねえ兵士がいる、ってな。ビビらせるにしてももう少しまともな話にしろよと言うか、少しは捻りを加えろよと言うか、それじゃただのば……」
親方さんは慌てて片手で口を塞いだ。口をつぐんだと言った方が正確かも知れない。
「ええ、ただの化け物ですよ」
重苦しい沈黙が食堂を支配した。髪や目が真っ赤に染まる事も、刺されても斬られても死なない事も、理性を失うと衝動に駆られるようにして全てを破壊し尽くす事も、およそ全てが人ではない。
でもウォッカを化け物とは絶対に思いたくなかった。カティやイリナが今こうしてここにいられるのも、セージやトージ、そしてリーゼルが家族の元に戻れたのも全て彼がいてくれたからだ。そんな恩人を化け物扱いする事なんて出来る訳がない。考えたくもない。
「ウォッカ」
親方さんは音を立てて椅子から立ち上がった。ウォッカの前に行くと深々と頭を垂れる。
「済まなかった。倅を救ってくれた恩人に、何て事を……」
「顔を上げて下さい」
飽くまで泰然と、そして穏やかにウォッカは言った。
「今申し上げたように、俺は普通の人間じゃありません。人とは異なるものです」
イヤだ。彼に、ウォッカにそんな風に言って欲しくなかった。そんな言葉、絶対に聞きたくなかった。
「普通の人間は髪や目が赤く染まる事もないし、首が落ちて生きてるなんて事は絶対に有り得ない。血に狂う事も、支配される事もない。そんな事は絶対にあっちゃいけないんです。俺を皆さんと同列に扱うのは人間に対する冒涜です」
「そんな事ありません」
誰の声なのか咄嗟に判らなかった。
視界が揺れている。彼との距離が少しずつ縮まっていく。無意識に足が、体が動いていた。
ウォッカの肩を掴んだ時、雫が頬を伝って腕に落ちた。
「そんな事言わないで……」
肩を、首を抱き寄せる。涙で濡れた頬がピッタリくっついた。
確かに髪や目が赤く染まる人間などいない。首を切り落とされても生きているなど論外だ。それでもウォッカが人である事に変わりはない。少なくともカティにとっては。違う、今ここにいる人達で彼を化け物扱いする人なんて絶対にいない。
普通の人間とは明らかに違う。でも姿形は人のそれと全く変わらない。ならばそれで充分だった。人である事を頑なに否定する彼をこれ以上見たくなかった。
頭に何かが載った。慈しむように丁寧に頭を撫でる。温かかった。掌を通して彼の温もりが伝わる。しばらくその感覚に身を委ねた。
「ありがとう」
目の前にウォッカがいた。いつものように少し眠そうな目をして穏やかに笑っている。それだけで嬉しかった。
「ここであなたを化け物扱いする人なんて一人もいないわ」
イリナが腕を組んだまま怒ったような目でウォッカを睨んでいた。
「だから、これ以上自分を卑下するような真似は絶対に止めて」
「判った」
少し釣り上がっていたイリナの目が緩やかな曲線を描いた。突っ張っていた肩から力が抜けていく。
「有りのままをお話しします」
ウォッカは真っ直ぐ前を見ていた。それがカティの目を見る。
澄んだ目が笑った。
ついさっきまで食器が並んでいたテーブルに人数分の湯呑みが置かれている。
父と母、そして姉の三人は厨房でお茶の支度をしている。この家の住人で食堂に残っているのはカティだけだった。こんなに沢山の客人と一緒に一人だけ寛ぐような事など絶対に許されない。そう、いつもなら。
席を立とうとしたカティの肩をイリナが掴んだ。
「あなたはそこで大人しくしてなさい」
「え……?」
言葉の意味が頭に浸透するまでしばらくかかった。どうしてここに留めようとするのか、それが咄嗟に理解出来なかった。
「後は私達がやっておくから」
ミリアムは軽く椅子を引くと肩に置いた手を下に押した。お尻が強制的に椅子に逆戻りする。
厨房に戻らないといけないと言う義務感とここにいられるお墨付きをもらった安心感の狭間から隣にいるウォッカを見る。
それよりも。
いつここに来たのか、いやウォッカの隣にいるのか。その記憶すらない。ついさっきまでは隣のテーブルにイリナと隣り合って座っていた。それが据え付けられた置物のように当たり前の顔をして隣に居座っている事に気付いた瞬間、そのまま後ろに引っくり返りそうになった。そうならなかったのは背凭れがあったからだ。倒れなくて良かったと安堵、いや厳密には油断した途端、体が右に傾いた。何かに当たって、ではなく支えられて体が止まった。
「大丈夫かい?」
驚いたのか垂れていた目が少しだけ丸くなっているけど、思わず寄り掛かりたくなるような優しさを湛えている事に変わりはなかった。
バネ仕掛けの人形のように一気に跳ね起きた。今の今まで一体何をやっていたのだろう。しかも、こんな人目につく所で。顔が赤くなるを通り越して耳の先まで熱い。対してウォッカはいつも通りに、いやそれ以上に泰然自若としていた。微塵も動揺した気配がない。
頭の天辺にウォッカの左手が載った。それだけで頭全体がすっぽり包み込まれている。改めて考えるまでもなく本当に大きな手だった。撫でられなくても、そこにあるだけで温かかった。
不意に目が合った。ウォッカの口角が僅かに上がる。悩みも鬱屈した気持ちも全て吐き出したような顔で笑った。
頭から手が離れた。それだけで頭の周りの温度が極端に下がった気がした。空気に触れるだけで耳が寒い。
ウォッカは宙に浮かんだ綿毛を追うような目で何処にあるかも判らない何かを睨み付けていた。睨むとは言ってもそこまで物騒な目付きではない。胸の内に抑え込んでいたものから少しずつ力を抜くような、その加減を測りかねているようだった。
何を話そうとしているのか、それが見えそうで見えなかった。すぐ目の前で形になろうとしているのに、輪郭が見え始めるとすぐに崩れてしまう。でもそれを焦れったく思う事ももどかしさを感じる事もない。何より、そんな風に見せているのはウォッカではない。他ならぬカティ本人が抱いている幻想だった。見たいのか目を背けたいのか、聞きたいのか耳を塞ぎたいのか。その丁度真ん中に取り残されていた。どちらに傾く事も出来ず、木の葉が風に吹かれるように宙ぶらりんのまま揺れている。
ウォッカの横顔をこっそり盗み見る。やっぱり何処かも判らない宙を睨んでいるだけだった。それだけで酷く後ろめたいものを感じた。ウォッカの背中を押す事も、引き留める事も出来ない。どうして欲しいのかも判らない。ただ隣に座っているだけの自分が酷く滑稽に思えた。
複数の足音と人の気配が食堂に近付いて来た。顔を上げようとした頃には母がお盆に急須を載せて立っていた。
「お待たせ致しました」
腰を折ると急須を傾けてお茶を湯飲みに注いでいく。
「ありがとう」
まだ温かそうな湯気を上げている湯飲みに女将さんが唇をつける。親方さんやヨハン、リーゼルがそれに倣った。
湯飲みをテーブルに置いた司祭様が深く、そしてゆっくりと息を吐いた。目の前にいる息子二人を交互に見詰める。少しずつ、でも確実に目が滲んでいく。
「頼むからさ、」
目を逸らしたトージが照れ臭そうに頬を掻く。
「そんなに泣かないでくれよ。こうして無事帰って来られたんだから」
「だからだろ」
判ってねえなあ。セージは隣で顔をしかめている。
判っていない事はないと思う。判ってはいるけど口から溢れ落ちてしまった、そんな言葉だった。それに、当のトージの目もすっかり潤んでいた。帰って来られた事を、そして父親に再会出来た事を心の底から喜んでいる。
リーゼルはその様子を斜向かいのテーブルから静かに眺めていた。薄暗い地下牢で文字通り寝食を共にした仲だ、気持ちも痛いくらいに判るし目には見えないけど不思議な絆を感じる。そのすぐ隣にレンがいた。指を絡ませて、硬く手を繋いでいる。取り戻した日常がどれほと得難く大切なものだったのか、それを確かめるようにして。
「お待たせ」
みんなが手分けして全員の湯飲みにお茶を注ぐ。各々が席に着いてもウォッカはお茶に手をつけようとはせず、黙って宙を睨んだままだった。
誰も口を開こうとはしなかった。居心地が悪い訳ではないけど、上手く気持ちを言葉に変えられないもどかしさが霧のように漂っていた。
ウォッカが湯飲みに手を伸ばした。舌先を湿らせる程度に口に含むとテーブルに湯飲みを置く。
「さっきの話もそうですけど、これから話す事はすんなり頭に染み込むような類いの話じゃありません」
決して大きな声ではない。でも耳の奥まで綺麗に吸い込まれた。沈黙が支配する食堂には何の雑音もなかった。
「それに聞いて気分が良くなるような内容でもありません。そうなったら途中で退席されても結構です、ここから先は自己責任でお願いします」
ウォッカはゆっくりと周囲を見回した。イリナはウォッカを見据えたまま顎を引いて頷いた。母はテーブルの下で硬く父の手を握る。ミリアムとアリスは真っ直ぐ背筋を伸ばしたまま覚悟を決めるようにゆっくりと深呼吸した。ミリアムは兎も角、アリスは稽古の最中でもこんな真剣な顔はしないなと思うくらいに気合いの入った目付きでウォッカを見ていた。お師匠さんが苦笑いしながら頬を掻いている。
不意にウォッカの視線が誰かの前で止まった。
「何だよ」
ヨハンが驚いたように、そして少しだけ不機嫌そうにウォッカを睨んだ。
「お前は聞かない方がいいかも知れない」
気不味そうに顔を歪める。思わず声を上げそうになった。とても冗談で言っているようには思えなかったからだ。
「ふざけるなよ。ここまで来て一人だけ蚊帳の外に置こうなんて感じが悪いにも程があるぜ」
声に少しだけ感情が混じっている。でも無理はないと思う。反論の余地がないくらいにヨハンの言う通りだった。ウォッカがこんな言い方をする事も意外をを通り越して驚きだったし、その対象がヨハン一人に限定されている事が単純に不可解だった。
「そうだな」
ウォッカがごまかすように笑った。ヨハンは鼻を鳴らすといかにも偉そうな態度で椅子にふんぞり返った。
「寝小便垂れても知らねえからな」
「ご忠告、痛み入るよ」
先を促すようにヨハンが顎をしゃくった。
ウォッカの顔から笑みが消えた。




