六日目 その伍
イリナは溢れた涙を腕で拭っている。指や手で凌げる量を優に越えている。
「良かった……!」
湿った声でそう呟くと思い切りカティを抱き締める。
しばらくそうしていたかと思うと腕から不意に力が抜けた。俯いたと思った時には力一杯拳を握り締めている腕が、背中が震えていた。
「もう限界よ……!」
何が限界なのか。事態を呑み込めていないのか、みんな虚を突かれたような顔をしてイリナを見詰めている。
「限界って、一体何が限界なんだよ」
父はやや当惑したような顔で頭を掻いている。カティも母と顔を見合わせた。ミリアムとアリスも眉根を寄せたまま首を傾げている。
「近くにいる誰かが、家族がいなくなるなんてこれまで考えた事もなかった」
雰囲気も語気も茫然としているのにナイフで突き刺したように深く胸に残る言葉だった。
「いなくなる事がこんなに苦しいなんて想像もしなかった」
胸が締め付けられるようにして痛んだ。軽く催した吐き気を口を押さえて遣り過ごす。傍にいる誰かと会えなくなる、それは純粋な恐怖だった。少なくとも今のカティにとっては。大切な人は誰しも絶対になくしたくない。それを無理矢理奪われたとしたら絶対に平静でいられなくなるに決まっている。誰かがいなくなる事は、人の命はそれくらい重い。だからそれを奪う事は絶対に許されない。
カティの肩に置かれていた手が小刻みに震え始めた。少しずつ、でも確実に力が加えられていく。イリナがカティを見て笑った。でも子供が作った積み木のように指先で突っついただけで音を立てて泣き出しそうな顔だった。
「たった二日会えなかっただけで、心も体もバラバラになりそうだった」
奴らに連れ込まれた馬車で、カビ臭かった地下牢で、絞首台の天辺で幾度となく襲われた絶望が胸の中で頭をもたげ始めたような気がした。錯覚に過ぎないと判っていても肌が粟立つくらいの恐怖を覚えた。無意識にイリナの体を思い切り抱き締めていた。
「ヨハンもレンも司祭様も、みんなこんな気持ちで家族の帰りを待ち続けてるのよ?」
場の空気が音もなく一瞬にして張り詰めた。ミリアムやアリスは胸を押さえたまま顔を背けている。母は顔を両手で覆いながら俯いていた。父だけが真っ直ぐイリナを見ていた。
「これ以上我慢なんて出来る訳ないじゃない!」
鈍い音と共に部屋が揺れた。イリナが壁を力一杯殴りつけたのだ。壁が骨の形に沿うようにして凹んでいる。入った亀裂が柱の手前で止まっていた。
厨房から飛び出そうとしたイリナの肩を父が掴んだ。
「何処に行くつもりだ?」
「ウォッカのところよ」
「何をしに?」
「決まってるでしょ、協力してもらうのよ」
肩を回して父の手を振り払うとイリナは階段まで駆け出した。その肩を再び父が掴んだ。
「何の協力だ?」
「みんなを助ける事以外にないでしょ」
イリナは振り向き様に父を睨んだ。溢れた涙を赤みが差し始めた拳で拭う。
「みんなを助けるとは言っても迂闊には動けないだろ。下手に事を起こせばこちらが不利になるだけだ」
「判ってるわよ!」
場が一気に静まり返った。イリナは少し俯き加減のまま肩で息をしていた。視線の先にあるものが何なのかは判らない。でも尋常でないくらい怒りに奮えている事は間違いなかった。それこそ本当に髪の毛が逆立ちそうなほどに。
あいつらを許す事が出来る人なんてこの街には一人もいない。絶対に許せないし許されない。それだけの事をしている。こんな風に怒りに奮える人が他にいたとしても何もおかしな事はない。そして怒りを爆発させる事すら出来なかった。そのための人質だ。
なくしかけていたものの大きさが判っているから、その重みを改めて知ったからこそ沸き上がる怒りだった。
「話だけでも伝えておきたいの。すぐにでも動けるように」
「動くには明らかに材料が不足してる。それが判らないから迂闊なんだよ」
嗜めた父の顔をイリナは思い切り睨み付けた。父はそれを真っ向から受け止める。
「彼に頼まれたものもまだ用意出来てない」
「頼まれたもの?」
「砦の見取り図だよ」
父はウォッカといつそんな話をしていたのか。少なくともカティやイリナの知るところにはない。
「砦に侵入したところで牢屋の正確な位置や見張りの配置が判ってなかったら?」
砦の内部に侵入出来た場合の一連の流れを頭の中に描いてみる。身を隠せる場所が判らなかったらすぐに捕まってしまうし、大勢では絶対に目立つ。いくら腕に覚えがあっても取り囲まれでもしたら勝負にならない。多勢に無勢だ。それ以前に人質を盾にされて武装解除を要求されたらこちらにはそれを拒む術がない。何も出来ないばかりか徒に人質の数を増やす事にもなりかねない。
イリナは悔しそうに歯を食い縛った。
「気持ちはよく判る」
父がイリナの肩に手を置いた。今度は振り払わなかった。
母はイリナの手を取ると胸に当てた。自分より少し背の高い娘をそっと抱き締める。
「少し、落ち着きましょう」
奴らを許せないのはイリナに限った話ではない。母も娘の気持ちは絶対に理解しているに違いない、それこそ痛いくらいに。
「ごめん、取り乱して」
「気にしないで」
まだ涙の跡が残っているイリナの頬を母はそっと撫でた。
これまで怒られた事は何度となくあるけど、ここまで感情を、怒りを露にしたイリナは見た事がなかった。着替えの最中にドアを全開にされてもここまで怒る事はないと思う、多分。試してみる勇気はないけど。
それくらい許し難いのだ。その顕れでもある。それほどまでに罪深い行為だった。不意に首を絞められたような、首に縄をかけられた感覚が甦った。絶対に死にたくない。そう思ったからここに戻る事が出来た。もう二度とあんな気持ちは味わいたくないし身近にいる誰かにもあんな目には遭わせたくない。考えるより先に体が動いていた。すぐ隣にいたアリスを思い切り抱き締める。すぐさまアリスも抱き返した。ミリアムはそんな妹二を両腕で優しく包み込む。
足音が聞こえた。一人ではない、複数だ。お客ではない、と思う。開店までにはまだ四時間近くあるし来訪するには少し、いやかなり非常識な時間だ。
疑問に思う間もなく足音が店に入った。かなりの駆け足だった。
「イリナ!」
聞き覚えのある声だった。でも咄嗟に誰なのかが思い出せない。もどかしさに頭を掻き毟りたくなった。
でも確かめるなら一番手っ取り早い方法がある。わざわざそんな事を考えるまでもなく、みんな一目散に声のした方に、食堂へ走った。
「イリナ!」
スイングドアの前に誰かが立っている。
一瞬目を疑った。
髪も髭も伸び放題だった。山奥で隠居している世捨て人よりかはいくらかマシだと思うけど、人前に立つにはかなり勇気がいる風貌だ。勿論それは彼の本来の姿ではない。そうせざるを得ない環境、いや状況に置かれていただけだ。ついでに言えば、つい一昨日までカティもそこにいた。
その彼が、どうしてここにいるのか。
「え……?」
イリナは前を見たまま茫然と突っ立っていた。
セージは心底安心したように笑っている。その脇から誰かが体を滑り込ませた。
「アリス!」
セージと全く同じ顔が鬼気迫るような顔でアリスを見る。その目が一瞬焦点を失って宙を泳いだ。
アリスは鋭く悲鳴を上げると髪を両腕で抱えた。腕や目元が小刻みに震えている。どんな顔をすればいいのか判らないのかも知れない。
いや、そうじゃない。
何が起こったのか、事態を全く呑み込めていないに違いなかった。カティも何故ここに二人がいるのかまるで判らなかった。見当もつかない。
「間に合ったんだな」
イリナの肩を交互に見比べる。胸に手を置くと目元を指で押さえた。
「良かった」
とても短い言葉だった。でも気持ちはしっかりと伝わっている。
「嘘……?」
ついさっきまであんなに泣いていたのにイリナの目にはもう涙の粒が膨らんでいた。崩れ落ちそうになったイリナをセージは優しく抱き止める。
「腕は、もう大丈夫なんだな?」
アリスは相変わらず頭を、いや髪を両腕で抱えたままだった。腰に手を当てるとトージは可笑しそうに笑った。
「とても折れてたなんて思えねえよ。ま、兎に角無事で良かった」
「でも、髪が……」
上目遣いにトージを窺いながら小声で言った。既に目に涙が滲んでいる。
「髪が短くたってアリスはアリスだろ? 何も変わらねえよ」
照れや衒いの欠片もない。恐らく、いや間違いなく本心での言葉だ。元々気持ちをごまかすような回りくどい事は一切しない。自分に正直で誰に対しても素直だった。
紙を手で丸めるようにしてアリスの顔がクシャクシャになった。と思ったら途端に声を上げて泣き出す。時間を十年くらい前に巻き戻したような声で泣き声を上げるアリスの頭をトージは優しく撫でている。
何が起こったのか本当に判らない。囚われていたハズの二人がどうしてここにいるのか。
「あの……」
母は双子と娘を交互に見比べながら右往左往している。父に到っては目を点にしたまま茫然と突っ立っているだけだった。今の今まで砦に乗り込もうとしていた娘を諌めていただけに驚きと混乱も倍では済まないのかも知れない。そしてそこから抜け出せずにいる。
誰かの咳払いが聞こえた。喉が乾燥しているのに無理矢理絞り出したように不自然だった。ドアの前に誰かが立っている。これも見覚えのある顔だった。でもそんなに古い記憶ではない。
「盛り上がってるところ申し訳ないけど、」
ヨハンは改まったようにもう一度咳払いする。その後頭部を誰かが拳で叩いた。いかにも頭を叩きましたと思えるような音がした。
「だったら水差すな、ボケ」
後頭部を押さえて踞るヨハンの背後から髭面の若い男が顔を出した。彼はカティを軽く手を上げる。
「君も無事だったんだな」
リーゼルはホッとしたように溜め息を吐くと白い歯を見せて笑った。牢屋にいた時も爪か何かで擦るかして歯を磨いていたのかも知れない。あの人はそこまでするだろうか。ふとそんな事が気になった。
二日振りの再会だった。ただ同時にそれ以上の時間が経過しているような錯覚に陥る。或いは時間の感覚そのものが正常に機能していないのかも知れない。
「悪かったな」
リーゼルが目を伏せた。反応に窮した。何を詫びているのか咄嗟に判らなかった。
「イリナ、ちょっといいか?」
セージは手近にあった椅子にイリナを座らせた。トージもそれに倣う。イリナもアリスもまだ状況を上手く整理出来ていない。嬉しいのに混乱している。
同じ顔が同じ角度で頭を下げた。
「何も出来なかった」
少し低い位置からトージの低い声が聞こえた。
「あれじゃただの飾りも同然だ」
顔を上げたセージが沈鬱な表情で頭を抱える。
二人共、いや三人共間違いなく心の底から詫びている。確かに、あの時すぐ傍にいた三人に心底助けを求めた。でも届かなかった。奴らの言葉が正しいならば一服盛られて身動きを封じられていたのだろう。
それに、意識があってもセージとトージは小窓を通してしか関われなかった。リーゼルに到っては更に廊下を挟んでいた。直接助ける事はどう足掻いても不可能だった。だからこんなに責任を感じる必要など何処にもない。でも三人共一向に頭を上げようとはしなかった。
ボロボロになりながらも辛うじて男、いや獣共を撃退した後、程無くして意識を失った。首の皮一枚で女を死守出来た事も、そして命が繋がった事も単に運が良かっただけの話だ。女であっても急所を思い切り蹴飛ばせば男を行動不能に出来る。最悪殺す事も不可能ではない。最初に聞いた時は流石に胆を冷やした。それを実践したのはカティだけど知識として授けたのはアリスだった。
犯そうとしていた片割れに殺されかけた時、助けてくれたのは正体不明の大男だった。一体何処の誰なのだろう。顔も名前も判らないけど、彼が命を救ってくれた事は紛れもない事実だった。
知っていても知らなくても、誰かが関わっていたから今ここにいられる。牢屋に閉じ込められていた時も、隣の房に三人がいてくれたお陰でどれだけ有り難かったか、心が救われたか。その三人とこうして再会出来た事が素直に嬉しかった。
そこまで考えて端と思った。
絞首台に無理矢理載せられて目隠しをされて首に縄を巻かれた時、瞬間的にせよに死を意識した。それでも諦めなかった。だからこそ今ここにいられる。念ずれば叶うと言う言葉は嘘ではないと思う。でも念じているだけでは何事も成就しない。それに応えてくれた誰かが、助けてくれた誰かが必ずいたハズだ。
それは一体誰なのか。
「三人共、顔を上げて下さい」
誰かが誰かのために懸命に動いている。常に巡っていて決して止まる事はない。それが因果なら人は死ぬまで、ひょっとしたらその後も誰かと関わり続ける事が既に決まっているのかも知れない。
三人は偶々居合わせた娘に懸命に関わってくれた。それだけではない。何も出来なかった事に責任を感じてここまで頭を下げてくれている。これ以上何を望むと言うのだろう。
双子は顔を見合わせると気不味そうに唇を歪める。そんな二人の手を握った。
「有り難う」
心の底から感謝を込めた言葉だった。
「リーゼルさんも」
ゆっくりと溜め息を吐くとリーゼルは観念したように顔を上げた。やっぱり気不味そうに苦笑いしている。まだ納得出来ていないのだろう。その気持ちだけで充分だった。
「とても有り難いお言葉を頂戴したところで申し訳ないけど、」
リーゼルはさっき弟がしたように少しだけわざとらしく咳払いして見せた。兄弟だけあってこういうところはよく似ている。
「本当の意味でそれを伝えるべき相手は他にいると思うな」
思わず口元を手で押さえていた。別に弟の方を悪く言う気は全くないんだけど、確かに兄の方は相当に聡い。一を聞いて十を知るのではなく、一を聞く前に十を、ひょっとしたらそれ以上を知っている。
「俺らがここに来た理由もそれだよ」
ここぞとばかりに笑う。好感の持てる笑顔だった。
そうだ。牢屋に閉じ込められていたハズの三人が何故ここにいるのか。脱出した、とは考えづらい。鍵が開かない限り絶対に不可能だ。最大の足枷になる人質を奴らが自ら解放する道理がない。となると誰かがみんなを解放した、いや助けたと言う風に考えるしかない。
「俺達からもそれを伝えたい」
聞き覚えのある声がした。店の入口に誰かが立っている。お師匠さんだった。肩に誰かを担いでいる。より正確に言えば一人の肩の片方をお師匠さんが、もう片方を親方さんが担いでいた。間に挟まれている誰かは覚束ない足取りで床に足を着けようとしている。それを親方さんがやんわりと制止した。
「まだ病み上がりなんだからもう少し大人しくしてな」
「病人扱いしないでくれ、と言われても説得力はないか」
両肩を担がれている人物は苦笑いすると済まなそうに頭を垂れた。
「当たり前だろうが。丸二日近く殆ど食うものも食わずに伏せってたんだからよ」
親方さんが横から睨み付ける。と言ってもそれが本気でないのは彼の表情を見れば判る。仕方がなさそうな、でも心の底からホッとしたような横顔だった。
「朝からお騒がせします」
恐縮しながら頭を下げているのは女将さんだった。リーゼルとヨハンの養母だ。その後ろではレンが困ったような顔をして両親の背中を見守っている。
「イリナ、ごめん。こんな朝早くから」
「いや、私は別に……!」
慌てて両手を振るイリナにレンは若干目尻をひきつらせながら苦笑いしていた。嬉しい事に変わりはないんだろうけど、こんな朝早くにこんなに大勢で押し掛けて来た事に申し訳ないものを感じているのかも知れない。
それとも。
チラリとイリナの横顔を盗み見る。
久し振りに恋人に、いや想い人に再会出来たのにそれを邪魔してしまった事に後ろめたいものを感じているのか。
少なくともお邪魔しますと言うには時間的には明らかに早すぎる。まだ朝御飯すら済ませていないのだ。でも、それはレンやヨハン達も変わらないハズだった。ゆっくり朝食を取ってからと言うのはとても考えられない。そんな事をしていたら絶対にここまで急いでいない。三人が戻った直後にすっ飛んで来た事は容易に想像がつく。
それだけ伝えたい気持ちが彼らの、そして帰りを待ち詫びていた家族の胸の中にある。
「取り敢えず、彼に会わせてもらえないかな」
神妙と言うより真面目な顔でリーゼルが言った。ウォッカほどではないにしても、あまり真剣な表情は似合わない。でも決して元々不真面目な性格ではない事くらいはすぐに判った。
父は目を白黒させたまま頭を抱えていた。
「父さん、知ってるんでしょ?」
「彼だったら仮眠を取るって言ったきり部屋から出てない、かな」
何とも歯切れの悪い応えだった。イリナは椅子から立ち上がると苛々を押し殺すようにして頭を掻き毟っている。実際の処どうなのか、ここにいなかったカティには知る由もない。
「あの、」
ミリアムは律儀に手を上げると周囲を憚りながら一歩前へ出た。
「彼が、ウォッカさんが助けてくれた事は間違いないんですか?」
「彼かどうかは判らない。ただこれまで全く見掛けた記憶のない顔だった」
「その人はどうやって皆さんを助けたんでしょうか?」
「地下牢に降りて来たかと思ったら牢屋の扉の鍵を開けてくれた。みんなにさっさと出るよう促してたから一緒に帰ろうと思って声をかけたんだけど」
それまで淡々と言葉を紡いでいたリーゼルが苦虫を噛み潰したような顔をして頭を掻いた。粉のようなフケが落ちる。
「地下から地上に上がって見てみたら奴らの兵隊が全員綺麗に伸びてた。そいつらを肩に担いで地下に行っちまった。そこから先の事は判らない」
その後は脇目も振らずにみんなが待つ家に戻って来た事は想像に難くない。そしてその足でここにやって来たのだ。
「彼が助けてくれた、そういう事ですよね?」
「ああ、そうとしか考えられない」
深く考える必要も、起こり得る可能性を一つずつ潰していくまでもない。そんな事が出来るのは彼しかいない。
「だからここに来れば会えると思ったんだけどな」
リーゼルは待ち詫びるように周囲を見回した。
「父さん」
声が震えていた。どうして今の今まで考えなかったのだろう、気付かなかったのだろう。
「どうして、私は助かったの?」
絞首台の天辺に連れて行かれ、首に縄を巻かれた。縄が伸び切っていたらここには戻れなかった。それがどうして生きてここにいられるのか、またこうしてみんなに会えたのか。
「彼が助けてくれた。お前の首に絡まってた縄を切って」
殆どうろ覚えだけど、あの時絞首台は周囲を柵で囲まれていた。その状態でどうやって縄を切ったと言うのか。
もう考える事がもどかしかった。決して広くはない食堂の中を一気に走った。廊下に出る前に誰かに追い抜かれた。イリナだった。その後に大勢の人達が足音を響かせながら続いていく。
彼の客室がある四階までが随分と長く感じられた。それこそ永遠に続いているようにも思えたけど息は全く切れなかった。
四階に着くなりイリナは彼の部屋に向かって突進した。ノブを掴むと拳骨でドアを叩く。
「ウォッカ、いる?」
言葉遣いが既に宿屋の娘とその客と言う関係ではない。借金の取り立てに来た債権者のようだった。普通のお客なら間違いなく苦情になる。
「寝てるの?」
叩く度にドアが激しく揺れるけど人が現れそうな気配もなければ物音も聞こえない。優しくノックすると言う発想はないのか。
「入るわよ?」
返事を待つ気は更々ないのか、言いながらドアを全開にした。吹き抜けた風が顔を撫でる。
ベッドの上で綺麗に整えられていたハズの毛布は風に煽られて半分捲れていた。部屋の隅には彼がここに来た時背中に背負っていた巨大なリュックが鎮座している。すっかり根を生やしていてもおかしくない、そう思わせるだけの佇まいがあった。そのリュックには長剣が立て掛けられていた。窓から差し込んでいる光を鞘が跳ね返して鮮やかに光っている。でもおいてけ堀りを食った事は間違いなかった。恐らく彼が一番愛用しているであろう短剣と中太刀の姿は何処にもない。肝心の主も姿を消している。
完全に藻抜けの空だった。部屋の何処を見てもウォッカの姿はない。開け放たれた窓から吹き込む風の音だけが室内に響いていた。
「それじゃあ、やっぱり……」
アリスが呟きかけた時、木の板を硬いもので叩くような音が聞こえた。足音としか思えないような音だ。
その場にいた誰もが周囲を見回した、背後を振り向いた。でも誰もいない。誰かが現れるような気配はない。でもその音は次第に、確実にここに近付いて来ている。でも何処からなのか見当もつかない。
硬い音と共に僅かに部屋が揺れた。と思った時、窓の外から伸びて来た腕が窓枠を掴んだ。誰もがギョッとして窓を、腕を見た。よく見ると、いやよく見なくても明らかに赤黒い腕だった。次の瞬間、よく見知った顔が窓から顔を覗かせた。
「あ」
呆けたような間抜けな声が聞こえた。
授業に遅れて来たのをバレないようにこっそり教室に侵入しようとしたあまり出来のよろしくない学生のような顔をしたウォッカが窓の外からこちらを見ていた。
鏡がないからどんな顔をしていたかは判らない。でも絶対点のような目をしていたと思う。隣に突っ立っていた父の目は綺麗な点になっていた。普段滅多に感情を表に出さない母までもが両目をお皿のように見開いて窓を、その向こう側にいる彼を見詰めている。どうしてそんなところから入って来るんだ。
イリナがツカツカと窓に歩み寄ると窓枠を掴んでいるウォッカを見下ろした。
「あんた、何してるの?」
「何って、部屋に戻ろうと思って」
みんながみんな、号令でもかけられたように部屋の出入口を見た。それが引き寄せられるようにしてウォッカに戻る。
「普通に正面から入って来ればいいじゃない」
「いや、まだ朝早いしみんな起こしちゃ悪いかなと思って」
ならば物音を立てないように抜き足差し足で歩けば済むだろうに。それが出来ないほど彼は鈍くはないハズだ。
実際、今の彼は不法侵入を試みた結果家主と鉢合わせした間抜けな泥棒と何ら変わらない。
「取り敢えず、入りなさいよ」
「ああ」
窓枠を乗り越えると床に足を着けた。そもそもどうしてこんな所から入ってくるのか。最初に会った時から多少ずれた処があるような気はしていたけど、その認識が間違っていない事を改めて見せつけられたように思えて苦笑いしそうになった。
でも、ウォッカの格好を見て少しだけ納得した。
薄手の上着もズボンも漆を塗りたくったように真っ黒だった。よく見ると短剣と中太刀の鞘まで黒光りするくらいに黒い。濃い焦げ茶色のいかにも底が厚そうな靴だけが変に目立っていた。そして上着もズボンも所々がかなり激しく刷り切れていて、箇所に依っては肌が露出している。中でも際立って目立つのが胴の真ん中にある傷だった。体の中心、鳩尾の辺りの布地が縦に切り裂かれていた。そこを中心にして赤黒い染みが周囲に拡がっている。何かで刺された事は間違いない。これだけ出血している処を見ると貫通していてもおかしくない。だとすると背中も血塗れのハズだ。
普通の人間ならば致命傷である事は最早疑いない。或いは即死していても何らおかしくない。でも、こうして平然と立っている。少し驚いたのか、軽く首を竦めたまま周囲の様子を窺っていた。
「皆さんお揃いで」
ごまかすように苦笑いしながら頭を掻いている。どうしてこんな顔をするのか判らない。
「何してたの?」
「散歩」
絶対に嘘だ。こんな全身ボロボロの血塗れになる散歩なんてある訳がない。一体どれだけ過酷な散歩なんだ。
「あの、」
母がおずおずと手を上げた。
「ここならば温泉もありますし汗も流せますので、皆さん一風呂浴びて来てはいかがでしょう?」
セージとトージは互いに顔を見合わせると思い切り顔をしかめた。わざとらしく鼻を摘まんだヨハンがリーゼルと距離を置く。その隣でレンがクスクス笑っている。
部屋にいる男連中の半数は申し訳なさそうに首を竦めながら頷いた。




