六日目 その四
体が浮いているのか、それとも落ちているのか、或いは沈んでいるのか。全ての感覚がなかった。自分が何処にいるかすらも判らない。ただ意識がない事だけは自覚していた。
一体どうなってしまったのだろう。霧で覆われたような頭を蹴飛ばして無理矢理記憶を整理する、思考を働かせる。ここは何処で、私は誰だ?
これまで経験した事もないようなとんでもない目に遭った記憶はあるのに、それが具体的にどんなものだったのか一向に思い出せなかった。唯一覚えているのは最後に見た絞首台からの光景だけだった。それだけが鮮明に記憶に残っていた。それこそ凄まじい熱線を浴びて影だけが地面に焼き付けられるように。
そうだ。吊るされそうになったのか、それとも吊るされたのか、その何れかだった。。生きているのか死んでいるのか、それすら判らない。いや違う。あの瞬間、死にたくないと心の底から望んだ。何としてでも命を繋ぎ止める、投げ出すような真似は絶対にしない。でもそれが叶わなかったら。
そこに思い至った瞬間、一気に視界が拓けた。
しばらくは目に映るもの全てが朝靄に覆われたようにボヤけていた。それが時間の経過と共に明確な輪郭を形作っていく。少し離れたところに茶色い板が整然と並んでいる。それが天井だと気付くのに随分と時間を要した。普段から天井をじっくり観察したような記憶はほとんど、いや全くないと断言していい。寝起きに、或いは寝つくまでに一瞬瞼の裏に映る程度で記憶にも印象にも残らない。観察力がないと言われたらそれまでだけど。
手に、指にゆっくりと力を込めていく。曲げられた指先が掌に触れた。右手も左手も意図したように自由に動かせる。でも腰の辺りから下にかけて全く感覚がなかった。
生きている事は間違いなさそうだった。でも感覚が全くない箇所があるとなると神経に深刻な痛手を被ったと考えるのが妥当だろう。絶対積極的に受け容れたくないけど。そうだ、そんな事は考えたくもない。今、何がどうなっているのかしっかり把握するためにも情報を集めなくてはならない。触れる、動かす、感じる。それら全てが今の自分をより明確に形作る手立てになる。
手や指になら何とか力が入る。体の感覚を確かめるようにしてゆっくりと上体を起こした。
ベッドの右側にある勉強机の上は綺麗に片付いていた。椅子の背には学校で使う鞄がまるで負ぶられるようにかけてあった。窓からは明るい日差しが差し込んでいる。弱まるような兆しは窺えない。となると夕日ではなく朝日だろうか。そもそも、あれから一体どれくらいの時間が経ったのだろう。僅かに感覚が残る体と違い、時間は全くそれがなかった。
脚を引こうとした瞬間、僅かに感覚が蘇った。動く。間違いない。でも痺れたように感覚がない、いやあるけど相当鈍い。
この時になって初めて脚を、下半身を見た。
誰かがうつ伏せに倒れている。言葉は悪いかも知れないけど、死んだように動かない。ピクリともしない。でも死んでいるなんて事は絶対にない。確かな温かさが体に伝わっている。ほとんど感覚がなかったのは圧迫されて血流が滞っていたから、痺れてしまっていたからだった。
体全体からかなり、いや一気に力が抜けた。
そうだ。あれだけ散々殴られ、蹴られたと言うのに痛みは欠片も感じなかった。疲労すらない。お風呂に浸かって気持ちよく汗を流して、お腹いっぱいに御飯を食べて、何かに包まれるような淡い倦怠感を覚えて眠りに就いた翌朝のように実にスッキリとした寝覚めだった。家族揃って過ごす夜は大抵がそうだった。手を伸ばせば届く距離に誰かがいて、いつも笑ってくれる。だからその時は大変でも次の朝には体も心も綿みたいに軽かった。今もそれに極近い。昨日、一昨日の出来事の方が遥かに現実離れしていて余程信じ難かった。
脚の上で寝息を立てている誰かの頭に手を載せる。アリスだった、間違いない。でも咄嗟には判らなかった。髪型が違いすぎる。見る影もないくらいに短くなってしまっていた。そうだ、あの時あいつに……。お風呂上がりにはしっかりと髪を乾かし、枝毛を切り、櫛を入れる。どんなに忙しい時でも手入れを欠かさなかった。それくら大切にしていた。それを無惨に切り落とされたのだ、辛くないハズがない。
髪だけではない。
左の上腕骨を真っ二つに叩き折られた。数日で治るような怪我ではない。でもスヤスヤと寝息を立てているアリスの左腕は固定されてもいなければ包帯も巻かれていない。傷一つない左腕を当たり前のように晒している。
アリスの頭の上に手を載せた。手に余る豊富な髪の向こう側から確かな温かさが伝わって来る。思わず涙が出そうになった。触れただけなのに、たったそれだけなのに体の芯から沸き上がった不思議な温かさが末端にまで一瞬で到達した。耳の先まで火照っている。しばらくその感覚に身を委ねた。今目が覚めたばかりなのに、油断したらまた眠りに就きそうになるくらいに心が安らぐ。こうして誰かが傍にいてくれる、その人の温かさを肌で感じる。たったそれだけの事がどうしてここまで心地いいのだろう、心を温めてくれるのだろう。
腰の辺りに添えられていたアリスの手をそっと握る。いつ意識をなくしたのか、ハッキリとは覚えていない。ここで死んだように横たわっていた間、アリスはずっとこうして手を握り続けていてくれたのだ。
それに、アリスには目を覚ましたら真っ先に伝えたい事がある。
短くなった髪に編み物でもするように指を絡ませる。手櫛で髪を鋤くとアリスの目尻が微かに動いた。一瞬眩しそうに目元に手をかざすと瞼の向こう側にある茶色い瞳が覗いた。その焦点が一瞬ブレた。呆然と目を見開いたままアリスはゆっくりと体を起こす。
「おはよ」
自然と口元が綻んでいた。目の前に鏡はない。でも笑っているのはハッキリと判った。
アリスは依然としてお皿のように目を丸くしていた。何が起こったのか、それをまだ把握出来ていないのかも知れない。
「ありがと」
熟れたリンゴが風に吹かれて枝から落ちるようにして言葉が口から零れ出ていた。アリスは首を傾げる事も出来ずに僅かに潤み始めた目でじっと妹を見詰めていた。
「いつだったか、女が女を守る方法、教えてくれたよね?」
いつの事なのかハッキリした記憶はなかった。でも決してそこまで昔の話ではない。異性の目を意識し始める入口くらいの年頃だと思う。
「おかげで、何とか女は守れたよ」
精一杯笑った。唇を開いて歯を覗かせたまま親指を立てる。演技ではなく本心で、心の底から感謝を込めて。知らなかったら、今頃こんな風に笑う事は絶対に出来なかった。体は生きていても、心は間違いなく死んでいた。
一人では生き残る事も、そしてここに戻る事も出来なかった。人は生まれた時から何処かで必ず誰かと関わりながら生きている。一人で生きているように思えても、自分の見えないところで、気付かない何処かで誰かが背中に手を添えてくれている。
頬はこれ以上ないくらいに綻んでいる。なのに涙が出るのは何故だろう。
滲んだ視界の中にアリスがいた。アリスの目にはカティはどう映っているのだろうか。ハッキリと見えているのか、それとも不恰好に歪んでいるのか。別にどちらでも構わなかった。傍にいてくれる事に変わりはない。
泣き声と共にどちらともなく抱き合った。こうしてここにいられる事が、一番可愛がってくれる姉が傍にいてくれる事が、みんなの待つ家に生きて帰れた事がただただ嬉しかった。今、私は間違いなく生きている。アリスの息遣いを、温もりを肌で感じている。これが夢である訳がない。紛れもない現実だ。
助かったんだ、帰って来たんだ。
涙が溢れた、止め処なく。
訳も判らず家族を目の前で半殺しにされた。平静を保てるような精神力など望むべくもない。一瞬にして哀しみと絶望、そして恐怖に支配された。でも、ここに戻る事を、生きる事を諦めたくなかった。生きて帰る、あの時セージやトージ、そしてリーゼルと約束した事だ。
大切な誰かに触れるだけで、声を聞けるだけでこんなに心が満たされるなんて。今は安らぎに全てを委ねていたかった。何も考えず、感じたままを受け入れる。それだけで胸の中にあった苦痛が音もなく消えていく。
部屋の外から慌ただしい足音が聞こえて来たかと思うと唐突にドアが開いた。
「カティ!」
母だった。ベッドに駆け寄るとすぐさまカティを抱き締める。何か声を上げているけど言葉になっていない。堪えるように、或いはむせぶように肩を震わせている。
「お願いカティ、あなたの顔を見せて」
顔を、頬を両手で包み込んだ。目尻から溢れた涙が母の指を伝う。涙目の母と目を合わせた。あっと言う間に母の顔が歪む。
声が、感情が抑えられなかった。体当たりするように抱きつくと母の胸に顔を埋めた。昔、買い物について行って迷子になった時もこんな風に声を上げて泣いた。見知った人は何処にもいない。いたとしてもそれを伝える術がなかった。頭はすっかり混乱しているし寂しくて堪らない子供にそんな冷静さを求めるのは明らかに酷だろう。今はその時より年を重ねている。でもやっぱり無理だった。
母はその時のように、いやそれ以上に力一杯カティを抱き締めていた。
みんなが待つ家に帰って来られたのだ、こんなに嬉しい事はない。
不意に温かい何かが頭の上にが載った。父の手だった。手の中にあるものの感覚を確かめるようにゆっくりと撫でる。
「お帰り」
有り触れた言葉なのに、それが酷く懐かしく聞こえた。そしてずっと待ち焦がれていた言葉だった。
「ただいま」
家を空けていたのは時間にすれば二日に満たない。でも何年も帰っていないような、一瞬そんな錯覚に陥った。
父が覆い被さるようにして抱き締めた。娘二人と妻を逞しい両腕でしっかりと包み込んでいる。腕が、肩が微かに震えている。父にこんな風に抱き締められた事は久しくなかった。父の事は今も昔も勿論大好きだけど、それを無邪気に言葉に変えたり気持ちをあるがままに伝えたりする事にいつしか気恥ずかしさを感じるようになっていた。父も少し寂しそうな顔をしたけど特別何も言わなかった。いつまでも両親と同じ時間を過ごせる訳ではない。それくらいは頭の片隅で朧気ながらに理解はしている。ここを離れる日が来たとしても別におかしな事は何もない。その過程で通り過ぎる、いや経験する出来事の一つに過ぎない。そんな風に考えていた。
でも胸の中にはいつも父が、家族の存在があった。真っ正面から気持ちを伝える事をしないだけで蓋を開けば感謝や愛情がすぐに顔を覗かせる。ただ気持ちをしまっているだけでいつでも引っ張り出せる。いつかそんな日が来るのかなと漠然と考えた事はあるけど、それがこんな形で唐突に訪れるなんてついぞ想像もしなかった。
父がそうしてくれているように両腕で思い切り抱き締めた。少し油が混じった汗を天日にかざして干したような匂いがした。それを随分と懐かしく感じた。記憶の引き出しを手当たり次第に引っ張り出しても一向に見当たらない。不思議な温かさが心を満たしていく。首を曲げて父の顔を見上げた。湧水のように溢れ続けている涙が父の頬を濡らしている。肩を、声を震わせて人目も憚らず泣いている。大人の男の、父の涙を生まれて初めて見た。
「もう、大丈夫か?」
濡れた頬を父が掌で撫でる。
「うん」
全身の有りとあらゆるところを殴られ、蹴られ、そして切り裂かれたのに痛みも違和感もない。真っさらな肌が当たり前のような顔をして何処までも続いている。
三人は交互に顔を見合わせると胸につっかえていたものが取れたように頬を綻ばせた。順繰りに頭を撫でられる。子供の頃に戻ったようだった。今も子供だけど、何も考えずに無邪気に甘えていたような素直な気持ちで身を委ねている。揺りカゴに揺られて笑顔を見せる赤ん坊の気持ちが少し判った気がした。
「みんなも、無事だったんだね」
無事と言う言葉が相応しくない事は重々承知している。でも、誰一人として怪我をしているようには見えなかった。隠している気配もない。
「ああ、みんな何ともない。この通りピンピンしてるよ」
父は真っ直ぐ立ち上がると両腕を軽く上下に振った。膝から骨が突き出していたけど、そんな大怪我をしたら満足に脚を動かす事すら出来ないハズだ。
アリスは腕捲りすると引き締まった上腕二頭筋をこれでもかとばかりに眼前に突きつける。女が積極的に見せつけるようなところではないと思う。なら何処かと聞かれたら応えに詰まる事も確かだけど。真っ二つに折られた腕は完全に元通りになっていた。重傷を負っていた名残も、その欠片もない。ただ髪だけが極端に短くなっていた。
瀕死に近い重傷を負っていた事もそれが完治した事も、切られた髪だけが元に戻らなかった事も、全てが紛れもない現実だった。嘘でも夢でも錯覚でもない。
ならば、
「ねえ、ミリー姉やイリナ姉も無事なの?」
鉄の塊を力一杯肋に叩きつけられたミリアムは虫の息だった。両方の肩を剣で串刺しにされ大量の血液を失ったイリナは完全に意識を喪失していた、死の淵にいた。
その二人が無事だったとしたら、また会えるのだとしたら。
音を立てて心臓が跳ねた。昨日、絞首台の天辺で同じような感覚に襲われた。でもその根底にあるものは全く性質が違う。真っ暗な絶望ではなく目映いくらいの希望だった。
「さっき言ったろ? みんな揃ってる。誰一人欠けてない」
父の大きな掌が頭に載った。誰かの温もりを肌で感じるだけで心の底から安心する。それだけ大きな不安や恐怖に晒されていた反動なのかも知れない。
でもまだ解消しなくてはならない、解消出来ていない問題が残っている。父の言葉を疑うつもりはない。でも自分の目で確かめたかった。
ベッドから飛び降りた。居ても立ってもいられなかった。みんなに会いたかった、みんなに会えなければダメだった。誰か一人でも会えなかったとしたら、明るく拓けていた世界が真っ暗に変わる。顔を見て、肌に触れて、温もりを感じて初めて心が満たされる。会えない事は耐えられない。考えただけで気が狂いそうになる。
部屋から飛び出すと階段まで走った。手すりを掴んで体を捻ろうとした時、階段を登り切ろうとしていた誰かと鉢合わせした。驚いたように目を見開いている。ミリアムだった。
一撃で肋骨を砕かれた後は嘘でも冗談でもなく本当に息も絶え絶えだった。具体的にどれくらいの怪我を負っていたのかは判らない。でも単に骨が折れる、或いは砕ける程度であそこまで苦しむとは思えなかった。満足に身動きも取れなかったのだとしたらば相当深刻な怪我だったハズだ。
ミリアムは軽く肩で息をしながらカティを見て笑った。みんなの寝室がある四階まで一気に駆け上がって来たに違いない。居ても立ってもいられなかったのはカティだけではなかった、と言う事なのだろう。礼儀正しくて生真面目な姉がこれ以上ないくらい嬉しそうに笑っている。肩を掴まれたと思った時には抱き寄せられていた。熱く、湿った吐息が耳にかかる。
「良かった……!」
姉の声はこれ以上ないくらいに震えていた。背中に回していた両腕に力を込めて抱き締める。そのまま胸の中に顔を埋めた。こうして誰かを抱き締めていると、そして誰かに抱き締められるとそれだけで信じられないくらいに心が安らぐ。
背後からバタバタと足音が近付いて来た。顔を上げるとミリアムの目から溢れた雫が頬についた。首を曲げた先に両親とアリスがいた。高等部の進学試験に合格した時でもこんなに嬉しそうな顔はしていなかった。
「ごめんね……」
ミリアムは頬と頬をくっつけると顔全体を余った左腕ですっぽり包み込んだ。どうして謝るのだろう、何処にその必要があるのだろう。疑問を口にするより先にミリアムが言葉を紡いだ。
「何も、出来なくて」
体が強張ったのがハッキリと判った。
カティが奴らに連れて行かれそうになっていた時、みんな必死に抗ってくれた。闘ってくれた。でも叶わなかった、いや敵わなかった。三人共腕に覚えはあった。こんな小さな街だけど、かつて最前線の戦地で闘い抜いたお師匠様から手解きを受け年齢と性別にそぐわない力を身に付けて来た。井の中の蛙と言われたらそれまでだけど、それでもそれ相応の自信と実力は間違いなく備えていた。実際これまで負け知らずだったしイリナも先一昨日に襲って来た兵隊を何人か軽く一蹴している。武術や剣術を多少かじった程度の人間なら軽くあしらう程度の実力がどの程度のものなのか、ハッキリとした事はカティには判らない。 でも、絶対に一朝一夕で身に付くも
のではない。普通の人なら抜き身の刃を突きつけられただけで脚が竦む。それに物怖じせず相対する度胸と打ち負かすだけの実力が三人にはあった。
それを以てしても全く歯が立たなかった、相手にすらならなかった。目の前で家族が痛めつけられる様をまざまざと見せつけられた。それも悪夢に等しい出来事だったけど、家族を助ける事も出来ず無残に返り討ちにされる気持ちが全く想像出来なかった。そしてその絶望の大きさを知った。正反対の立場にいる誰かの気持ちをその場ですんなり想像出来たら、人と人の関わりももっと円滑に進むのかも知れない。でもまだそこまで器用ではない。自分の事で精一杯だった。
ミリアムが腕に更に力を込めて抱き締めた。一瞬で抱き竦められた。胸が締め付けられて上手く言葉が出ない。代わりに涙が溢れた。
「ごめんね……!」
手の届く距離にいながら助けられなかった事を心の底から悔やみ、そんな自分を責めていた。だからここまで必死に謝っているのだ。
「そんな、そんな事言わなくていいよ」
誰もミリアムを、アリスやイリナを責める人なんかいない。みんな必死に、何より懸命にカティを守ろうとしてくれた。ただ相手が悪かっただけだ。むしろ詫びなければならないのはカティの方だった。
「ごめんなさい……!」
あの時、カティが奴らに捕まっていなければ、ひょっとしたら誰もあんな大きな怪我は負わずに済んだのかも知れない。或いは最初から奴らの要求に従っていれば誰も傷つかずに済んでいた、そんな想像すら一瞬脳裡を掠めた。
今はこうして互いに抱き締める事が出来る。指と指を絡ませ、温もりを、息遣いを肌で感じられる。それだけで心が震えた。当たり前に過ごす日常が、その中に転がっているものがどれほど得難いものなのか、この身を以て知った。だから、もう絶対に手放したくなかった。誰かがいなくなるなんて絶対に考えたくなかった。そう、決して。
ミリアムは震える腕でいつまでもカティを抱いていた。顔を、頭を、背中や肩を強く掴んで抱き締めた。そうやって感触を確かめないと不安で堪らなくなるのだろう。それだけ心が不安定だったのだ、考えなくても判る。なくす事がどれほど恐ろしいか、それを骨身に沁みて知ったのだ。だから取り戻した事にこれだけ心を震わせている。それはカティも同じだった。
「ミリー姉、お願いだからもう謝らないで」
姉の頬を伝う雫を指で掬う。ここにいてくれるだけで充分だった。
ミリアムが顔を上げた。母親に抱きついて泣きじゃくる子供と何ら変わらない表情でカティを見ている。あんなに芯が強くて凛としているいつもの佇まいなど欠片もない。そんな姉に抱かれている事が、こうしてまた会えた事が堪らなく嬉しかった。その温もりに身を委ねたまま目を閉じた。
「お腹、空いてない?」
泣きながら、或いは笑いながらミリアムは軽く首を傾げた。
言われて初めて思い出した。一昨日の夜にカビだらけの地下牢で到底食料とすら言えない残飯を食べてから食べ物を口にしていない。目が覚めてからもみんなの事で頭がいっぱいで完全に忘れていた、それどころではなかった。遅れ馳せながら空腹も目を覚ましたのか、笑いを誘うような低い音がお腹から聞こえた。すぐ後ろにいたアリスが弾けたように笑い声を上げる。父も母も、勿論ミリアムも笑っていた。
「そうだろうと思ってついさっきまで支度してたんだけど、あなたの事が気掛かりで手に付かなくなっちゃって、そしたらイリナに行っておいでって言われたから」
「ねえ」
両手でミリアムの肩を握り締めていた。まだだ。心の中を安らぎで満たすにはあと一つ欠けているなものがある。
「イリナ姉も元気なんだよね、大丈夫なんだよね?」
両肩を串刺しにされて大量の血液を失い、体は斜めに切り裂かれていた。完全に血の気の失せた両目を虚空に漂わせながら涙を流していた。それが最後に見たイリナの姿だった。とても生きているようには見えなかった。真っ黒な絶望で胸が覆い尽くされた。
だから叫んだ。助かって欲しかったから、またみんなに会いたかったから、抱き締めたかったから、あの瞬間絶望の中にあった僅かな光明に全力で縋った。彼なら、ウォッカならみんなを助ける事が出来るかも知れない、いや絶対に救ってくれる。そう信じて叫んだ。どれだけ酷い目に遭っても、どんなに痛めつけられてもみんなが無事でいてくれる事を信じて疑わなかった。だから今こうしてみんなに再会出来た。力一杯抱き締める事が出来た。それを自分自身の目で確かめるまでは本当の安らぎは得られない。
「みんな大丈夫だよ」
父が左の掌を頭に載せる。指が二本欠けているのに五本揃っている右手よりも遥かに温かく感じた。
「さっきも言ったろ?」
間違いなく耳にしている言葉だった。誰一人として欠けてはいない、みんなここにいる、と。
体が勝手に動いていた。気持ちが抑えられなかった。無事ならば、生きているならばすぐにでも会いたかった。思い切り抱き締めたかった。なくしかけた欠片を取り戻したかった。
一気に階段を駆け降りた。寝坊して遅刻しそうだった時でもここまで急ぐ事はなかった。心臓がかつてないくらいに早鐘を打っているのに息苦しさは微塵も感じなかった。そんな感覚自体が既に煩わしかった。
会いたい、一秒でも、一刻も早く。
一階に着くと廊下から厨房に飛び込んだ。間仕切りの前の台にまな板を置いていた人影がこちらを振り向いた。
波打った栗色の髪が頬にかかりそうになっていた。包丁を置いた手でそれを鋤くと口元が穏やかに綻んだ。
「おはよ」
イリナはいつもみたいに何処か素っ気なく、でも馬鹿みたいに清々しく笑った。
生きてたんだ、間に合ったんだ。
溢れた涙が頬を伝った。それを拭う事もなく憑かれたように呆然と前を見る。
絶対に間に合う、そう信じていたけどもし万が一それが叶わなかったら。そんな気持ちも、いや恐怖も確かに心の中にあった。考えただけで体の芯から竦み上がった。身近にいる大切な誰かに二度と会えなくなる、そんな事は絶対に耐えられなかった。だから全力で否定した。生きてここに帰る、そしてみんなの手を握る。黒く塗り潰された絶望の中にいてもそれがあるから前を向けた、立ち上がる事が出来た。
そして、本当の意味でようやく自分の足で立てた。もう何も怖くない。
無意識に、勝手に体が動いていた。足に力が入っているのか、それすら判らなかった。気付いたらすぐ目の前にイリナがいた。窓から差し込んでいる朝日を受けて目尻が僅かに光っている。
「お帰り」
イリナが頬を撫でた。ダメだ、もう前が見えない。
抱き締めた。そして抱き締められた。涙と一緒に声が漏れる。何を言っているのか自分でも判らなかった。言葉と言う明確な形は持たない。胸の内に抑えていた感情が堰を切って一気に溢れ出した。
生きてここに帰って来られた。こうして触れ、声を聞き、抱き締める事が出来る。こんなに嬉しい事はない。
「カティ」
見上げるとイリナの泣き顔が目の前にあった。ミリアムにしてもそうだけど、イリナの泣いた顔などもう何年も見た記憶がない。いつでも強くて逞しくて、そして優しかった。誰の前であっても涙など見せなかった。そんなイリナが、しゃくりあげ上げ、声を詰まらせ、大粒の涙を流して泣いていた。
目が合った拍子にイリナが笑った。丸みを帯びた頬の上を涙の粒が滑り落ちていく。
「良かった」
両腕で体を包み込まれた。頬と頬かくっつく。垂れたイリナの揉み上げが頬を撫でる。くすぐったかった。
無意識に鼻から思い切り息を吸い込んでいた。何だか無償に懐かしい香りがした。
「私も」
イリナの首に両腕を巻き付けた。大切な誰かに全てを委ねる事がこんなにも心地いいなんて。こんな風にイリナに甘えるのは一体いつ以来だろう。
目を閉じる。温かかった。誰から聞いたのかはもう覚えていないけど、やっぱり人肌の温もりは格別だった。体の芯に火が灯ったように温かさが全身に拡散していく。母親に抱かれる赤ん坊はきっとこんな気持ちなのかも知れない。温もりに身を任せ、安らぎの中を漂う。こんなに心地いい事は恐らく他にない。ついさっき目を覚ましたばかりなのに今にも眠りに就きそうなくらいに心が安らいでいた。
なくしたものは一つもない。そしてなくしかけていたものも全て取り戻した。もう怖れるものなんて何もない。
頭の上にイリナの掌が載った。丁寧に、何より優しく撫でた。いつものように鷲掴みにして揉みくちゃにするような事はしない。
「ありがと」
イリナは頬を掌で包み込むと反対側に頬をくっつける。頬は濡れているけど温かい事に変わりはなかった。
どうしてイリナが礼を言う必要があるのだろう。それが咄嗟に判らなかった。
頬を撫でながら本当に優しく微笑んだ。それが一瞬にして苦悶するように歪む。
「あなたがアイツにここに戻るように言ってくれなかったら、今こうして会えなかった」
頬を伝った雫がカティの指に落ちた。
「辛かったでしょう?」
再び堰を切ったように溢れた涙がイリナの頬を濡らす。それを堪える事もなくカティを両腕で力強く抱き締めた。
「ごめんね……!」
誰よりも強くて、真っ直ぐに伸ばした背中で妹達を引っ張っていた姉が子供のように声を上げ、肩を震わせて泣いている。いつも厳しくて何より優しい姉だった。そこからは想像もつかない表情で涙を流している。
知っているのだ。あの時、ウォッカがカティとイリナを、みんなを同時に助ける事は出来なかった。素人目にもイリナが死の危機に瀕していた事は明らかだった。全く動かなかったし息をしているようにも見えなかった。一刻の猶予もなかった。だから止めた。助けるべきはカティではなくイリナ達だ。こうして涙を流して抱き締めてくれている。それが間に合ってくれた何よりの証だった。
奴らの手に落ちて何があったか、どんな目に遭わされたのか、勿論詳細には判らないだろう。でも、殺されかけた事は紛れもない事実だ。その前には散々殴られ、蹴られ、そして辱しめられた。
それでもこうして会える事が、互いに抱き締める事が出来た。だからそれで充分だった。謝る事も、責任を感じる必要もない。
「お願い」
イリナの頬に手を当てた。姉が涙で埋め尽くされた目で妹を見る。カティは首を横に振った。
「泣かないで」
もう誰にも泣いて欲しくなかった、涙を見たくなかった。笑っていてくれたらそれでいい。それ以上望むものなんて何もない。
頷いた拍子にイリナの目尻から涙が零れ落ちた。笑おうとして泣いているのか涙を堪えているのか判らない。でも頬がさっきよりいくらか綻んでいる。それだけで嬉しかった。
廊下の方から足音が近付いて来た。四人が厨房の入口からこちらを見て笑っている。アリスは堪え切れなくなったように駆け出すとカティの背中に抱きついた。ミリアムは妹二人の肩に手をかけた。間に体を挟み込むと二人の妹に頬と頬を交互にくっつける。イリナは労を労うように次女の手を拳で軽く叩いた。父と母は娘を二人ずつ両腕で抱いた。感触を、存在を確かめるように何度も揺すっている。
みんな泣いていた。いや、泣きながら笑っていた。家族みんなで涙を流す日が来るなんてこれまで考えた事もなかった。でもこんなに清々しく、そして嬉しい気持ちで涙を見せる事は今後二度とない。それだけは確かだった。家族が傍にいて笑ってくれている、みんなの温もりに包まれている。なんて幸せなんだろう。
みんな、みんな大好き。
声を大にして、そう叫びたかった。




