六日目 その参
体中が重い。水をたっぷり含んだ砂袋をいくつも飲み込んだような気分だった。右半身の感覚がない。痺れているのか神経が通っていないのか、何れにしても歓迎すべきものではない。
瞼を開けたのか、それとも勝手に開いたのか。気付いた時には見覚えのある天井が目の前に広がっていた。どうして部屋で横になっているのか、咄嗟には思い出せなかった。モヤのかかった頭を無理矢理働かせて記憶を整理する。
カティが吊るされる。ヨハンからそう聞かされた直後に失神した母を寝室に運んだ。その後、少しだけ涙を流すと階下から足音が聞こえて来た。店に我が物顔で侵入して来た馬鹿共を一人を除いてぶちのめしてからはカウンターに突っ伏したままみんなの帰りを待っていた。
いつ、何処で意識が途切れたのか。
みんなが戻るまでどれくらいの時間が流れたのか、今まで生きて来た中で最も長く感じた事は確かだった。今にも音を立てて割れそうな氷の上を歩くような、息が詰まりそうになる緊張感から解放されたのはみんなが戻って来てからだった。
事なきを得た訳ではない。でも命は繋がった。それを知った瞬間、張り詰めていた全身から力が抜けた。そこから先の記憶がない。
生きている事は間違いない。怪我はないのか、あるならば程度は。でも余程の重傷でもない限り問題ないハズだ。棺桶に体が半分以上入っていたとしてもアイツなら絶対に引き戻してくれる。
アイツの腕に抱えられていたカティには意識がなかった。それが戻っているのか。
寝起きの頭で考えるにしては些か量が多すぎる。それに自分の頭の中だけで完結も解決もしない。情報が限られている以上、必ず何処かで行き詰まる事は目に見えている。
溜め息が出た。眠っていた間の出来事はみんなに聞くしかない。少なくともイリナよりはまともな情報を持っているハズだ。
目が覚めた時から感じている事だけど、体の右側に感覚がない。まるで切り取られたように痛みも痺れも感じない。一昨日の怪我の後遺症、とは絶対に考えたくなかったし考えられなかった。後に残るような傷を負っていたとしたら昨日奴らを蹴散らすような真似は出来なかった。だとすると、体に想像以上の負荷がかかっていたのか。全く考えられない話ではない。何故あれほどまでに動けたのか、そして見えたのか。奴らの動きは全て止まって見えた。突きにしても蹴りにしても外れるとは思えなかった。実際全て命中させていたし入った箇所も急所が大半を占めていた。防御した記憶もない。防ぐまでもなく、動きを見てからでも何ら問題なく回避出来た。そしてそれを思い返せるだけの冷静さがある。
その反動が来ているとしたら。
動けなくなっていたとしても不思議ではない、気がした。昨日は重さも何も感じなかった。今は右腕を上げる事も出来ない。この落差は一体何なのだろうか。
寝起きの回らない頭を手っ取り早く回すならまず体を動かす。ほぼ毎朝している事だ。昨日は出来なかった。そんな日は一日だけでいい。左手ならば感覚がある。力を込めると横たえていた体をゆっくり動かした。
不意に胸の辺りで何かが動いた。毛布の上から落ちそうになったそれを無意識に体が支えていた。丸っこいものにから無数の糸状のものがが伸びていた。糸ではない、人の頭だ。頭だけでなくほぼ体全体がイリナの右半身に覆い被さっている。完全に脱力した状態でのし掛かられたせいで圧迫された体が麻痺を通り越してすっかり感覚を無くしていた。
取り敢えず、少しだけ安心した。
首を傾けて胸から落ちそうになっている顔を覗き込む。ミリアムだった。まだ眠っている。でも、とても安らかな寝顔とは言い難いものがあった。苦悶するように眉を寄せると唇から湿った吐息が漏れた。悪夢にうなされているような横顔だった。どうしてこんな顔をしているのだろう。そもそもどうしてここにいるのだろう。深く考えるのは止そう。朽ちかけた木が倒れまいと懸命に枝を伸ばそうとするように気持ちが折れそうになっている今に、身近にいる誰かがこうして傍にいてくれる。それだけで充分過ぎるくらいに有り難かった。
妹の頭をそっと撫でた。一瞬硬く目を瞑るとゆっくり瞼が開いた。意識そのものはまだ覚醒していないのか、しばらく呆然と視線を宙に泳がせる。
「おはよ」
ようやく焦点を結んだ目から雫が一筋頬を伝った。何故涙を流すのか、首を傾げる暇もなかった。ミリアムに両腕で抱き締められていた。腕や背中だけでなく、息も沸き上がる何かを懸命に堪えるように震えている。しゃくり上げる妹の頭に手を置いた。何に対しても物怖じせず常に毅然と、そして気丈に振る舞っていたミリアムがこんな風に感情を露にする事は滅多になかった。精神的に相当疲弊している。傷も疲れもまだ癒えていない。それはイリナも変わらなかった。心が弱っている。こうして誰かと肌を合わせるだけで、触れ合うだけで気持ちが安らぐ。人肌の温もりは本当に心を温めてくれる。
「どうしたの?」
ミリアムは胸に埋めていた顔を上げた。涙でクシャクシャになっていてもやっぱり可愛かった。それを惜し気もなく晒している。
「ごめんなさい……」
涙が伝う頬を両手で覆った。どうしてこの子が謝らなければならないのか、それが判らない。むしろそうしなければならないのはイリナの方だ。昨日の昼にぶっ倒れてようやく目が覚めたのだ、さぞかし心配をかけた事だろう。
「何であなたが謝るのか判らないわ」
無理に気持ちを取り繕う必要はない。素直でいられるならそれに越した事はない。
「昔から、ずっとイリナに甘えてたから……」
「甘えてた?」
思いがけない言葉だった。
今も昔も何か特別な事をして来た記憶はない。家事を片付け、家業を手伝い、妹の面倒を見る。その過程で頼られる事はあったかも知れないけど甘やかしたような覚えは絶対にない。自分ですべき事は自分で片付ける、そうしないと本人のためにもならない。甘ったれと根性なしは昔から嫌いだった。
誰かに教えるにはまず自分が出来なければならない。覚えるためにはやってみるしかない。いきなり上手くいった試しなど殆どなかった。それでも投げ出すような事は一度もしなかった。下手にそんな事をしたら下の三人に示しがつかない。人には誰しも求められている役割がある。最低限それは理解しているつもりだ。それに応えているだけだった。
「どうして、あなたは私に甘えてたと思うの?」
こんな神妙な顔で泣かれる程甘やかしたようは記憶は更々ない。互いの認識にズレがあるのか。噛み合っていない可能性は否定出来ない。
「イリナ、今までどれだけ大変でもどれだけ辛くてもそんな素振りなんかちっとも見せなかったでしょ?」
思う事とそれを言葉に変える事は全く違う。表情や態度に出すなど言うに及ばずだ。だからいつも笑うようにしていた。大変でもキツくても多少の事ならすぐに消し飛ぶ。辛い気持ちに身を任せたらあっという間にダメになる。だから笑う、故に笑う。それ以外考えなかった。それ以上も考えなかった。
それに。
妹の両目から涙の粒が膨らんだ。
「そんな顔しないの」
掌を頭に置いた。撫でた拍子に涙が頬を伝った。そのまま両腕で抱き締める。
迂闊に涙なんか流せない。みんなを不安にさせるような真似は出来なかった。少なくとも妹達の前では強い姉でなくてはならない。いつしかそんな風に考えるようになっていた。
「気にしないで」
私が決めた事だから。別に後悔も何もない。
確かに疲れる事もある。そういう時は少し休めばいい。
「ずっと、傍にいてくれたんでしょ?」
肩に宛がわれていた顎がゆっくり上下した。
「それだけで充分よ」
こうして誰かが傍にいてくれる。こんなに嬉しい事はない。これ以上、一体何を望むと言うのだろう。
「イリナは、誰かに縋りたくなる事はないの?」
「そりゃあるわよ」
アッサリ認めるとミリアムは意表を突かれたように目を丸くした。気不味そうに顔を背ける。どうしてそんな顔をするのだろう。
「そういう時は、どうするの?」
「こうする」
ミリアムの体に巻き付けた両腕に力を込めた。頬と頬をぴったりとくっつける。肺から息が吐き出されると同時に体中から力が抜けた。
人肌に触れるだけで、抱き締めるだけでどうしてこんなに気持ちが安らぐのだろう。でも不思議とは思わなかった。人は誰かとの関わりを、触れ合いを常に、そして無意識に求めている。その顕れなのかも知れない。
「だからもう大丈夫」
精一杯笑った。笑わない理由なんか何処にもない。
泣いていたミリアムも笑った。まだ頬に涙の跡が残っているけど目には辛さの名残もない。
「行きましょう」
いつまでも油を売っている訳にはいかない。朝は一日の中で一番慌ただしい時間だ。それに、気になる事も沢山ある。
「カティの意識は?」
眉を潜めるとミリアムは首を左右に振った。
「怪我は、もうないのよね?」
「それは大丈夫。彼が、全部治してくれたから」
全身から力が抜ける。命が助かっただけでも有り難いのに既に傷まで癒えている。どの程度の怪我だったのかは判らない。でも一日二日で跡形もなく消えるような事は絶対に有り得ない。
「待つしかないか」
ずっと眠り続けるような事はないハズだ。脳に深刻な痛手を被っていなければ。意識を無くしたのが吊るされた瞬間だとしたら、昏睡していた時間はイリナと大して変わらない事になる。飽くまでもうじき目を覚ますと仮定した場合の話だけど。
「もうじき起きるわよ」
お腹が音を立てて鳴った。頬がさっきとはまた違った意味で熱くなる。ある意味おならよりも恥ずかしい。
「そうね」
ミリアムはお腹を両手で抱えている。目尻が光っているけどそれもさっきとは意味合いが異なる。
跳ね除けた毛布を整えると部屋から出た。その足で真っ直ぐカティの部屋へ向かう。
扉を叩いても反応はない。でも人がいる事は間違いない。物音はしなくても気配は感じる。この分だとまだ意識は戻っていない。或いは意識を取り戻してから部屋を後にしたのか。ここであれこれ考えていても埒があかない。取っ手を捻ると扉を引いた。
ベッドに人が二人横たわっていた。一人は仰向けに、もう一人はうつ伏せている。二人共死んだように動かない。
「どう?」
背後からミリアムが心配そうに顔を覗かせた。
胸やお腹が微かに、でもハッキリと規則的に上下しているし、頬にも赤みが差している。見た目の印象としては昏睡と言うより熟睡に近い。
「よく眠ってるわ」
カティの頬に触れる。ホンノリと温かい。心が芯から安らぐ温かさだった。
昏々と眠っているカティの上にアリスが覆い被さるようにして倒れていた。片時も傍を離れたくない、そんな意思を感じさせるには充分だった。
短くなった妹の髪を撫でながらミリアムが苦笑いしている。
「この子、カティの事が心配で堪らなかったのね」
「そうね」
やっぱり姉妹だ。考えている事もやっている事も変わらない。血を分けた家族の回復を心底願っている。
「もうじき目を覚ますと思う」
「どうして?」
首を傾げる妹に、イリナはお腹を右腕で抱えて体を丸めた。
「こっちが空っぽになったら嫌でも目を覚ますわよ」
イリナ自身、何故目が覚めたのかよく判らない。体力が戻ったからなのか、単に空腹を覚えたからか。何れにしても眠り続ける理由がなくなったから意識を取り戻したであろう事は容易に想像がつく。
ならばこの子も、きっと目を覚ましてくれるハズだ。
改めて末妹の頬に掌を当てる。温かかった。胸元がゆっくりと上下している。生きている事は間違いない。これが、これが夢であるハズがない。間に合ってくれたんだ。
膝を突いていた。妹の右手を包み込んだ両手を額に当てる。胸が、息が震えていた。誰かを失う事になるかも知れない、それがこんなに苦しいなんて。こうしてまた会える事がこんなに嬉しいなんて。
雫が頬を伝った。こんなに清々しい気持ちで涙を流したのは生まれて初めてだった。手の届く距離に家族がいる、その手をいつでもこうして握る事が出来る。これ以上望むもなんて何もない。
気付くとベッドの向かい側でミリアムも同じようにしてカティの手を両手で握っていた。頬に掌を押しつけたまま涙ぐんでいる。やっぱり姉妹だ、やる事も考える事も全く変わらない。目が合うと嬉しそうに、でも何処か照れ臭そうに笑った。
解いた左手を眠りこけるアリスの頭に置いた。見る影もないくらいに短くなった髪をそっと撫でる。人の倍を優に越える髪が指に絡んだ。
「この子も、どんな気持ちで一晩過ごしたのかしらね」
「あなたと変わらないでしょ」
アリスには唯一の妹だ。小さい頃から何処に行くにもいつも一緒だった。姉は妹をこれでもかとばかりに可愛がり、妹もそんな姉を慕った。目が覚めたら真っ先に抱き締めたいに違いない、だからこうしてずっと傍にいるのだ。そんな妹も、また可愛かった。
「昨日は本当に大変だったわね」
そんな有り触れた言葉で済まされる程簡単ではない。目まぐるしいと言うより凄まじい一日だった。
「何言ってるのよ、私達の中で一番大変だったのはイリナじゃない。帰った時は何が起きたのかと思ったわよ」
自分で言っておきながら咄嗟にピンと来なかった。頭を掻いて記憶を整理する。すぐ隣から溜め息が聞こえた。
「家の前で兵士が六人も綺麗に伸びてるんだもん」
その上剣まで差してるし。ミリアムは呆れるようにして頭を抱えている。
「あれ、全部イリナがやったんでしょ?」
「勿論」
今度はベッドに突っ伏した。乱れた髪を指で鋤きながらミリアムは顔をしかめた。
「アッサリ肯定しないでよ。普通だったらその場で殺されてるところなのに素手で全員返り討ちにするなんて絶対に考えられないわ」
そうなのかも知れない。何処にでもいるような女の子だったら満足に抵抗も出来ずに殺されるか、良くても輪姦されるかしていたところだろう。こんなに穏やかな気持ちで朝を迎える事はまず出来なかった、と思う。
気分は漬物石を抱えたまま井戸に飛び込んだように沈んでいたのに体は馬鹿みたいに軽かった。それこそ渇いた綿のように何の重さも感じなかった。
「人様の家に無断で侵入した馬鹿共に最低限の報いを与えてやっただけよ」
「あれの何処が最低限なのよ」
どいつもこいつも骨折程度の怪我は負わせている。脆い骨を砕いてやっただけだ、何の造作もない。やられた方は堪ったものではないだろうが。
「おまけに無傷だし」
「遅すぎて蝿が止まるわよ」
動いていた事は間違いない。だがイリナには止まって見えた。否、止まっているも同然だった。当たる道理がない。
「その後の方が大変だったわ」
「どうして?」
侵入者を一人残らず一蹴した直後で一体何が大変なのか、と言ったところだろうか。疑問が沸くのも無理のない話かも知れない。
「あんなに時間を長く感じたのは初めてよ」
時間が動いているのか、それとも止まっているのか。それすら判らなかった。永遠と錯覚するような時間の中でいつ戻ってくるかも判らない家族を待ち続けていた。
「そう言えば、父さんやヨハンとは何処で会ったの?」
そもそもお昼頃ならはまだ学校だったハズだ。いつ抜け出して来たのか。
「イリナほどではないけど、こっちも大変だったんだから」
ねえ? 同意を促すようにアリスの頭を撫でる。
「まさかヨハンと一緒に帰って来るとは思わなかったわ」
ヨハンの名前を出した途端、熟れたリンゴのように顔が真っ赤になった。普段の凛として落ち着いた佇まいなど今は欠片もない。
「先生に知らされて、アリスと二人ですぐに学校を飛び出したの。そのまま一直線に広場に向かってたら、奴らが馬車を足止めしてて、その荷台に」
ヨハンがいた、と。大した偶然だけど全く有り得ない話ではないように思えた。むしろ目的を共有している者同士が出会ったのだとしたら必然と考えた方がいいのかも知れない。
「イチャイチャしてた訳じゃないんでしょ?」
「言ったじゃない、大変だったって」
「何がどう大変だったのよ」
からかうように笑うとミリアムは頬を赤らめたまま顔を背けた。
「馬車が足止めされてた時、父さんにだけ先に行ってもらったの。で、邪魔して来た奴らを私達三人で、」
ミリアムは握り込んだ拳を前に突き出した。仕草が女の子のそれではない。もっとも事これに関してはイリナも人の事は言えないけど。
「相手は何人いたの?」
「六人」
「あなた達も素手だったんでしょ、大したもんじゃない」
「嫌味にしか聞こえないわ」
そうかも知れない。素手で帯刀した人間を相手にする事が既に普通ではないのだ。
「アリスだけじゃなくてあいつもいたんだから、さぞ心強かったんじゃない?」
茶化したつもりはない。抜き身の刃を突きつけられたら普通は竦み上がるところだけど、こちらも幼い頃から武術を嗜んでいる。体を鍛える鍛練としての意味合いもあるけど腕も決して伊達ではない。
元々朱に染まっていたミリアムの頬が更に赤みをました。耳の先まで真っ赤になっている。
「本当にお疲れ様」
「イリナもね」
拗ねたように唇を窄めたままそっぽを向いている妹の頭を撫でる。何だかんだ言ってもやっぱり可愛い。
「それと、母さんは大丈夫?」
ミリアムは目を伏せたまま首を横に振った。
「行きましょう」
まだ後ろ髪を引かれるものがある。でももうじき目を覚ましてくれる、そう思えるだけのものを感じさせる温かさがカティにはあった。目が開いたら真っ先に抱き締めてあげたいけどそれはアリスに譲る事にしよう。
部屋を出た。すぐ後にミリアムが続く。
父と母の寝室の扉を引いた。
横たわる母の上に父が覆い被さるように倒れていた。右手で母の手首を堅く握り締めている。
「やっぱり、私達って親子だね」
ミリアムが綻んだ口元を握り拳で隠しながら言った。
「ちょっと違うと思うな」
虚を突かれたように目を丸めた妹に笑いかける。
「家族よ」
誰一人として欠ける事はあってはならない。六人全員が揃って初めて一つの家族だ。こうしてまたみんなと繋がる事が出来た。体の芯から不思議な温もりが波のように拡がっていく。頬に触れた指先が温かかった。
「そうね」
垂れていた左手を握り締めるとミリアムはそれを頬に押し当てる。
「家族ね」
指に触れた雫が温かかった。みんな孤独を恐れている。そして触れ合いと温もりを求めている。
こうしてみんなが一つになれた事が奇跡のように思えてならなかった。でも、つい一昨日までは当たり前にそれがあったのだ。失われそうになった日常が今は手の中にある。その感触を、温もりを懸命に確かめていた。
ミリアムは肌蹴ていた毛布を父の体にかけた。昏々と眠る両親を見詰めている。母の手首を握る手に指を絡ませた。
「みんな、心配で堪らなかったんだね」
「そりゃそうよ」
誰しもなくす事は怖い。恐れるが故に手元にいる誰かの手を懸命に掴む。もう何も、そして誰も失いたくない。
常に肩を並べて仕事をしていた。よく話もするし、夫婦漫才する事も珍しくない。険悪になる事はあっても父が勝手に勘違いしているだけの場合がほとんど出し、母もそれを判っているから笑いながら受け流すだけだ。大抵翌日にはケロッととしている。仲睦まじく手を握るったり愛を囁いたりする事もしない。でも仲が悪いと思った事は一度もない。今もこうしてしっかりと手を握り締めている。
全く、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいのおしどり夫婦だ。目には見えない、でも二人の間には確かな絆があった。イリナにも将来一緒になりたい相手はいる。それが叶うかどうかは判らないけどそんな人とこんな風になれたら、そんな気持ちも心の何処かにある。恥ずかしくてとても口には出来ないけど。
「昨日と比べると随分顔色も良くなってる」
妹は母の額に手を添えた。緊張で少し張り詰めていたいた頬から力が抜けている。ならば体が戻れば何れ目を覚ます。イリナがそうであったように。
でも、昨日の正午前から翌日の夜明け過ぎまで倒れていたとすると、ほぼ丸一日近く意識を失っていた事になる。流石に昨日よりかはいくらか体力は回復しているだろうけど、精神的にも肉体的にもそれだけ激しく疲弊している何よりの証拠だった。
「多分、母さんが一番堪えていたハズよ」
妹は下唇に前歯を突き立てると顔を背けた。
奴らに襲われた時の事を、殴られた瞬間を母が何処まで覚えているかは判らない。でも目が覚めた後は生きた心地もしなかったハズだ。夫と娘の三人は命に関わるくらいの重傷を負い、末の娘は無理矢理拉致された。訳も判らないうちに混乱の坩堝に叩き落とされたのだ、母にとっては悪夢か地獄か、少なくともまともとは言い難い時間を過ごす事を余儀無くされた事は想像に難くない。誰に支えられる事も、寄りかかる事も出来ずひたすら絶望に抗いながらみんなの背中を叩いていた。
無意識に拳を握り締めていた。
ごめんなさい。それしか頭に浮かばなかった。
不意に立て付けが悪くなった戸が軋むような音を上げてお腹が鳴った。すぐ隣ではミリアムがお腹を抱えたまま笑い出そうとするのを必死に堪えている。素直に笑えばいいのに。火照った頬を掌で扇いだ。
「朝御飯、作ろっか」
「そうね。お腹と背中がくっつきそうよ」
素直に認めた。お腹を擦って空腹を遣り過ごす。
「そんなに腹ペコなの?」
「昨日だって朝に少し食べただけでその後は何も食べてないんだから」
カティの、みんなの帰りを待っている間に用意が出来ていた食事を取る事も出来た。でもとてもそんな気持ちにはなれなかった。お皿に盛ったとしても喉を通らなかったに違いない。
でも今は違う。体の求めに応じるだけの仕度が整っている。それに感謝するように前を向いた。
部屋を出た。ぶら下がっていた手をミリアムが握った。少し照れ臭そうに、でも凄く嬉しそうな顔でイリナを見て笑っている。細くしなやかな指に自分の指を絡ませた。子供の頃に戻ったようだった。
「たまに思う事があるの」
軽やかな足取りで階段を降りながらミリアムが言った。
「思う事って、何を?」
ミリアムは困ったように、或いはもどかしそうに口元を少しだけ歪めた。気持ちが言葉にならないのだろう。
「イリナにしてもそうだけど、アリスもカティも、昔からずっと一緒だったような、そんな気がする事があるんだ」
「昔からずっと一緒って、この家で生まれ育ったんだから当たり前じゃない」
「違うの。そうじゃなくて、生まれる前からみんなと一緒に過ごしてたように思えるのよ」
「生まれる前から?」
ぎこちなく頷く妹にどんな顔を向けていたのか判らない。でも、心の何処かにあった隙間に何気なく発したであろう妹の言葉がピッタリ嵌まった。
「案外そうかも知れないわね」
指を解くと目を丸くしている妹の頬に触れる。
「私もよ」
ミリアムだけではない。アリスもカティもずっと昔から一緒にいたような、そんな錯覚に陥る事がある。妹達と過ごしていると時折酷く懐かしい気持ちになる。今までだけでなくその前から同じ時間を共に過ごしていた。そんな風に考える事に違和感を覚えなかった。
それも随分おかしな話だ。そうだとしたら生まれる前から、いや父と母の子として生を受ける以前にから一緒だった事になる。勿論そんな事などある訳がない。でもそれを理解しているが故に不可解だった。
どうして、こんな有り得るハズのない感覚を自然に受け容れられるのだろう。何故それを妹と共有しているのだろう。
でも、大切なのはそんな事ではない。
血を分けた家族と、こうして一つ屋根の下で一緒に過ごす事が出来る。誰もが必ず経験する有り触れた日常の一つに過ぎない。そしてそれがどれだけ得難いものなのか、それがようやく判った気がした。
階段を降りると厨房に入る。台の上や流しにまな板や食器が置かれたままになっていた。いつもなら使い終わった段階で全て洗って片付けるけど、隣で気不味そうに唇を歪めている妹の表情を見る限りでは昨夜はそれが叶わなかったと言う事なのだろう。大変だったのは誰しも変わらない。誰かが疲れている時は絶対に誰かが支えてくれている。家族って、そういうものだと思う。
「やりましょう」
たらいに張っていた水で布巾を洗う。
隣で食器を洗っている妹と目が合った。頬が、唇が自然と綻んだ。嬉しい気持ちを抑え込む必要なんて何処にもない。家族と一緒にいられる、今はそれだけで充分だった。
不意に猛烈な眩しさを感じた。反射的に目を瞑った瞬間、意識が現実に引き戻された。
手が何かに繋がっていた。いや、そうではない。ダン自身が掴んでいた。隣で眠る妻の手をしっからと握り締めている。全くの無意識だった。確かに昨夜眠りに就く前にはこうして手を握っていた。だが眠ってしまえば、意識がなくなれば力も抜けるハズだろうにどうしてそうならなかったのだろう。
腕で上半身を支えて体を起こした。
窓から日差しが差し込んでいる。それなりに強くはあるがまだ高くはない。世が明けてからまだそれほど時間は経っていない。
昨日もまた随分と目まぐるしい一日だった。思い出そうとするだけで倒れそうになる。一つだけ確かなのは娘が無事一命を取り留めたと言う事だ。意識は戻ったのか、すぐさまそれが頭に浮かんだが、もし目を覚ましていたとしたらもう少し騒がしくてもいいハズだ。声も物音も聞こえない。耳に入るのは鳥の囀りだけだ。
隣で昏々と眠る妻の額に手を置いた。
これまで死にそうな目には何度かあった。より厳密に言えば殺されそうになった。一昔前はそれが戦地に赴いた者の日常だった。そんな異常な日常から解放されて二十年近く経ったが、昨日は当時を彷彿とさせるような一日だった。
妻の頬に触れた。紙のように白かった昨日とは違い微かに、だが明らかに赤みが差している。体力もいくらかは回復したのだろう。後は目を覚ますのを待つだけだ。
妻の瞼が小刻みに震えた。力が抜けたように見えた瞼がゆっくりと上がった。呆然と宙を漂っていた目が次第に焦点を結んでいく。
「おはよう」
どう声をかけるべきか何秒か真剣に考えたが、結局口から出たのは一番有り触れた言葉だった。語彙云々ではなく今の状況に相応しい言葉が他に見つからなかった、それだけの話だ。
「何処? ここ……?」
体を起こすとしかめた顔を右手で覆った。二日酔いの朝より遥かに陰鬱とした表情だった。胃に酒が入っていなくても頭痛くらいは感じているのかも知れない。
「寝室だよ」
「寝室? どうしてそんな所に……」
そこまで呟いた瞬間、稲妻に打たれたように妻の体が強張った。記憶が蘇ったのだろう。
「ねえあの子は、カティは無事だったの?」
力一杯掴んだ肩を激しく前後に揺すられる。今にも泣き出しそうな表情だった。
「大丈夫」
精一杯笑った。余計な言葉はいらない。
妻の頬を伝う雫を指で払った。
「彼が間に合ってくれた。無事だよ」
「本当?」
「こんな質の悪い嘘なんか吐く訳ないだろ?」
質が悪い上に何の方便にもならない。そして絶対に誰も喜ばない。
倒れかかった妻の体を抱き止める。声を上げて泣く妻の肩を優しく抱いた。 緊張の糸が切れたのか、溜まっていたものを放り出すように泣き声を上げ続ける妻の背中をいつまでも撫でていた。
倒れていた間、意識はなくても心の何処かにはカティの存在はあったのだろう。それを常に気にかけていた。或いは夢に出て来たのかも知れない。最悪の事態は回避出来たのだ、気持ちが緩んだとしても何の不思議もない。
「あの子は今どうしてるの?」
「昨日からずっと眠ってる。かなり衰弱してたからな」
「衰弱って……?」
ダンは慌てて、だがゆっくりと首を横に振った。
「彼が全部治してくれた。だから大丈夫」
傷も疲労も全て彼が癒してくれた。全く以て判らないが全く以て有り難い、そんな力だった。恐らくまだ意識は戻っていない。だがそれもそう遠くはない。もしかしたら、もう次の瞬間には目を開けているかも知れない。
「行きましょう」
涙を拭うと妻は素早くベッドから降りた。居ても立ってもいられないのだろう。気持ちは判る、それこそ痛いくらいに。
「そうだな」
背凭れにかけていた上着を羽織った。
まだ目を覚ましていなかったとしても傍にいたかった、手を握っていたかった。大袈裟なものは何も望まない。ただ傍にいたい、それだけだった。
妻が体当たりするようにしてドアを開けた。後ろも見ずに駆け出していく。その後を小走りで追いかける。
傍にいたかった。そして抱き締めたかった。子供の頃に戻ったように気持ちが逸っている。大人も子供も本質的に求めるものは変わらないのかも知れない。大切な誰かの傍にいたい、そういう気持ちは子供でも充分に判る。子供の頃の気持ちを忘れる事はあっても心の在り方はそのままでいい。
娘の部屋への僅かな距離を全力で走った。傍にいたい、それしか考えられなかった。




