六日目 その弐
何かが頭に当たった。丁度天辺の辺りだ。辛うじてそれは判った。裏を返せばそれ以外の事は何も判らない。
「おい」
今度はそれに声が重なった。聞き覚えのある声だった。
そう言えば昨夜寝る前に工房を片付けるのを忘れた。情報を引き出す事に夢中になり過ぎて完全に頭からすっ飛んでいた。
「すみません親方、すぐ片付けますんで……」
目を擦りながら声が聞こえた方を見る。
酷く痩せた男が腕を組んでこちらを見下ろしていた。違う、親方じゃない。ここまで痩せていないし何より背丈が高過ぎる。髪はボサボサに伸びているし鼻の下も顎もすっかり髭で覆われている。着ている服も泥水の中で泳いだように茶色く、箇所によっては黒く変色していた。元が何色だったかも判らない。
「いつまで寝てんだ、バァカ」
明らかに見覚えのある顔が舌打ちした。
「兄貴……?」
ヨハンには苦笑いしたように見えた。開いた唇の隙間から一際尖った特徴的な八重歯が顔を覗かせる。間違いない。
「兄貴!」
抱きつこうとした瞬間、台の縁に股間を強打した。かわされたのだ。
「朝っぱらから何一人芝居してんだよ」
忙しい奴だな。リーゼルは頭を掻きながらうんざりしたように言った。
「お前みたいな汚ねえ男に抱きつかれて喜ぶ趣味はねえんだ。さっさと起きろ」
股間を押さえながら悶絶する弟に手を貸そうともしない。リーゼルは相変わらず冷めた目で見下ろしながら雪のように肩に降り積もったフケを手で払い落としている。
何とか膝を突いて体を起こす。しゃがんだままうさぎ跳びをするように何度か軽く体を浮かせた。痛みを和らげる方法をこれしか知らない。
台の縁を掴んで何とか立ち上がった。兄の顔を見詰めたまま頬をつねる。痛みはある。目の前には呆れたような顔をして突っ立っている兄がいる。これが夢だとしたら、現実ではなかったとしたら、この先何を信じればいいか判らなくなる。
「取り敢えず、座ってもいいか?」
「好きにしな」
言葉は冷たいが態度には丸みがある。それを表に晒すような素直さなどこの男にはない。両親が死んだ時もそうだった。涙の一滴すら見せなかった。少なくとも弟の前では。
「状況を少し整理したいんだけど」
「そうだな」
すっかり混乱しているヨハンとは対照的にリーゼルは飽くまで淡々としている。どうしてこんなに冷静なのか。
「取り敢えず、夢じゃないんだよな?」
「これが夢だったらこれまで見聞きしたものが全部夢になるな」
現実と言う概念を根底から覆される事になる。だがその可能性は絶対にない。
ちょっと、いや非常に安心した。それこそ床が音を立てて崩れるくらいに。
だがまだ頭がまともに働いていない。捕まっていたハズのリーゼルがどうしてここにいるのか。そもそもどうやって牢屋から出たのか。
「で、そいつは?」
「そいつ?」
顎をしゃくった先を見ると昨日取っ捕まえた兵隊が台に縛り付けられたまま寝息を立てていた。器用な奴だ。
「昨日引っ捕らえて砦の中の状況を聞き出したんだ」
「そりゃご苦労だったな。後で砦の牢にぶち込んでやれ。今朝まで俺らがいたんだからさぞかし居心地もいいだろ」
腕を組んだまま台に寄り掛かるとリーゼルは楽しそうに笑った。
「って、どうして兄貴がここにいるんだよ! 今朝まで牢にいたって、どうやって脱出したんだ?」
やっぱりまだ相当混乱している。リーゼルが戻って来た事は紛れもない事実だがそれが現実に成り得た過程が全く見えない。
「今朝、本当についさっきだよ。誰かが上から降りてきたと思ったら牢屋の鍵を開けてくれて、全員無事に解放された、と」
「誰かって誰だよ?」
「俺が聞きたいくらいさ。山みたいな大男だよ。体格も並みじゃなかった。完全に気絶してる大人の男を二人肩に担げるくらいだからな」
山のような大男で馬鹿みたいな怪力の持ち主、思い当たるのは一人しかいない。
「そいつ、どんな顔だった?」
「鍔のある帽子を目深に被ってたから顔は見えなかった。だが恐らく、いや間違いなく街の住民じゃない」
只でさえこんがらがっていた頭が更に混乱して来た。
あいつなら、ウォッカなら奴らの兵隊程度なら多少束になったところで何ら問題なく一蹴出来るに違いない。それだけのものを持っている。そして砦に侵入する目的は飽くまで人質を救出するためであって奴らを叩きのめす事ではない。救出する過程で叩きのめす必要は出て来るかも知れないが優先順位が違う。だが、目的を達成するためには事前に障害を排除する必要がある上に、人質を盾にされる事も同時に防がなければならない。だからずっと悩んでいた。侵入出来たとしてもその二つを並行して事を起こさなければ全てが無に帰す事になる。
地下牢の場所を、砦の人員の配置を知っていた、そう考えるしかない。否、そうとしか考えられない。障害となる兵隊を片付けてから救出に向かえば確実に事を運ぶ事が出来る。
最大の疑問はいつ、どうやってウォッカがそれを知ったのかと言う事だ。勿論ウォッカにも救出に加わってもらうつもりでいた。最大の戦力と言ってもいい存在だ。その段取りをこれからまとめるつもりでいたのに哀しいまでにアッサリと先を越されている。
「脈あり、だな」
感じた視線に釣られるようにして顔を上げるとリーゼルがこちらを見て笑っていた。
「知ってるんだろ? 俺達を助けてくれたのが誰なのか」
「ああ」
知らないハズがない。判らないのはそこに至るまでの経緯だ。
「何か腑に落ちないと言うか、相当混乱してるみたいだな」
「否定しない」
と言うより出来ない。無事に解放されたリーゼルよりも事態を正確に把握出来ていない。
でも、こうして目の前で笑っているのは紛れもなくリーゼル本人だ。昔嫌気が差すくらいに聞かされた憎まれ口も今は耳に心地好かった。
夢である訳がない。これが夢だとしたら、この先一体何を信じて生きて行けばいいのだろう。不意に視界が歪んだ。指が、腕が小刻みに震える。唇の隙間から漏れる息は矢鱈と湿っていた。
顔を上げたリーゼルが苦笑いしている。
「しばらく見ないうちに随分男前になったなと思ったけど、」
どうして逆接の接続詞が来るのか。イヤな予感、いやムカつく予感しかしない。
「撤回した方が良さそうだな」
「勝手にしろ」
「そうしよう」
涼しい顔で笑っている。
リーゼルが今どんな想いで弟と向き合っているのかヨハンには判らない。からかっているのか、それとも今にも沸き上がりそうな嬉しさを懸命に隠そうとしているのか。何れにしても弟の目の前で己の感情を安易に晒すような真似は絶対にしない。
それが両親に先立たれた兄としての矜持なのかも知れない。
「前に言ったろ?」
目の前にいるリーゼルの目が細くなった。怒っているように見えるがそうではない。
「男が人前でベソかけるのは誰かに死なれた時だけだ」
珍しく真顔だった。別に終始不真面目と言う訳ではないが真剣になる事も少ない。いつも何処かで必ず力を抜いていた兄が腹筋を硬くしている。
「って、親父とお袋が死んだ時も泣いてなかったじゃねえかよ」
まだ九歳だったが涙一つ見せなかった。少なくとも弟の前では。改めて考えるまでもなく、大した兄貴だと思う。
「お前の前ではな。お袋の葬式が済んだ日の夜、女将さんに立派だったって抱き締めてもらった時、情けないくらいに涙が出た」
初めて聞いた話だった。どうしてこんな事を話す気になったのだろう。
「十五年以上前の事だからな、いい加減時効だろ」
そもそも口約束のような決まり事に時効と言う概念が存在するどうかが既に危うい。それは別にしても言い出しっぺの本人が言うのだから聞き入れるのが筋だろう。
「お前が妹で飛びっきり可愛ければ抱き締めるのもやぶさかじゃねえが、」
リーゼルはヨハンを見るといかにもわざとらしく眉間にシワを寄せた。
「筋肉質で汗臭い野郎なんて死んでもごめんだな」
「同感だな。今抱きつかれたらこっちが汚れそうだ」
鼻で笑った。だが兄と違って佇まいに不自然さが拭えない。
目が合った瞬間、腋の下をくすぐられるようにして笑いが込み上げた。抑える事はしなかった。溜まっていたものを吐き出すようにして一頻り声を上げて笑った。こんな風に笑ったのは一体いつ以来だろう。少なくともリーゼルとこんな風に笑った記憶はここ数年ない。
「そう言えば挨拶がまだだったな」
「挨拶?」
「ただいま」
唐突過ぎて咄嗟に反応出来なかった。出迎える言葉が出て来ない。
視界が滲んだ。目元を指で拭う。
「お帰り」
帰るべき所にいるべき人がいてくれる。たったそれだけの事がどうしてここまで嬉しいのだろう。
ダメだ、もう堪え切れない。
涙が指を伝った。肩が、背中が、声が震える。
足音がこちらに近付いて来る。目の前で止まったかと思ったら頭の上に何かが載った。鷲掴みにされた頭を芋を丸洗いするように揉みくちゃにする。
「泣くな」
頷くのが精一杯だった。今泣いたとしても罰が当たる事はないし誰も怒らない。
どれくらいの間そうしていたか判らない。不意に頭の天辺で僅かに寒気を感じた。
「いくつか聞きたい事がある」
声色に遊びがない。意図せず背筋が伸びた。
「イリナは無事か?」
どうしてイリナの安否を気にするのか。一瞬考えただけですぐに手掛かりが見つかった。
「カティから聞いたのか」
「ああ。牢屋に入れられてからずっと気にかけてた。目の前で殺されかけりゃ当たり前か」
家族が半殺しにされる様の一部始終を目の前で見せつけられる、それがどれだけ残酷で許し難いか。六人が感じた絶望を思い返す度に怒りで全身が震える。だがそれが本当に絶望へ姿を変える事はなかった。それが唯一の救いだった。
「大丈夫、無事だよ」
「怪我は?」
「してたけど、もう治ってる」
リーゼルが眉を潜めた。無理もない。怪我の程度もあるだろうがそれが一瞬で完治するなど一体誰が考えるだろう。
「間に合ったんだな」
「ああ」
力一杯頷いた。余計な言葉はいらない。これだけで充分だ。
リーゼルはゆっくり息を吐き出した。でもまだ表情にいくらか硬さが残っている。
「昨日の朝、向かい側の房にいたカティが姿を消してた」
表情が引きつったのがハッキリと判った。
「彼女に何があったのか、いや今無事かだけ判ればいい」
「カティもウォッカが助けてくれた。誰一人死んでない」
「間違いないんだな?」
「こんな質の悪い嘘、誰も吐かねえよ」
安心させる大義名分があったとしても絶対に許される事ではない。それがあいつが救ってくれたものの、そして肩に載せているものの重さだった。
もう一度、リーゼルが息を吐いた。強張っていた表情からようやく力が抜けた。
「今ここに司祭様もいるんだよな。その理由も聞いておきたいけどそれはいいか」
「ウォッカからは何を何処まで聞いてるんだよ」
「何を何処ってそこまでさ。それ以上は何も知らない」
だからこうして聞いてるんだろうが。そう突っ込まれると返す言葉に詰まる。つまり何も聞いていないし何も知らない。牢屋から出られたら何をするかと言う事くらい聞かなくても判りそうなものだ。呑気に油を売っている暇などある訳がない。
「司祭様は大丈夫か?」
「正直大丈夫とは言い難いけど、二人の顔を見たらすぐ元気になるよ」
当の本人はすっかり憔悴し切っていて元気のげの字もない。ただそれをなくした原因が解消されれば息を吹き返す見込みは充分にある。今のヨハンがそうであるように。
「じゃ、余計な話は取り敢えず後回しだ。息子二人の元気な顔を拝んでもらうのが先だな、って、」
リーゼルは尻を預けていた台から立ち上がると周囲を見回す。
「あいつら何やってんだ、一緒に来いって言ったのに」
話が全くと言っていいほど見えない。さっきから判らない事だらけだ。
「あいつらって?」
「セージとトージだよ、決まってんだろ」
決まっているのだろうか。話が酷く一方的な気がする。実際絶対に一方的だと思う。リーゼルには見えていてもヨハンには見えていない事が多すぎる。どうして三人の事をこんなに気にかけるのだろう。
ぶつくさ言いながら地上へ続く扉の方に歩いていく。
「お~い、早く降りて来いよ!」
工房の脇にある階段からそのまま地上に出られる。そこを降りて来る足音が聞こえて来た。
客人が来た事を確認するとリーゼルは相好を崩した。開いた扉から同じ顔が二つ工房の中に入って来た。
セージとトージだった。この顔は間違いようがない。
「ヨハン、久し振りだなぁ!」
二人が懐かしそうにと言うより嬉しそうにヨハンの肩や背中を叩いた。痛い。
「お前らこそ今の今にようやく解放されたばっかりなのに何でこんなに元気なんだよ」
「ま、確かに今朝まではこれまでにないくらいに沈んでたけどこうして出られた訳だし」
実にあっけらかんとした様子でトージは言った。
戒めていた縄を解かれたのだ。最大の障害が取り払われたのなら問題の過半数、いや大多数は解消されたも同然なのだろう。
残された問題はあと一つだけだ。それを解決するために二人はここへ来た。
「ヨハン、親父はどうなんだ? 大丈夫なのか?」
セージはヨハンの肩を掴むと訴えるように言った。泣き出しそうになるのを懸命に堪えるような顔をしていた。
それ以外にも聞きたい事はあるハズだ。どうして司祭様がここにいるのか、そうなるに到った経緯は何なのか。気にならないハズがない。だが一番大切なのはそんな事ではない。
それを確かめるために矢も盾も止まらずここまで来たのだ。
「かなり疲れてるけど、セージとトージの顔を見ればすぐ元気になるよ」
昨日から臥せっていてまともに食事らしい食事も摂っていない。この状態が続けば流石にまずいが二人が戻って来たならばそれは絶対にない。恐らく、いやほぼ間違いなく一瞬で全快する。 血を分けていてもそうでなくても、帰りを待ち侘びてくれる誰かがいるだけで冷えた心に火が灯る。こうしてまた会えただけで涙で視界が滲む。セージもトージも震える指で目元を押さえていた。
やっぱり家族って、温かい。
「で、お前に頼みたい事がある」
リーゼルは工房の隅にある棚から綺麗な布切れを何枚か取ると水瓶の水を桶に移した。そこに布切れを放り込む。
「何だよ、改まって」
「二人に服を貸してやってくれ」
あ。二人は初めて気付いたのか互いのナリを改めてまじまじと観察する。
黒いのか白いのか、それとも茶色いのか、一瞥しただけではまるで判らないくらいに汚れていた。みすぼらしいのではなく純粋に汚ならしい。洗うだけ無駄だろう。すぐにでも捨てた方がいい。
「で、着替えたら礼を伝えに行きたい」
硬く絞った布切れを二人に投げて寄越すとリーゼルは着ていた服を脱いだ。瞬間、不吉な音を立てて布地が裂けた。
「やっぱり限界だったか」
かつて服と呼ばれていたものを忌々しそうに睨む。今はただのボロ切れでしかない。再利用する価値もない事を考えるとそれ以下かも知れない。
「俺達を助けてくれた旅人はイリナ達の店にいるんだろ?」
トージが布切れで顔を拭きながら言った。黒かった顔が白くなった。代わりに布切れが真っ黒になっていた。
あそこは只でさえ若い娘が多い。確かに今の身形で人前に立つ事は出来ない。
不意に足音が近付いて来た。止まる事なく工房の扉を開ける。
「ヨハン、さっきから誰と話して……」
不安そうに扉を開けたレンが目の前にいたリーゼルと鉢合わせした。
「え……?」
一瞬呆けたように目を見開くと鋭く息を呑み込む。口元を覆う手が小刻みに震えていた。
「嘘……?」
リーゼルは困っているのか喜んでいるのかよく判らない表情を浮かべて頬を掻いている。レンの目の縁から零れ落ちた涙を布切れの白い箇所で拭き取った。
「嘘じゃねえよ」
義理の姉の頭に手を置くと子供をあやすように優しく撫でた。弟とは態度がまるで違う。でも素直に許せた。むしろこうして欲しかった。レンが喜んでくれるならそれで充分だった。
「ただいま」
堰を切ったように溢れ出した涙が頬を伝う。レンはそのままリーゼルの胸に縋った。今抱きついたら間違いなく汚れるだろうに、それでも構わず胸に顔を埋めて泣き声を上げ続けている。
震えるレンの肩を、リーゼルはいつまでも抱いていた。




