六日目 その壱
壁に凭れ掛かったまま目の前の鉄格子を見る。格子と扉の隙間に遊びこそあるものの、押しても引いても揺らしても蹴飛ばしてもガタガタ音を立てるだけで一向に開く気配はない。鍵がかかっているのだから当たり前過ぎるくらいに当たり前だった。開く訳がない。
それが判っているから、それが故にもどかしく悔しかった。あの扉が開かない限り絶対に自由は得られない。ずっとここに閉じ込められたままなのか。一瞬でもそんな事を考えた自分を呪った。出られないかも知れない、そう考えただけでいつも目の前が絶望で真っ暗になる。そんな事、絶対にあって堪るか。何が何でもここから出てやる。そうやって自分を奮い起たせた。どんな些細な事でも構わない、そこに希望を見出ださないと心が絶望に囚われる。それだけは絶対に避けたかった。死んでも御免だ。
牢屋の中に光は差し込まない。だが少しずつ外が明るくなり始めていた。もうじき夜が明ける。無意識に拳を握り締めていた。壁に叩きつけたい衝動を辛うじて堪える。そんな事をしたところで扉が開く訳でもない。全ては徒労に終わる。
「セージ」
完全に脱力し切った状態で天井を仰いでいるトージが死んだような声で言った。
「腹減ったな」
「そうだな」
普段なら相手にしない。余計に腹が減るだけだからだ。でも吐き出さずには、言葉にせずにはいられない。それくらい腹が減っているのだ。
昨日の朝から何も食べていない。食事が出されていないのだ。カティとここで食べたものを最後に食事が提供されていない。腹が減って当然だ。
それだけではない。
カティの身に何があったのか、何処に連れていかれたのか。それか一向に見えなかった。そもそも何故ここにあの子が連れて来られたのか。捕虜としてではない、明確な目的がある事は間違いなかった。
そして夜明けを待たずにここから姿を消した。牢屋に血痕を残して。かなりとんでもない何かが起こった。だがそれに気付く事すら出来なかった。
それに腹を立てるだけの気力もなかった。腹が減り過ぎて動けない。
「トージ」
向かい側の牢屋から気怠るそうな声が聞こえた。
「そういう事は口にするもんじゃない」
「判ってますよぉ」
リーゼルもトージも声に力がない。やはり空腹と疲労には勝てない。
口答えし過ぎて、或いは反抗的な態度を取って一食か二食を抜かれた事はある。だがそれは飽くまでそいつだけに限られた話であって連帯責任ではない。捕虜の飯など手につかなくなるような何かが起こった、と最初は安易にそう考えた。配膳担当の不機嫌に端を発したとばっちりが全員に及んだ可能性は最初から考慮の対象に入っていない。うんざりするだけだからだ。
それが確信に変わったのは夜更けを過ぎてからだった。
異様な物音で目が覚めた。何かが割れるような甲高い音の後に僅かに沈黙が尾を引いたかと思ったら、今度は寒気がするような鈍い音が聞こえて来た。それに時折空気を切り裂く音が混じるようになった。それがセージには一番耳に馴染んだ音だった。
だが砕ける音、いや殴りつける音が大半を占めていた。どんな状況なのか正確には判らない。風を切る音に殴りつける音が紛れ込む。情報源は音しかないがそれでも得られるものはある。帯刀した相手に対し、もう一方は素手に近い状態で攻撃を捌いている。少なくとも刃物で受け止めるような真似はしていない。
それがどれくらい続いたのかは判らない。糸をハサミで切るようにして音が途切れた。静寂が地下牢を包んだ。それから何の音沙汰もない。そしてもうじき夜明けを迎えようとしている。
奴らにとってかなりとんでもない類いの何かが起こった事は最早疑いようもない。置かれている状況が状況だけにどうしても期待してしまう。だったら何故誰も来ないのか、何も起こらないのか。膨らんだ希望が時間の経過と共に目に見えて萎んでいく。期待した分失望も大きかった。空腹を満たす事も出来ない。
空腹と疲労で目が霞む。飯が食えない事よりもここ出られないと言う現実を改めて突きつけられた事が殊の外堪えた。しばらく立ち直れそうにない。
半開きにした目に薄汚れた壁が映る。そのうち目を開けているのか閉じているのかも判らなくなって来た。意識が途切れそうになった時、鉄が擦れる耳障りな音が聞こえた。地下牢の入口の扉だ、間違いない。牢屋に据え付けられている扉は全て格子だからだ。
硬い足音が足早に近付いて来たかと思ったら、鉄格子の前に見知らぬ男が立っていた。デカい。人間と言うより寧ろ獣に近かった。それを人として認識出来たのは服を着ていたからだ。だがその服すらズタズタのボロボロだった。セージ達と然程大差はない。いや、それ以上だ。所々が血で真っ赤に染まっている。
男が手にしていたものが掠れた音を立てた。牢屋の鍵束だった。
一気に意識が覚醒した。
「申し訳ない」
鍵穴に差し込んで回すと馬鹿みたいにあっさり開いた。一瞬だが、全身から力が抜けた。自分達を戒めていたものが呆気なく開く光景を目の当たりにしたせいなのか、奇妙な虚しさに襲われた。こんなものが俺達を閉じ込めていたなんて。怒りとも悔しさとも違う何かが胸を満たす。
また、壁を殴り付けたくなった。
跳ね起きたトージが扉に突進した。男が脇に退いて出るよう促す。
「さ、とっとと出て下さい」
そうだ。ここはセージ達の居場所ではない。
「待ってる人もいるでしょ」
「親父は、親父は大丈夫なんだよな?」
トージは襟首を締め上げるようにして男の胸倉を掴んだ。普段以上に冷静さを欠いている。見も知らぬ人間に身内の話をして通じる訳がないのに。でもそれを止める間もなかった。何より、セージもそれが一番、そう一番気がかりだった。それた同じくらいに気になって仕方がない事もあるにはあるが、それこそ初対面の人間に聞くべき事ではない。トージと違ってそれくらいの冷静さはある。
「親父?」
目深に帽子を被っているせいで目元は窺えないが口元は柔らかく綻んでいる。男はキョトンとした様子でセージとトージを交互に見比べた。最初にセージとトージの二人を見た人は大抵こういう顔をする。二人には見慣れた反応だった。
「ひょっとして……」
納得したように頷くと不器用に笑った。どんな顔をすればいいのか判らないのかも知れない。
「話に聞いた通りだな。本当に瓜二つだ」
それこそ物心ついた頃から異口同音に何度となく聞き続けて来た言葉だった。見た目で区別がつくのは限られた極一部の人達だけだ。
誰かから聞いたに違いない。だがそれを確かめる事すら今は億劫、いやもどかしかった。
「司祭様ならヨハンのところにいるよ。あいつの家は判るだろ?」
「ちょっと待ってくれ」
何故父がヨハンの家にいるのか。その疑問を質す前に向かい側の牢屋にいるリーゼルが少しだけ険しい顔をして鉄格子を揺らした。
「あの馬鹿の事を知ってるのか?」
「はい」
顔に見覚えもなければこれまで声を聞いた記憶もない。と言う事は恐らく、いや間違いなく街の住民ではない。だがそれを確かめる暇はなかった。
「お~い、こっちも早く開けてくれ!」
「出してくれ、頼むよ!」
「はいは~い」
場違いなくらい明るい声で応えると、男は手早くリーゼルの牢屋の鍵を開けた。すぐさま隣の房の前に移動する。
牢屋から飛び出す。すぐさま階段に向かって突進すると思っていた体が不意に止まった。
「おい!」
後ろにいたトージが肩を乱暴に引っ張った。
男は尚も順繰りに牢屋の鍵を開けていく。扉が開く度に中から一目散に逃げるようにして人が飛び出す。誰しも考える事は一緒だった。
「気持ちは判るよ」
今度はリーゼルが背中を叩いた。
聞きたい事は山ほどある。だが初等部に上がり立ての子供のように呑気に質問を投げかける暇はなさそうだった。少なくともこの男には。
まだ牢屋にいる人達は喧しく扉を揺らして早く開けるよう執拗に催促している。それはセージも変わらない。なのになかなか足が言う事を聞かなかった。動く事を拒んでいた。忙しなく鍵を開けていく男の脇を解放された人達が脇目も振らずに走り抜けていく。足を止めているのはトージら三人だけだった。
「まだやる事が残ってるんだ」
男が見兼ねたように言った。
「だから早く……」
男の声は上から聞こえて来た悲鳴に掻き消された。
考えるより先に体が動いていた。火事と悲鳴と小銭を落とす音はイヤでも人を惹き付ける。
地上へ出る階段を一気に駆け上がった。視界が拓けた瞬間、思わず仰け反りそうになった。
鎧を来た兵隊が倒れている。一人や二人ではない。ざっと数えてみても十人以上はいる。どいつもこいつも身動ぎ一つしない。とても生きているようには見えなかった。息を呑んだまましばらくじっと観察する。微かに、本当に微かにだが肩や背中が動いている。息はあるようだった。だが完全に気絶している。よく見れば周囲の壁や床に乾きかけた血がこびりついている。鉄が錆びたような臭いが立ち込めている事にようやく気付いた。
地下から階段を上がる足音が近付いて来た。さっきの男が顔を覗かせると呆然と立ち尽くしている人達の間を歩いていく。完全に失神している兵隊を片手で掴むと肩に担いだ。空いていた反対側の肩に転がっていた一人を適当に載せる。
「さっきも言ったと思うけど、」
踵を返した男が再び地下牢の方へ歩いていく。
「まだやる事がある。だから皆さんは早く家に帰って下さい」
「俺達もやるよ。あんただけには任せられない」
誰かが応えた。そうだ。助けてもらったのに何もしないなんて絶対にイヤだった。少しでもいい、この男の力になりたかった。
男はやんわりと首を横に振った。
「後片付けくらい自分でやるよ。俺がした事だからな」
やはり一人でこいつら全員を叩きのめしたのだ。一対一でならばこんな兵隊崩れを相手にするなど訳はない。だがまとめてとなると話は別だ。
「帰るところがあるだろうし、待ってる人もいる」
男はこちらを見ると同意を求めるように笑った。
「別にこんなの何て事ない。だから早く帰りな。これ以上待たせたらダメだって」
ついさっきまでここから出る事を渇望していた。それが叶ったと言うのにどうして足が言う事を聞かないのか。その迷いがようやく吹っ切れた。
一斉に駆け出した。誰一人振り向かない中、体を捻って後ろを見る。肩に兵隊二人を担いだ男が階段をゆっくり下っていった。




