五日目 ~夜~ その拾
目の前に広まっている光景がどんなものなのか咄嗟に理解出来なかった。まず輪郭がなかった。色しかない。黒を基調とした空間の中に白い線、いや点が粉でも撒いたように散らばっている。
これが現実に存在する世界だろうか。一瞬でもそんな事に疑問を感じた自分に呆れた。脳ミソを擂り鉢にぶち込んでスリコギで捏ね繰り回しているような気分だった。
体の感覚が頭に伝わるまで若干の時間を要した。だが切断された回線が繋がりを取り戻すと覚醒まではあっという間だった。だが現状の把握となるとそうも行かない。
群青色の平面が見える空間の大半を占めていた。所々に綿を引き裂いたようなものが混じる。空である事はすぐに判った。問題は目線と同じ高さにそれが広がっている事だ。深く考えるまでもなかった。
腹に手を当てる。裂けた服の隙間から指を潜り込ませて皮膚に触れる。穴も裂け目も凹凸もない。整地された道のようになだらかだった。完全に塞がっている。治ったのか、それとも治したのか。
舌打ちしながら上体を起こした。
手にも指にも、勿論足にも力は入る。澱むような不快感がまだ体の中に僅かに残っているが痛みは感じなかった。
周囲を見回した。地面は避け、場所によっては大きく窪んでいる。薙ぎ倒された木々が浜辺に打ち上げられた流木のように雑然と転がっている。巨大な爪跡が地面をズタズタに引き裂いていた。元々ここがどんな場所だったのかは判らないが、かつての面影の名残すらないほど変わり果てている事は間違いなさそうだった。
人影はない。少なくとも見える範囲には誰もいない。首を曲げて背後を確認するのは少し億劫だった。別に見なくても気配で判る。
少しだけ顔を俯かせたまま目を閉じた。
風の流れる音に時折鳥の囀りが混じる。それ以外には何の物音も聞こえない。静かだった。だが眠りに就くような精神状態には程遠いものがあった。何より痛みも疲労も感じない。体を休ませる必要などない。
どれくらいそうやって過ごしていたかは判らない。微かだが規則的な物音が紛れ込んで来た。少しずつだが確実にこちらに近付いている。それがすぐ後ろで止まった。
「お目覚めかい?」
見知った顔が朗らかに笑っていた。人差し指の先でクルクル回していた帽子を頭に被る。
「朝の散歩か?」
「まさか。探し物だよ」
男は被り心地を確かめるように帽子の天辺を軽く叩いた。
「いや~見つかって良かった」
機嫌がいいと言うのとは少し意味合いが違う。ホッと胸を撫で下ろしたような顔で鍔を摘まんでいる。
そう言えば、いつの間にか被っていたハズの帽子が忽然と消えていた。時間を割いて記憶の糸を手繰るだけの価値があるとは思えない。だが敢えてそうしたのは闘っていた時の記憶を整理するためだった。どんな状態であれ、常に冷静さは維持しておかなくてはならない。だが今回は完全にそれが失われた。
自分から脱いだ、とは考えづらい。ならはこんな風に探す事はしないだろう。だとしたら意図せず脱げたと考えるべきだ。思い出すと言う作業をこれほど億劫に感じたのは随分久し振りだった。些細ではあるが非常に重要な事でもある。血に餓えていた時の記憶が残っていなかったとしたら今後の任務に大きな支障を来す。
あの時か。遠当てを身を屈めてかわした時だ。首ではなく帽子だけが宙に弾け飛んだ。あれだけ近い距離で、しかも見えない攻撃を紙一重でかわす。感覚が鋭敏になっていたとは言え大した身体能力だ。
だがそれからしばらく後の記憶が全くない。腹を刺された事も半ば冗談のように思えてならなかった。それを明確に示すものもない。服の切れ目に指が触れる。僅かにその痕跡を窺わせるものが辛うじて残っているだけだ。
「よく切れなかったな」
「全くだ」
男はしげしげと帽子を眺め回しながら言った。帽子も持ち主も接触を綺麗に回避している。本人が無事でも帽子に傷がついていたらさぞ悔やんだ事だろう。こいつには回避を可能にするだけの身体能力と反射神経がある。そして延びしろも当分尽きる気配はない。つくづく末恐ろしい男だ。
「気分はどうだよ」
「いいと思うか?」
睨み付けると男は人目も憚らずに大声で笑った。そもそも一人しかいないが。
「大酒かっ食らってぶっ潰れたようなもんだからな」
好き勝手言っているが、意味合いとしてはそこまで的外れではない。だがそんなに生易しいものでもない。
「どうやって止めた?」
「気になるのか?」
横目で睨み付けてもビビった様子は微塵もない。むしろ歓迎するように笑っている。経緯はどうあれ完全に狂乱状態にあった化け物を鎮め、正気に戻しているのだ。そして、どうしてこいつは意識を保つ事が出来たのか。
「そんな質問するって事は、やっぱりあの時の事は何も覚えてないんだな」
「ああ」
素直に頷いた。本当に何の記憶もないのだから否定のしようがない。
「大変だった」
非常に。苦笑いしながら眉を掻いているが大変どころの話ではなかったハズだ。潰れた酔っ払いを介抱するのとは訳が違う。
「ああなっちまったら鎖の切れた獣と変わらないと言うかそれ以上だからな。適当に距離取って逃げ回りながら時折軽く殴るか蹴るかして動きが鈍くなるのを待って、」
制御が効かなくなると理性は完全に消え失せる。闘争本能と破壊欲求を満たすためだけに動き続ける。獣と言うよりただの化け物だ。
「で、それからどうしたんだ?」
「絞め落とした」
「絞め落とした?」
ある程度痛めつけたとしても簡単に体力は底を尽きない。それに密着しなければならない以上抵抗も相当あったハズだ。打撃を加え続けるか短剣で刺すか斬るかすればもっとすんなりと事も運んだだろう。
どうしてそんな手のかかる、いや力に加えて危険を伴う手段を選択したのか。
「意識を絶つ事が目的ならそれか一番確実だろ?」
意識を失えば血の疼きも猛りも鎮められる。それはご覧の通りだ。同時に相手を最も傷つけない方法でもある。
全く、何処まで人が好いのか。
「絞め落とすとは言っても容易にはいかなかっただろ」
「ああ。死ぬかと思ったよ」
恐々首を竦めているがビビっているようには見えない。だがからかっている訳でもない。感じた事を素直に口にしているだけだ。
「具体的にはどうやったんだ?」
「脚で腕を挟み込んで抵抗出来ないようにした上で、後は落ちるまで絞め続けただけだよ」
普通の人間ならその後目を覚ます事はない。意識を喪失させるのではなく確実に息の根を止める方法だ。言われてみれば喉の辺りに圧迫されたような感覚がまだ残っている。遷延性の窒息も全くなくはないがそれで死んだと言う話は聞いた試しがない。少なくともそんな理由でくたばるような事があれば血を継ぐ資格はない。
「どれくらいの間そうしてたんだ?」
「一分や二分じゃ利かなかったな。計ってた訳じゃないから正確には判らねえけど十分以上はそうしてたと思う」
多分。顎を掻きながら宙を睨む顔はそこいらにいる餓鬼と然程大差はなかった。
「どうした?」
睨み付けると男がからかうように笑っている。それに感情を煽られる程ガキではないが面白くない事も確かだった。
「限界が近かった。だからこそ制御が効かなくなった」
そこまでは理解出来る。問題はその先だ。
「どうして制御が失われたのか」
「そこだな」
あの時、既にこいつも血に呑まれ始めていた。何故片方は制御を失い、もう片方は意識を保つ事が出来たのか。
「きっかけがあるとしたら、やっぱり大量に出血したからだろうな」
やはりそうか。勿論聞いた事はある。だがそれを我が身を以て経験する事になろうとはついぞ想像もしなかった。
「出血して大量の血を失った反動だろ。無くした血液を補うために体内で急激に血液が生成された」
「増えた血液が意識を制御する限界を超えた」
心臓を剣や槍で貫かれても簡単に死にはしない。だが完全に失血した場合は死に至る事になる。どれだけ生命力が強かろうとも血がなくては生きられない。
意図的に血を生成して大量に出血した怪我人の命を繋ぐ事も出来る。それが本人の場合は無意識的に血を生み出す、と言う事のようだ。凄まじい生存本能だ。だが有り得ない話ではない。そう、俺達ならば。
「ちょっと待てよ」
そう考えた場合解決しない疑問が一つ残る。生存本能で緊急回避的に血を生成する事は充分に考えられる。ならば、腹部を串刺しにされたこいつも相当な量の出血があったハズだ。それを物語るように今も服が血で真っ赤に染まっている。
「言いたい事は判る」
男が牽制するような目でこちらを見た。
「置かれた状況は俺もお前と大差なかったからな」
刃が胴体を貫通する程の重傷を負い、大量の血液を失う。そこまでは僅かな差はあってもほぼ互角だった。決定的な差がついたのはそこからだ。
「俺の場合は事情が少し特殊なんだよ」
何がどう特殊なのか。
血の生成が生命維持のために咄嗟に発現するような代物なら状況に応じて量を微調整するような事は難しい。それでは生存にも防衛にもならない。何より本人の意図が介在しない限り調整する事など有り得ない。だが同時に理想でもある。常に理性を維持し危難にも的確に対応する、そんな輩が少し前には大勢いたのだ。俄には信じ難い話だった。
怪我の程度も出血量も変わらない。だがそこでくっきりと明暗が分かれた。目に見えない明確な違いがそこに横たわっている。
「混血か」
それ以外の可能性もなくはない。だが最も濃厚なのはそれだった。何よりこいつの特殊と言う発言がそれを示唆している。生まれつき血が濃ければ扱いに長けているのはある意味当然だ。自身に流れる血の性質を理解し扱う術を学ばなければ生き残れない。
「ご想像にお任せしよう」
想像に委ねる余地もない。だがそれすら推測の域を出ない。そしてこいつも事実を語る事はしないだろう。
「世間は狭いな」
男は出来たばかりの切り株に腰を下ろした。
「全くだ」
確かに世界は広い。だが人と人が関わる世間は必ずしもその限りではない。身を以てそれを知った。
「まさかこんな所で仲間に会うなんてよ」
空を見上げながら男が笑った。しかもこんな人里離れた僻地で、片方は明確な目的を持ってそこに来たのに対し、もう片方は迷い込んで来たのだ。
「お前、これからどうするんだ?」
「早々に退散する。もうここに留まる必要はないからな」
既に任務は完了している。長居する理由はない。
「折角来たんだから少しゆっくりして行きゃいいのに」
「本気で言ってるのかよ」
「まさか」
流石に冗談くらいは通じるようだった。確かに切れ者には見えない。
「お前はこれからどうする気だ?」
「一旦砦に戻るよ。まだやる事が残ってるからな」
そうだ。一番肝心な事が終わっていない。それすら失念していたら本当に馬鹿だ。何をしに来たのか判らない。
不意に男が右手を差し出した。
「ウォッカだ」
握手を求めているのはすぐに判った。乾いた血がこびりついている右手と極端に老けた顔を交互に見る。
「お前とは目的の一部を共有しているだけだ」
「で、言わんとしたい事は何だ?」
「別に仲間でも何でもない」
男が露骨に顔をしかめた。
「ホントに冷たい奴だな。穴も塞いでやったのに」
短剣は綺麗に背中を貫通していた。皮膚には穴も裂け目もなくまっ平らなままだった。傷があった事を示す痕跡は全くない。少なくとも皮膚には。
「他の傷は?」
「殴る蹴るしたところは治したけど、他の細かいのは自然に治ってたな」
それも生存本能に依るところだろう。意識して治癒するまでもなく勝手に治ってしまう。
ここまで派手に殴り合った事も完全に制御を失った事も初めてだった。あるとしたら言いように弄ばれた、いや殴られたくらいしかない。それでも完全に意識を、理性を喪失するような事はなかった。その寸前にまでは追い込まれたが。それも一度や二度ではない。人に非ざる者として生き残る術を叩き込まれた。経験に依る差か、それとも生まれつきなのか。それについてあれこれ考えるのは止めた。それこそ時間の無駄でしかない。
完成と言うには程遠い。互いにまだその過程にある事は確かだった。
「カースラッド帝国バスターク騎士団三番隊隊長、バルガ・ネロ」
立ち上がると転がっていた剣を腰に差した。鞘から刀身を抜いた。僅かに差し込み始めた光を刃が弾く。あれだけ激しく振り回したのにヒビの一つも入っていなかった。
「バルガだな」
男、ウォッカが改めて手を差し出した。だが半ばで腕の動きが止まった。目から焦点が失われたと思った頃には皿のように丸くなっていた。
「カースラッド……」
耳から入った言葉が脳に浸透するまでしばらくかかった。今なら斬れそうな気がするが抜いた途端身を翻すだろうな、と言うのは容易に想像がついた。基本的に臨戦態勢を崩す事はない。
「バスターク騎士団?」
しかめた顔を右手で掴むとこちらを横目で睨み付けた。
「バスターク死兵団、の間違いじゃねえのか?」
「それは飽くまで戦時中の通り名だ。正式な名称じゃない」
だが通称の方がより真実に近い。騎士道精神に溢れた血気盛んな輩も中にはいるにはいたようだが実態は異なる。
「お前、敵の懐で何やってんだよ」
「俺には俺の都合がある。お前には関係ない」
誰であろうが無関係な出来事に首を突っ込んで来られるような真似だけは死んでも勘弁願いたい。こいつは馬鹿ではあるかも知れないがそこまで不躾ではない。
「それがお前の事情か」
「ご想像にお任せしよう」
意趣返しと言うには少し大袈裟だが、牽制するには充分だった。どんな世界でも詮索屋は嫌われる。
「丁度いい」
ウォッカが拳で手を打った。
「実に丁度いい」
何が丁度いいのか。ただこいつにとって丁度いい事ならこちらにとっては絶対に丁度が悪い。根拠も何もないが、奇妙な確信があった。
「一つ頼みたい事が……」
「断る」
露骨に顔を歪めたウォッカはしばらく黙ってこちらを睨んでいた。当然の如く無視する。相手にするだけの価値もない。
「まだ用件も言ってねえだろ。聞きもせずに断るなよ」
「知るか」
聞かなくても大方想像はつく。それを口にする気はないが。
「正気に戻した上に傷の手当てまでしてやったのにそこまで無下にしたら罰が当たるぞ」
「お前が勝手にしただけだろ。頼んだ覚えはない」
本心か建前かは別にしても事実しか話していないと言う自負はあった。正気に戻した事も治療してくれた事も確かだがウォッカが勝手にしただけだ。
こっちは願ったり叶ったりだがそれが要求を聞き入れる理由にはならない。それが判らないから馬鹿なのだ。
「何だよ」
ウォッカは相変わらず粘着質な視線を浴びせかけている。気持ち悪い。
「恩知らず」
虚ろな目で呟いた。意識的にウォッカから顔を背けた。
「冷血人間」
視線が後頭部に突き刺さる。痛くはないが煩わしかった。
意図せず溜め息が出た。どうしてこんな下らない事に付き合わなくてはならないのか。
「話くらいは聞いてやるよ」
途端に相好が崩れた。単純過ぎる。それとも載せられているだけなのか。だとしたらこちらの負けだ。だが別に悔しくはなかった。うんざりするだけだ。
抜いていた剣を鞘に納めた。
東の空が少しずつ白み始めていた。




