五日目 ~夜~ その九
体を冷ますつもりは毛頭ない。だが迂闊に動けない事も確かだった。下手に動けば隙が出来る。それは互いに百も承知だ。いつまでも機を窺う程呑気ではないにしてもおいそれと隙を晒す訳にはいかない。
隙を最小限に抑えるとしたら。
僅かに身を沈めた瞬間、男が地面を蹴った。直線上で距離を詰めるだけなら生じる隙は最小限で済む。距離が縮まるだけだからだ。至近距離ならそうは行かないが、あいつが攻撃を当てるにはまだ不充分だった。
点がこちらに向かって急接近している。
剣を抜くと同時に地面に突き刺した。体を前傾させると一気に抜き放った。衝撃と共に発生した地割れが男との距離を瞬時に縮めた。衝撃の余波は地割れの上にも及んでいる。故に真上に跳んでかわすと言う選択肢はない。動くとすれば右か左の何れかだ。
破砕された岩や土が男を呑み込んだように見えた瞬間、土煙の中から男が飛び出して来た。ギリギリまで引き付けてかわす、優れた動体視力と回避を可能にする身体能力が備わっていなければ実践するのは困難だ。そして安易な予測で動く事もしない。早い段階で避ければそれだけ安全である事は確かだが、その分相手に自分の姿を長く晒す事になる。だから寸前でかわすのだ。それが読みと合致する事も勿論あるだろう。だがしっかり見ているおかげで読みが外れる確率も格段に下がる。実際こうして最小限の動きで確実に回避している。
だがその動きもこちらの予測の範疇にある。動ける範囲は限られているならそれに応じる事も容易い。
剣は既に鞘に収めている。鯉口を切ると同時に水平に剣を薙いだ。
今度こそ跳んだ。男の後方にあった木が根元の辺りから綺麗に切断された。脇に立っていた木を蹴った反動で着地すると同時に更に間合いを詰める。直線的だが無駄のない動きだった。
間合いを詰めるのは点による移動だ。地走りもそれと変わらない。それが左右に振れて初めて線になる。的として捉えやすいのがどちらかなど敢えて考えるまでもない。
左に体を傾けたまま跳ぶように駆けた。男が左足で地面を蹴って方向転換しようとした瞬間、一気に抜刀した。地走りが点による攻撃なら遠当ては線による攻撃だ。突っ込んで来る相手と真っ正直から相対すれは点だが、直線から少しずらせば点はたちまち線に変わる。
奴に逃げる場所があるとすれば一つしかない。
鎌で草を刈るようにして木が倒れた。それを上から見下ろす。その間に男がいた。下を向いたまま急激にこちらとの距離を縮めていく。何かに気付いたように顔を上げた。遅い。
「上だ」
突っ込んで来た体を、腹を思い切り蹴飛ばした。両手と両足を前に突き出したまま大砲で打ち出したような速さで地面に、岩に突っ込んでいく。直撃した岩が爆音と共に崩れた。
着地すると改めて周囲を眺める。木が何本も倒れ、地面は所々が擂り鉢状に凹んでいる。目の前にあったハズの岩は今はすっかり砕かれて石の山になっていた。
「立て。大して効いていないハズだ」
石の山が爆音と共に弾け飛んだ。飛び散った石の破片を剣で捌く。
かつて岩が、砕けた石の山があった場所の真ん中に男が立っていた。
赤い目が火を灯したように爛々と光っていた。中途半端に開いた唇の隙間から漏れている息が不安定に震えている。帽子の隙間から血が滴っているせいで顔が真っ赤だった。さっき岩にぶつかった時に頭が割れたのだろう。血を拭う事もせず、むしろそれ歓迎するように笑っている。
「いいねぇお前最高だよ。師匠と本気でどつきあった時もここまで熱くはならなかった。このまま血が煮え続けたらどうなっちまうんだろうなあ」
今度は狂ったように声を上げて嗤う。そう、もう既に正気ではない。
「一向に血が冷める気配がないな、熱くて堪らねえや」
そっちはどうだ? 男がこちらに視線を投げた。
「聞くまでもないだろ」
「そうだな」
髪が蛇のようにうねった。火照りなどと言った生易しいものではない、全身が熱い。指先まで熱を帯びている。いずれは冷まさせなければならない。だが今はまだ早い。
「試したい事がある」
男が右手の拳を脇に引いた。対する左手は短剣を逆手に構えて前に突き出す。
「お前なら打ってつけだ」
「ならやってみろ」
目の前から男が消えた。そう錯覚するくらい速い踏み込みだった。
剣の届く範囲にまで近付いた瞬間、男の体が僅かに残像を残して背景に溶け込んだ。舌打ちしそうになった。一体何処まで速いのか。だがまだ目で追える。
左から斬りかかろうとした男の顔面に足の裏を叩き付けた。盛大に砂煙を上げながら後ろに吹っ飛ぶ。 その勢いを回転する力に変えてすぐさま起き上がった。別に大して痛そうにも見えなかった。呆れるくらいの頑丈さだ。衝撃を逃がす時間など全くなかった。その状態でも被る痛手を最小限に抑えている。
「よく首がもげないな」
「今くらいの蹴りでくたばってたんじゃ戦場に行っても役に立たねぇだろ」
普通の人間なら首から上が吹き飛んでいるところだ。だが頸椎が折れる事もなければ脱臼もしない。しかも単に蹴られたのではない、自分が突っ込んで行った勢いも加わっているのに痛みを堪えているような気配は微塵もない。
誰からどのように学んだのか、育てられた環境や個人差もあるだろう。それを抜きにしても自分達がどんな人間なのか把握し切れていない。ただこの程度ではくたばる事も我を忘れる事もない、それは確かなようだった。
これで普通の人間を相手にしていたら一体いくつを死体に変えていたのだろう。昔の戦場ではそれすら有り触れた光景でしかなかった。
その時代に生まれたかったとは思わない。どの道遠からずまたそんな日が来る。既に判り切っている事だった。だから俺達がいるのだ。
男が顔を塗らしている血を拭った。舌で舐め取る表情はおよそまともとは、正気とは言い難いものがあった。血に呑まれ始めている。そしてそれはこちらも変わらない。
あとどれだけ持つか。猶予はあまりない。そろそろ片付けなければ本当に冗談では済まなくなる。それはこいつも変わらない。
どちらの肉体が、自我が先に崩壊するか。命懸けの根比べだ。そして何を以てこれが終わりを迎えるのか、そんな事がふと脳裡を過った。やはり殺すしかないのか、それとも殺されるのか。奴を殺すかどうかは判らない。だがこんな所で死ぬつもりは更々ない。まだやるべき事が残っている。道の半ばにも達していないのにそれをあっさり放棄する事など絶対に出来ない。
そのためにも。
柄を握る手に力を込めた。腕や脚が、背中が戦慄く。体の芯から溢れ出そうとしている力を懸命に抑える。これを上手く手懐けなければ回るものも回らなくなる。衝動に呑まれるな、意識を保て。
剣を振り上げると同時に間合いを詰めた。振り降ろした剣は屈んでかわされた。右の横面を狙って放った蹴りが短剣の柄で止まった、いや止められた。
右足だけで跳ねた。突っ込んだ勢いと腰の捻りを右足に載せる。左の顔面に蹴りが当たった。いや、違う。男の左手の上に足があった。
男が一歩踏み込んだ。狙い澄ました右の拳が顎を貫いていた。無理矢理体勢を整えるのは巧くない。そのまま後ろに宙返りした。顔を上げた時には短剣が目の前に迫っていた。退きながら左に体を開いた。鼻先スレスレを短剣が上から下に通り過ぎる。
無難に、そして着実に事を運ぶなら右手に握っている剣よりも左の拳の方がいい。そちらの方が絶対に速い。そうだ、焦るな。
半歩踏み込んだ。左の拳が男の横面を弾いた。腰の捻りを加えた切っ先を男の胴に目掛けて伸ばした。
詰まっていた間合いが離れた。
裂けた皮膚から流れた血が男の脇腹を赤く染めている。当たった感触はあった。だが直撃には到らない。
勝機は逃したくない。距離があるといい的にされる事は先刻承知のハズだ。何よりこいつには本来の間合いではない。少しでも距離を詰めようとする事は目に見えている。だが迂闊には踏み込めない。こいつの土俵での勝負に付き合う必要などないのだ。
男が逆手に構えた短剣を顔の高さに上げた。右の拳を脇に添える。さっきと同じ構えだ。
剣を鞘に納めた。威力よりも速さを重視した。何よりそこまで離れていない。
水平に剣を抜き放った瞬間、男が突進して来た。今の状態だと間違いなく直撃する。男の上体が明らかに下がった。男の被っていた帽子が、帽子だけが宙に跳んだ。踏み込みながら体を極端に屈めてかわしたのだ。
掻い潜った時にはもう撃つ体勢に入っていた。さっきより間合いは縮まってはいるが拳が当たる距離ではない。男が踏み込んだ瞬間、鈍い衝撃と共に体が後ろに弾き飛ばされた。
何も見えなかった。見えない何かが開いた体の真ん中、胸に直撃した。少し離れた所で男が右の拳とこちらを交互に見ながら頭を掻いている。
「凄ぇ」
不合格を確信していた試験で満点を取った学生のような顔をして笑っている。
「初めてだったのに出来た」
初めてで成功させるな。そして直撃させた上で一時的とは言え相手を退けている。止めには到らなかったが容易く岩に穴を穿つ程度の威力は間違いなくある。生身の人間相手なら骨が陥没しているし、その下にある内蔵も修復が聞かないくらいの痛手を被っているに違いない。間違いなく即死に近い傷を負う。
「止水撃ちか」
「お前本当によく知ってるな」
男が感心したように笑った。命懸けの闘いの最中に見せる表情ではない。
「それを剣に応用したのが遠当てだ、知らない訳がないだろ」
「ま、それもそうか」
納得したように頷いている。やっぱり馬鹿だ。
「使ったのは初めてか」
「実戦ではな」
完全に初めてではない。全ては膨大な稽古の、訓練の上に成り立っている。一朝一夕で得られるものなど何処にもない。
「多少効いてりゃいいんだけどな」
多少も何もかなり効いた。想定外の攻撃だった分余計に痛い。
これで互いに間合いの外からでも攻撃出来る手段を得た事になる。その切っ掛けになる材料を与えてしまった事は確かだが別段これと言った感慨はなかった。少なくとも後悔はない。同じ条件で闘った上で完全に捩じ伏せる。
互いに真っ正面から突っ込んだ。
左に跳んだ直後に背後から何かが割れるような音がした。重い何かが倒れる音がそれに続く。左足で地面を踏み締めた。剣が鞘走りする音は地響きにあっさり掻き消された。根元の辺りから切断された木が音を上げて倒れる。これだけ低い軌道で放てば屈んでかわす事は出来ない。逃げ場所はもうそこしかない。
まるで走り幅跳びでもするように飛び込んで来た男の蹴りを紙一重でかわす。跳んでかわす事は予測していたが高さを最小限に抑えていようとは思わなかった。確かに宙には逃げ場がない。あまり高く飛べばそれだけ無防備な状態を長く晒す事になる。本人もさっきの二の舞は避けたいところだろう。これだけ鋭い軌道で飛び込まれたら回避は出来ても剣を鞘に納める暇はない。二発目の遠当ては放てない。
蹴りをかわした勢いを殺さずに飛び退きながら振り向いた。回避は出来ても背後を取られた事に変わりはない。垂直にした剣の凌ぎの上に短剣がぶつかる。男が更に一歩踏み込んだ瞬間、鳩尾に鈍く重い衝撃を感じた。腹に左の拳が深々と突き刺さっている。
曲がった膝を伸ばして後ろに飛び退いた。この距離では、今の状態では明らかに分が悪い。立て直すにはどうしても時間が要る。そしてそれを許す相手ではない。鬼火のように赤く灯った眼球が急速に距離を詰めた。
腋の高さに構えた剣を真っ直ぐ突き出した。男が屈みながら左によけた。急制動をかけながら左下に剣を薙ぐ。極端なくらいに姿勢を低くした男が更に前に加速した。眼球の眼前を短剣が掠めた瞬間、撃ち下ろした右の拳が男の顔面のど真ん中に突き刺さった。爆音のような鈍い音と共に地面が抉れた。反動で弾き飛ばされた男が宙を舞う。完全に脱力し切ったと思った体が最高点に達する手前で丸くなった。独楽のように綺麗に回ると音もなく着地した。
男は鼻を右に左に押して形を整えると大きく息を吸った。勿論鼻から。
「流石に今のは効いたな~」
とてもそうは思えない。憎たらしいくらいの耐久力だ。こらにしても土手っ腹に風穴が空いていてもおかしくないし、そう考えればお互い様でしかないのだが。
確実に止めを刺す方法もなくはない。 首を切り落として全身の血液を出し尽くすか、心臓を完全に破壊するか。何れにしても実行するのは非常に困難だ。出来るならとうの昔にやっている。
だが楽しむにはこれくらいの障害があった方がいい、絶対に。殺す事が目的ではないにしても獲物を、標的を確実に仕留める手段を体に刻むにはもって来いだ。
踏み込んだ瞬間には距離がなくなっていた。拳が交差すると同時に互いの顔が弾け飛んだ。剣を、短剣を振るには距離が近過ぎる。手段としては原始的だが威力がそこまで劣る訳ではない。首が飛ばないのは相手がこいつだからだ。
顎の高さに構えた拳を突き出すよりも先に相手を見る。男は対照的にダラリと両手をぶら下げていた。出るべきか退くべきか、瞬きを終えた頃には地面を蹴っていた。腰の高さを殆ど変えずに間合いを詰める。牽制で突き出した拳が当たったかと思った刹那、男の顔が歪にぶれた。舌打ちしている暇はない。やはり力は下手に入れるより抜くに限る。臍を噛む代わりに奥歯を食い縛った。肝臓に重い一発をもらっていた。だが退かなかった。拳を握り締めたまま前に向けていた視線を落とした。間合いを詰めようとしていた男の動きが僅かに鈍る。釣られるようにして下を向いていた。時間にすればコンマ何秒もない。だがそれだけあれば充分だった。
振り上げた右足が男の顎を下から貫いた。体を屈めた状態から腰を捻る。左の拳を男の肝臓に叩き込んだ。辛うじて着地した男がたたらを踏みながら距離を取る。急所を的確に痛めつけても大して時間を食う事もなく回復する。唇の端から血を垂れ流したまま男がこちらを見て笑っていた。
拳を軽く握ると腰を落とした。斬る事も好きだが殴り合う事も嫌いではない。早い話、血が見られるならどうでもいいのだ。血の疼きを鎮めるには血を見るか流すしかない。全く、何処まで行っても野蛮な連中だ。
それがこの体に流れている血だ。運命にも、そして血にも抗えない。流し尽くすのがいつなのか、それは誰にも判らない。今この瞬間なのか、それとも将来的な事なのか。
今は猛るだけ猛らせて鎮める。ただ限界が何処にあるのかが見えない。手探りと言うより体の声に耳を澄ませるしかない。どれだけ体が頑丈になろうとやるべき事の基本は変わらない。
人の延長上の存在でしかない。だが絶対に人ではない。いつか聞かされた言葉が耳の奥で蘇った。
腰を落とした状態で脇に拳を引いた。その姿勢で一気に最高速まで加速した。隙を最小限に抑えた状態で動くにはこれしかない。
真っ正面から拳と拳がぶつかった。体ごと後ろに弾かれる。拳の骨が粉々になっていてもおかしくないくらいの衝撃だが、実際には痛みこそ感じるものの折れる事はおろか亀裂すら入らない。
痛がる暇があるなら攻撃に移れ。体が暗にそれを示しているようだった。
短剣を用いた接近戦が確かに基本ではあるがその土台になっているのが素手に依る格闘だ。接近した状態で打撃を当て相手の攻撃を捌き間合いを制する。それが出来なければ前には進めない。進めたからこそここにいる。
それはこいつも変わらない。目の縁から血が流れている。まるで血の涙を流しているように見えるが目は泣いていない。殴り合う事を、血を流す事を諸手を上げて歓迎するように笑っている。
腕で防ぐまでもない。体を捌いて拳をかわした。勢いのまま流れて来た男の顔面に肘を突き立てた。硬い反動を押し返すと左足で踏み込んだ。顔面に向けて放たれた右の拳が空を切った、いや空を突いた。拳を掻い潜った男が下から上目遣いにこちらを見て笑っていた。
体を跳ね上げる勢いを余す事なく載せた拳が顎を下から貫いた。食い縛った歯の隙間から血が噴き出した。腰を落として踏み止まった時には交差した腕に拳がめり込んでいた。がら空きになっていた脇腹に膝が突き刺さる。
膝が折れた。演技ではない。だが油断を誘うには充分な反応だった。
男が無防備に拳を振り上げて距離を詰めようとしている。そこに先を取るようにして一歩踏み込んだ。腕が交差するより先に最短距離を飛んで行った拳が男の顔面に当たった。振り抜かずにすぐ拳を引く。上下左右に撃ち分けた拳の雨が男の体を歪めていく。それでも倒れない。
踏み込みに合わせて膝を曲げた。伸ばす勢いを拳に載せると下から思い切り振り抜いた。完全に脱力し切った男の胴を足の裏で蹴り飛ばす。勢いよく吹っ飛ぶと背後に立っていた木に背中から叩きつけられた。
鞘から剣を抜く。腰の高さに合わせて水平に構えた剣を突進と共に真っ直ぐ突き出した。
「が……」
男の体を貫通した剣が木に突き刺さっていた。
微かに震えていた手から糸が切れるようにして力が抜けた。剣を握っていた手首に落ちる。
「捕まえた」
唇の端を上げて心底楽しそうな、何かを確信したような笑みを浮かべていた。
咄嗟に手を引こうとしたが叶わなかった。尋常でない力で手首を押さえつけられている。
腹を鋭い痛みが走り抜けた。短剣が深々と突き刺さっている。刃が隠れて見えない。今度は腹を思い切り蹴り飛ばされた。手から剣が離れた。力を抜いていたら文字通り天を仰いでいた事だろう。だが片膝を突いた姿勢で辛うじて踏み止まった。
顔を上げた。
男が串刺しにしている剣の柄を掴んだ。一息では引き抜けなかった。腕で抜くには剣が少し長過ぎる。鍔を足で蹴り飛ばすとようやく抜けた。乾いた音を上げて地面に落ちる。
「痛って~」
腹を抱えると体を屈めた。痛いでは済まない。死に直結する怪我だ。立っていられるのが不思議なくらいだ。全く呆れ返るばかりの生命力だった。だが重傷である事に変わりはない。治療に専念しなければしばらくまともには動けない。
心臓が音を上げて跳ねた。体の中心から全身に、末端に向けて血が拡散していく。鼓動が、血流の動きが手に取るように判った。血管が脈打つ度に視界が赤く明滅する。時間の経過と共に赤が占める面積の割合が増えていく。拍動に呼応するようにして吐き気が込み上げた。拭った腕が真っ赤に染まる。
足が前に動いた。自分の意思に依るものなのか無意識なのか、それすら判らない。視界の中にいる男がこちらを見て眉を潜めている。不意に男の目が愕然と見開かれた。
拳に何かが当たった。倒れていた男は跳ね起きると急いで、いや慌てて距離を取った。ヤバい、辛うじてそう聞き取れた。何がヤバいのか、それに疑問を感じる前に体が動いていた。
男に飛び掛かった。力任せに拳を叩きつける。頭も体も急所も骨も関係ない。目の前にいるものを、動くものを殴る。いや破壊する。そうしなければもう収拾がつかない。猛りを鎮められない。
獣のような咆哮が随分遠くから聞こえた。
もう何も考えられなかった。視界が、意識が次第に赤で埋め尽くされていった。




