五日目 ~夜~ その七
指先で紙を弾くような音を上げて落ち葉が散る。その中心を獣染みた速さで男が突進している。足の運びが見えない。だが動きそのものはまだ充分目で追える。
男が勢いを殺さずに左に跳んだ。まだだ、動くには早い。反射で動くべきではない。動きをつぶさに観察した上で初めて反応する。それで充分間に合う。そう、この程度ならば。
逆手に持っていた短剣が脇腹に飛んで来た。凌ぎで受け止めた瞬間、右の拳が左頬を掠めた。後ろに跳んで間合いを開ける。頬骨の辺りから滴り落ちた血を拭う事もせず前を睨んだ。
「当たったと思ったんだけどな」
当てが外れたように、或いは失敗をごまかすように頬を掻いている。あまり悔しそうには見えなかった。
「流石にいきなり一発入るほど甘くはないか」
「余程の馬鹿でもない限りな」
半歩、間を詰めた。そのまま一気に踏み込む。
抜いた刃は振り切る前に止められた。受けた凌ぎの向こうで男が笑っている。
「確かにな」
唇の端が上がった拍子に歯が覗いた。黙っていると極端なくらい老けて見えるのに笑うと年相応になる。
剣が弾かれた。吸い込まれるような勢いで距離を置かれる。
間合いの外に取り残されても別段焦りは感じなかった。距離はまた詰めればいい。そこから攻撃を加えれば済む、それだけの事だ。
何より、こいつの場合は更に間合いに踏み込まなければならない。それが出来なければ手の届かない距離から一方的に嬲り殺しにされる。
男が更に中太刀を抜いた。それを短剣と十字に交差させる。
男の上体が、顔が急激な勢いで拡大した。勿論体の一部が自在に伸縮するハズがない。間合いが猛烈な勢いで狭まったのだ。
今度は下から斜め上にかけて振り上げられた短剣とこちらの剣が交差した。逆手に構えていた中太刀が眼前を通り過ぎる。首を反らしていなかったら目を潰されていた。勿論見えているからこそ出来る事だ。何の問題もない。
曲げていた膝を伸ばして後ろに跳んだ。
男の踵が折り畳んだ右腕に当たったのはその直後だった。突進の勢いを、体捌きを全て攻撃に転化する。無駄はないが外した時の隙が大きいのも事実だ。
だからこうして胴体を真っ直ぐに突くように蹴る。的が広ければ外す事もかわされる危険性も低くなる。下手に足を振ればそれこそ斬られかねない。当然状況に応じてそれを使い分けるくらいの冷静さも備えている。
見た目ほど馬鹿でも単細胞てもなさそうだった。
だがむしろこちらの方が好都合だった。勝負を楽しむなら単調なものより変化に富んでいる方が遥かに楽しめる。
受け止めた右腕が軽く痺れている。体重と勢いを余す事なく踵に載せている。
「なかなかいい蹴りだな」
「そりゃ光栄だ」
全く嬉しくなさそうな声だった。顔を歪めたままウンザリした表情でこちらを睨んでいる。
右腕に持ち換えた剣を斜めに振り降ろした。中太刀で受け止めた瞬間、硬い感覚が腕を通して体に伝わる。それが消えるより先に更に一歩踏み込んだ。横向きに放った蹴りが男の胸に当たった。いや、折り曲げた腕が間に挟み込まれている。
「受けるのも上手いな」
「嫌味ったらしい奴だな」
今度は本当に顔をしかめた。やっぱり馬鹿は扱いやすくていい。
武器に依る攻撃が全てではない。五体全てを使って的確に攻撃する。それが体に刻み込まれた攻撃の型だった。
そしてこいつもそれは同様だ。五体全てが武器であり凶器でもあり、受けを含めた一挙一動全てを攻めに変える。確実に相手を仕留める、それが目的であり存在意義の全てだ。
そして、それはこいつも例外ではない。
障害と成り得るものを排除するために生み出された人の姿をした人の紛い物、己の血に全てを捧げた化け物、いや人に非ざる者だ。
白い刃が突き刺すように光を放った。
半歩退いた。受け止めるのではなく受け流す。その方がこちらも攻撃に転じやすい。
刃が鼻先を掠めた。踏み込もうとした瞬間、身を沈めていた男が更にもう一歩踏み出した。脇腹の短剣を一気に振り抜く。
右の脇腹を刃が掠った。
逆手に持っていた剣を体を前傾させる勢いに載せて前に突き出した。この距離ならば踏み込むまでもない。
男が後ろに跳んで距離を置いた。左の上腕から滴っている血には目もくれない。骨には達したのは感触で判った。だが切り落とすには到底到らない。致命傷には程遠いものがある。
「間合いを計り損ねたか?」
それこそいろはのい、基本中の基本だ。得物の長さが把握出来ていなければ当たるものも当たらない。だがこいつの場合それが判っていないような事は有り得ない。
「つくづく嫌味ったらしい奴だな」
男が仏頂面で睨み付ける。
一発目に続いて二発目までかわされるとは考えていなかったのかも知れない。体が流れていたらその向きを急激に変える事は非常に難しい。いや、不可能と言い切ってもいい。凍結した路面で滑ったら背中を地面に叩きつけられるのを待つしかない。体を捻って転倒を回避する反射神経など普通の人間にはない。よくて精々受け身を取る程度だろう。それでも相当なものだが。
だがこいつは突きが放たれた瞬間、切っ先の延長上に跳んだ。体の動きや向きを急激に変える事は出来ないまでも、剣が刺さる深さは最小限に抑えている。体が流れ切っているあの状態でここまで回避出来れば上出来だ。並の相手なら胴体を横から串刺しにされている。
風が勢いよく吹き抜けるような音がした。
地面を無理矢理縮めるようにして間合いが狭まる。間合いに浸入するギリギリ手前で剣を真横に薙いだ。案の定空を切った。最短でかわすとなると身を沈めるしかない。そこ目掛けて真っ直ぐ短剣を伸ばした。
そこも空を突いた。手には何の感覚も返って来なかった。
刺すような痛みと共に右の脇腹、切れた外套の隙間から血が噴き出した。
最初の横薙ぎをかわされるのは既に折り込み済みだった。だが二撃目の突きが巧くなかった。最少の動作でかわせる所に向けて反射的に動いていた。相手の動作を見た上での反応ではない。
通り過ぎる間際に短剣で脇腹を斬られたのだ。安易に反射で動いた代償だ。だが程度としては極軽い。
ある程度その気にはなっている。だが互いにまだ本気になった訳ではない。その過程だ。
「やられたらやり返す」
刃に僅かだが血が付いていた。滴り落ちた血が夜の闇の中に消える。
「何だ、一発入れただけでもう勝ったつもりか?」
「まさか」
そこまで単純だったら盛大に笑ってやるところだがこいつもそこまで馬鹿ではない。飽くまでそこまでは、と言う程度だが。
糸の切れた操り人形のように男が全身から力を抜いた。剣を握る事はしているが全く構えを取っていない。それでも隙はなかった。やがて背景に溶け込むようにして体の輪郭か薄れていく。
男の姿が完全に消えた瞬間、落ち葉が僅かに音を上げて舞った。今度は真横で枯れ枝が弾けた。当然気配は感じる。音も聞こえる。だが姿を視覚で捕捉するのは相当困難だった。さっきとは比較にならないくらいに速い。
背後に立っていた木が揺れた。
飛び退きながら身を翻した。
視線を上げるのと男が木を蹴飛ばした勢いでこちらに飛び込んで来たのがほぼ同時だった。
右手で振り抜こうとした剣の動きが止まった。柄の上に男の右足が押し当てられていた。しかも剣を抜き切る遥か手前で動きを止められている。当然左手は鞘を握っている。この状態では攻撃を捌く事も出来ない。
舌打ちしようとした時、案の定顔の右側を景気よく蹴り飛ばされた。
「剣を抜くのが速すぎるんだよ」
男は足音も立てずに着地すると宙に浮かせた短剣を右手に持ち変えた。浮かれるように笑っている。明らかにこの状況を楽しんでいた。
「動きが読みやすいからこっちは助かるけどな」
「そりゃ結構」
歯に潰された唇から血が滴っていた。拭った指先を濡らしている血を舌で舐め取る。
長剣の刀身を舐めるように観察する。切っ先にまだ僅かに血が付いていた。外套の袖口で拭き取った。当然血で汚れたが気にならなかった。そのまま長剣を鞘にしまった。左手に短剣を持つと逆手に構える。
男は一瞬戸惑うように眉を潜めた。何故本来の得物であるハズの長剣を手から離したのか、その意図を図りかねていた。しばらく迷っていたようだが、男も中太刀を鞘に収めた。そうだ、その方がこちらにも好都合だ。
耳の奥で血管が喧しく脈打っている。だが煩わしさは微塵も感じなかった。指が、腕が微かに震えている。だが断じて恐怖に依るものではない。
男の両目が愕然と見開かれた。五間はあった距離が一瞬で無にされたのだ、流石にこいつでも多少は驚くか。だが表情に焦りや動揺はない。それが看て取れるくらいの余裕がある。
首筋を狙った一撃は相手の凌ぎで止められた。間髪入れずに放った左の拳が男の右の脇腹、肝臓に入った。体が宙に浮いた。横目で睨むと僅かに顔を歪めていた。
たたらを踏む事もなく軽く後ろに跳んで距離を置く。一旦離した距離を自分からすぐさま縮めた。僅かに左に傾いたと思った男の体が右に跳んだ。目眩ましか、小賢しい。残像が見えるくらいの速さだが目で追うには全く支障はない。
唐竹に振り降ろされた短剣の一撃が鍔の根元で止まった瞬間、短剣を押さえつけながら左に退けた。無防備に晒された顔に向けて拳を突き出す。首だけ曲げて拳をかわした。間を開けずに攻撃を仕掛けているが直撃は殆どない。攻め一辺倒の単細胞と言う訳ではなさそうだった。防御や回避に関してもかなり高い水準の技術を身に付けている。そうならなければ早々に彼岸に旅立つ事になる。当然と言えば当然だ、驚くには値しない。
敵を仕留める事だけが役割ではない。戦闘で生き抜く術も養わなくては意味がない。そして確実に敵を排除する。だが別にこいつは排除すべき対象ではない。それでもこうして互いに刃を向けるとなると、理由は一つしかなかった。
丸太を全力で振り回したような蹴りが脇腹ギリギリを掠める。押さえつけられた短剣を無理矢理振り払おうとするよりもこちらの方が遥かに効率がいい。
必然的に間合いが離れた。逆手に持った短剣を胸の高さに構える。対する向こうも点対照に同じ構えを取ったまま黙ってこちらを睨んでいた。
踏み込むと同時に一気に最高速まで加速した。上下左右から撃ち込まれる斬撃の全てを退きながら凌ぐ。垂直に撃ち降ろした一撃が刃の上で止まった瞬間、腕の隙間から拳を突き入れた。男が顔から血を噴き出しながら状態を仰け反らせる。拳に返って来た感覚が軽い。拳が当たる前から既に上体を反らしていた。動きが速いだけでなく身のこなしも軽い。そのまま後方に宙返りして間を開ける。攻撃で受けた衝撃をすぐさま回避に転換する。転んでもタダでは起きないと言うか、見かけに依らずしたたかだ。裏を返せばそれだけ経験を積んでいる顕れでもある。この男が身に付けた生き残るための術だ。
「かわせたと思ったんだけどなあ」
鼻から流れている血を指で絡め取る。効いているような様子はない。
「見込みが甘かったな」
「甘過ぎだ」
回避出来るような時間的な余裕はなかった。当たりこそしたものの芯に響くような一撃には程遠いものがある。
「速すぎてついていくのが精一杯だ」
「その割には綺麗に防いでるな」
「今もらっただろうが」
「浅くな」
誉め言葉だとしたら嬉しくないし嫌味にしては正直過ぎる。確信を持って言えるのは今食らった一撃すら歓迎している事だ。かわせなかった事に悔しさは感じていても相手に対する感情は全くない。回避出来なかったのは他ならぬ本人の責任だからだ。それをしっかり理解している人間の顔だった。そうだ、お前が未熟だからだよ。
「それにしても珍しいな。長剣使うなんて聞いた事ないぜ」
「これは飽くまで俺の型だ。他人にどうこう言われる筋合いはない」
「ま、そうだな」
短剣を右手から左手、左手から右手へと弄びながら楽しそうに言った。男は唇に垂れた血を舌で舐め取る。
「短剣のみでの戦闘は攻めの型の基本型だ。それは今お前が実践している通りだろ。それを扱いやすい形に変えているだけだ」
「基本を踏襲した上でそれを応用している、と」
「当然だ」
基本なくして応用は存在しない。押さえるべき処は押さえてそれを発展させる。それをどう形作るかは個人の力量次第だ。それが試されていると言ってもいい。
「今までのはお前に合わせてやっただけだ。感謝しろよ」
「攻めの型の基本だからな」
男は顔の高さに浮かせた短剣を逆手に持ち換えた。短剣を斜めに構えると腰を落とした。
「じゃ、お前の本当の攻めの型を拝ませてくれよ」
鼻で笑いたくなった。言われるまでもない、元よりそのつもりだ。
「その前にやる事があるだろ?」
「ああ」
静かに、ゆっくりと深呼吸する。寒気が走り抜けるようにして手が震えた。だが実際には体温が、いや血の温度が上昇していく。
視界全てが深紅に染まった。髪に意思が宿ったように波打ちながら逆立っていく。腕が、足が普段よりも明らかに厚みを増していた。
男を見る。
帽子の隙間から溢れている髪が赤く染まっている。白目の真ん中にある虹彩までもが血を垂らしたように赤くなっていた。肩や腕が体の内から迸る何かを懸命に押さえるように震えている。
血が、体が熱い。ようやく準備が整った。後はこれを解放するだけだ。短剣を鞘に収めると左手で長剣を抜く。
「それじゃ仕切り直しと行くか」
「そうだな」
男の両目がまるで火を灯したように不気味に光っている。だがそれはこちらも変わらないハズだ。
柄を両手で握り締める。曲げていた膝を伸ばした。
不気味に上げた唇の隙間から男の歯が覗いていた。それも本当に一瞬だった。
獣じみた勢いで男が飛びかかって来た。




