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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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五日目 ~夜~ その六

 出入口の目の前に男が一人立っていた。逆手に持った短剣を前に突き出した姿勢でこちらを睨んでいる。怒っている訳ではない。況してや不機嫌とも違う。今にも口を突いて出そうな不満を無理矢理押し殺すような顔でこちらを見ていた。

それも一瞬だった。

諦めたように溜め息を吐くと広間全体をゆっくりと眺め回す。

「相変わらずやる事が派手だな」

 血の匂いで充満している室内に足を踏み入れる。床を赤く染め上げている血に別段躊躇う様子もなく足をつけた。血の跳ねる音が耳に心地好かった。それで気が昂るほど餓鬼ではないが、小川のせせらぎや風が木々をそよぐ音より遥かに耳に馴染んでいる事は確かだった。

「もう少し慎みってものを持てよ」

 男が短剣を鞘にしまった。首を切断された、或いは頭を潰された死体を目の当たりにしても顔色一つ変えない。

「別にここに居合わせた全員を殺す必要もなかったんだろ?」

「居合わせた不運を呪ってもらうしかないな」

 わざとらしく首を横に振った。男の表情に大きな変化はない。流石にこんな露骨な挑発に乗るほと青臭くはないと言う事か。

 そしてこちらは殺す相手と生かす相手を取捨選択するほど甘くはない。一度敵として相対した以上、完全に排除する以外に選択肢は残されていない。

 男の視線が壁に串刺しにされた女の死体に移った。

「いくつか聞きたい事がある」

 男が被っていた帽子の鍔を少し上げた。若いのか老けているのか、改めて見てもよく判らない顔立ちだった。

「勿論、応えてくれるよな?」

 嫌とは言わせない、それを確信している態度だった。

 ま、それはそうだろう。今この場にいながらそこにすら理解が及んでいなかったら話す気がそもそも失せる。

「手紙には目を通してくれたみたいだな」

 男が忌々しそうに舌打ちした。

「それが目的でこれを寄越したんだろ?」

 ポケットから取り出した紙切れを指で弾く。確かにそれはもう用済みだ。今は尻を拭く程度の価値しかない。

「よくもまあここまで事細かに書けたもんだな」

 床に落ちていた紙切れを男が蹴飛ばした。血の海に落ちた紙が赤く染まる。

「どうやって調べた?」

「教えて欲しいと頭を下げただけだぜ」

「殴る蹴るの間違いじゃないのか?」

 奇妙な笑いが込み上げた。苦笑いとは明らかに違う。ただ不敵に笑ったつもりは更々ない。

「頭を垂れてもそっぽを向かれりゃ取るべき手段も変えるさ」

「だから地下室に監禁して殴る蹴るか」

 腕を折り、肋を砕き、顎と頬骨を粉々にした。少し痛みを与えれば茹でた貝のように口を開く。本当に楽な作業だった。属している組織に対しても忠誠心と呼べるような大層な代物など端から持ち合わせていない。

「身を隠す場所なら腐るほどあるからな。誰に迷惑をかける訳でもない、空いている場所を有効に利用させてもらったまでだ」

「廃屋の建ち並んだ一帯か」

 別にあの付近でなくても拘らなければいくらでもある。最悪、一旦この街から離れると言う選択肢もあるのだ。その間に街の情報を得る事は出来なくなるがそれを補う手段もなくはない。ただ手間がかかるだけだ。

「いつこの街に来た?」

「お前が来た日の早朝だよ」

 夜が明ける前には街にいた。浸入する時に見張りを一人始末したが障害にすらなっていなかった。こいつらかそれに気付いたのも相当時間が経ってからだ。既に判っていた事ではあるが改めてうんざりした。

 どうせ殺すならもう少し張り合いがある方がいい。

「それと、さっきお前がくれた言葉、それはそのままお返ししよう」

 男が露骨に顔をしかめた。馬鹿を相手にするのは疲れるが弄べるならまだ幾らかマシだった。おちょくる愉しさがある。

「食事の邪魔をされたのがそんなに気に入らなかったのか?」

「まともな飯にありつけたのはそれこそ数日振りだったからな。その席で騒がれたら誰だって怒るだろ」

 一人は腹を蹴り飛ばし、もう一人はゴミのように放り投げた。衆目の中でそんな事をされたらイヤでも目立つ。

「その翌日にはあの立ち回りか。全く以て忙しい奴だな」

「その陰で全員殺してるような奴に言われたかねえよ」

 鼻で笑うと男の眉根が僅かに引きつった。それもすぐ元に戻る。

「あの時物陰から探り入れてたな」

「観察してただけだ。お前にはいくらか興味があったからな」

 こちらの手駒として。結果的にはほぼこちらの思惑通りに動いてくれた。

 全く、馬鹿は扱いやすくていい。

「あの段階で既に拉致してた訳だろ? 全く手が速いな」

「大事な話を聞ける相手を殺されちゃ堪らないからな。善は急げだ」

「俺の用が済んでから拉致すればこっちに勘づかれるまで幾らか時間がかかったハズだ。その方がお前にとっても好都合だったんじゃないのか?」

 声を上げて笑った。無理に堪える必要も、況してやその理由もない。男が無遠慮に睨み付けているがそんなものは端から無視だ。

「それはお前の都合に沿った結果論だろ。まさか全員生かすなんて事は考えもしなかったからな」

「それこそお前の主観に塗れた考えだろうが。よく言うぜ、全く」

 溜め息が出た。全く心底呆れる。

「で、生かしておいたせいであんな愚物相手に傷を負うと。それだけじゃねえよな?」

 男の顔から表情が消えた。やっと気付いたか。

「俺達の力はみだりに人に見せられるような代物じゃない。感情もまともに制御出来ないような奴には話すだけ無駄か」

「それを悪用するような奴に言われる筋合いはねえよ。結界張って閉じ込めてから皆殺しにするんだからな」

「その言い方には語弊があるな。俺は飽くまで任務を遂行する上で使ったまでだ。それにこうしてその後の始末もつけてる。人の目に触れる事はあっても広まる恐れはない」

 絶対にな。男は相変わらず黙ったまま睨み付けている。

「ここに来たのはそれが目的か」

「仕事だよ」

 それ以外に何があると言うのか。こんな辺鄙な土地に流れて来るほど暇でも馬鹿でもない。そう、お前とは違う。

 今度は男の方がうんざりしたように溜め息を吐いた。帽子を脱ぐとガリガリ音を立てて頭を掻く。

「で、その仕事を消化するためにここまで回りくどい事をする、と」

「あるものを利用しただけだ。利用された立場としては不満か?」

 こいつにしてみれば愉快であろうハズがない。だがこちらは内心笑いたいのを懸命に堪えていた。

「皆殺しの後は拷問して殺した死体まで拝ませてくれたんだからな、感謝してるよ」

「道標まで用意してやったんだ、あれで見つけられなかったらお前の資質を本気で疑うところだな」

 もっとも、こいつが死体を、消えた一人を探しに行くかどうかは未知数だったが。見つけられなかったとしたらそれまでの話だ。任務を遂行する上で絶対に必要な事でもない。

「地下室で痛めつけた奴をわざわざ上に運んであれだけ出血させて殺すんだからな。ランプにマッチも階段に置いていくなんて、お気遣いもここまで来ると痛み入るを通り越して呆れ返るよ」

「お前一人が探しに行くと決まっていた訳じゃないからな、もしもの事態に備えておいたまでだ」

 こいつ一人だけならばランプなど使う必要もなかった。指先から火を灯せば光源としてはそれで充分事足りる。

「拷問した奴から必要な情報は得た。でもそれだけであそこまで精巧な図が描けるのかよ」

 見取り図の他に各階の人員の配置や人数、見張りの交代する予定や時間帯まで書き加えていた。余程の馬鹿でもない限り道に迷うような事にはならないハズだ。

「人の口から得た情報なんてものはそこまで信用出来るものじゃない。あとは俺自身の目で確かめる必要があった」

「確かめるってお前、わざわざ忍び込んだのかよ」

「いい加減な情報を提供して文句を言われたんじゃ敵わないからな」

 お前のような単細胞の馬鹿に。そうならなかった事に安堵を覚えるような事は絶対にないが、事を成すなら手落ちは避けたい。それだけの事だ。

「いつ忍び込んだ?」

「昨夜」

 その時の出来事を話すつもりはない。こいつにしても知る必要はない。

「ま、そのお陰でこうして無事俺も目的のほぼ半ばは達成出来た訳だからな」

 男が初めて表情を弛めた。老けた外見に似合わず人の良さそうな表情だった。

 突然それが不自然なくらいに神妙になった。帽子の鍔を指先で摘まむと下に引いた。

「あの子を、カティを助けてくれた事は本当に感謝してる」

 言葉だけでなく頭まで下げるおまけつきだ。見ているこちらの方が恥ずかしくなる。

「俺じゃまず間に合わなかった。お前がいなかったらもっと大きな怪我をしていたか、最悪死んでたかも知れない。本当に助かった」

「俺は少尉殿の娘を助けただけだ。お前に礼を言われる筋合いはない」

 神妙だった顔があからさまに引きつった。判りやすくていい。

「人がこうして頭下げてるってのによくそれを平気で台無しにするような事が言えるな」

「お前の主観なんてものはどうでもいいんだよ。ただ渡すものがあったからな、そのついででもある」

 折り畳んだ見取り図を娘の手枷の隙間に挟んでおいた。それに気付かなかったとしたら所詮その程度だ。後は自分でやるしかない。実際はそうはならなかったが。

「お陰で俺はこうして砦の中の様子を知る事が出来た」

「お前が下で派手に暴れてくれたお陰で誰の目にも触れずに標的を始末出来た」

 操り人形としては申し分無い。そう仕向けたのは他ならぬ自分自身だが。

「一つ気に入らねえのは最初から最後までお前の掌の上で遊ばれ続けてた事だな」

「それはお前が馬鹿だからだろ? 責任を俺に転嫁するなよ」

「はいはい、おっしゃる通りでございますよ」

 諦めたように肩を竦めている。

 だがこちらの存在には気付いていた。ただ尻尾を掴めなかった、いや掴ませなかっただけだ。

「で、目論見通りに俺を動かして無事にこいつらを始末した、と」

「そういう事だ」

 不意に開け放たれていた窓から風が吹き込んだ。充満している血の匂いが幾らか薄れる。

「お前の標的はその二人か」

「そうだ」

 男は首の千切れかかった女の死体と肉の塊を冷めた目で見下ろす。他のは兎も角、この二人は絶対に殺す必要があった。そう、絶対に。

「先に断っておくが、少尉殿のご家族を襲うように指示したのも吊るそうとしたのもその女の差し金だ」

 男は応えなかった。軽く開いていた掌を思い切り握り締めた。

「何の理由があってそんな事……」

「お前が知る必要はない」

 組んでいた腕を解く。小指の先で耳をほじるとフッと息を吹きかけた。男は黙ったまま死体を睨み続けている。

「それを知ったところで何がどう変わる?少尉殿と無関係ではないにしてもお前には預かり知らぬ話だ」

「本人以外に家族にまで手をつけるなんて、普通に考えなくても尋常じゃない。恨みか嫉妬か判らねえが、あの人がそんな恨みを買うなんて考えたくないんだ」

「そういう意味では安心していい。お前が今話したような事は一切ない」

 やれやれとでも言うように男が溜め息を吐いた。

「どうしてそう言い切れる? お前は一体何を何処まで知ってるんだよ?」

「ここに来る前に調べただけだ。この街がどんなところなのか、現状や誰が根城にしているのか、それも含めて色々な」

「腕のいい情報屋でも雇ってるみたいだな」

「国ぐるみで昔からしている事だ。特別な事は何一つない」

「国ぐるみ?」

 ようやく合点が行ったのか、こちらを見る男の目が僅かに鋭くなった。話の呑み込みが遅すぎる。

「特別に一つだけ言葉を添えてやる。あの女のした事は全てただの逆恨みだ。あの方は、少尉殿は自分の仲間や部下を守ろうとしただけだ」

 耳に入った言葉を、頭の中の情報を整理しているのか目が忙しなく動く。心当たりくらいならあるのかも知れない。だがこれ以上踏み込む気はない。

「仮にその女が生きていたとしたら、お前は今ここで何をしていた?」

「タダでは済まさなかっただろうな」

「とは言っても殺しはしないだろう? じゃ、少尉殿の娘が死んでいたら?」

 帽子の隙間から垂れている髪が微かに揺らめき始めた。男は興奮を鎮めるように胸に手を置いてゆっくり深呼吸している。

「感謝しろよ」

「何をだよ?」

「お前は自らの手を汚す事なく目的を達する事が出来たんだからな」

 男の顔から表情が消えた。だか感情までは押し殺せていない。

「生かすほど価値のある奴はここには一人もいない」

「生かす価値はなくても殺す必要がある事にはならないだろ」

「この女を生かすべきだったとでも言うつもりか?」

「違う。ただの屁理屈だよ」

 理屈はただの概念だ。それをねじ曲げたところで筋が通る訳ではない。

 そもそも、誰に理解される必要もないのだ。

「あの子が殺されていたらお前は間違いなくこの女を殺していた。この期に及んで綺麗事ばかり抜かすなよ」

「ま、そうだな」

 男は肩を竦めると軽く溜め息を吐いた。

 何かを、誰かをなくす事はそれほど重い。だが誰かの何かを奪う事には別段躊躇いを持たなかった。床に転がっている肉の塊を見る。こいつらと唯一共有出来るのはそこだけだ。

「少なくとも俺にはその女を殺す動機はあった。でもお前にそれがあるようには思えない。お前が殺した事に対して違和感を覚えるとするとそこか」

「肝心な事が判ってないんだな」

 溜め息混じりに天を、いや天井を扇いだ。だから馬鹿を相手にするのは疲れる。

「道理に合わない理由で人を手にかけるような輩を生かす必要はない。少尉殿は部下や同胞を守ろうとしただけだ。そんな方が恨まれる道理があったとしたら、さぞかし居心地のいい世の中だろうな」

 考えただけで反吐が出る。どんなものにも最低限通すべき筋と言うものは確実にある。それすら見失って誰かを巻き込みながら勝手に動き回るような奴だ、生かしておくべき理由など何処にもない。

「で」

「で?」

「その血塗れの肉の塊がこの街を襲った首謀者か」

「そうだ」

 完全に押し潰されていて人としての原型を留めていない。ここにはそれ以外にいくつも死体が転がっている。風が吹き込んだお陰でいくらか薄れたがまだ噎せ返るような血の匂いで埋め尽くされているのだ、真っ当な感覚の持ち主から言わせれば地獄絵図以外の何物でもない。

「この街に厄災をもたらした張本人だからな、念には念を入れて殺してやった」

「悪趣味な奴だな」

「自業自得だろ」

「それがお前の正義か?」

「さっき言ったハズだぜ」

頬にまとわりついていた返り血を指先で拭った。固まり始めた血を舌で湿らせる。

「仕事だよ」

「暗殺か」

「ご想像にお任せしよう」

 それを導き出せないほどこいつは馬鹿ではない。だが、この男が馬鹿である事に変わりはない。

「それと一つ」

「何だよ。説教なら御免だぜ」

「安心しろ。ただの一般論だ」

 人に説教を垂れる趣味はない。だが馬鹿を相手にする以上断りはいれておく必要はある。

「世の中には絶対的な悪は、明らかな誤りはあっても絶対的な正義は存在しない」

「言わんとしたい事は判るよ」

 男は鞘から短剣を抜くと切っ先で帽子の鍔を上げた。

「一応、理由くらいは聞いておこうか」

「手段や行動を正当化する拠り所になるのが目的だとしたら、それに誤りがあった場合はどうなる?」

「根底から瓦解するだろうな」

「対立する概念があるならどちらも正義でどちらも悪だ。人の歴史はその繰り返しだ。それが血の流れるような野蛮なものから少しずつ姿形を変えているだけでな。詰まる所中身は何一つ変わっちゃいない。目的が便宜的に正義を生み出す事になるなら、その正義の背反概念が悪なら、正義の数だけ悪が存在する事になる」

「正義こそが悪の源である、と」

「そう教わっているハズだぜ」

 俺らはな。最悪目的を持つ事は是としてもそれに正義を見出だす事は絶対に否だ。

「利害のある者同士がぶつかるなら善悪の闘いにもなるだろうが第三者には一切関係ない。どんな目的も、どんな正義も直接関わりのない人間にはどうでもいい事だからな。ただ、その闘いの過程で無関係な第三者が巻き込まれる事も往々にしてある。となると第三者にはその両方が悪だ」

「そんな御大層なお題目は抜きにしても明らかな誤りなんてものは何処にでも転がってる。それを改める事は必要でも正義は振りかざすな」

「そう教わった記憶はないか?」

「そうだな」

「だったら二度と俺の前で正義なんて言葉は口にするな」

 男はバツが悪そうに顔をしかめたまま首を竦めた。聞いていない、そして知らないハズがない。正義など振りかざすべきではない、正義こそが悪の源であると。

「こいつらかした事は誰がどう見ても絶対に間違っている。だから排除したまでだ」

 下に垂らしたままにしていた左手の指先を鳴らした。

 左手を中心に黒い靄が渦巻き始めた。渦の回転する速度が速まるに連れ、徐々にその大きさを増していく。手から放たれた黒い渦が血の塊と女の死体を覆い尽くした。耳をつんざくような轟音が響いた。全てが一瞬だった。床や壁には黒く焼けた跡が残されている。燃えカスはおろか灰すらない。完全に消滅していた。

「一ついいか?」

 短剣を弄びながら男が呆れたように言った。

「使う相手が違うんじゃないのか?」

「人に厄災をもたらす者を完全に消去すべし、その教えに従ったまでだ」

 人間の中にもその風上に置けないような輩は腐る程いる。それを排除する事に躊躇いなど感じない。

黒炎(こくえん)が使えるって事は、もう継承は済んでるんだな」

「半分な。それはお互い様だろうが」

「ま、そうだな」

 それに完全に制御出来ている。誰かと違って感情に呑み込まれて暴発させるような事はない。お前とは違うんだよ。

「で、聞きたい事はこれだけか?」

「そうか? 結構聞いたつもりだけどな」

 その割りには肝心な事をいくつか聞いていない。そしてしていない。普通の人間なら真っ先にすべき事を完全に素通りしている。敢えてそうしているだけかも知れないが。

「まあいい。こっちもようやく血が熱くなって来たところだ」

 剣を抜いた。柄を左手で握り込む。

「手合わせ願おう」

 そのまま踏み込んだ。あっという間に間合いが縮まる。上段に構えた剣を一気に振り降ろした。

 剣を握る手首の上に何かが載った。男の手だった。立った状態でかわされたのだ、上体を反らして。かわすと同時に手首を掴んでこちらの動きを封じている。少なくとも斬撃には移れない。

 横面に鈍い衝撃を感じた。蹴り飛ばされたのだ。そのまま後方に宙返りして間合いを開ける。体格に不似合いな素早さだった。

「いきなり斬りかかるなよ」

 抜いていたハズの短剣をいつの間にか鞘に収めていた。帽子の鍔を掴むと再び下に引く。

「礼儀知らずと非常識は嫌われるぜ」

 足がぶつかる瞬間に首を振って勢いを逃がしている。故に実際はそれほど効いていない。それはこいつも先刻承知だろう。

「ただ暑苦しいのは嫌いじゃないな」

 窓から吹き込んだ風が髪を揺らした。春の夜風にしては随分と冷たかった。折角火照り始めて来た体を冷まされては堪らない。

「場所を移そうぜ。ここじゃ狭い」

「そうだな」

 言うが早いか、男は窓枠に手をかける事もなく外に飛び出した。真っ暗闇の中に身を沈めると跳ねるようにして駆けていく。あっという間に見えなくなった。

 窓から身を乗り出すと壁を蹴って斜めに飛び降りた。落下の勢いを殺さず前へ進む。そこまで急いで走らなくても充分追いつける。

 月明かりと瞬く星以外に光源になるようなものはない。だが見るにしても動くにしても全く支障はなかった。むしろこちらの方が好都合だった。それは向こうも変わらないハズだ。

 闇に乗じて事が運ぶならそれに越した事はない。

 軽く走った程度では息は切れない。だが体は、血は確実に熱を帯びる。心の何処かでそれを待ち侘びている自分がいた。これまでは手応えが無さすぎた。溜まりに溜まった欲求不満が音を上げて噴き出しそうだった。いくらあいつを惨たらしく殺しても容易に解消出来る代物ではない。歯を全てと一緒に舌も引き抜くか両目を潰すか、考えればまだ方法はいくらでもあったハズだ。思い返そうとするだけで視界全体が真っ赤に染まる。まだ腹の中で煮え繰り返るものがある。それをぶつけるには丁度良かった。

 木が乱立する山道を駆け上がる。頂上に差し掛かる手前で獣のような速さで上り坂を疾走する黒い塊が見えた。

 坂を登り切った瞬間、視界が拓けた。獣道を更に広くしたような、人の往来は勿論大人数の人間が充分寛げるくらいの高台だった。頂上の縁から下界が見下ろせる。視界の片隅に砦の見張り台に灯っている火が微かに見えた。時折流れる風に木々がそよぐ。

 静かだった。

「いいところだな」

 場違いなくらい呑気な科白だった。普通の人間には憩いの場なのかも知れない。だがのんびり寛ぐために来た訳でも、況してや交友を深めるために足を運んだ訳でもない。

「昼寝するにはもってこいだな」

 そう、陽が昇っていれば。今は草木も眠るような丑三つ時だ。そんな時間に見も知らぬ相手とこんな所で何をしようと言うのか。

「そうだな」

 殺し合いには打ってつけだ。腰に差していた剣を抜いた。真向かいに突っ立っていた男が短剣を逆手に構えた。

 男の体が僅かに沈んだ。静止していた状態から一気に加速した男が突っ込んで来た。


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