五日目 ~夜~ その参
剣を振り下ろした瞬間、顔を弾かれた。もう何発殴られたのか判らない。苦し紛れに剣を振り回す事はそれこそ逆効果でしかない。無駄に痛手を被るだけだった。
「どうした?」
軽く首を傾げたまま殊更冷めた目でこちらを見る。首筋が熱を帯びた。
白刃が綺麗に弧を描いた。蝋燭の灯りを反射する間際に淡い光を放つ。剣の動きが強制的に止められた。鈍く重苦しい痛みが右の脇腹から全身へ拡散していく。完全に呼吸が止まった。
気付けばいつの間にか真横に薙いだ剣の柄が男の手の中にあった。そして体を起こす勢いを載せた拳を脇腹に叩きつけたのだ。勿論腰を入れる事も忘れてはいない。膝から力が抜けた。脇腹を押さえたまま蹲る。闘う相手にこんな姿を晒した事などこれまで一度もない。醜態以外の何物でもなかった。怒りで、屈辱で全身が震えた。窮地に陥った経験はある。だが今回のそれはまるで次元が違う。
動けば隙が出来る。故に動きを最小限に抑える事は間々ある。だが動かない事には攻撃を加えられない。動いたとしてもそれに相手が反応出来なければ何の問題もない。相手が動く前に仕止める、それがダイスの型だった。それに対し、こいつは典型的な前者だった。或いは今はそれを装っているだけなのか。自分からは全く動かない。こちらの動きに対してのみ反応する。基本的には突っ立っているだけだ。だが攻撃が当たった事を確信した瞬間にはもうそこにいない。そして逆にこちらが攻撃を加えられている。どう剣を振るおうとも間合いのギリギリ外で攻撃を回避し、直後に攻撃に転じる。まだ攻撃態勢にあるせいで奴とは対照的にこちらは絶対回避出来ない。無防備な姿を惜し気もなく晒しているのだ、やりたい放題間違いなしだろう。被弾する時間は極僅かだが。
だがそれも積み重なれば相当に大きな痛手になる。体力を根こそぎ奪われていた。立つ事はおろか、動くだけでも相当な苦痛を伴う。
唇の端から唾液を滴らせたまま奴を睨み付ける。臆した様子もなく実に悠然とした雰囲気を漂わせながら見下ろしていた。否、見下ろされていた。普通に考えなくても、相手が這いつくばっていたら真っ先に止めを刺す。稽古ならそこで試合終了だ。だがこれは競技でも勝負でもない。ただの殺し合いだ。その相手が膝を突いて呻く様を何もせず黙って静観している。
背筋に怖気が走ったかと思えば、次の瞬間には体中から汗が噴き出していた。立場がいつもと完全に逆だった。何故俺がいるべき所にあいつがいる? そこを退け。偉そうな目で見下ろしてんじゃねえよ。
腹を抱えたまま震える足で立ち上がった。気を抜いたらその場で倒れそうだった。あいつの目がどんなものかはよく判っているつもりだ。そんな目で俺を見やがって。
殺す、絶対に殺す。
剣を握り締めた。一気に剣を振り降ろす。否、降ろせなかった。例に依って奴の掌の上に柄が載っている。どうして、どうしてあれだけ速く踏み込んだのに、剣を振り上げたのにそれにこれだけ即座に反応出来る? ビビりも怯みもせず、落ちてきたリンゴを受け止めるようにして柄の動きを極自然に止めて見せた。
愕然と見開いた目に何かが映った。男の右手が振り上げている腕の間から何かが伸びて来た。それが顔の前で止まったかと思った時には後ろに吹っ飛ばされていた。背中から壁に叩きつけられる。頭がフラフラして動かせない、まともに働かない。何が起こったのか、何をされたのかも判らない。眉間を反射的に押さえた拍子に生暖かい何かが掌に付いた。血だった。 ようやくピンと来た。指で眉間を弾かれたのだ。所謂デコピンだ。普通は同じ事をされても精々少し痛い程度だろう。大の男が派手に吹っ飛ばされるような事などまず有り得ない。だが実際はどうかと言えば不様なくらい思い切り吹っ飛ばされている。しかも脚に来ていてすぐには立ち上がれない。その隙に更に痛めつける事も出来る出来るだろうにそれすらしない。
その必要がないのだ。その気になるまでもなく、いつでも息の根を止められる。
石礫の直撃を食らったような気分だった。あと少し力を込めていたら気絶していたかも知れない。それくらいに痛烈な一撃だった。指先で弾いただけでこの威力だ。これまでいいように殴っていたが、それすら子供をあやすようなものだったのだろう。軽く握り込んだ拳を当てるだけ、それがどうしてここまで堪えるのか。愕然とする気持ちを無理矢理抑え込んだまま男を睨み付ける。蔑むでもなく況してや憐れむ事もなく、冷めているのか疲れているのかよく判らない目で見下ろしていた。どうしてお前がそんな所にいる。早く退けよ、そこは俺のは場所だ。
「もう止めとけ」
うんざりしたように言った。相手にしたくもない、そんな態度だった。
「まだやるって言うならやふさかじゃねえけど」
ふざけるな。こんな中途半端な状態で退いて堪るか。こいつの額を地べたに擦り付けるまでは絶対に終われない。
転がっている剣を握った。足の裏全体で床を踏み締める。指にも足にもまだ力は入る。まだ終わりではない。
立ち上がると言うより起き上がるような感覚で体を持ち上げた。膝を深く曲げて体を屈めた状態から一気に加速する。左から右にかけて水平に薙いだ剣は綺麗に空を斬った。元々当たるとは考えていない。右足で思い切り踏ん張った、いや現実にはそれが利かなかった。それでもアッサリ諦める訳にはいかない。無意識に歯を食い縛っていた。返す刃で男の首を狙った。
男の目が剣の動きを追っていた。こちらの一挙一動をつぶさに観察している。男が後ろに軽く首を曲げた。直後に剣が音を立てて通り過ぎる。
呑気に驚いている暇はない。敗北は死に直結する。ここで動きを止めたらその段階で死が確定する事になる。多少動きが鈍っているとは言っても全力に近い速さで動いている。その全てを悉くかわされているのだ。しかも剣を抜く事すらしていない。そうするまでもないのだ、素手で充分対処出来る。何故そこまで速く動ける? 何故動きが全て見切れる?
剣を振った瞬間、男の背後にあった燭台が音を立てて弾けた。振り上げた剣がレンガを組み上げた壁を斬りつける。動けば動くほど、かわされればかわされる度に息が上がっていく。
踏み込もうとした拍子に足が縺れた。そのまま床に膝を突く。肩で、全身で呼吸する。顔や首筋から熱湯のような汗が一気に噴き出した。剣を掴もうとする指に力が入らない。膝は音を立てて震えている。体中が動く事を執拗に拒んでいた。肺も手足も動きについていけていない。今が練習や稽古ならばそれでもいい。これは競技でも勝負でもない、純粋な殺し合いだ。その途中に動きを止める事などあってはならない。一瞬でも背中を見せたらそれで終わりだ。だが体は全く言う事を聞かなかった。
背後の気配にも動きを見せるような様子は全く窺えない。勝ち誇るように見下ろしているのか呆れ果てて愛想を尽かしているのか。物理的にも気持ちの上でも全く相手にされていない。いつでも終わらせる事も出来るのにそれもしない。
「自分より強い人間なんてこの世にゴマンといるよ」
憐れむと言うより諭すような声だった。
「あんた、これまで一度もそんな風に考えなかったんだろ?」
全て見透かされている。邪魔立てする奴は全て切り捨てて、踏みにじって来た。結果が全てだ、過程は関係ない。目的のためなら手段は問わなかった。どうして自分を殺そうとするような奴に遠慮する必要がある? 一瞬でもそんな顔を見せたらすぐに足元を掬われる、寝首を掻かれる。そんな中で生き延びて来たのだ、多少なりとも自信にはなる。少なくともその世界でダイスに勝る者は一人もいなかった。
そこで培われた自信や経験の全てが音を立てて崩れようとしている。イヤだ、そんな事絶対に認めて堪るか。
「そこでしばらく寝てろよ。その方がお互いのためだ」
体はその言葉に応じようとしていた。息苦しいし体もまともに動かない。だが心は執拗に拒んでいた。敗北を受け入れろだと? ふざけるな。いつまでそこで見下ろしてる? さっさと代われよ、そこは俺の場所だ。
足を踏み出す度に万力で締め付けられるように胸が苦しくなった。全く回復していない。膝を突いていたのは時間にして数十秒がいいところだ。全快するには程遠い。
剣を振り降ろす直前に柄を握り締めた。
男が僅かに間合いを詰めたと思った瞬間には顔が弾かれていた。
「二度目の警告だ」
顎の下に構えた拳を暇を持て余すようにブラブラ振っている。利き手で、右手で思い切り振り抜かれたら一体どうなるのか。
「もう容赦しねえからな」
破れかぶれで振り回した剣など当たるハズがない。周囲を、自分を落ち着いて観察するだけの冷静さも残っていない。後悔した時には鼻っ柱に思い切り拳がめり込んでいた。
これまでとは痛みの度合いが全く違う。奥から激痛が血に混じって溢れ出て来た。
鼻骨を粉々に砕かれた。痛みと息苦しさで眩暈がした。
「今のは女将さんの分だ」
鼻を押さえた指の隙間から血が滴り落ちた。真っ赤に染まった床を見下ろすだけで一向に顔を上げられない。
それでも諦め切れなかった。敗けを認めたくなかった。
踏み込むと同時に鞘にしまっていた剣を居合いの要領で一気に抜いた。何の手応えも反応もなかった。よく見れば目の前にいたハズの男の姿も消えている。人が煙のように姿を消せる訳がない。
下を見た瞬間、腰が抜けそうになった。膝を折って斬撃をかわした男が下から睨み付けていた。地響きのような音が鼓膜を揺るがした。男が思い切り足を踏み込んだのだ。そこに腰の捻りを加える。
左の拳が脇腹に、肝臓に突き刺さった瞬間、体が宙に浮いた。呼吸も完全に止まる。床に膝を突くとそのまま崩れ落ちた。血の混じった胃液が口から溢れ出た。独特の悪臭が周囲に漂う。
もうボロボロだった。よく、こんな風にボロボロになった相手を散々嬲り者にしていた。爪を剥がし、指を折り、歯を砕いた。命乞いする人間を別段意に介する事もなく斬り捨てて来た。
その全てが我が身に振りかかって来ている。
顔を上げた。体を起こした。右の脇腹を左手で押さえたまま前を睨み付ける。
男が僅かに踏み込んでいた。右足を横向きに振り上げている。軸足の左足には体重が残っているような気配は全くない。
男の右足の脛が左の上腕に直撃した。喉の奥から絶叫が轟く。左の上腕骨が真ん中から綺麗にへし折られた。喘ぐように息を吸い込む。どれだけ空気を取り込んでも肝心の肺には一向に酸素が入っていかなかった。
「これがアリスのだな」
何を言っているのか判らない。折られた腕を押さえながら朦朧とした意識のまま床を眺める。
ハッとした。こいつが何を目論んでこんな事をしているのか、ようやくそれに気付いた。ならば、これで終わりではない。むしろこれからの方が遥かに激しい痛みを伴うハズだ。
全身が震えた。だがさっきまでとは意味合いが全く違う。この得体の知れない男に対する、純粋な恐怖だった。
これまで敵に背中を向けた事は何度かあった。だが戦略的な撤退であって純粋に逃亡した事は一度もない。こちらが一人に対して複数で襲われたら流石にまとめて対処する事は出来ない。一旦退いて一人ずつ確実に片付ける。そういうやり方で窮地を脱した経験はこれまで幾度もあった。だが一人の相手にここまでいいように弄ばれた事など一度もない。一発当たるどころか掠りもしない。そして相当手加減している。指で弾いた所が眉間ではなく鼻っ柱だったら、指を弾くのではなく指先で急所を、眼球を突いていたら。今にしてもそうだ、殴る手にもう少し力を込めていたら間違いなく骨が砕ける程度では済まない、骨が粉末になった上で内蔵が綺麗に破裂する。どう少なく見積もってもそれくらいの力は間違いなく持っている。
そんな人間がその気になって殺しにかかって来たのだ。本気になるまでもなく、手足に少し力を込めるだけで充分事足りる。
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような気がした。
死を意識した経験もある。全てを楽観的に捉えるほど能天気ではない。窮地に立たされてもそれをひっくり返せる希望の一つか二つくらいはどんな時でも、どんな所にも転がっていた。だが今はその手掛かりになるものすらない。あるのは希望ではなく絶望だけだった。剣を握る指にも力は入らず、膝は疲労と震えで満足に立つ事すら叶わない。そしてこいつにはダイスを痛めつける、いや殺すだけの動機もある。その上力の差は歴然だ。百戦錬磨の軍人が子供を相手にしたとしてもここまで一方的な展開にはならないに違いない。一矢報いるくらいの健闘は見せるかも知れない。
腕は折られ体もまともに動かせない。状況を打開出来るだけの材料があるとはとても思えない。体の芯から震えが来た。このまま死ぬのか。いや、死んで堪るか。死ぬのはお前の方だ。
震える膝に手を添える事も出来ない。それでも立ち上がった。殺されるのを黙って待つほど馬鹿ではない。
「根性だけは認めてやるよ」
男が何度か軽く頷いた。右手一本で握っていた剣を振り降ろした。遅い。ハエが止まりそうだった。難なくかわされた直後、鈍い衝撃と共に左の肋が軋んだ。握り込んだ右の拳を肋に叩きつけられたのだ。返す拳が右の肋にめり込んだ。また息が止まった。ただでさえ折れやすい肋に腰の捻りを加えた拳が二発、しかもダイスのように経験の中から我流で身につけたものではない。間違いなく格闘術の手解きを受けている。それも相当に高い水準の。素手で人の命を断つ事などこの男には造作もないのだろう。
ならば何故剣を差す必要があるのか。これではただの飾りではないか。酷く自虐的な気分になった。抜くまでもないのだ。素手でここまでいいようにいたぶられているのだから。
「折れた肋を肺に突き刺すなんて器用な真似は流石に出来ねえからな」
膝を突いた。この短時間の間に何度そうしただろう。それほどの決定的な攻撃を加えられて立ち上がれる自分も大概だが。それくらいに負けるのが、そして死ぬのがイヤだった。誰に対しても負けたくなかった。それ以上に舐められる事が耐えられなかったのかも知れない。そういう奴から真っ先に片付けて、いや潰していた。ここにお前の居場所はない、それを知らしめるために。
別に大した愛着などなかったが、そこに堂々と侵入して来た正体不明の輩にいいように弄ばれている。ここは俺の居場所だ、他所者は出ていけ。本来ならば五体を切り刻んで外に放り出しているところだ。
それがまともに触れる事すら出来ずに膝を突いている。
氷の上を歩くように慎重に、だが大胆に足を踏み出したかと思った時には左の太股を横から蹴り飛ばされていた。薪なら数本は軽く叩き折れそうなくらいに見事な下段蹴りだった。一瞬大腿骨が折れたかと思ったが、触れると骨は真っ直ぐなままだった。苦痛にのたうちながらだらしなく唾液を垂らす。折れていなくても尋常でないくらいの痛みに苛まれている事に代わりはない。
「本当は膝を叩き折ってやりたいけどそうしたら立てなくなるからな」
冷ややかに見下ろす。表情に初めて明確な感情が混ざった。何処に欲求を抑制する理由があるのか判らない。だがもし実行に移していたらこの程度の痛みでは済まなかったハズだ。
太股に宛がっていた手を思い切り踏みつけられた。満足に悲鳴を上げる暇もなく脇腹に爪先が入った。
「偉そうに痛がるなよ。こうしてこれまで何人も殺して来たんだろ?」
邪魔な奴は、そして殺そうとする奴には一切容赦しなかった。そんな事をしていたら次は自分が殺される。生存競争の世界に待ったなど存在しない。
血反吐を吐きながら男を睨み付ける。
仮にこいつはそんな血で血を洗うような世界に縁がなかったとしたら、こんな人を超えたような力を一体何処で得たと言うのか。
「お前、何者だ……」
呻くような声だった。声が出るだけまだマシだろう。並みの人間ならとうの昔に失神している、いや死んでいる。
「お前には関係ない、と言うかどうでもいいだろ」
これ以上ないくらい的を射た返答だった。この男が何処の誰なのか、ダイスには何の関係もない。その逆もまた然りだ。
男の手が短剣の柄に触れた。そのまま一気に引き抜く。膝を突いたかと思った時には肩を、より厳密には鎖骨を貫かれていた。声を上げる暇もない。刺した時と同じようにして引き抜くと今度は反対側を刺した。
「が……」
喉の奥から無理矢理絞り出したような声だった。大声を上げるだけの体力も残されていない。
「動脈は外してある」
僅かに纏わりついている血を払うと剣を鞘に収めた。
「運が良ければ助かるだろ」
腕は折られ、肋は砕かれ、いいように殴られ続けた顔は腫れ上がるを通り越してすっかり形が変わっているに違いない。潰れた鼻は完全に塞がっていて本来の用を成していない。
そして今度は鎖骨を両断された。運の良し悪しではなく適切な治療を施さなければ確実に死ぬ。
「今まで散々好き勝手にやって来たんだろうが、それもこれで終わりだ」
鳩尾に爪先が入った。口から何か吐き出した。血なのか胃液なのか、それが何なのかも判らなかった。
「殺さないのかよ」
見下ろす男の目が更に冷たくなった。それだけで空気が音を立てて張り詰めた。
「代わりに残りの腕も折ってやろうか?」
心底ゾッとした。一思いに止めを刺されるなら兎も角、これ以上苦痛が増すのは耐え難かった。
「この期に及んで強がるなよ。死ぬ度胸もない癖に」
出来る事なら、いや絶対に死にたくなかった。こんなところで一生を終わらせる気は更々ない。隙があれば反撃を試みるだけの気概はあるが、この男には肝心の隙もなければそれを可能にするだけの体力も残されていない。
「ま、それ相応の報いは受けるべきだよな」
無防備だった顔を思い切り踏みつけられた。多少その気になってやれば頭蓋ごと潰す事も容易いに違いない。それでも相当に痛い。それこそ気が狂いそうになるほどに。
「吐き気がするくらい醜い顔になったな」
おめでとう。何がめでたいのかさっぱり判らない。顔を完全に潰された。僅かに開いた目で男を睨み付ける。
「今ここで殺さないなら、いつかお前を殺しに行くぞ……」
強がりでもハッタリでもない。勝つどころか一撃もまともに入れられなかった。骨は折られ潰され砕かれた。顔は既に原形を留めていない。屈辱以外の何物でもなく、こいつを殺すだけの明確な動機にもなる。
男がしゃがみ込んだ。
「そんなに暇じゃねえんだ。用が済んだら戻って来るから取り敢えずそれまで大人しくしてろ」
騒ぐとか黙るとか言った問題ではなくそもそもこの状態では動けない。声を出すだけで相当に苦しい。肋が砕けているのだから当然だ。
これ以降に顔を合わせる機会があるとすれば。
それはこいつを殺す時だ。捲土重来なんて堅苦しい言葉は必要ない、ただの復讐だ。俺にはこいつを殺すだけの理由がある。
「そんな事を言ってるようじゃ更正なんか望むべくもないな」
当たり前だ。邪魔な奴を殺す事しかして来なかった奴に己を顧みる姿勢などある訳がない。恐怖心も勿論まだある。だが復讐心がそれを遥かに凌駕していた。
「最後の警告だ」
ポケットに両手を突っ込んだまま男が腰を直角に曲げた。諭すような穏やかな雰囲気など欠片もない。完全に馬鹿にしていた。実際それだけの事をしているしして来た。これまで誰一人としてそうさせなかっただけの話だ。
それを今夜、根底から覆された。
「少し真っ当に生きてみろよ。それすらせずに俺を殺しに来るって言うなら別に止めはしねえが、」
狭い空間の温度が極端に下がった、ような気がした。男が冷ややかな目で睨み付けていた。肩が、全身が震えている。
「その時は全力で殺してやる」
こいつにはそれを可能にするだけの力がある。何故それをここで使おうとしないのか。こいつは蹴るか殴るかはして立てなくなるくらい痛めつけてはいても誰一人殺していない。ダイスもその内の一人に過ぎないのだ。
腕が、握り締めた拳が震えた。だが今は断じて恐怖に依るものではない。
男が立ち上がった。相変わらず冷めた、いや馬鹿にし切った目で見下ろしていた。
殺す、絶対に殺す。ここで殺さなかった事を後悔させてやる。睨み返した。こいつにはビビる理由など何処にもない。相変わらずそんな目で見下ろされている。屈辱でしかなかった。
お湯に砂糖が溶けるようにして少しずつ意識が混濁していく。だがそれに反して殺意だけが大きく膨れ上がっている。殺す。血が出ている訳でもないなに視界が真っ赤に染まった。その奥であいつが薄っすら笑っているように見えた。
顔全体が完全に腫れ上がった上に不格好に変形していた。瞼もすっかり膨れ上がっているせいで目を閉じているのか開いているのか、一瞥しただけでは判然としない。ただ意識がないのは間違いなかった。これだけ一方的に殴られてよく立っていられたものだ。それでも相当手加減していたが。たかが烏合の衆でもそれをまとめ上げるには最低限これくらいの器は必要だろう。
それで相手になるかと聞かれたらそれはまた別だが。
確かに他の連中と比べれば相当に秀でたものを持っていた。人を殴る事、蹴る事、そして殺す事にこれと言って躊躇いを持たない。こいつには飽くまで作業の一つに過ぎず、感情が介在する余地など最初からない。そういう人間もそこまで珍しくはない。自身が生き残る事が全てであって他を顧みる事はしない。こいつもそんな類いの一人に過ぎない。外道である事に代わりはないが殺すほどでもない。
誰か一人でも殺していたら話は別だが。もしそうなっていたらこの程度では済まさなかった。四肢の骨を粉々に砕いた上で斬り落とすか腹をかっ捌いて内蔵を引きずり出すか、およそまともには殺さなかった。殺した事を心の底から後悔させて、恐怖に震えてもらわなけれは困る。そうでなければわざわざ殺す意味がない。
だが、そうならなかった事に安堵を覚えていた。
ゆっくり息を吐き出した。完全に意識を失っている男をもう一度見下ろす。この男を生かす価値は欠片もないが、それ故に殺すと言う選択、いや考え方は非常に乱暴で危険だった。最初にそれを教えられた時は漠然としか理解出来なかった。仮にそんな考え方が罷り通れば世の中はそれこそこいつのような人間で溢れ返る。こいつはこれまで邪魔な相手を、不要な奴を殺し続けて来た。こいつを生かす必要などない。だがそれでこいつを殺す事に躊躇いを感じなかったらこの男と何ら変わらない事になる。こんな外道と同じ穴のムジナなるなど考えただけで吐き気がする。
こいつを生かす事で他に害が及ぶ危険性も大いに考えられる。それ故に始末すると言う考え方もあるだろう。だがそれで手を下せるかと聞かれたとしたら、やはり素直には頷けなかった。危険か否か、それを決める権限など誰にもない。殺す事に大義が存在する事はあっても正義は絶対にない、大義があったとしても殺す事を正当化する理由にはならない、それを履き違えるな。昔聞かされた言葉が耳の奥で甦った。
倒れている男の顔に唾を吐きかけた。目を覚ますような気配は全く窺えない。
周囲には広間で雑魚寝するように兵隊が転がっている。全員をここに誘き出す事が出来ていれば目的の大半は達成した事になる。だがそれを確かめる術がない。あるにはあるが、ここから離れるしかない。
侵入した直後には我先にと駆けつけていた兵隊が今は一人も来ない。階段の前にいた見張り二人は真っ先に片付けている。少なくとも地下牢に駆け込むような時間は絶対に与えていない。殿を務めていたこいつも排除したのだ、これ以上兵隊がここに来る事はないだろう。
帽子の鍔を掴むと下に引いた。廊下の角を曲がろうとした時、視界の片隅に何かが映った。
誰かが倒れていた。体を中心にして周囲に血溜まりが広がっている。絶命している事は明らかだった。これだけ出血しているところを見ると、動脈か、或いは心臓を完全に破壊されているかの何れかだろう。痛めつけるなどと言った中途半端な雰囲気など欠片もない、最初から完全に殺す気で事に及んでいる。
いや、そんな次元すら遥かに超えている。
砦の門の目の前には二階へ続く階段がある、ハズだ。確認するの煩わしかった。目で見れば判る事だ。階段までは見た目以上に距離があった。踏み締めるようにして歩を進める。
階段の縁から血が滴っていた。それが床一面を真っ赤に染め上げている。階上を見上げた。狭い階段に人が倒れていた。目に入るだけでも三人いる。どいつもこいつもピクリともしない。
上から重い何かが落ちるような音が聞こえた。それが階段を降りるようにして階下に近付いてくる。
落ちて来たそれがこちらを向いた。
切断された人間の生首だった。




