五日目 ~夜~ その弐
階下へ続く階段を降りる。さっきほど騒がしくはない。もう粗方片付いた頃だろう。別に焦る必要もない。やる事は既に決まっているのだ。
早く現場に向かえ。そう言われた訳ではない。だが目は明らかにそう訴えていた。だが当然それに従う義務はない。義理はあるかも知れないが。だが動くかどうかの決断は自分にしか出来ない。部下になった覚えもないし、契約を取り交わした訳でもない。単に互いの利害が一致したに過ぎない。そんな稀薄な関係に過剰に期待を持ち込まれても困る。そういう最低限の道理を理解出来る程度の頭は持ち合わせていた、それだけの事だ。それすら判らないようならその場で殺している。
踊り場から一階に出る。
廊下の隅に誰かが倒れていた。付近の床一面が真っ赤に染まっている。完全に絶命していた。確かめるまでもない。脇腹から胸にかけて斜めに鋭利な刃物で突き刺した痕があった。ほぼ即死だ。これで生きていたら人間ではない。
顔に見覚えはあった。ただ印象は薄い。荒事も争いも好まない、よく言えば平和的な、悪く言えばこの環境にはそぐわない奴だった。話した記憶も数える程しかない。死んで当然だった。環境に適応しようと言う意思すら窺えなかった、淘汰されるのは目に見えている。実際この通り死体になってご対面だ。馬鹿な奴だ。
家族と言えるものは一応いたのかも知れない。だがその記憶はない。思い出そうとした事もない。最も古い記憶は死体の隣で食糧を貪り食っている自分の姿だった。すぐ脇には血に塗れた石が転がっていた。普通の人間にして見れば充分異常な光景に違いない。だがそれもすぐに馴染んだ。全てに於いて生き残る事が最優先された。それ以外は不要だった。生に直結しないものには何の価値もない。生まれている以上親はいたに違いない。どういう経緯で一人になったのか、それを知る術もない。親がいようがいまいが、捨てられたのか引き離されたのか、それを知ったところで腹が膨らむ訳ではない。そんなものよりも道端に転がっている石ころの方が余程価値があった。身を守る武器として、相手の息の根を止める凶器として。
懐には相手を痛めつけるための何かを常に忍ばせていた。最初は石だった。それがやがて短剣に変わり、最終的には剣になった。もっともそうなると懐にはしまえないので腰に差す事にしたが。
要求に従わない相手は取り敢えず殴った。痛めつけるだけ痛めつけた後、こちらの要求を改めて伝えた。大抵の相手はそこで終わる。だが中には往生際の悪い奴もいた。そういう奴は動かなくなるまで殴った。単に殴る蹴るするだけではなく、何処をどう殴れば効果が高いのか、痛みを持続させるにはどう蹴ればいいのか、そんな事を常に漠然と考えていた。一瞬でも気を抜けば明日は我が身だった。いつ立場が逆転してもおかしくない、そういう環境に身を置いていた。当然の事ながら居心地は最悪だった。いつ寝首を掻かれるか判らない。中には絶対服従を誓う奴もいるにはいたが信じ試しは一度としてなかった。安易にそういう事を口にするような輩は何かあると決まって真っ先に裏切った。最初から判っていた事だったし裏が取れた事はむしろ喜ばしかった。一段落着いた後、ゆっくりたっぷり痛めつけて裏切った事を後悔させてから、断末魔の悲鳴を聞きながら殺した。環境が人を作ると言うが本当にその通りだ。吐き溜めのような腐った環境があったからこそ今の自分がいる。綺麗事や絵空事の中でしか生きて来なかったような奴には到底理解し難い考えだろう。それが理解出来る程度の客観性はあった。一欠片のパンを奪い取るために斧で手首を斬り落とす、それが当たり前のように日常に転がっていた。住む家も出迎える家族もなく、あるのは空腹と腐った世界に対する形のない憎悪だけだった。
今思うとそれも若気の至りと言うところだろう。或いはガキの青臭さが抜けていなかっただけなのか。何れにしても、そういう事を考える事が既に時間の無駄なのだ。結論の出ない事をいつまでも考えると言う行為そのものが馬鹿のする事であって、全く以て救いようがない。それに思い至った時、柄にもなく頬が熱くなった。慚愧に耐えない。
生き残りたいと思えば取るべき行動も必然的に決まる。いつしかそれ以外はほぼ考えなくなった。腰を据えてゆっくり周りを見渡せた時、初めて時間の使い方について考えた。今日はあっても明日があるかは判らない。今はそれまでの暇潰しでしかない。
廊下の角を曲がった。
斬りかかった一人が顔面に拳をもらった。派手に吹っ飛ばされる。残っていた最後の一人は剣を構えたままガタガタ震えていた。
抜いた剣をそのまま背中に突き刺した。
胸から突き出ている剣をしばらく見下ろすと背後に首を捻った。どうして殺されなければならないのか判らないのだろう。恐らくこいつには一生判らない。一生も何も、この瞬間にこいつの一生は終わったのだ。頭がこんがらがったまま死ぬのもまた一興だろう。自業自得だ。
背中を蹴飛ばすと派手に前に吹っ飛んだ。受け身も取らずに倒れる。
鍔のある帽子を深く被っているせいで表情は窺えない。そうする事が目的なのかも知れない。侵入者が帽子の鍔を少しだけ上げた。想像していたより遥かに物騒な目付きだった。
「初めまして、ではないな」
話はこれまで何度も耳にしている。だが実物をじっくり拝むのはこれが初めてだった。そう、あの時はホンの一瞬だった。間違いなく背中を撃ったハズだがかこれだけ動けている処を見てもほぼ治っていると判断すべきだろう。大いに不可解だがダラダラ考える暇はない。
「こいつ、お前の仲間なんだろ?」
「まさか」
笑いが込み上げた。こんな風に自然に笑ったのは一体いつ以来だろう。
侵入者の眉間に僅かにシワが寄った。
「ただこの街に、砦にいた、それだけだ」
「一般的にはそういう関係は仲間って言うんじゃないのか?」
「一つ教えてやるよ」
自然と唇が上がる。明らかにこの状況を楽しんでいた。
「それはお前の主観であって客観じゃない。自分の主観や知識を根拠もなく一般化するのは自分すら見えない馬鹿のする事だ」
「それこそお前の主観だろ? じゃ、お前もその馬鹿の仲間入りって訳か」
声を上げて笑った。これから殺す人間とこんな下らない禅問答をする事になろうとはついぞ考えもしなかった。
「それに、主観や客観云々言うより感覚の問題だな」
別にこいつの意見を積極的に肯定するつもりはないが言わんとしたい事は理解出来る。それだけ自分は異端なのだ。そういう世界で生きて来た。朱に交わらなければ生き残れなかった。理想は幻想でしかなく、現実には成り得ない。それでもまだ夢を見ようとするのはただの偽善者だ。俺は違う。現実を受け容れて生きようとしているだけだ。目の前に広がる光景は事実であってそれが覆る事はない。たた、こんな人間でも思い描いた未来を実現させるための行動は起こして来た。それが生存であり、障害の排除だ。今回もそれと変わらない。障害を排除する、それだけの事だ。珍しさも真新しさもない。邪魔立てする人間の息の根を止める、それこそガキの頃から何度となく繰り返して来た事だ。
床に転がっている兵隊を冷めた目で見下ろす。意識はなくても息はある。それが大半を占めていた。死体は一つしかない。それが地下牢の階段の周囲にゴミのように散らばっている。
「ここの位置はどうやって知った?」
「ここ?」
「どうしてここが牢屋の入口だと判った?」
砦の西側の展望台にいた二人を投擲で排除した後、塀と壁を乗り越えて最短距離でここに辿り着いている。場所を把握していなければまず出来ない。
「それを知ったところで何がどう変わるんだ? 実際こっちは既にここに来てるんだぜ?」
ここを、地下牢の入口を押さえた時点でこいつは目的の半分をほぼ達成したようなものだ。後は勝手に寄り集まって来た馬鹿共を片付ければいい。行き止まりを背にして掛かってくる敵を迎え撃つ、一見しただけでは自分から袋小路に飛び込んだようにしか見えない。だがそここそがこの砦と言う特殊な場所に於いて奴の格好の狩り場だったのだ。そして誰一人としてそれに気付かなかった。実際、動ける兵隊全員をこいつは戦闘不能にしている。まんまと誘き出されてやられていたのでは火に飛び込んで焼け死ぬ虫と変わらない。
馬鹿の集まり、烏合の衆にも劣ると思っていたがまさかここまで馬鹿とはついぞ考えもしなかった。こいつを片付けた後に一人残らず始末しよう。やはりつるむ奴は選ぶべきだ。
不意に奇妙な違和感を覚えた。ならば、さっき見たあれは一体何なのか。ここにこいつが作った死体は一つもない。だが廊下の角には生暖かい死体が転がっていた。本当についさっきまで生きていた、出来立てホヤホヤの死体だ。襲って来た兵隊は律儀に生かしているのにここから離れている方は何ら躊躇う事なく死体に変えている。ここから離れる? それは絶対に有り得ない。ここで兵隊全員を片付けなければ意味がないのだ。仮に激しい便意を催したとしても全員始末しない限りこいつはここから動かない。
頭に浮かんだ可能性を高い順に並べる。整理が済むまで然程時間はかからなかった。
まあいい。何がどうあれ、こいつを殺す事に変更はない。ダイスの中では立派な既成事実だ。それ以外の事はその後にゆっくり考えればいい。
「お前、何しに来たんだよ?」
男が呆れたような顔をしてこちらを見ていた。恐ろしく老けてはいるがまだ若い。挑発にしては雰囲気が些か素直過ぎる。多分感じた事をそのまま口にしただけだろう。
「その言葉、そっくり返そうか」
お前こそこんな所に何しに来た? 察しはつくが聞くだけ野暮と言うものだ。確かにそれを可能にするくらいの力は間違いなくある。黙って見届ける気はないが。
「取り敢えず、お前を何発か殴りに来た」
冗談ではなさそうだった。果たして殴る程度で済むのか、そこが大いに気になるところではあるが。
「あと、お前らの頭の面も拝んでおきたい」
「好きにしろ」
尊顔を拝するような大層な輩ではない。それはこいつも重々承知の上だろう。
少し離れた所に立っていた男の姿が陽炎越しにものを見るようにして歪んだ。角砂糖がお湯に溶けて消えるようにして視界から姿を眩ましたと思った瞬間、右の頬に鈍い衝撃を感じた。首を捻って衝撃を逃がす暇もない。
歯で口の中を切ったのか、唇の端から血が滴り落ちた。辛うじて繋がっていた頬がパックリ裂けて血が溢れ出す。拭った右手の甲が真っ赤に染まった。
「好きにした」
すぐ目の前に男がいた。引き戻したハズの拳の動きすら見えなかった。構えを取る事もなく悠然と距離を詰める。
「ホントに好きにしていいのかよ」
心底呆れたような口調だ。今度はあからさまな挑発だった。
踏み込むと同時に抜いた剣を真横に薙いだ。かわすには間合いが詰まりすぎている。
だがかわされた。すぐ左に男が立っていた。剣を引き戻せるだけの時間もない。
無防備な横っ面に拳がめり込んだ。
「顔の形変わっちまうぜ?」
軽く握り込んだ拳を当てているだけだ。だが石を、いや鉄の塊を叩きつけられているかのようだった。
咄嗟だったせいで加減が出来なかった。思い切り踏み込んで斬りつけたのに当たるどころかかすりもしなかった。そしてこいつはその全てが見えている。
人間の反射速度には厳密に限界がある。目に見えていたとしても体がついていかない、そこが限界だ。だが、それを超えて動けるとしたら。
いや、そんなハズはない。そんな事が可能だとしたら、そいつは最早人間ではない。
すぐさま頭に浮かんだ考えを打ち消した。そんな事があって堪るか。人間でなければ一体何だと言うのだ。
「それなりに腕は立つみたいだな」
感情を逆撫でするには充分だった。誰かを殺す事はしても熱くなった記憶などもう何年もない。無駄でしかないからだ。
「で、何人も殺して来たと」
呆れたように肩を竦めている。蔑むと言うより憐れむような目を向けられた。
「たまには逆の立場を経験してみるといい。少しは肥やしになるだろ」
ダラリとぶら下げていた剣の切っ先を上げた。だが普段からそうしているように構えは取らない。どうやって殺すか、頭にあるのはそれだけだった。




