五日目 その拾九
左手に持っていたお盆を少しだけ持ち上げると空いた右手でドアを叩いた。はい、と言う返事が中から聞こえた。
「ウォッカさん、食事をお持ちしました」
「ありがとうございます」
ドアを開ける。ウォッカはベッドの前に置いた椅子に腰を下ろしていた。まんじりともせずにカティを見詰めている。
「いかがですか?」
「もう、傷は全て治しました。後は体力が回復するのを待つだけです」
両目はピッタリと閉じられている。微かに聞こえる息遣いが確かな生を感じさせた。改めて、心の底からホッとした。娘は間違いなく生きている。失いかけた我が子をこうして取り戻す事が出来たのだ、気を張っていないと安堵のあまり膝が折れそうだった。
「少し、休んで下さい」
布巾でテーブルを拭くと器を置いた。まだ温かそうに湯気を上げている。
「そうですね」
力を抜くようにしてウォッカが笑った。
「冷めちゃったら美味しさ半減しちゃいますもんね」
「その通りです。そんな事になったらアリスが怒りますよ」
誰よりも一生懸命に、そして楽しそうに作っていたのはアリスだった。美味しいの作ろうね。野菜を刻みながら、フライパンを振るいながら、無邪気に笑っていた。
ウォッカが箸を取った。野菜炒めを挟むと口に運ぶ。
「うん、美味い」
茶碗に盛られたご飯を一気に掻き込んだ。思わず頬が綻んだ。元気いっぱいに食事をしているところが一番ウォッカらしかった。
「ミリアムとアリスは?」
「ミリアムはイリナを、アリスは妻をそれぞれ見ています」
まだ意識を取り戻す兆しはないが。目を覚ますまで、傍から離れないに違いない。
「ご主人も、傍にいてあげて下さい」
「はい」
こうして生きてここに戻って来てくれた。それだけで充分だった。またみんな揃って食卓を囲みたかった。肩を並べて料理を作りたかった。みんなで過ごせる日常に、一秒でも早く戻りたかった。
でも焦る必要はない。
目を閉じている娘の手を握った。温かかった。間違いなく生きている。目を覚ましたら真っ先に抱き締めたかった。
「ウォッカさん」
気付けば立ち上がっていた。ウォッカは箸を咥えたまま驚いたように目を丸くしている。
「本当に、ありがとうございました」
それ以外に言うべき言葉が見当たらない。感謝してもし切れなかった。今こうして立っていられるのも、妻や娘達を抱き締める事が出来るのもこの大飯食らいの大酒呑みのおかげなのだ。
「ご主人」
ウォッカが箸を置いた。食器は粗方空になっていた。
「顔を上げて下さい」
反射的に顔を上げていた。その拍子にウォッカと目が合う。笑っていた。本当に穏やかな笑顔だった。
「俺が出来る事を最大限やっているだけです」
「同時にあなたにしか出来ない事でもあります」
治療器具や包帯もないのに傷を癒せるなんて一体誰が考えるだろうか。そういう稀有な能力を持っているならば誰かのためにそれを使う事はある意味当然と言えるのかも知れない。ウォッカが頭を下げられる事を嫌がる理由が少し判ったような気がした。
「自分から命を絶つ人も中にはいますけど、基本的に率先して死のうとする人はいないですよね。誰だって死ぬのは怖いし懸命に生きようとする。その背中を押してるだけ、と言う風に考えてます。自殺を図った人を助けた経験がないんで判らないところもありますが」
仮に本当に死のうとした人がいたとして、救助する事で未遂に変える事が出来たとしたら、果たしてその人は怒るのだろうか。想像した事すらない。
無意識に拳を握り締めていた。
「生きようとしていた、娘のそんな背中を押してくれたからこそ今こうしてここにいてくれている、そんな風に考える事は難しいですか?」
「どうお考えになるかはその人次第です。俺には肯定も否定も出来ません」
初めてウォッカの受け答えに苛立ちに近いものを感じた。乱れ始めた前髪を掻き毟る。
「あなた自身も、助けたいと思ったんですよね?」
根拠はない。でも確信はあった。消えようとしている灯火を前にして傍観を決め込むような真似は絶対にしない。それが彼に与えられた、或いは委ねられた責任だからだ。
この不器用な男は馬鹿みたいに大きな肩にそれだけのものを載せている。そしてその重さを身に沁みて知っている。だからこそここまで懸命に誰かを救おうとしている。裏を返せばそこまでの覚悟がないならこんな力は得るべきではない。
ウォッカの力にはそれだけの重みがある。決して軽々しく扱えるような代物ではない。
「血を分けて誰かが助かるならいくらでも差し上げます。飯食って酒呑んで寝れば元に戻りますから」
実に簡単に言ってくれる。ただ食事と睡眠で人の体が維持されているなら力を使う事がその延長線上にある事に変わりはない。
「だから気にしないで下さい。余程の事がない限り命も骨身も削りません」
はいそうですか、では遠慮なくと言えるほど神経は太くない。誰であれ、無理はさせられない。
「おかわりをお持ちしますか」
「いえ、もう結構です」
食器は全て綺麗に空になっているがウォッカが食べる量としては相当少ない。こんな話をした後だけに余計に心配になってしまう。
「何かあったら呼んで下さい」
立ち上がるとドアに向かって歩いていく。
「どちらへ?」
「部屋で少し仮眠を取ります。何かあった時は起こして下さい」
本来ならばごゆっくりと言うべきところだろう。だが何と声をかければいいか判らなかった。店と学校の往復から始まり、昼前には街の中心まで馬よりも速く全力疾走し店に戻れば休む間もなく傷の治療だ。相当目まぐるしい一日だった事は疑いようもない。ウォッカでなかったら一体どうなっていたのか。
この部屋で休んで欲しい気持ちもあった。何かあった場合すぐ対処する事が出来るからだ。だが肝心の寝る場所は既に塞がっている。ご一緒にどうぞとは流石に言えない。
「それじゃ」
「ごゆっくり」
静かにドアが閉まった。
静寂が部屋を満たした。耳に入るものと言えば娘の息遣いくらいのものだ。
横たわる娘の顔を覗き込む。助けた直後には頬に真新しい切り傷やアザがあったが、全て綺麗サッパリ消えている。後は目を覚ますのを待つばかりだ。精神に異常を来すような、心に傷が残るような暴行を受けていなければいいが。後は無事を祈るしかなかった。
背後からドアを叩く音がした。
「父さん、入るよ」
返事を聞くよりも先にアリスがドアを開けた。キョロキョロと部屋の中を見回す。
「あれ? ウォッカさんは?」
「つい先程部屋に戻られたよ。少し仮眠を取るそうだ」
「そっか、仮眠ね」
納得するように頷いた。一日中あれだけ動き回って何の疲労も感じていないとしたらもうそれこそ人ではない。
昼間、広場で真っ赤に染まった髪を風になびかせていた、いや蠢かしていたウォッカの姿が脳裡に甦った。
錯覚でも何でもない。紛れもなく現実に起きた事だ。それを素直に受け入れられる程の柔軟性は本来ないが、目の前で見せつけられた以上認めざるを得ない。やはり彼は普通の人間ではないのだろう。それとは明らかに違うものを持っている。
そして。
あの男はそれを全て知っていた。どうして全く面識のない人間の素性を知っているのか。それはウォッカに限った話ではない。何故奴らがカティを拉致したのか、恐らく殺そうとした理由も把握しているハズだ。報いは受けさせる、あの時確かにそう言った。そして間違いなく実行に移す。それだけの気迫を、いや殺意を感じた。
どうやって実行するかなど想像もつかないが。普通に考えるなら止めるべきだろう。綺麗事以前に完全な部外者であるその男に不用意に掻き回されたせいで人質に危険が及ぶのは絶対に避けたい。ただ考えもなく闇雲に動くほど軽率にも見えなかった。何より、これまで完全に陰に徹していた男が姿を現したのだ、ただ姿を晒すだけで済ませるような間抜けな真似をするとは到底思えない。何かしらの意図はある。それが何なのか想像する事すら出来ないが。
何れにしても、まだ全てが終わった訳ではない。一番肝心な部分がまだ解決していない。動くとするならば、それは一体いつなのか。
「父さん」
声をかけられて我に返った。アリスが妹の顔を見詰めたまま両手を握り締めている。
「今夜はずっとカティの傍にいたいの。いいかな?」
子供がおもちゃかお菓子を必死にねだるような顔をしていた。もう何年もこんな顔は見ていない。本当に傍にいたくて仕方がないのだろう。
アリスの頭に手を置いた。
「止める理由なんか何処にもないよ」
好きにしなさい。そう言って頭を撫でた。子供のように無邪気な顔をして笑う。
「ミリアムは?」
「イリナ姉のところ。心配で堪らないみたい」
まだ意識を取り戻していない。心配して当然だ。
となると今一人なのは妻だけと言う事になる。
「ライザのところに行って来る」
目が覚めたら真っ先にカティの無事を伝えたかった。それに意識が戻った時に部屋に一人ぼっちではあまりに可哀想だ。
お盆に手を伸ばすとアリスが首を横に振った。
「それは私が下げておくから。父さんは早く母さんのところに行ってあげて」
やっぱり家族だ。考えている事は変わらない。そしてみんな温もりに飢えていた。一人でいる事が寂しくて辛くて堪らないのだろう。たまにはそんな夜があってもいい。
「後は頼んだぞ」
娘は力一杯頷いた。頭を撫でると年齢を疑いたくなるような顔で笑う。姉妹の中で一番感情に火が点きやすいのは間違いなくアリスだった。だから、その分嬉しい時はそれをこうして惜し気もなく表に出す。反応としては一番清々しかった。抱き締めたら一体どんな顔をするだろう。
ドアを閉めると一目散に妻の部屋に向かった。ノックもせずにドアを開ける。ランプで灯した灯りの中に、妻が横たわるベッドがあった。ベッドの脇にある台にランプを置く。少し迷ったが灯りは点けたままにした。光源ではあるが眩しすぎるような事はない。無理矢理起こすような真似はしたくなかった。
灯りに照らされた妻の横顔を見る。まだあの時の面影が残っていた。それはそうだ、同じ人間なのだから。妻として、それ以上に母親として充分過ぎるくらいにしっかりと娘を育ててくれた。娘達がまだ小さかった頃は大変だったが、今は四人がいてくれて本当に良かったと思う。
目が覚めたら真っ先に伝えたい事はもう決まっている。でもそれ以外にも言葉に変えたい気持ちがあった。
妻の手をそっと握る。肩を抱く腕が微かに震えていた。
酒瓶を掴む。だが空のグラスに注ぐ事はせずそのままテーブルに置いた。これ以上呑んだとしても酔うとは思えない。だが酒に逃げたところで既に現実に起きた事はもう覆らない。
「何だと?」
最初に報告を聞いた時は耳を疑った。一体どう信じろと言うのか。内容が頭の中にまでなかなか浸透しない。
「ですから、処刑に失敗しました……」
首を吊るとは聞いていた。だが絞首台を置いただけでは住民に妨害される恐れがある。だから柵を張るよう指示したのはロイドだった。柵の前に帯刀した兵士を等間隔に配置すれば迂闊に近付けない。武器も持たない住民が妨害する事などまず不可能だ。
それが何故失敗するのか。信じろと言う方がおかしい。
「経緯を説明しろ」
結果が最も重要だがその過程が見えない事には話にならない。捕らえていた人間を衆目の中で殺すだけの到って簡単な作業だ。それが失敗する道理がそもそもない。
そしてそれに輪をかけて信じられないのが居合わせていたほぼ全員が何故失敗したのかを明確に説明出来ない事だった。
曰く、吊るそうとした瞬間、絞首台が轟音と共に崩れ落ちた。仮に娘を吊るせなかったにしても首に巻かれていた縄がそのままならばやり方に依っては窒息させる事くらい出来たかも知れない。或いはその高さから落下していたら打ち所次第では即死に到る事も充分に考えられる。だがその瞬間に娘がどうなったのか正確に把握していた者も皆無に等しかった。
崩れた絞首台の傍に誰かが立っていた。腕にはつい今しがた吊るそうとしていた娘を抱えていた。首に絡んでいた縄を切り絞首台を切り崩しす、とても一人でこなせる芸当ではない。その誰かは柵の一部を切り裂くと外に出た。その時障害を二つほど排除した。より厳密に言えば兵士二人の首を一太刀で切り落とした。間近で目撃した者は何人もいたが、太刀筋が見えた者は誰一人としていなかった。剣を抜いて斬りかかろうとした時には振り上げた両腕と一緒に首が宙に飛んでいた。
それを聞いた瞬間、背筋に怖気が走った。
どうやったのかは判らない。だがその男が絞首台を切り崩した事は間違いない。そして一刀の元に二人の首と腕を瞬時に切り落とす。そんな人間がそこら中に普通に彷徨いている訳がない。
あの男の仕業だ。それ以外に考えられなかった。存在をちらつかせながらも陰に徹し続けていた男がついに姿を現したのだ。そして例に漏れずこちらの兵隊をついでのように始末してくれている。
それだけではない。
その後件の男は柵の外にいた旅の男に娘を返した。絶対的優位な状況を覆されたばかりか人質を奪還されたのだ。その時、二人は、いや三人は何かを話していたようだが遠巻きに眺める事しか出来なかったような奴らに話の中身を聞き取れる訳がない。何より、背中を撃たれていた旅の男が翌日には何事もなかったかのように普通に動き回っている。命に別状はなかったとしてもしばらくはまともに動く事も出来ないハズだ。それが何故当たり前のように動けるのか。
宿に行った連中も残っていた娘を拐えなかったばかりか殆どまともに動けないような状態で戻って来た。鼻は潰され顎は砕かれ、歯を粗方叩き折られた奴もいた。帯刀していた男五人が完膚なきまでに叩きのめされたのだ。しかもその相手を聞いて愕然、いや慄然とした。
「生きてたんだ」
鼻を潰された兵士は震えながら言った。
「あの女は昨日鎖骨を串刺しにされたハズだ。それが当たり前みたいな顔して立って歩いてやがった」
瀕死の重傷を負っていたハズの人間がたった一晩で蘇生していた。絶対に有り得ない。だから誰も考えない。完全に予想外の事態だった。
だが相手は二十歳にも満たない女一人だ。ある程度腕に覚えがある男が五人揃いも揃って軽く一蹴されるなど普通は考えられない。しかも相手は素手、こちらは帯刀していたのだ。更に娘は完全に無傷のようだった。失神していた五人に止めを刺す事も出来ただろうにそれすらしていない。無益な殺生は好む処ではないのか、それとも余裕の顕れなのか。
瀕死の重傷がたった一晩で全快していた事は勿論だが、いくら手練れとは言え手負いだった娘に全く太刀打ち出来ていないのだ。有能とは言い難いが女一人にまともに相手にされないほど弱くはない。
「動きが全然見えなかった」
肩が、全身が震えていた。思い出すだけで身が竦み上がるくらいならば相当な恐怖に違いない。
「俺が踏み込んだ瞬間、あいつの拳で鼻を潰された。一瞬で詰められるような間合いじゃなかった」
潰れた鼻を、歯の折れた口を手で覆ったまま言った。歯が折れ、顎が砕けているせいで正確に何を言っているか聞き取るのに相当難儀した。当然の事ながら当分は使い物にならない。
二番目、三番目の妹にしても傷が癒えていると言う報告が上がっている。宿に行った連中と同様、本人から直接やられたのだ、これ以上正確な情報もないだろう。
今日だけで死亡が二人、戦闘不能が十一人、行方不明が一人だ。昨日も三人殺されている。日を追う毎に確実に戦力が削られていく。まともに動けるのは二十人も残っていない。夜の見張りも減らさざるを得ない。外よりも中を固めなければ確実に陥落する事になる。
何より、あれだけの重傷を負っていながらたった一晩で全快していた理由がまるで掴めない。質の悪い手品でも見ているような気分だった。潰したハズの戦力にこちらの戦力を潰されている。しかも人質すら奪還されたのだ。まだ他の人質は手中にあるとは言え、被った痛手はこちらの方が遥かに大きい。
呑気に動揺している暇はない。相手の出方を、そしてこちらが取るべき手立てを考えなければ。酒を口に含みたいところだがそれでは頭が回らなくなる。
ベッドの脇に置かれていたテーブルから誰かが酒瓶を掴んだ。震える手でグラスに注ぐと一気に煽る。当然呑み切れるハズもなく激しく噎せた。砦に戻って来てからジュリはひたすらこれを繰り返していた。震える手で酒を注ぐ、無心で煽る、激しく噎せる。確実に動揺していた、それも相当激しく。単に酒に逃げているだけだ。
「何があったんだ、あいつは」
横目で睨み付けたが当然気付くハズがない。頭からスッポリ毛布を被ったまま熱病にかかったように震えている。
「何でも、死の宣告を受けたそうですよ」
聞くところに依ると、件の男が娘を助けた後、馬車の幌にいたジュリを睨み付けたと言う話だった。それだけで何がどうなる訳ではないとも思うが、本人曰く「明確な殺意を感じた」ようだった。
「私は、私は何も間違ってない。間違ってなんかいないわ……」
さっきから譫言のように呟き続けている。一体どんな根拠を以て自分を正当化しようとしているかは判らないが、ほぼ間違いなくこの女が間違っている。だが同情するつもりなど更々ない。
「悪いのはあの男よ! そうでしょ!」
同意を求められても困る。そもそも二人の係わりなど最初からロイドの関知する処ではない。知るかよ、そんな事。
それが他人事で済むならいい。本当にあの男がジュリを殺すのであるならば、それはここに奴が来ると言う事に他ならない。ジュリを殺す事、それが、それだけが奴の目的なのか。それ以外にもあるとしたら、それは一体何なのか。
「姐さん、取り敢えず少し落ち着きましょう」
宥めようと歩み寄ったダイスの肩をジュリが掴んだ。体を激しく前後に揺する。
「ダイス、お願い! あなたなら何とか出来るでしょ? 今はここにいて!」
「別に何処にも行きゃしませんよ」
一見愛想良さそうに笑っているが感情が欠片もこもっていない。そしてそれを見抜く冷静さなど、今のジュリには望むべくもない。
「取り敢えず、酒でも呑んでて下さい」
酒瓶とグラスと握らせるとおしゃぶりを与えられた赤ん坊が泣き止むようにして少しだけ動揺が収まった。今この女が精神を安定させるには酒に頼るしかないのだ。こうして人は何かに溺れやがて中毒になっていくのだろう。今はその入口にいる。
奴にジュリを殺す理由がある以上、間違いなくここに来る事になる。それだけならばこの女を突き出して済ませたいところだ。だがそれだけで終わるとは到底思えない。主たる理由がジュリにあるのか、或いはそれは何かのおまけでしかないのか。ならばここに来る本当の理由は何なのか。
ジュリは頭から毛布を被ったままグラスを握り締めてガタガタ震えている。ダイスに目配せをすると部屋の隅にあるテーブルに移動した。あの女なら今は何を話しても右から左だろうが単に近くにいられるのが鬱陶しかった。
「どう見る?」
椅子に腰を下ろすと窓の外を睨んだ。陽はとうに落ちて今はすっかり暗くなっている。木々が風に微かにざわめく音しか聞こえない。静かなものだった。
「間違いなく来るでしょうね」
事の他アッサリ頷いた。確かにそれを否定出来るだけの材料もない。
「ただ姐さんを殺すためだけにわざわざこんな所に来ますかね」
言わんとしたい事は判る。あの女を殺す事だけが目的なら行動に不可解な点があり過ぎる。昨夜は目撃される危険性も省みず砦に忍び込み、今日に到っては吊るそうとした娘を助けた。これまでは一貫して人の目に触れる事を避けていたような人間がそれを自ら覆して表に姿を現した理由がそれだけと言うのは少し物足りない気がする。
そして、足枷として拉致した人質を奪還されたばかりかその代わりとして拐おうとした娘に完膚なきまでに叩きのめされている。少なくともこちらには旅の男を足止め出来るだけの材料も失った事になる。奴が攻めいるなら格好の好機だろう。それがこちらには同時に危機になる。
「中の守りを固める」
「今出来る事は精々それくらいですね」
悔しいが返す言葉がない。まともに動ける兵力も限られている。全て片が付くまでは守勢に回らざるを得ない。下手に外に出れば中が手薄になるからだ。そこを攻め込まれたら終わりだ。形勢が一気に引っくり返される事になる。
ダイスは部屋の隅に立て掛けていた剣を掴むとロイドに投げて寄越した。
「ご自分の身はご自分で守って下さいね」
言われるまでもない。互いに一蓮托生だが死に際して添い遂げる義務などない。頃合いを見計らって切り離す。これまでそうやって生きて来た。それを今更改める必要も理由もない。だから今こうしてここにいるのだ。
そしてこの男もそこに極々近いところにいる。人に尽くすような義理も忠義もない。今この瞬間を楽しめさえすればそれでいいのだ、刹那的と言うより享楽的な生き方だった。楽しめるだけのものがなくなればいつ寝首を掻かれてもおかしくない。こいつはそういう男だ。仲間として行動を共にするなら実に心強いがそれが一生続く保証など何処にもない。そう遠からずこの関係も終わりを迎える。
「どう動くかは俺が決めます」
だからお前の指図は受けない、言外にそれを匂わせるような言い方だった。
「好きにしろ」
ダイスは穏やかに笑うと部屋から出て行った。
窓の外は既に真っ暗闇に埋め尽くされている。身を隠すには打ってつけだ。襲う立場なら迷う事なくそうするだろう。恐らく、いや間違いなく今夜来る。そしてそれは一人ではない。同時か別々か、そこまでは判らないが二の足を踏むだけの理由があるとは思えない。強行突破か裏をかくか、何れにしても呑気に構えていられるほど暇ではない。
ジュリはベッドで膝を抱えたまま譫言のような呟きを吐き出し続けている。仮にこの女を殺して表に晒すとしても、あの男は来るだろう。ここにも用がある、それは間違いない。その理由を探るのは後回しだ。
酒を抜くのも鞘から剣を抜くのも本当に久し振りだった。だがそこまで腕が鈍っているとも考えていない。ここに来てからも不要になった連中は何人か斬り捨てている。権力であれ武力であれ、相手を軽く捩じ伏せるだけのものがなければ人はついて来ない。
全力で迎え撃つ。今出来る事と言ったらそれくらいだ。だがあるもの全てを注ぐ。その上で生き残る、これまでそうして来たように。そうやって生きて、生き残って来たのだ。だから今回も必ず生きてみせる。その過程で誰が何人死のうが一向に構わなかった。糧になるとはそういう事だ。
目を開ける。禅を組んでいた足を解いた。真っ暗闇の中に窓から月明かりが差し込んでいる。一睡もしていないが目を閉じるだけで随分違う。体はかなり楽になった。
だか禅を組んでいたのは体力を回復させるためではない。
立ち上がった。肩を上下させてゆっくり深呼吸する。心拍に乱れはない。体温にも大きな変化はなさそうだった。これから大いに乱れるにしても少しでも長く平常心を保てるならそれに越した事はない。
壁に立て掛けていた剣を腰に差した。取り残された長剣だけが寂しげに佇んでいる。こいつが陽の目を見る事は恐らくこの先ない。それを知っていて渡すあの男の気が知れない。この二本があれば充分だった。それは本人も重々承知しているだろうに。
後ろのポケットに手を突っ込んだ。紙切れが指先に触れる。中身はほぼ頭に入っている。ただ書かれている内容全てが正しいと言う保証はない。最も濃厚なのはこれが罠だと言う可能性だ。誘き寄せるには格好の内容だろう。ウォッカがここを外せばその間ここは完全に手薄になる。そこを攻め込まれたらひとたまりもない。だが攻勢に出られるほど奴らも戦力に余裕があるとは思えない。それに、その仮定が正しいとするとあの男が奴らと通じている事になる。それは絶対に有り得ない。だとすると、砦に向かわせる事が奴の目的という事になる。挑発であれ罠であれ、これからの予定に変更は一切ない。
やるとするならば今夜を於いて他にない。集団の動揺を素早く鎮めるには余程の統率力がなければまず不可能だ。日々規律の中で過ごす軍隊ならまだしも、奴らはただの烏合の衆に過ぎない。そんなものは望むべくもないだろう。
帽子を目深に被った。腰には短剣と中太刀の二本が差されている。武器はこれだけであれば充分事足りる。あと必要なのは気持ちを落ち着ける事だけだ。
窓を開けた。夜の帳が降りた街には光源と言えるものが殆どない。その方が好都合だった。真下を確認する。当然誰もいない。そのまま窓から飛び降りた。膝を曲げて落下の衝撃を吸収する。
立ち上がると同時に一気に駆け出した。足音を立てずに、気配すら殺して。
街も人も完全に寝静まっていた。もうじき日付も変わるのだ、それも当然と言えば当然だ。夜が明ける頃には片を付けたい。ただ何を以て全ての片が付くと言えるのか、それがまだ曖昧だった。ただそれでもやるべき事は既に決まっているのだ、余計な事は考えるべきではない。今は目の前の、やるべき事に集中しろ。何が起こるかは判らない。予測の範疇か不測の事態か、何れにせよその場で対応するしかない。これまで幾度となくして来た事だ、今更焦る道理などない。気持ちを落ち着けてやるべき事を真っ先に片付ける、それだけだった。
速度を上げた。額から溢れた汗が眉間を滴り落ちる。だが一向に呼吸が乱れる気配はなかった。




