五日目 その拾八
「おい」
親方が片手で胸倉を掴んだ。
「これは一体どういう事だ?」
「見ての通りです」
親方の表情が険しくなった。徐々に顔に赤みが差し始めている。
「お前の兄貴ほど頭がいいなんて事はこれっぽっちも考えてなかったが、これほど馬鹿とも思ってなかった」
胸倉を掴んでいた手を放り投げるようにして離した。壁に背中がぶつかる。
「さっき話した事は何一つ理解してないんだな」
「それは違います」
親方の目が釣り上がった。両手で胸倉を掴むと壁に背中を壁に叩きつける。
「だったらさっさと説明しろ! 何を考えてこんな事やりやがった!」
凄まじい剣幕だった。お怒りごもっともだと思う。
だからと言って引き下がる訳にはいかない。やり方次第で状況を大きく引っくり返せるのだ。
「聞きたい事があるだけですよ」
ヨハンは床に座り込んでいる男を親指で示した。
男が両腕を万歳するように上げたまま俯いている。両腕を台の隅の支柱に縛りつけているのだ。身動き一つしない。まだ気絶しているところを見ると相当手酷くやられたのだろう。鼻が完全に陥没しているのだから当然と言えば当然だった。急所に狙い済ました一撃を的確に叩き込む。ヨハンも教わった事だがここまで見事に実践出来るものではない。しかも稽古の中ではない。殺気を、いや殺意を剥き出しにしている実践の中でだ。昼間、ヨハンも真剣を持った敵を相手に剣を捌いて反撃したが、こっちは数が違う。
「やったのはお前か?」
「いえ、イリナです」
親方は不機嫌そうに押し黙ると足元の男を見下ろした。感心しているのか呆れているのか判らない。恐らくその両方だろう。
「どうしてイリナが?」
「みんなが留守にしている間に奴らが襲って来たみたいです。詳しい経緯は判りません。店に来た連中を、」
「全員返り討ちにした、と」
大の男が五人、完全に伸び切っていた。つくづく恐ろしい女だ。
「で、その内の一人を連れ出して何しようってんだ?」
「話を聞く、それだけですよ」
どんな顔をしたのかは判らない。ひょっとしたら笑ったのかも知れない。
親方の手がまた胸倉に伸びた。
「だったらお前の出る幕はここまでだ。ここから先は俺がやる」
「親方、そんなおっかない顔しないで下さいよ」
怒りを鎮めるように前に出した両手を軽く上下させる。親方の目付きが更に鋭くなった。
「別に殴る蹴るしなくても話を聞く方法はあるでしょ?」
掴みかかろうとした親方を無視して水差しを手に取る。中身をグラスに注ぐと口に含んだ。それを伸びている男の顔に盛大に吹きかける。
ビックリするように男の顔が震えた。だがまだ意識は戻らない。
「いつまで寝てんだよ」
今度は目に向けて思い切り吐き出す。滴る雫の隙間から男の目が薄っすら見えて来た。
「やっと起きたか」
上から見下ろすと男と目が合った。瞬間、男が驚いたように目を見開いた。
「おい手前、一体どういうつもりだ!」
声だけは威勢がいい。だが手も足も台の支柱に縛りつけられている。抵抗はおろか身動きも出来ない。
「早くこの縄解かねえとただじゃおかねえぞ!」
「ただじゃおかねえ、だと?」
親方が一歩前に出た。冷ややかな目で男を見下ろす。
親方の足が浮いた。次の瞬間、踵を男の脛に思い切り叩きつけた。間髪入れずに二発、三発と続く。悲鳴を上げる暇もない。脛は既に皮膚が裂けて血が滲み、紫色に変色していた。
男は歯を食い縛ったまま親方を睨み付けた。なかなかいい度胸だ。
「お前らは俺の息子を拉致した」
一瞬耳を疑った。今、親方は確かに息子と言った。父親と呼ばれる事を頑なに認めようとしなかった親方が、兄の事を息子と呼んだのだ。
父さん。ヨハンがそう呼んだら頭を撫でられるのか、それとも叩かれるのか。
初めて、この少し不器用で照れ屋な人と親子になれた気がした。
「その上、娘から笑顔を奪った」
親方の声が一層低く、そして冷たくなった。
恐らく、いや間違いなく本気で怒っている。背筋に怖気が走った。
握り締めた拳が男の潰れた鼻にめり込んだ。堪らず悲鳴を上げた。凹凸のなくなった顔面の中心から血が滴る。既に潰れた鼻を思い切り殴られたのだ、尋常でないくらいの痛みだろう。そして手で押さえる事も出来ない。
半開きにした口で懸命に呼吸している。鼻が潰れているのだから当然だった。
親方が台に載っていた金槌を掴んだ。
「こいつを膝に思い切り叩き付けたらどうなるかな?」
金槌で軽く掌で叩いている。薄笑いを浮かべるでもなく目を釣り上げるでもなく、完全に無表情だった。そこが逆に恐い。男は座り込んだままガタガタ震えている。
さっきとはまた違った意味で背筋が凍った。
「そうしたいのは山々なんだがせがれに考えがあるみたいでな」
親方は立ち上がると金槌を台に叩き付けた。本当は膝にぶつけたかっただろうに。だがそれをやってしまったら同じ穴のムジナになる。だから踏み止まったのだ。
「後は任せたぞ」
「はい」
言われるまでもない。ここからが本番だ。思わず手に、いや指に力がこもる。
「で、どうするつもりなんだ?」
「基本的に痛みはありません。代わりにと申しますか、苦しいです」
そこまで苦しめられた経験は流石にないので何とも言えないが。だが決して楽ではないハズだ。
「聞きたい事がある」
ヨハンは男の前でしゃがみ込んだ。潰れた鼻をヒクヒクさせながら男が睨み付けた。ガキ相手に舐められて堪るか、そんな細やかな意地が見え隠れしていた。
「素直に答えてくれるなら手荒な真似はしない」
男の表情があからさまに緩んだ。いや油断したと言った方がいい。
反射的に目尻が引きつった。
「と言いたいところだけど、恨みは山ほどあるからな」
医者が執刀するように手の甲を男に見せるようにして上げた。
今度は男の表情が引きつった。間を空けずに絹を裂いたような悲鳴が上がった。
背後で扉が開く音がした。
「首尾は?」
「ああ、順調だよ」
何を以てして順調と言えるのか、ヨハン自身も疑問だった。だが必要な情報は得られている、と思う。
「お疲れ様」
レンはお盆から水差しとコップを取ると台に置いた。
「外は四方の見張り台に一人ずつ、交代は三時間おきで間違いないな?」
返事がない。親方は忌々しそうに舌打ちすると男の脇に手を伸ばした。毛虫が這うように指が動く。瞬間、弾けるように笑い声が響い渡った。勿論少し笑った程度で済ませるハズがない。笑い声を通り越して息が詰まり始めて来た。このまま続けたら遠からず窒息する、その直前になってようやく親方は手を止めた。
「呑気に寝てんじゃねぇ。さっさと応えろ」
最初はあんなに怒っていた癖に今はノリノリでやっている。
奴を連れて来たのは話を聞くためだ。ただ普通の会話が成立する相手ではない。教えてくれと正攻法で斬り込んだところで無視を決め込まれたら欲しい情報は得られない。それで正直に応えてくれたら絶対に馬鹿だ。だから無理矢理口を開かせる必要があった。要は拷問だ。
最初は殴る蹴るしようと、それしかないと思っていた。ただそれは手段の一つに過ぎない。必ずしも暴力的な方法を選択する必要はない。
それに気付いた瞬間、体が一気に軽くなった。情報を引き出す事が目的であってそれを実現する手段に拘る事に意味はない。
命に影響を及ぼすような怪我にはならなくても、抵抗を感じてしまうような行為も沢山ある。爪を剥がしても、指を折っても死ぬ事はない。それに戦闘出来なくなるのだから手段としては非常に有用だ。だが心理的には相当抵抗があった。こいつらは憎たらしくて堪らないが、それでも超えてはいけない一線は確実にある。それが見えている事にホッとするものを感じた。俺はこいつらのようにはならない。だが誰しもそうなる可能性を秘めている。それすら否定するのはただの綺麗事でしかない。
男は肩で息をしながら空気を貪るように吸い込んでいる。鼻呼吸は全く期待出来ない。相当苦しいハズだ。
「お前、自分の立場判ってんのかよ。また小便漏らしてえのか」
男の股間には使い古されたボロ雑巾が何枚も宛がわれている。どれもビショビショ濡れていて僅かに臭いを放ち始めていた。
顔は涙と血の混じった鼻水でズルズルに汚れている。股間は垂れ流しの大洪水だ。これだけでも耐え難い屈辱だろう。だが胸は痛まなかった。ただ殺す事もしない。
半開きになった口に水を流し込んだ。時折こうして水分を補給させないと本当に脱水を起こしかねない。
「地下牢の入口の前はここで間違いないんだな」
男が力なく頷いた。精根尽き果てた顔をしていた。
親方は聞き取った事を事細かに紙に書き留めていく。
「ヨハン」
振り向くと親方が握っていた紙をヨハンに突き出した。
「どう使うかはお前に任せる」
これ以上ないくらいぶっきら棒な態度だった。
「本来ならばお前に託すべきところではないけどな」
それが判っているのに何故そうするのか。ガキは引っ込んでろ、 そうやって制止する事も大人に預けられている責任のハズだ。
「当てがあるんだろ?」
咄嗟に反応出来なかった。頼るとするならばあいつしかいない。だが縋り続ける訳のは気が引けた。当事者は飽くまでヨハンら街の住人だ。巻き込まれただけの人間にいつまでもおんぶに抱っこと言う訳には行かない。
でも。
親方から紙切れを受け取る。中身に目を通した。砦の外以外にも中の何処に何があって誰がいるのか、それが細かく書き込まれていた。牢屋の位置も、そこに到る経路や見張りの番のいる場所も書かれている。これがあれば極力無駄を排除して動く事が出来る。難しいのは侵入だ。正面から強行突破するのは間違いなく愚策だろう。門番もいるし門の両脇にある見張り台から丸見えだ。狙い撃ちにされるのが関の山と言ったところか。
だとすると何処から、そしてどうやって侵入すべきか。仮にそれが叶ったとして迅速に、そして確実に人質を解放するにはどう動けばいいのか。
ヨハン一人が考えたところでどうにかなる問題ではない。これを元にしてじっくりと作戦を練るのが先だ。安易に動くのはそれこそ愚の骨頂でしかない。
「侵入するとしてまず誰が動けるのか、侵入出来たらどう動くか、それを考える事が先決だと思います」
「それをお前一人で考えるのか?」
「いえ、今申し上げたように動ける、戦力になる人達を集めて情報を共有する事から始めた方が」
ゆっくり息を吸い込むと親方はうんざりしたように溜め息を吐いた。
「一つ肝心な事が抜けてるな」
親方の目が細く、鋭くなった。無意識に背筋を伸ばしていた。
「いざ侵入しようとした時、全てがこの通りならばそれに越した事はない。だが人員の配置に関しては絶対にこの通りとは言い切れない」
一瞬耳を疑った。拠り所になろうとしていたものを反故にしろとでも言うつもりなのだろうか。
「こいつが嘘を吐いている、って事ですか?」
「この期に及んで嘘を吐くほどこいつも肝は据わっちゃいねえだろ」
横目で睨み付けると男が何度も激しく頷いた。殺すつもりはないが息が詰まる寸前にまで追い込む事ならいくらでも出来る。ある種の快感でも伴わない限り何度も経験したいと思う輩などまずいないハズだ。
「今聞き出した事は飽くまでこいつが知る限りの情報だ。かつ今日までのな。それが変更されないなんて保証は何処にもない」
ヨハンにはちょっとした盲点だった。こちらが絶対的に優位な状況で聞き出した情報に嘘があるとは到底考えられない。下手にそんな事をすれば間違いなく殺されるのだ、そんな度胸を持ち合わせている輩などなどそうはお目にかかれない。
故にここに書かれている内容に関して疑問を呈すると言う発想がそもそもなかった。
証言に虚偽がないのに書かれている内容と実際が異なるとしたら。現時点でそれを示唆する何かがあるハズだ。
「部屋の模様替え感覚で配置を替えるかも知れない。或いは交代制でやってる流れを変更するとかな」
頭を抱えたくなった。考え出したらキリがない。それを踏まえた上で取るべき行動を考えなければ人質の解放には到らない。
「それだけじゃねえ。今日はこいつらにとって絶対的に優位な状況であの子を吊るそうとしたのにそれを妨害された上に殺そうとした人質を奪還されたんだ。それに、お前がダンと広場に向かってる隙を見計らってこいつらは店に行った訳だろ?」
レンを含めた三人が小便垂れ流しの男を黙って睨み付けた。娘がお盆に載せていた水差しを手に取った事を確認すると親方は殊更静かに言った。
「何しに行ったんだ?」
男が露骨に目を逸らした。ヨハンは思い切り弾みをつけた人差し指を潰れた鼻にぶつけた。とても大人の男とは思えないような情けない声で悲鳴を上げる。
「一番下の娘が用済みになったから、代わりを取りに……」
「代わり?」
親方の表情が歪んだ。
「取りにって、どういう意味?」
水差しを持ったままレンが椅子から立ち上がった。明らかに雰囲気がいつもと違う。
「早く応えろよ」
低く、抑揚のない声だった。これまで何度となく怒られたが、その時とは比較にならないくらい怖い。
「何故用済みになってその代わりが必要になったのか、それを全て説明しろ」
男は怯えた目をしたまま顔を伏せた。髪を掴むと顔を無理矢理上げた。余った親指で瞼を押さえて上に引っ張り上げる。
「鼻が嫌なら今度は黒目にデコピンしてやろうか」
「痛めつけ過ぎて半分死んだような状態になっちまったしそれじゃ犯しても大して面白くもねえから、だったら吊るしちまえって事になって。でもそれじゃ折角拐って来た意味がなくなっちまうから、まだ動ける女を全員拐おうと思って……」
男の声が尻窄みに小さくなる。勢いで口から出ただけであって本当は言葉にするつもりなどなかったハズだ。
今度は親方が椅子から立ち上がった。ゆっくりと男に歩み寄る。唐突に男の脇腹を蹴った。それも相当強く。見ただけで吐き気がした。それくらい強烈だった。
血反吐を吐いてのたうつ男を親方は冷酷に見下ろしている。さっきヨハンがしたように男の髪を鷲掴みにするとかなり乱暴に引っ張り上げた。
「苦しいか?」
苦しくない訳がない。肝臓を思い切り蹴飛ばされたのだ。普通だったら悶絶ものの痛みだ。
「お前らはその子に何をした?」
男の首筋に汗が滴った。指を、全身を戦慄かせながら親方から目を背ける。
今度は握り込んだ拳を鳩尾に突き刺した。何かが破裂するような音を立てて口から胃液が溢れ出た。
「こんなもんじゃ済まねえだろ?」
振り上げた腕を背後からヨハンが掴んだ。
「親方、もう充分です」
気付けば親方の肩が激しく震えていた。怒りで、そこから来る興奮で震えている。ここで止めなければ本当に殺しかねない。
いつの間にか理性を失っていた。本来は手綱を引くべきだった親方が怒りで我を忘れていた。自分を見失っていた。
リーゼルがそんな目に遭わされていたとしたら、ヨハンもこれ以上の事をしていたかも知れない。
それくらい許し難かった。理性を失って死ぬまで殴り続けたくなるほどに。
使い物にならなくなったカティを殺そうとしたばかりか、宿にいたイリナ達を拐って犯そうと、その上殺そうとまでしていたのだ。
親方でなくても怒りで、興奮で全身が震える。親方の腕を体全体で押さえつけながら男から引き離す。
親方はまだ肩で息をしていた。振り回した足が男の顔に当たった。男はぐったりしたまま動かない。身動きはしないが肩の辺りが微かに動いている。取り敢えずまだ息はあるのは間違いない。
二人並んだまま床に尻餅を突いた。この距離ならまず足も届かない。
「何処まで話したのか忘れちまったな」
強張っていた親方の肩からようやく力が抜けた。熱気を放つ首筋を汗が伝う。
「お前、その鼻誰にやられたんだ?」
男の肩が痙攣するように震えた。狼の臭いを嗅いだ犬のように怯えている。
「イリナだよな?」
ヨハンが念を押すように言葉を添えても何の反応も示さない。
親方の眉間にシワが寄った。どうしてそんな顔をするのか判らない。
「そのイリナに思い切り返り討ちにされた訳だろ?」
今度は首を傾げた。何を言わんとしたいのか未だにピンと来ない。間違いなく何かに不可解なものを感じている。それは一体何なのか。
「そのイリナも含めて簡単に拉致出来ると踏んで乗り込んで行ったらアッサリ返り討ちにされて鼻を潰されたんだろ? 簡単に連れ去れると思ってた奴にどうして撃退されるんだよ」
「昨日、あの女は確かに半殺しにしたんだ。いや死んでてもおかしくなかった。それが生き返ってた」
声が出そうになった。鋭く息を呑む。イリナは半死半生どころか九割九分九厘は彼岸にいた。それがたった一晩で無事生還していた。そしてこいつらはそんな死人も同然だった女相手に手も足も出ずボコボコにされたのだ。
この男は九死に一生を得たイリナか全快した事など当然知らない。親方は言うに及ばずだ。
「一番下の娘以外はまともに動けるような状態じゃなかった。連れ去るなんて訳もねえ、全員そう考えてた」
親方は表情の失せた顔でヨハンを見た。慌てて目を逸らした。今はとてもまともに顔を合わせられなかった。動揺は隠しようもない。
「ヨハン。お前、昼間ミリアムやアリスと一緒にカティを助けに行ったんだよな?」
はいともいいえとも言えなかった。気道に落ちた唾液が喉に詰まって噎せ返た。言葉に詰まる。
肩を軽く上下させると親方はゆっくり息を吐いた。頬の辺りに視線を感じたが振り向かなかった。
「ま、少なくともこいつらには完全に予想外だった出来事があったせいで拉致する計画は無事失敗した訳だろ。それならばそれに越した事はないな」
結果論で言えば。だがその過程には到底理解に及ばない事実が転がっている。
「細かくはねえが取り敢えず今は後回しだ。他にやる事があるからな」
親方自らが棚に上げてくれるとは思わなかった。だがそれもその場凌ぎでしかない。
「奴らにとって想定し得なかった事が起こった、それは間違いない。しかも戦況が不利に傾くとしたらこれまで通りに構えるのは決して得策とは言えない、と俺は思うな」
「つまり、どういう事ですか?」
「それに依って中の守りを固めるとしたら砦の人員の配置が変わる可能性がある」
仮にそれが実現するとしたら、今こいつから引き出した情報の大半が無意味になる。
床が音を立てて崩れていくようだった。
「ただイリナがこうして兵隊を潰してくれたおかげで奴らの戦力も確実に失われた事になる」
それを安易に好機と捉えないところにこの人の慎重さ、いやしたたかさを感じる。ヨハンなら何の躊躇いもなく真っ正面から突っ込んでいるところだ。
「やっぱり、こいつは俺が預かる」
言うが早いか親方はヨハンの手からさっきの紙を抜き取った。綺麗に折り畳むと懐にしまう。
「どちらへ?」
工房のドアを潜ろうとした親方の背中に声をかける。
「動けそうな連中に当たりをつけておく。やるならば早い方がいい。流石に今夜は無理だろうが、遅くとも明日には」
親方は振り向かずに言った。
頬を滴る汗がやたら冷たく感じた。だがそれとは逆に体の芯からは目眩がしそうなくらいの熱さが沸き上がっていた。
「ヨハン、今日は程々にしてさっさと休め。で、明日も極力大人しくしてろ」
目が点になった。どうして大人しくしている必要があるのか、それが咄嗟に判らなかった。
親方は疲れたように溜め息を吐くと横目でヨハンを睨み付けた。
「お前も戦力のうちの一人だ」
後は任せたぞ。背中を向けたまま手を上げて工房から出ていく。
沈黙と言うより静寂が耳に響いた。台に縛り付けている男を見る。顔を伏せたまま身動き一つしない。流石に気絶しているようだ。
不意に温かい何かが肩に載った。レンが両手を肩に置いたのだ。
「大丈夫?」
「大丈夫って?」
「肩が……」
肩だけではない。腕が、背中が、小刻みに震えていた。全く気付かなかった。工房の温度が下がった事は確かだが寒い訳ではなかった。胸に手を置く。普段よりもいくらか心拍が速い気がする。少なくとも絶対にゆっくりではない。
気持ちを落ち着けるようにゆっくり深呼吸した。吐き出した息はまだ僅かに震えていた。
「大丈夫だよ」
精一杯笑ってみせた。ただ本当に笑えたかどうか自信は持てなかった。それに何が大丈夫なのかヨハンにもサッパリ判らなかった。
明日、恐らく夜には砦に攻めいる。それは間違いない。今は戦力を揃える事が急務だ。親方は人を集めに行った。ウォッカだけでなく、師匠やイリナ、ミリアムやアリスもその中に含まれる。そしてそれに備える事、それがヨハンに与えられた役割だった。
「レン姉」
レンがヨハンの顔を覗き込んだ。笑ってはいるが、何処か翳りを帯びているように見えた。より判りやすく言えば心配そうな顔をしていた。
「飯、作ってくれないかな」
「うん、判った」
波打った茶色い髪が小さく揺れた。今度こそ間違いなく笑った。ヨハンも笑った。ようやく体から力が抜けた。手を、そして肩を見る。もう震えは止まっていた。
「あと、こいつのも作ってやってくれ」
レンの表情に動揺が拡がった。気持ちは判る。
「一日二日なら大丈夫とは思うけど、食わねえと死んじまうからな」
こいつらには何の情もない。あるのは両手で抱え切れないくらいの恨みだが、殺す事が目的ではない。
「俺が食わせるから」
「いいよ、私がやる」
レンが首を横に振った。ヨハンの頬をそっと撫でる。
「ヨハンは休んでて」
今、自分に何が出来るのか。誰もが懸命にそれを探している。ヨハンも親方も、そしてレンも。誰一人として例外はない。
拳を握り締めた。これをぶつけるのは明日陽が暮れてからだ。それまでにやるべき事がヨハンにもある。
天井に近い位置にある窓から外を見る。真っ暗闇の空の中に僅かに星が見えた。




