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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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五日目 その拾七

 さっきから食器と食器がぶつかる音しか聞こえない。みんな無心で食事を掻き込んでいる。今朝は食欲なんてものはまるでなかった。胃袋の入口に栓でもされたように食べ物を全く受け付けようとしなかった。だが今は忘れていた食欲を思い出したように胃が、いや体が食べ物を求めている。

 朝作ったスープの残りと午前中に刻んでおいたジャガイモで作った肉じゃが、それとご飯だけだった。それだけで充分だった。品数の少なさは量で補える。最低でも一人一回はおかわりした。アリスに至っては三回だ。もう完全に元に戻っている。ミリアムはそんな妹を何処までも優しい目で見詰めていた。

「まだいっぱいあるから、二人とも遠慮しないで」

「はい」

 ミリアムの言葉に二人は、エレンとサラは笑顔で頷いた。サラは既に二回はおかわりしている。遠慮と言うものには縁がなさそうだった。その方が嬉しかった。

 二人はカティか小さい頃からずっと一緒だった。支える事も励ます事も、時には互いに悪口を言い合う事もあった。それも裏を返せば本音をぶつけられると言う事でもある。そんな貴重な友人だった。友達と言うより家族に近いのかも知れない。

「悪いな。突然押し掛けた上に飯までご馳走になっちまって」

「いいんですよ。お気にならさないで下さい」

 恐縮するガイデルにダンは笑いながら首を横に振った。

「師匠、まだ食べますか?」

「馬鹿言え。いい加減腹がはち切れそうだ」

 娘二人は顔を見合わせると弾けたように笑い出した。その様子を隣で見ている友人二人もやっぱり笑っていた。それを端から観察しているダンの頬もすっかり綻んでいた。ガイデルはバツが悪そうに口を歪めている。でも見るからに機嫌が良さそうだった。

 ウォッカだけが硬い表情のまま無言で箸を握っていた。時折頬を綻ばせる事はあってもすぐ元に戻る。終始思い詰めたような顔で箸を動かしていた。それでも食べるものはしっかり食べている。具体的な回数までは数えていないがおかわりがアリスよりも多い事は間違いない。傷を癒せるとは言っても決してタダで出来る訳ではない。これだけの量を食べなければならないと言う事はそうしないと自身の体を維持出来ないのだろう。だとすると、ウォッカの力は自分の生命力を人に分け与えている事になる。つまり、誰かを救う為に自分の命を削っているのだ。栄養と休息を取れば回復するとは言え、それでも絶対に楽な作業ではないハズだ。そしてそうしなければならない責任が彼にはある。ウォッカに言わせればそれを全うしているに過ぎないのだろう。

「おかわり、お持ち致しましょうか?」

「お願いします」

 素直に器を差し出す。遠慮などして欲しくなかった。今は特に。

 器に盛られたご飯と肉じゃがを無心で掻き込む。図体に見合うだけの食欲と最初は思っていたがそれだけではない事がようやく判った気がした。

 食事を終えた誰もがその様子を黙って見詰めていた。誰一人、席を立とうとしない。

 思い返せば朝から動き通しだった。朝食の後にはミリアムとアリスを学校まで送り大急ぎで店にとんぼ返りしたかと思えば、昼前には広場まで尋常でない速度での全力疾走だ。そして命を削るように、或いは分け与えるようにして傷付いた娘を癒してくれている。最も負担が大きいのはどれなのだろうか。いやそんな事より、食事くらいは本当にゆっくり摂って欲しい。そうしてくれるだけで嬉しかった。

 空になった器をテーブルに置くとウォッカは両の掌を合わせた。粗野な外見に反して非常に律儀だった。絶対に見た目で損をしている。

「ガイデルさん」

 ガイデルは先を促すように首を傾げると穏やかに笑った。息子か、或いは愛弟子を見るような目だった。

「どうした?」

「お願いしたい事が」

「俺に出来る事なら何でも言いな」

 労を労うような声だった。ウォッカにこれ以上無理はさせられない、それはガイデルもよく判っている。

「帰る時に、二人を自宅まで送ってやって頂けませんか?」

「それくらいお安いも何も、元よりそのつもりだよ」

 当然のように頷いて見せたガイデルを尻目に、エレンとサラは驚いたように首を横に振った。

「確かに近くはないですけど、暗くなる前ならば別に……」

 慌てて手を振る二人にガイデルは釘を刺すように眉間にシワを寄せた。

「いや、そういう問題じゃなくてな。奴らもそこまで馬鹿じゃねえだろうからそう滅多な真似はしねえとは思うが、ただ今後どう出てくるかも判らねえ。出方が見えない以上最大限警戒はしておいた方がいい」

 昼間の一件が奴らにどんな影響を与えたかは判らない。ただ人質としても利用価値があった娘を圧倒的優位な状況下でこちらに奪還されたのだ、痛手としては決して小さくはないだろう。

 その中で奴らが次に打つべき手は何か、こちらもそれを探らなくてはならない。カティを無事に取り戻したとは言え、まだ人質全てが解放されていない以上依然としてこちらが不利である事に変わりはないのだ。

 この数日間で奴らも兵力の何割かを失っている。昼間の混乱が尾を引いている間に先手を打てれば今の状況を好転させる事も不可能ではないハズだ。

 それ故に慎重に動かなければならない。下手に奴らを刺激するような真似は厳に慎まなければ。女子供であっても例外ではない。二人はそれを既に承知している。その上で最善策を模索しているのだ。

 呑気に構えていられるほど暇ではない。日を追うに連れ、いや時間の経過と共に事態はより一層緊迫の度合いを増している。

「遅くとも、日が暮れる前までには帰った方が方がいい」

「判りました。でもあまり長居してもおじさんにもご迷惑でしょうし、じきに退散しますよ」

 隣にいるサラも頻りに頷いている。頬が綻んだ。こんな時にまで気を遣う必要なんかない。

「気にしなくていいよ。二人が来て一番喜んでるのはカティだからね」

 たとえ意識がなかったとしても、二人が来た事は、傍にいてくれた事はきっとカティにも伝わっている。誰かが傍にいてくれる、有り触れてはいるがこれほど心強く気持ちが温かくなる事も他にない。

「ミリー姉、ここは私が片付けておくからみんなと一緒に行ってて」

 テーブルに載っている空っぽの食器を手早くお盆に置きながらアリスは言った。ミリアムは虚を突かれたように、いや驚いたように目を丸くした。

「心配でしょ?」

 僅かに間があった。でもすぐさま頷いていた。倒れたイリナも気掛かりだろうがカティも、そしてライザも心配である事に変わりはない。やっぱり、みんな揃って一つの家族だった。

「父さんも休んでて」

 疲れてるでしょ? 小首を傾げて顔を覗き込む。ニコッと笑った。カティを取り戻した事で精神的な負担が取り払われたのだろう、もう完全に回復しているようだった。羨ましくなるくらいに立ち直りが早い。

「お言葉に甘えて、そうさせてもらおうかな」

「甘えなくていいよ。胡座でもかいてて」

 空の食器を綺麗に重ねてお盆に載せる。そのまま踊るような足取りで厨房に消えていく。

 ミリアムが椅子から立ち上がった。こちらを振り返る事もなく食堂を後にする。気持ちを堪え切れないに違いない。

「それじゃ、もう少し邪魔するぞ」

「ごゆっくりどうぞ」

 ガイデルは歯を見せて笑った。どちらかと言えば不器用なこの男がこんな表情を見せるのも珍しい。驚いている間にエレンとアリスが食堂から姿を消していた。ウォッカが空っぽになった食器をテーブルに置く。

 沈黙が食堂を満たした。ウォッカは両肘を突いたまままんじりともせずに宙を睨んでいる。かける言葉が見つからない訳ではないが、声をかけられるような和やかな雰囲気には何処か程遠いものがあった。

 厨房の方からバタバタと慌ただしい足音が近付いて来た。布巾を手にしたアリスが食器の消えたテーブルを手早く拭いて廻る。

「ウォッカさん」

 最後に一つだけ残った器を宙に浮かせるとアリスはその下を拭く。

「一つお願いがあるんだけど」

 いい? 軽く首を傾げてウォッカの顔を覗き込む。意表を突かれたのか、それまで刃先のように鋭かったウォッカの目が丸くなった。

「笑って」

 ね? 子供をあやすように笑う。邪気のない笑顔だった。それだけ見ると本当に年齢を疑いたくなる。

「その、さっきからずっと怖い顔してるから……。今がそんな呑気に笑えるような雰囲気じゃないのはよく判ってる。でも、あんまり怖い顔するのってウォッカさんには似合わないと思うし。それに、よく言うじゃない。笑う門には……、えっと、何が来るんだっけ?」

「福な」

「そう、福! ムッツリ黙ってるより絶対笑ってる方がいいよ。だから、もっとこう、表情を柔らかく、ね?」

 別に深い考えも特別な意図もない。頭に浮かんだ事をそのまま言葉に変えただけなのだろう。

 もっと張り詰めたような緊迫感に満ちていたら流石にこんな言葉はでなかった。でもそこまで深刻ではない。少なくともダンら一家には。無理矢理拐われた娘を無事取り戻したのだ、もっと肩の力が抜けていたとしても何処もおかしくはない。だが、まだみんなが意識を取り戻した訳ではない。何より、人質はまだ奴らの手の内にある。手放しに喜ぶのは流石に気が引ける。だが身内の中だけならそこまで気にする必要もない。だから、せめて今だけは笑っていて欲しいのだろう。気持ちはよく判る。

 丸かったウォッカの目がなだらかな曲線を描いた。張り詰めていた肩から、表情から力が抜けた。

「俺、そんなおっかない顔してたんだ」

「はい」

 素直に頷く。お茶を濁すとか煙に巻くと言った発想がそもそもない。清々しいくらいに開けっ広げに本心を晒している。それが本当に清々しかった。

「目を覚ましたカティがそんな顔見たら絶対にビックリしますよ」

 ウォッカの目の焦点がぶれた。露骨に目が泳いでいる。そして徐々に顔に赤みが差していく。真っ赤に変わるまで何秒もかからなかった。

「笑顔で迎えてくれた方があの子も喜ぶんじゃないかなぁ」

 狙って言っているのではない。妹の身になって言葉を紡いでいるだけだ。そしてそれが見事に核心を突いている。

「二人ともゆっくりしてて。さっと片付けちゃうから」

 アリスはその後の反応を見る事もなく無邪気に手を振りながら厨房へ姿を消す。苦笑いするのがやっとだった。

 でも、あれだけ強張っていたウォッカの表情をこんな風に弛める事は恐らくアリスにしか出来ない。本音でも建前でもなく、胸の中にある気持ちをそのまま伝える。やろうと思ってもなかなか出来る事ではない。人はそうして少しずつ変わっていく。

「学のない娘で本当に申し訳ありません」

「いや、学がないだなんて……」

 そこから先が続かない。リンゴのように赤く染めた顔を俯ける。さっきとはまた違った意味で黙ってしまった。

「ただ、本音を申し上げれば私も娘と同感です」

 普段の穏やかな表情を知っている分、今目の前にある顔が殊更怖いものに見えてしまう。下手に気が抜けるような状況でない事くらいは百も承知だ。それでも、少し笑えるくらいの余裕があってもいいハズだ。

「笑って下さい。そうして頂けると私達も安心します」

 誰が聞いてもウォッカをこちらの都合に付き合わせているようにしか思えない。でも無理矢理にでもそうしないとウォッカが潰れてしまいそうな気がした。

「普段ならお言葉に甘えさせて頂くところですけど、今は控えさせて下さい」

 ゆっくり息を吐く音が聞こえた。顔を見て驚いた。もういつものウォッカに戻っている。体の動きだけでなく、気持ちの切り換えも相当に速い。

「女将さんと、イリナを診させて下さい」

 上げた頭をすぐさま下げたくなった。普通に考えるまでもなくそうすべきだろう。

「二人の様子はいかがですか?」

「昏々と眠っている、としか……」

 そうとしか言いようがない。少なくともダンには今の二人をそれ以上に的確に表現する言葉が見つからない。

「アリスの右手も、一瞬で治してしまいましたよね」

 尋常でないくらいに赤く膨れ上がった右手が元通りになるまで何分もかからなかった。精々数十秒がいいところだ。

「折れていたのは指ですか?」

「いえ、指の根元、中手骨が綺麗に曲がってました」

「本来ならば皮膚を切開して曲がった部分を真っ直ぐに伸ばした状態で固定しなければなりませんよね」

「そう、なんですか。俺も医者じゃないからよくは判りませんけど」

 骨がしっかりくっつくまで固定しなければ元には戻らない。数日で治るような怪我ではない。数週間、或いは数ヶ月はかかる。

 それをほぼ一瞬で完治させてしまったのだ。全く以て信じ難い話だがそれが彼が起こした事実だった。

「二人とも、相当衰弱してますよね」

 精神的に激しく疲弊し、体力的にも限界ギリギリだった事は想像に難くない。怪我こそしていないが、いつ目を覚ますのか全く判らない。

「具体的に、二人にはどんな処置を?」

「体力を消耗してますから、それを戻せるだけ戻します」

 あまりやり過ぎてもいけないんですが。何故やり過ぎはまずいのか。それに食事も取れない相手の体力をどうやって戻すと言うのだろう。少し考えてからハッとした。血を与える、さっきウォッカはそう言っていた。やはり生命力そのものを分け与える事で誰かの命を支えている。決して安い代償ではない。

 そして止めようとしても絶対に聞かない。それがウォッカに与えられた責任に他ならないからだ。それを全うしようとしている、ウォッカには単にそれだけなのだろう。

「下らない質問かも知れないですが、何故やり過ぎてはいけないのですか?」

「人には元々自浄力がありますから、やり過ぎるとその作用を阻害する事になりかねません。怪我の程度があまり大きいようなら話は別ですけど、そうでないなら自浄力を後押しする程度に抑えておくのが理想です」

 今回はほぼ総じて重傷だったが。妻が一番程度が軽かったとは言えそれでも鼻骨が砕けていた。下手に加減をする余裕など何処にもなかった。

「それと、カティの状態についてもお窺いしたいのですが」

 切り裂かれた頬は赤く腫れ上がり、手首の骨は砕け、全身は傷だらけだった。命に別状はなかったとしても充分過ぎるくらいの重傷である事は間違いない。だが実際どの程度の怪我だったのか、それは診た者でなければ判らない。

 ウォッカの瞼が半分閉じられた。射抜くような目で宙の一点を睨んでいる。

「傷で埋め尽くされていました、服の下も」

 硬い声だった。出来る事なら口にしたくなかったのだろう。ダンも積極的に聞きたくはなかった。だが聞かずにはいられなかった。

「それと、性的な暴行を受けた可能性があります」

 ひょっとしたら、いや紛れもなく一番聞きたくない言葉だった。だが確かめようとしていたのもこの事に他ならなかった。

「傷はアリスに確認してもらいました。脚の付け根の辺りに刃物で切り裂いたような傷があったそうです」

 傷を治すためとは言え女の肌を直接見る事は出来ない。だからアリスに頼んだのだろう。

「切り傷の方は治しました」

「ありがとうございます」

 体についた傷は治せても、心に負った傷を癒す事は出来ない。まだそうだと決まった訳ではない。だがもし仮にそうだったとしたら、その時は覚悟を決めて腹を括るしかない。耐え難い代物であったとしても、それが事実であるならば向き合う以外に選択肢は残されていない。

「妻を、お願いしてもよろしいでしょうか」

「はい」

 立ち上がるとウォッカは大人しく後をついて来た。彼の中では既にやるべき事は決まっているのだ。それを完遂するまで動きは止めない。それが彼に与えられた責任だとすれば、こなすべき義務だとすれば決して軽いものではない。

 ウォッカは肩に一体何を載せているのだろう。それを降ろす日が来るとも思えない。自分が朽ち果てる事になってもこうして誰かのために力を使い続ける。そこから逃げる事も出来ないし、そもそも逃げる気もないのだろう。

 部屋のドアを開けるとウォッカはベッドの前で跪いた。祈るようにして妻の両手を握る。

「旦那さんも、少し休んで下さい」

 ダンに背中を向けたまま、ウォッカはそれこそ祈るように言った。

「お疲れですよね。顔色も優れませんし」

 そうかも知れない。鏡を見ていないので顔色は判らないが。何とか娘を取り戻したとは言え、心労が限界を超えた妻と長女は昏睡に近い状態にあるし、重傷だった末娘も意識を取り戻す兆しはない。それだけでも相当堪える。疲れないハズがない。

「あんまり無理をすると体に障りますよ」

 そっくりそのまま返したい言葉だった。ダン達一家を支えるために無理が嵩めばいくらウォッカと言えど多少の痛手は被るかも知れない。

 だが、確かにその通りだった。砂袋を巻き付けたように全身が重い。疲労より心労の方が大きい。

 妻の隣に体を横たえた。途端に身体中から力が抜けていく。

「後の事は俺が何とかします。今はゆっくり休んでて下さい」

 頷いたかどうか、明確な記憶はない。瞼を閉じた瞬間、何かに吸い込まれるようにして意識が途切れた。

 気付いた時には部屋にウォッカの姿はなかった。手が汗ばんでいた。妻の右手を強く握り締めていた。滲んだ汗が掌を濡らしている。いつ妻の手を取っていたのか、全くの無意識だった。

 よく見ると部屋の外が薄暗い。日は殆ど落ちている。眠っていたのは精々数時間だろう。それでも体は随分と軽くなった。食事と睡眠、人が体を維持する上で欠かせない要素の二つだ。それを取った事で体力を回復させる事が出来た。

 隣に横たわる妻を見る。

 さっきと比べると幾分か顔色は良くなっている。だが意識を取り戻すまでには到らないところを見ると相当疲弊していると見て間違いないのだろう。

 出来る事なら目を覚ますまで傍にいたかった。だが状況がそれを許さない。

 掌で顔を撫でると部屋を出る。そのまま厨房に向かった。厨房から明かりが漏れていた。包丁がまな板を叩く音も聞こえる。

 中を覗くと娘二人が背中を並べて立っていた。手元が忙しなく動いている。

「あ、父さん」

 起きたんだ。手を止めるとくアリスは首を後ろに捻った。無邪気に笑っている。手を動かしたまま後ろを向いていたら確実に指を切っていた。そうならなくて良かった。色々な意味で安心した。

「まだ休んでていいのに」

「そういう訳にもいかないだろ」

 心配そうに眉根を寄せた次女の頭に軽く手を置いた。ハンガーにかけていたエプロンを外すと素早く腰に結わえる。

「彼は、何処にいる?」

「カティのところ。傷自体はもう治ってるけど衰弱が激しいみたいなの」

 あれだけいいように痛めつけられたのだ、無理もない。むしろよく命を繋ぎ止めてくれたと思う。ただ、その間にどれだけ辛かったか、それを思うと胸を、全身を引き裂かれそうになる。

 傷を治す事は勿論だが、それだけではないハズだ。敢えて口にする気はないが。

「母さんの様子は?」

「まだ眠ってる。イリナは?」

 ミリアムは黙って首を横に振った。二人ともまだしばらくは目を覚まさないだろう。高々数時間で抜けるほど軽い疲労ではない。

「お師匠さん達は?」

「さっき帰った。二人を家まで送らないといけないし」

 来てくれただけで有り難かった。心の底から親友と言える仲間が傍にいる、それが純粋に羨ましく、そして誇らしかった。

「さっき師匠から聞いたんだけど、あの後学校も上へ下への大騒ぎだったみたい。色んな情報が乱れ飛んでて」

 誰かが見せしめに殺されると聞いてのんびり構えていられるような者など何処にもいないに決まっている。あの瞬間は誰もが我を忘れていた。混乱の只中にあった。だから事の真相を確かめに来たのだ。それが哀しい知らせにならなくて本当に良かった。そうなっていたら、今頃こんな呑気な顔をして厨房に立っていられない。

「さて」

 食器棚を全開にした。肉も野菜も米もまだまだ余裕がある。先日の買い置きが効いている。

 玉葱と椎茸を手に取る。手早く洗ったまな板に椎茸を置いた。一瞬迷ったが水でサッと洗った。傘を切り離してやや大きめに刻む。

 玉葱の皮を剥こうとした時、細切りにされた玉葱がボールに山になっているのが目に入った。

「いっぱいあったから刻んじゃった。父さん、好きでしょ?」

「ああ」

 昔から献立に迷った時は大抵玉葱に絡んだ何かを作っていた。恐らく一番舌に馴染んだ味だった。肉や魚はそう頻繁にはお目にかかれなかったが、野菜は日常的に口にしていた。母親の影響が大きいだろう。

 そしてそれは息子へ、そして孫へと確実に受け継がれている。

「スープ、いっぱい作っておこうよ。明日三人が目を覚ましたらすぐ食べられるように」

「そうだな」

 味が染み込むまで時間はかかるがそこまで手間がかかるものではない。昼の肉じゃがもまだいくら残っている。作りおき出来るものをある程度用意しておけば後が楽になる。

「ウォッカさん、流石に少し疲れてるみたい」

 釜に水を張るとミリアムは中に鶏肉を入れた。茹で上げてダシを取ったら一旦釜から出して食べやすい大きさに刻むのだ。

 返す言葉に詰まった。恐ろしく目まぐるしい一日だった。心が安らぐ暇など殆どなかったハズだ。あるとすれば、カティを取り戻した瞬間くらいのものだろう。とは言えその余韻に長く浸れる暇などある訳がない。だからこそ今抱える疲労がある。

 包丁を握り直した。今ウォッカに出来る事があるとすればこれくらいしかない。

「せめて、食事くらいはゆっくり取って欲しいな」

「そうね」

 隣にいたミリアムが頷いた。

「何か、今凄く卑屈に聞こえるな」

 汚れた流しを布巾で拭きながらアリスが言った。咄嗟に返事が出来なかった。ミリアムも気まずそうに目を逸らした。

「みんな命を救ってもらったし、それは今も変わらないけど、彼が元気でいるためには食べるものもしっかり食べなきゃいけない訳だし」

 火の勢いがなくなり始めた釜戸に薪を放り込むと、アリスは乾いたフライパンを焜炉に置いた。

「食べたもので彼の体が維持されるなら、それがないとみんなを助けるどころか自分の足で歩く事も出来なくなっちゃうんじゃないかな」

 誰かを救うために彼が自分の命を分け与えている事は疑い無い。その源になっているのは間違いなく食糧だ。食べない事には始まらないのだ。

「人って食べたもので体が出来てるよね。ほら、医食同源言うじゃない。彼のためにも私達のためにも食べる事って大事でしょ。だからもう少し胸を張ってもいいと思うな」

 偉そうにすべきではないと思うけど。アリスは白い歯を覗かせると心持ち少しだけ胸を反らした。

 医食同源はするりと口から出て来たのにどうして笑う角には福来るを知らないのか。

 でも、張っていた肩から力が抜けた。アリスの頭に手を置く。そのまま撫でるとそれこそ本当に子供のような顔をして笑った。年齢を疑いたくなるような無邪気さだった。ミリアムは妹を背中から抱き締めた。

 みんながみんな、まだ気持ちの置き場所を見つけ出せていなかった。宙ぶらりんのまま、それでも懸命に出来る事を探している。そんな中で一人だけぶれずに真っ直ぐ前を向いている。肩が、気持ちが軽くなった。

「作るか」

 湯気が上がり始めたフライパンに油を落とした。玉葱の焼ける音が厨房の中に響き始めた。


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