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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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五日目 その拾六

 手綱を振り下ろすと馬車が少し速度を上げた。出来る事ならもっと飛ばしたいがそうすると荷台が振動をモロに受ける事になる。

 ガイデルは気持ち少しだけ首を傾げて後ろを見た。荷台の両脇に女の子が二人、向かい合う形で座っている。二人とも膝の上に手を置いたまま顔を俯けていた。緊張で表情が強張っている。さっきからずっと黙ったままだった。それはそうだ、とてもではないが楽しくお喋りに興じていられるような状況ではない。

 ミリアムとアリスの二人が学校から飛び出してからしばらくした頃、その後の経過が少しずつ伝わって来た。と言ってもとても当てに出来るような代物ではないが。蒼白い顔をして吊るされたと誰かが言えば、もう一方がそれを否定する。確かに吊るされはしたが死んではいない。それが彼らの言い分だが吊るされたのに死んでいないと言う状況がガイデルには想像出来ない。吊るされたのだとすれば、みんな間に合わなかった事になる。考えただけで絶望で目の前が真っ暗になった。そして、生存を主張する連中の根拠も実に曖昧だった。曰く、吊るされた瞬間、絞首台は轟音と共に崩れ落ちた。たとえ絞首台が倒壊しようが首に縄が絡まっていたら窒息は避けられない。そうでなくても縄が伸び切ったら最悪の場合頸椎が脱臼して即死する。吊るされる前に縄を切らなければ死は免れない。絞首台は柵で囲まれていたと聞いている。その状態で縄を切るとなると柵の外から刃物を投げ込むしかない。しかも弛んだ縄を切るのだ、一筋縄で行かないどころか連日練習したとしても成功する確率の方が遥かに低い。偶然や奇跡が同時にいくつも折り重なって起こらない限りまず助からない。

 完全に情報が錯綜している。矢のように乱れ飛ぶ情報が真実を見えづらいものにしていた。

 確かめる方法は一つしかなかった。あれこれ考えるだけでは一向に事は運ばない。厩の方に向かおうとしていた時、人影が二つ門の方へ走っているのが見えた。それがエレンとサラだった。

「急ぎみたいだな」

「はい」

 硬い声で応えたのはエレンだった。急いでいない訳がない。

「どちらまで?」

「カティの家に」

「私達もご一緒させて下さい」

 言葉に迷いがなかった。そして拒む理由もなかった。促すと二人は黙って荷台に乗った。

 誰も、一言も口を利かなかった。ガイデルにしてもどんな話を振ればいいのか判らない。下手に口を開こうものなら胸の奥にしまい込んだ不安が現実になりそうな恐怖があった。二人とも舞い込んで来た情報はいくらか耳に入っているハズだ。その真偽を確かめようとしている。

 学校にいる時は大抵三人は一緒だった。今に始まった話ではない。本当に小さい頃からそうだった。文字通りの親友だ。それが命の危機に瀕していると聞かされたら誰しも平静ではいられない。それこそ気が気ではないだろう。ひょっとしたら、もう会えないかも知れない。そんな恐怖と懸命に戦っていた。

 もし一人で向かう事になっていたら広場に寄ってからにしようかと思っていたが、それも少し難しそうだった。間に合っていると信じながら店に向かうのが賢明だろう。だが気掛かりは気掛かりだった。何故絞首台が倒壊したのか。しかも吊るす瞬間にだ。奴らも馬鹿ではない、妨害されないような手立ては講じていたと見るべきだろう。現に絞首台を柵で取り囲んでいたくらいだ、無事に事が運ぶよう準備にも警戒にも抜かりはなかっただろう。こちらからして見れば腸が煮え繰り返る話だが。

 その絞首台が何故、依りにもよって吊るす瞬間に倒壊したのか。事故や偶然の類ではない。台が壊れていた可能性も捨て切れないがそんなお粗末な理由で事をし損じるとは思えなかった。仮にそれが事実だとすれば、こんな肝心なところで失態を犯すような馬鹿にいいようにあしらわれていた事になる。それは別の意味で耐え難かった。偶発的な要素が絡んでいないならば、人為的に惹き起こされた事になる。意図があるとするた妨害だろう、それ以外考えられない。だが妨害が目的なら誰が何の為にやったのか。考え始めたらキリがない。答えに行き着く保証もない。吊るす事の妨害が目的だとしたら、それが吉に転ずる事を祈るしかない。

 ようやく店が見えて来た。馬車を止めると二人の体が痙攣でもするように激しく揺れた。首を捻って後ろを見遣る。二人とも体を震わせたまま動こうとしない。生きていればいい。だがそうでなかったら。その事実と向き合うのが恐ろしくて動けないのだろう。それはガイデルも変わらない。

「先に行ってる」

 二人とも微動だにしなかった。頷く事も出来ずに硬い表情で宙の一点を見詰めている。

「判ったらすぐ伝えに戻る。それまで待っててくれ」

 返事はなかった。元より期待もしていない。

 馬車から降りるとバルコニーの階段を上がる。スイングドアの目の前まで来ても人の気配は感じなかった。

「邪魔するぜ」

 店の中に顔を突っ込んだ。やはり人影はない。ドアを押して中に入る。食堂は言うに及ばずカウンターやその向こう側にも誰もいない。気配も感じない。確かにここは裳抜けの殻だが人がいないと言う事は有り得ないハズだ。

 廊下の方へ足が向きかけた時、足音がこちらに近付いて来た。食堂に入った瞬間、驚いたように人影が立ち止まった。一瞬ミリアムかと思ったが髪が短いだけで体格が全く違う。アリスだった。さっき校門の前で馬を渡した時は本当に一瞬だったせいで気付かなかった。あれだけ長かった髪が見る影もないくらいバッサリ切り落とされている。

 しばらく言葉が出なかった。

「師匠……」

 呟いた拍子に右目から涙が零れ落ちた。よく見ると左の頬にも涙の跡があった。

 無意識に駆け寄っていた。両手で肩を掴む。

「おい! カティはどうした! 無事だったのか?」

 アリスはピッタリ目を合わせると笑った。涙を流しながら頷く。

「大丈夫です、無事です」

 全身から力が抜けた。曲がりそうになった膝に手を添えて何とか遣り過ごす。ビックリさせるなよ、全く。言おうとしたら本当に涙が出そうになった。人の事を言えた義理ではない。

「怪我は?」

「してましたけど、もう殆ど治ってます」

 明らかに顔が歪んだ。言っている意味が判らない。

 だが今は他にすべき事がある。二人にカティの無事を伝える事が先だ。

「あ、あの……」

 反射的に振り向いた。スイングドアの前で今にも泣き出しそうな顔をした二人が立っていた。

 自然と頬が弛んだ。力強く頷く。

「無事だよ」

 倒れそうになったサラの肩をエレンが慌てて掴んだ。と思ったら仲良く並んで尻餅を突いた。

「カティに、カティに会わせて下さい」

 居てもたってもいられないのだろう、エレンは立ち上がるなり真っ直ぐアリスを見て言った。

「判った。でもちょっと待って」

 カウンターから水差しとコップを取るとお盆に載せる。

「行きましょう」

 前を歩くアリスに続いて食堂を出る。部屋までの僅かな距離がやたら長く感じた。ドアの前に立つとアリスは気持ちを改めるように深呼吸した。

「ウォッカさん、師匠とカティの友達が来たの。お通ししてもいい?」

「ああ、構わないよ」

 ドアを開けると二人が部屋の中に飛び込んだ。ベッドの脇にウォッカが膝を突いていた。右手をカティの額に、左手を下腹部の上の辺りに置いている。その手が淡く光っているように見えた。窓から差し込んでいる日差しの中に手があるせいで一瞬見間違いかと思ったが、そこだけが自己主張でもするように明らかに強い光を放っている。

「カティ!」

 サラはカティの手を掴むと一気に泣き崩れた。

「良かった……!」

 エレンはカティの肩を掴むと背中を震わせた。目から零れ落ちた雫がカティの頬を濡らす。

「アリス」

「はい」

 アリスはベッドの脇にある台にお盆を置くとこちらに向き直った。

「ウォッカは、さっきから何をしてるんだ?」

 アリスはハッとするように口を手で押さえた。

「それに、お前昨日奴らにやられたんだろ? お前も含めて本当にみんな無傷だったのか?」

 何があったのか具体的には判らない。ただ髪を切られた瞬間はまともに抵抗する事は出来なかったハズだ。つまりそうなるまで追い込まれていた事になる。相手を抵抗も出来ないくらい無防備な状態にすると言う事は口で言うほど容易ではない。

 アリスは臍を噛む代わりなのか、下唇を噛んだ。申し訳なさそうな顔をしてウォッカを見る。

 ウォッカが笑った。

「だから言ったろ? 構わないよって」

 心底安堵するようにアリスの頬が綻んだ。髪が短くなったせいで大分印象は変わったがそれでも可愛い事に変わりはない。そしてミリアムとよく似ている。性格は正反対だがやっぱり姉妹だ。イリナもそうだが、二人に共通している部分がある。並べてみると血の繋がりを窺わせるものを感じる。

 ベッドに横たわっている一番下の妹を見る。抜けるように白い肌とは対照的に、髪と目は濡れ羽の鴉のように黒い。両親や姉は髪も目も茶色いのにどうしてこの子だけ黒いのか、最初に見かけた時から不思議に思っていた。その疑問が解決したような事は全くないが、改めて見るとやっぱり気になる。

 どうしてこの子は誰にも似ていないのだろう。

「ウォッカは今何をしてるんだ?」

「カティの怪我の治療です」

 改めてウォッカを、その両手を見る。淡いが確実に白い光を放っている。絶対に見間違いや錯覚ではない。エレンとサラは茫然とその様子を見詰めている。

「でも……」

 首を傾げるサラの気持ちも判る。目立った外傷がそもそもないのだ。それも治したと言う事なのだろうか。

 だとしたら、今は何の治療をしているのか。外傷の治療ではないとすると……、成程。

「体の中、か」

 頷いたウォッカの額に薄っすらと汗が浮かんでいる。アリスが慌ててコップに水を注ぐとウォッカに差し出した。

「ありがとう」

 ウォッカからコップを受け取るとアリスは台の上に置いた。

「師匠、いかがですか?」

「ああ、すまねえ」

「お二人は?」

「はい、お願いします」

 エレンとサラもおずおずと頷いた。

 手渡されたコップの水を一気に飲み干す。何の味もしないが気持ちは少しだけ落ち着いた。と言っても頭の中の大部分はまだ混乱が占めているが。

 何が起こっているのか未だに正確に理解出来ていない。

 ウォッカは依然としてカティの額と下腹部に手を当てている。

「上半身は前も後ろも傷とアザで埋め尽くされてました。それだけ痛めつけられると、やっぱり体の内側も……」

 腹部や背中を殴打されれば内臓が損傷する。それを、こんな若い娘相手に別段躊躇う事もなくやってのける奴らが今この街にいるのだ。それが何より耐え難かった。こんな事は戦禍に見舞われたあの時だけで充分だ。繰り返す必要などない、絶対に。偶々この街に迷い込んだ旅人がそれに深く関わり、傷付いた人間を懸命に助けている。

 全く、どういう巡り合わせでこの街に来る事になったのか。逆に今ウォッカがここにいなかったらどうなっていたのか。

「ウォッカ、聞かせて欲しい事がある」

「俺に出来る事なら何でも」

「安心してくれよ。お前にしか出来ない事だ」

 ウォッカが苦笑いした。釣られるようにしてガイデルも笑う。

「昨日、ここであった事を正確に教えてくれないか」

「俺は構いません」

 言葉に含みを持たせようと言う意図は窺えない。だがやはり真意は見えない。

「いいかな?」

 目配せするとアリスがぎこちなく頷いた。アリスは昨日、その出来事の渦中にいた。目の前で妹を拐われたのだ、出来る事なら思い出したくもないだろう。舌打ちしたくなった。長年付き合って来た弟子の気持ちを考える事も出来なかった。そればかりかまだ会って一週間も経っていない旅人に先を越されている。全く、溜め息も出ない。

 ウォッカはゆっくり息を吐いた。目が僅かに細くなった。

「俺も事が終わってからここに戻ったんで詳細は判りませんが……」

 そうだった。奴らがあんな姑息で卑怯なな真似さえしなければ、誰も傷付く事はなかった。歯が軋んだ。

「結論から申し上げれば、女将さん以外はみんな重傷でした」

「具体的には、どの程度だったんだ?」

「アリスは左の上腕骨が真っ二つに折られていました。他には肝臓へかなり痛烈な打撃が何発か」

 一瞬吐き気がした。重傷だとは思っていたがまさかこれほどまでとは。となると他もこれ以下ではなさそうだった。

「ミリアムは砕かれた肋が肺に突き刺さって酸欠を起こしてました。具体的な経緯は判りませんが、鉄製の鈍器か何かで思い切り叩かれたのではないかと」

 想像しただけで息苦しい。そんな生き地獄を悲鳴も上げず歯を食い縛って耐え続けていたに違いない。

「イリナは?」

「鎖骨が左右とも突きで切断されてました、下にある動脈と後ろの僧帽筋も一緒に。あと、傷自体はそこまで深くはありませんでしたが右の鎖骨の下から左の脇腹にかけて袈裟斬りに切り裂かれてました」

 僧帽筋と鎖骨、そして鎖骨下動脈がまとめて切断されたら実質的に相手を無力化出来る。剣を握る事は出来てもまず振るえない。相手を袈裟斬りにするのは攻撃手段としてそれだけ有効なのだ。

 斬られた傷と突かれた傷、どちらが先に出来たものかは判らないが斬るか突くか選択出来る程度の余裕は間違いなくあったハズだ。その時点でイリナの敗北は既に確定していたと言える。掌の上で遊ばれていたも同然だ。それほど実力に差があったのだ。

 どんな思いで剣を振るっていたのだろう。勝てる見込みがない事は判っていたハズだ。それでも最後まで逃げずに真っ向から勝負を挑んだ。後から話を聞いただけのガイデルでさえこれだけ悔しいのだ、実際に相対していた当人はその比ではない。

 もし、もし完全に息の根が止まっていたら。体の芯から震えが来た。

「みんな、無事なんだよな」

 ウォッカが力強く頷いた。

「ご主人も膝を叩き折られてそれが皮膚を突き破っていましたが、イリナやみんなも含めて何とか間に合いました」

 間に合ってくれて良かった。心底ホッとした。体も自尊心もズタズタに切り裂かれ、命を賭して守ろうとした妹は目の前で連れ去られた。心は無念と悔しさで埋め尽くされていたに違いない。考えただけで胸が締め付けられる。この男は切迫した状況で教会から大急ぎでここまでとんぼ返りして、一人の死者も出さず全快させてくれた。得体の知らないこの男が何故こんな力を持っているのか判らない。だがそれが大きな怪我を負った者を、死の危機に瀕した人間を、大切な仲間を救ってくれた、それは紛れもない事実だ。頭が下がった。いくら頭を下げても足りないくらいだった。

「そう言えば、ヨハンの奴、昨日戻った時には一切そんな話はしてなかったな。みんな気絶させられただけで大きな怪我はしてない、そう言ってたが」

「俺が口止めしたんです。今見た事は一切他言無用だ、と」

 考えるまでもなく、こんな事は誰一人まともに説明する事など出来ない。怪訝そうに首を捻られるか全く相手にされないかの何れかだ。信じろと言う方がおかしい。だから別に口止めされなくても言う事はしなかっただろう。

 だがこうして目の前で目の当たりにすると信じざるを得ない。嘘でもからかっている訳でもなく、実際に目の前で起きた事実だからだ。

 ウォッカが目を向けるとベッドの両脇にいるエレンとサラは慌てて頷いた。

 そのサラが立ち上がったかと思うとウォッカの手を両手で握った。

「ありがとう」

 泣き腫らした目からボロボロと雫が落ちた。止まる兆しも見せなかった。

「カティとは、立って歩く前からの付き合いだから、本当に家族同然なの。だからこの子が殺されるかもって聞いた時はもう……」

 サラが口を手で押さえた。気が気ではなかったのだろう。身近にいる親しい誰かが殺されそうになっているのに平気な顔をしていられる人間などいる訳がない。

「私も」

 サラの隣に並ぶと、エレンは深々と頭を垂れた。

「ありがとうございました」

 イリナ達ほど様にはなっていない。だが気持ちはしっかりと伝わる、そういうお辞儀だった。見ていて清々しい。

「こんな事一度も言った事はないけど、この子とは、カティとは親友だから……」

 心の底からそう呼べる友人がすぐ傍にいる。それがどれ程有り難く得難いものなのか、それをしっかりと理解している。

 そんな友人が二人も身近にいるのだ。家族以外に、こうして駆けつけて無事だった事に涙を流してくれる友人がいる。

 実に恵まれている。いや、それはカティの人徳に依るものなのかも知れない。

「みんな、お腹空かない?」

 アリスが思い出したように言った。そう言えば昼食を食べた記憶がない。昼時はそれどころではなかったし食欲など頭の中から消し飛んでいた。殆ど条件反射と言っていいくらいの頃合いで腹が鳴った。女衆三人が弾けたように笑い声を上げた。決まりは悪いが格好悪くはない。バツは悪い訳がないし、機嫌はむしろ普段より遥かに良かった。

「おい、あんまり大人を笑い者にするもんじゃねえぞ」

 笑い声は止むどころか一層激しくなった。ウォッカまでもがおかしそうに肩を震わせながら苦笑している。睨み付けるとおっかなそうに首を竦めて見せた。飽くまで振りだった。

「少し待ってて下さい。すぐ支度して来ますから」

「私も行きます」

 すかさずエレンが立ち上がった。

「待っててよ。師匠もあなた達もお客様なんだから。それに、二人が傍にいた方がカティも喜ぶでしょ」

「大丈夫ですよ」

 エレンは思わせ振りに笑うとこちらを、いやウォッカを見た。

「彼がいるんですから」

 途端に火が点いたようにウォッカの顔が赤くなった。蝋燭のように体から突き出た先端だけが赤い様は異様でもあり、同時に滑稽にも思えた。馬鹿にするような意味合いはない。人一人の命を救うだけの力がある人間がこんな事で顔を赤くしている事実が単純におかしかった、それだけだ。

 躊躇いがちに歩を進めるアリスの背中をサラが強引に押す。抵抗する間もなく部屋から姿を消した。

 急に静かになった。部屋の温度が急激に下がったような錯覚を覚えた。だが断じて肌寒さなどは感じない。むしろ落ち着いて、腰を据えて話をするには丁度いい雰囲気だった。

「本当に、大変だったな」

 とてもそんなありきたりな言葉では済まない。カティの命のみならず、ウォッカがこの一家を物理的に、そして精神的に救っている。今もこうして傷付いたカティを癒している。

「確かに、楽ではありませんでしたね」

 ガイデルの顔を盗み見るようにこっそり窺ったかと思うと、ウォッカは肩を竦めて苦笑いした。深く考えるまでもなく、楽であろうハズがない。だが、たとえどれだけ辛かろうともこの男は決して止まる事はしない。息絶える寸前まで動き続ける。ウォッカが動けなくなると言う事がガイデルには想像出来ないが。

「聞くのはこれで終わり、って訳ではないですよね」

「ああ」

 素直に認めた。否定する必要も隠す理由もない。ウォッカが笑った。可笑しそうにも、仕方ないのを無理矢理誤魔化したようにも見える。どちらでも構わなかった。

「丁度ウォッカが広場に向かってる頃から一、二時間は学校も上へ下への大騒ぎだったんだぜ」

 思い出そうとするだけで眩暈がする。誰が吊るされるかと言う事は比較的に早い段階で判明したがそれを迂闊に生徒の耳に入れる訳にも行かず、かと言っていつまでも隠し通せるほど教師連中は腹芸が達者かと聞かれれば即座に首を横に振る事しか出来ず、かくしてあっという間に学校に知れ渡る事になった。そして大混乱に陥った。

「大混乱、ですか?」

「誰が、何故殺されるのか。理由は何処にあるのか、止める事は出来ないのか。学校は、先生達はどうして止めようとしないのか。そんな考えがない交ぜになって子供達の胸の中で一気に膨れ上がった」

 大人に近い者もいればまだ幼い子もいる。でも考える事はみんな一緒だった。誰かが殺されるのを歓迎するような奴なんてこの街には一人もいない。失う事の怖さを判っているからすぐ傍にいてくれる事の有り難さを身に沁みて知っている。

「子供達はみんな必死に助けようとしてた」

 でもおいそれと行動には移せなかった。時間的な頃合いを見図るなら執行されるのは丁度正午頃と言う予測は容易についた。大急ぎで向かったとしても時間が少なすぎた。

 ウォッカがいつ知らされたのかは判らない。よく間に合ったものだ。いやよく間に合ってくれた。

「だからそれを抑えるのが先だった。頼むから大人しくここに、まだ学校にいてくれ、ってな」

 口で言うほど容易な作業ではなかった。だが学校に残された大人に出来た事は精々その程度だ。当事者はおろか、傍観者にすらなれなかった。そして誰一人としてそんな事は望まなかった。

「皆さんも、大変だったんですね」

「そりゃそうさ。人が死ぬって事はそれくらい重いんだ。判るだろ?」

 ウォッカはベッドに横たわるカティの手を握ったまま厳かに頷いた。この男がそれを知らないハズがない。同時に肩に載せている責任の重さも判っているハズだ。

 だからここまで懸命になるのだ。

 落ち着いた子供達を家に帰した後は矢のように乱れ飛ぶ情報に完全に右往左往していた。確かなものなど何処にもなかった。確固たる証拠を得るには一つしかなかった。

「だからここに来られたんですね」

「ああ」

 当事者から話を聞くのが手段としては一番手っ取り早い、いや確実だった。同時に非常に恐ろしくもあったが。

 それをいい意味で見事に裏切ってくれた事に感謝するようにガイデルは笑った。期待通り、いやそれ以上の事をしてくれる。実に頼もしく、そして心強かった。

「単刀直入に聞く。絞首台が崩れ落ちた時、ウォッカは何処にいたんだ?」

「目の前とまでは言いませんが、極々近い場所にいました」

 そこから縄を切ったのだ。とても信じられないが信じるしかない。目の前にある事実が如実にそう語っている。

 吊るされ、絞首台は崩れ、それでも生きている。大混乱の最中にもたらされた情報にしては実に正確だった。ただ、大混乱の中で知らされた事実の一つ一つを吟味して考えた場合、それが更なる混乱を招いていた事も確かだった。心底ウンザリした。無駄に頭をこんがらがらせやがって。

「絞首台が崩れたのは事故や偶然、って訳ではないんだよな」

「勿論、人為的なものです」

 即答だった。一切迷いがない。

 突っ込んで聞くだけの価値はある。この街で何が起こったのか、そして何が起ころうとしているのか。それを好奇心ではなく関わっている人間の一人として把握しておきたかった。

「俺は柵の外から縄を切っただけなんです。その直後に足場が抜けました。だから怪我もこの程度では済まなかった、いや場合に依っては息を吹き返さなかった事も……」

「ちょっと待て。そりゃどういう意味だ?」

 ウォッカは抜き身の刃のような目で宙を睨んでいる。背筋がゾッとするような表情だった。

「恐らく、柵のすぐ前に陣取っていたんでしょうね。そうでなければあれだけ即座に対応は出来ない」

「じゃ、何か? そいつは目の前にいたのにカティが吊るされる直前まで動こうとしなかった、いや事態を傍観してた、って事か?」

「でしょうね」

 ウォッカの口元が歪んだ。舌打ちしようとしたのかも知れない。

「済まねえが、流れを順序立てて説明してくれねえか。ウォッカは縄を切った、その後どうなったのか」

「そいつが柵を切り裂くと同時に落ちて来たカティを受け止めて絞首台を切り崩した」

「そいつはそれを一瞬でやってのけた訳だろ?」

「はい」

「人間業じゃねえな」

「そうですね」

 あっさり頷かないで欲しい。ウォッカも普通の人間とは言い難いがその男も相当だ。

「何者なんだろうな、そいつは」

「判りません」

 それが判れば苦労はない。氏も素性も一切不明、そして相当な凄腕だ。そんな人間がこんな辺鄙な片田舎に明確な目的を持って人知れず陰で蠢いている。あまり気分のいいものではない。いやハッキリと悪い。

「ただ最初からカティを助ける意思はあったと思います」

「だろうな」

 そうでなければ落下したカティを助ける理由がそもそもない。そのまま捨て置けば良かっただけの事だ。

「で、そいつはどんな輩なんだ?」

「馬鹿みたいにデカい体躯でかつ全身が岩みたいな筋肉で覆われてる、目付きも態度も尋常じゃないくらいに悪い。でもって太刀筋が全く見えないくらいの凄腕です」

「およそまともな人間には見えねえな」

「まともな人間とは言い難いですね。斬りかかって来た兵士二人の首と両腕を一撃で斬り飛ばすような奴ですから」

 両腕を切り離された首なし死体が血の海に沈んでいた事になる。その直前は血の噴水まで披露している。まともと言うには程遠い。途轍もなく危険な人間だ。

「確かに非常に危険な人間である事に変わりはありません。ただ氏も素性も目的も判りませんが、一概にそれで敵とも言い切れません」

 確かにそうだった。利害も関わりもない人間をわざわざ助ける理由が見当たらない。

 そこまで考えて初めて脳裡で閃くものがあった。全く躊躇いなく人を殺せる胆力、それを可能にする剣腕、そして……。

「例のあいつか」

 愕然と呟いた。

「ウォッカが痛めつけた十六人を惨殺した、」

「俺が来た日の朝にも見張りを一人を殺してますから、最低でも十九人は殺してますね」

 最低でもと断りを入れる辺りにこの男の慎重さ、いやしたたかさを感じる。確認出来ているのはそれだけだ。それ以外にも、殺していないと言う保証など何処にもない。むしろ絶対に殺している。確信に近いものを感じた。

 これまで完全に陰に徹していたような奴が今になって突然姿を現す、その理由が一体何処にあるのか。その疑問を口にしたとしても納得のいく答えが返って来るとも思えない。

「取り敢えず、最低でもあと一回は面を拝んでおきたいですね」

 穏やかだが明らかに殺気を孕んだ声だった。背筋が凍ると言った方が正確かも知れない。

「あまり物騒な事は考えるなよ」

「この子を助けてくれた礼をまだ伝えてないんで」

 穏やかに笑っているが、それが逆に不気味さを醸し出していた。感情を抑え込もうとしているようだがそれが周囲から判るようではまだまだだ。

 人間離れした力を持っていても、やはりまだ二十歳の若造なのだ。

 立ち上がっていた。ウォッカの肩に手を置いた。硬く張っていた。まだ気は抜けないのだろうが、もう少し力は抜いてもいい。

「取り敢えず、深呼吸するか」

 肩が震えるくらいに強張った。だがそれも一瞬だった。少しだけ息を吸うと今度はゆっくり吐き出す。あれだけ張っていた肩から力が抜けていた。

「さっき、旦那様にも同じ事を言われました」

「ダンにか」

「はい。確かに、何をするにも脱力は基本ですからね」

 それが判っていてもあんなに硬くなっていた。理屈だけで物事は運ばない。

 力は抜けていても筋肉の硬さに疲労を感じる。ウォッカは変わらずカティの額に手を置いていた。

「飯は、下でみんなで食うか」

 はい、と頷くウォッカの声はやはりまだ硬いままだった。


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