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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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五日目 その拾伍

 腕の中で完全に脱力しているイリナを静かにベッドに横たえた。目を覚ます兆しすら見せない。疲れ切って弱り切って、最後にイリナを支えていたものが完全に切れたのだろう。救いなのは最後に残された糸を切ったのが希望と言う点だ。もしそれが絶望だったら。考えただけで身震いがした。思い切り歯を噛み締める。

 枕に頭を載せた。体の脇に添えられていた右手を両手で包み込む。冷たかった。人を五人も殴り倒したら相当な興奮状態にあるだろうに、まるで氷に触れたようだった。妹の身を、無事を案じながら、こんなに心をすり減らしてひたすら待ち続けていたのだ。

 それに気付く事すら出来なかった。

 今に始まった話ではない。精神的にも肉体的にも頑丈でちょっとやそっとでは倒れない長女にいつしか甘えていた。イリナならば大丈夫、何ら明確な根拠もなく妹三人を引っ張って前を歩き続ける長女にすっかり頼り切っていた。何の事はない、蓋を開けてみれば自分の足で立つ事も儘ならないくらい疲れ切った娘が目の前にいた。気付かなかったのではない、そうなるまでダンが追い込んだのだ。それに初めて気付いた。否、気付かされた。

 未だに温もりを取り戻さない娘の両手を胸の中で抱き締めた。頬を伝った涙が腕に落ちた。

 全く、酷い父親だ。娘を守るどころか負担ばかりかけている。娘は常日頃から身の周りの事をあれこれ気にかけて必死に支えてくれているのにそれに甘えるだけで何の返事も寄越さない。挙句の果てには疲れ切って倒れた娘を目の当たりにして初めてそれに思い至る体たらくだ。腕が、肩が震えた。胸の奥から込み上げる嗚咽を懸命に喉元で抑え込む。涙だけが、絶えず頬を濡らしていた。

 ノックの音で我に返った。涙を慌てて指先で拭う。

「父さん、入っていい?」

「ああ」

 振り向く間際に指で頬を撫でた。声は震えていない、と思う。そこまで気を配れる精神的な余裕も暇もない。

「イリナは、どう?」

  微妙に顔を歪めて頭を掻いた。眠っている、と言うのが適当かどうかすら判らない。

「まだ、しばらく目を覚ましそうにないな」

 それだけ堪えている何よりの証拠だろう。ずっと妹の身を案じ続けていた。それだけでも辛くて苦しくて堪らないだろうに、おくびにもそれを出さなかった。みんなを鼓舞し、自らを奮い立たせていた。カティが助かった事で気持ちの糸が切れた事は想像に難くなかった。

 カティにしても、辛うじて命は繋ぎ止めたがまだ油断は出来ない。傷には癒えるものとそうでないものがある。一生心に残る傷を負っていても何らおかしくないのだ。もしそうだとしたら、いくら彼でもそれを癒す事は出来ないに違いない。

 祈るような気持ちで天を仰いだ。否、祈るしかなかった。もし一生消えない傷が残る事になったら、その時は家族全員で時間をかけて少しずつ癒していこう。みんな揃って初めて一つの家族だ、誰か一人でも欠ける事などあってはならない。傷付いた誰かがいれば傍に寄り添う。今がそうであるように。

「アリスは?」

「ウォッカさんと一緒。何か頼まれてたみたいだけど……」

 ウォッカがアリスに頼むような事があるとも思えないが、外野がどうこう言うのも筋が違う。誰かに頼むだけの用がある事は間違いない。

「父さん、一つ頼みたい事があるんだけど」

 照れ臭いのか恥ずかしいのか、それとも決まりが悪いだけなのか、ミリアムは体の前で組んだ手をモゾモゾ動かしている。

「どうした?」

「イリナは私に見させて。父さんは、母さんをお願い」

 ベッドの脇で膝を突いた。さっきダンがそうしていたように、イリナの両手を胸に抱いた。

「母さんも、昨日からずっとみんなの事を励まし続けて、でも辛そうな顔なんて私達の前では一度も見せなかった」

 娘達の前では、確かにそうだったのかも知れない。今朝目が覚めた時に見た妻の顔はすぐにそうと判るほど疲弊してやつれていた。だがそれを娘達の前で晒す事はなかった。子供達の背中を叩かなければならない人間が迂闊にそんな顔は見せられない。妻もまた、自分が担っている役割をしっかりと自覚している。そして長女と同様に積もりに積もった心労が限界を超えた。

「母さん、昨夜もずっとアリスの事励ましてくれてたの。自分も泣きたいくらい辛かったに決まってるのに」

 その気持ちを懸命に抑え込んで今までやって来たのだ。当然知ってはいたが、気にかける暇はなかった。

「イリナも昨日あんな大怪我負ってたのに、今日になったら私達に発破かけてくれた」

 ひょっとしたら、精神的にも肉体的にも一番堪えていたのはイリナなのかも知れない。家族が痛めつけられる一部始終を目の前でまざまざと見せつけられ自身も半殺しにされ、妹を守る事も出来なかった。それでもひたすら前を見続けて家族の背中を叩いていた。

 全く、いつそんな強さを身に付けたのだろう。場違いながら、そんな娘を持てた事に胸を張りたくなった。

「私はただ泣き叫ぶ事しかしなかった。イリナがこんなにボロボロになってるのに、それに気付く事も出来なかった」

 声が震えていた。みんながみんなの身を案じていた。その中で何か出来る事がないか、それを懸命に探している。

「母さんとの付き合いは父さんが一番長いでしょ? だから、母さんもその方が喜ぶと思うの。勿論落ち着いたら私もすぐ行くから」

 笑った拍子に目尻から涙が零れた。みんな強くて優しい。本当に立派に育ってくれた。何処に出しても恥ずかしくない。

「母さんも心配だけど、今はイリナの傍にいてあげたいの」

 昏々と眠り続ける姉の両手を掌で包み込む。湿った息が唇から漏れた。

 娘の頭に手を置いた。ミリアムは見上げる事もなくじっと姉を見詰めている。

「頼んだぞ」

 ミリアムがダンの手を掴んだ。強く握り締める。

 部屋を出る間際に振り向くとミリアムが小さく手を振っていた。返事をする代わりに軽く手を上げた。もう、ここにいるべきではない。

 ドアを閉めるとその足で寝室に向かった。娘同様、妻も一人には出来ない。

 寝室に入ると二人で使っているベッドに妻が血の気の失せた顔をして横たわっていた。額に手を載せると確かな温かみが肌に伝わった。胸を撫で下ろす。意識が戻るならばせめてカティの無事だけでも伝えたかった。いつ目を覚ますかは判らない。それまで傍にいよう。探せば他にも出来る事はあるに違いない。だが頭に浮かんだのはそれだけだった。

 目を覚ました妻にどんな言葉をかけるべきだろう。それとも何も言わずに抱き締めるべきなのか。肩が震えていた。泣きながら笑っている事に気付いて余計に笑いが込み上げた。妻にも娘達にも、本当に辛い思いをさせてしまった。でも誰一人失う事なくこうして家族全員が一つになれたのだ、これほど嬉しい事はない。

 妻の手を握る。失われた温もりを取り戻すように両手で包み込む。

 嗚咽だけが、いつまでも部屋の中に響いていた。



 

 部屋に入るとウォッカはベッドにカティを横たえた。すぐさま背中を向ける。

「アリス」

 声をかけるまで殆ど間がない。授業中に居眠りしていて先生に指名された時と比べ物にならないくらい勢いよく背筋が伸びた。

「まず、カティの服を脱がして欲しい」

 思わず首を傾げたくなった。そんな事、誰かに頼むまでもないだろうに。

「それが済んだら毛布をかけてやってくれ。俺から体が見えないように」

 ようやくウォッカの意図に気付いた。カティが彼の事をどう思っているかは判らない。でも自分の裸を男に積極的に見られたいと思う女なんて絶対にいない。

「判った」

 カティが羽織っていた上着は誰がどう見ても大きすぎる。あ、そうか。

「どうぞ」

 脱がせた上着をウォッカに差し出す。さっきから薄手のシャツしか着ていない。カティが着ている服は腕と背中にしか生地が残されていなかった。女の大事な部分を惜し気もなく晒している。何があったのか、どんな目に遭わされたのか。本人に聞くまでもなかった。万力で締め付けられるようにして胸が痛んだ。

 ウォッカは淡く笑うと上着には袖を通さず椅子の背にかけた。目を閉じてゆっくり深呼吸する。

「カティの体の何処に傷があるか、それを俺に教えて欲しい」

 ウォッカの中ではやるべき事が全て決まっているのだ。だから動作や佇まいに迷いがない。

 そして怪我を治すためとは言え、若い女の体を直接見る事を避けようとしている。アリスを連れて来たのはそのためだ。どうしてそこまで気を遣うのだろう。

「はい」

 カティの身に起こった事実を間接的に知る事になる。それがどんなものであっても受け容れるしかない。拒む事は許されない。それがアリスに求められている役割だった。

「悪いな」

 ウォッカが申し訳なさそうに眉根を寄せた。笑って首を横に振ると少しだけウォッカの表情が解れた。辛いのはみんな一緒だ。アリス一人がそこから逃げるような真似は絶対に出来ない。

「それじゃ、頼む」

 既にはだけている胸の真ん中の辺りや脇腹、鳩尾にも殴られたような痕、いやアザがあった。音を立てて息を呑んだ。

 たわわに膨らんだ胸の中心にある乳首の根元から血が滴っていた。完全にではないけど切れかかっている。誰かが鋭利な刃物で切り落とそうとしない限りこんな風にはならない。背中を見た瞬間、口元を手で押さえていた。体を強張らせて込み上げる吐き気を懸命に堪える。真っ白い肌は殆ど残されていなかった。まるで病巣のような赤黒い肌が背中全体を埋め尽くしている。目に見えて血が出ていないだけで皮下では激しく出血しているに違いない。それが背中全体を隈無く覆っているのだ。

「どうなってる?」

 咄嗟に応えられなかった。声を出そうとしても凍りついたように喉が動かない。でも、このままでいい訳がない。懸命にカティの傷を治そうとしているウォッカの気持ちを無にする事になる。

「背中はアザしかない」

 一色触発の猫が背中の毛を逆立てるようにしてウォッカの表情が険しくなった。

「前は?」

「アザと打撲でいっぱい。乳首も千切れかかってる」

 軋むような音が聞こえた。ウォッカが歯を食い縛ったのだ。身震いするくらい恐ろしい横顔だった。

「全部消す」

 治すではなく消すと言い切る辺りにウォッカの決意の程が窺える。毛布の上、丁度胸の中心の辺りに右手をかざした。掌全体が白い光を放ち始めた。それが少しずつ、でも確実にその強さを増していく。やがて白い光がカティの全身を包み込んだ。まるで白い膜に覆われているようだった。念じるように硬く目を閉じたウォッカの眉間に汗が一筋流れ落ちた。一瞬鋭く息を呑んだかと思うと今度はゆっくり吐き出す。光が急速に力を失っていく。蝋燭の火が燃え尽きるようにして完全に消えた。瞬間、ウォッカの顔から一気に汗が噴き出した。

「また、見てくれるかい?」

 反応が遅れた。何を見るべきなのかが咄嗟に判らなかった。傷の有無の確認を頼んでいるのだ。慌てて毛布を捲る。

 さっきとはまた全く違った意味で声が出なかった。アザだらけだった胸やお腹には何の傷跡もなかった。白い肌が当たり前のように姿を晒している。半分近く千切れかかっていた乳首も元通り綺麗にくっついていた。

「もう、全部治ってる」

 ウォッカは心底ホッとしたような顔で溜め息を吐いた。さっきと比べると別人のようにしか見えない。変化が劇的と言うよりそれくらい安心したのだろう。アリスにはそれ以上にビックリ仰天だった。カティの体と自分自身の右手を交互に、そしてしげしげと見詰める。

 さっき、拳を痛めた事に気付いた時、ウォッカは掌全体が拳を包み込んだ。それが白い光を放ち、すぐに消えた。時間にすれば何分もない、長くても数十秒と言ったところだろう。たったそれだけの時間で元通りになっていた。腫れ上がって曲げる事すら出来なかった指が何の痛みも伴わずに拳を作れるようになっていたのだ。

 訳が判らなかった。何が起こったのか、ウォッカは一体何をしたのか。それをまともに理解する暇もなく、今度は傷だらけだったカティの体を元に戻してみせた。さっきにしても、掌全体で手を握ってくれただけだった。たったそれだけなのに、恐らくは骨折していたであろう拳を瞬時に治してしまった。今に至っては触れる事すらしていない。理解出来ない。だから誰かに聞かれたとしても説明も出来ない。

「見落としてるような箇所はないかな」

 指摘されてハッとした。さっきは上半身しか見ていない。腰からしたがすっかりお留守になっていた。慌てて毛布を剥ぐ。

 真っ白くてスベスベした肌が真っ直ぐ爪先まで続いている。怪我をしていたのかどうかも判らない。それくらい綺麗で何もなかった。

「足は大丈夫、何もない」

「他は?」

 確かに見るべきところは足だけではない。安心してどうする。

 完全に脱力して動かない脚をゆっくり開いていく。その途中で手が唐突に止まった。

「どうした?」

 促すウォッカの言葉に返事が出来なかった。喉が、体が強張って動かない。

 ウォッカがカティの下腹部の辺りに手を置いた。

「脚の付根の辺りに刃物で切り裂いたような傷がある」

 より厳密に言うなら付根と言うより股に近い。ウォッカが治してくれた直後だからか、傷そのものはそこまで目立つものではないけど鋭利な刃物で切りつけられた事は間違いない。反射的に傷口から目を背けていた。吐き気にも似た感覚が胃の奥から迫り上がる。気付けば毛布から顔を出していた。とてもこれ以上は正視出来ない。

「ごめんな」

 何故ウォッカが謝るのか咄嗟には判らなかった。いつもは少し眠そうにしている目が、今は遣り切れない悔しさを滲ませたまま窓の外を睨んでいた。下腹部に置かれていた手がさっきのように白い光を放ち始めた。目に見える傷はウォッカにも消す事は出来る。でも、それが心に負った傷だったら。考えた瞬間、本当に声を上げそうになった。胸を押さえたまま床に膝を突く。胸が張り裂けそうだった。

「滅多な事言えるような状況じゃないけどさ、」

 相変わらずカティの下腹部に手を置いたまま、ウォッカは淡々と、でも力強く言った。

「信じようよ。何かあったなんて誰も考えたくないんだから」

 命は助かった。でも助かったが故にその先に転がっているかも知れない事実には誰も目を向けたくなかった。むしろ必死に背けようとしている。今のアリスがそうであるように。

 不意に頭に何か載った。

「ごめんな」

 馬鹿みたいに大きな手で頭を撫でてくれている。温かかった。

 抑え切れなくなった何かが胸の奥から込み上げて来た。ウォッカの肩に抱き着いていた。堪えていたものが一気に堰を切って溢れ出した。子供のように声を上げて泣いた。頬を濡らす涙を時折指がそっと掬う。兄がいたら、こんな風に肩に縋って涙を流したりしたのだろうか。

「ごめんな」

 詫びを入れるウォッカの横顔が涙で歪んでいた。頬を撫でる手は信じられないくらいに温かかった。冷え切った体を太い腕が全身をスッポリ包み込む。

 大きな手がいつまでも頭を撫でていた。


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