五日目 その拾四
背後からアリスの啜り泣く声が引っ切りなしに聞こえる。馬車の斜め後ろをこっそり窺う。半分、いや今にも泣き出しそうな顔をしたミリアムが荷台を、カティを見ていた。勿論顔を前に向ける事も忘れてはいない。出来る事なら今すぐ抱き締めたいに違いない。でも借りた馬をそのままにも出来ない。今は難しいにしてもカティの意識が戻るまでは責任を持って預かるのだろう。全く、責任感の塊のような子だ。そこが可愛くもあるが。出来る事ならすぐにでも抱き締めたいところだが状況がそれを許さない。
ウォッカの手がカティの右腕を抱えていた。例の如く手は淡い光を放っている。何故触れるだけで傷が治るのか。どうしてそんな力を備えているのか。考え出したらキリがない。そんな事よりも今はカティの治療に専念すべきだろう。それはウォッカ本人が一番よく判っているハズだ。
良かった。心の底からそう思う。
同時に羨ましくもあった。
息を吐き出すと肩から少しだけ力が抜けた。不意に浮かんだ思いを胸の奥に押し込む。これも、今考えるべき事ではない。
誰も、何も話さなかった。ヨハンもただ無言で手綱を振っていた。
店が見え始めた時、思わず眉根が歪んだ。人が倒れていた。それも一人や二人ではない。腰に剣を差した男が五人が身動ぎ一つせず横たわっていた。ご主人が荷台から飛び降りた。アリスがそれに続く。ミリアムは馬から降りると手綱をバルコニーの柱に括りつけた。
奴らの兵隊だった。今のこの街で剣を持てるの奴らだけだ。それが揃いも揃って綺麗に伸びている。
「イリナ!」
ご主人が店に飛び込んだ。全員それに続く。
イリナは酔い潰れるようにしてカウンターに突っ伏していた。すぐさま立ち上がる。
「無事か!」
「別に何ともないわよ! いきなり店に上がり込んで来たから叩き出しただけ。そんな事よりカティは?」
帯刀した男五人を相手にして何ともないと言う感覚は絶対に普通ではない。そしてその五人を見事に撃退、いや綺麗に気絶させているのだ。さっき一人を相手にするだけでも心臓が破裂しそうだったと言うのに。
今のイリナにはカティの安否の方が遥かに重要なのだ。
「ねえ、カティは無事なの?」
「大丈夫だよ」
一番後ろにいたウォッカが抱えているカティを軽く揺すった。
イリナがウォッカの所にすっ飛んで行った。頭にあるのはカティだけだった。それ以外は何もない。そして見えていない。
「かなり手酷く痛めつけられてるけど、傷は全部消す」
消す事が既に前提になっている。この男にはそれが出来るのだ。
「今は傷を治しながら体力を元に戻してる」
「体力を元に戻すって……」
イリナは当惑するように頭を抱えた。イリナに限らず、この場にいたら誰しも感じる疑問だった。
「昨日イリナ達にもした事だよ」
息を呑むような音がした。イリナは口元を押さえたままウォッカを見詰めた。
「血を……」
ウォッカは力強く頷いた。血をどうすると言うのだろう。記憶の糸を手繰る。昨日、ウォッカはどうやって傷を治していたか。あの時、ウォッカは背中から血を流していた。怪我を治す傍らでそれを指に掬い取り傷口に注いでいた。見るとウォッカの指先に薄っすら切れ目が入っていた。そこから血が滲んでいる。
「傷を一つ一つ潰していかないといけないから多少時間はかかるけど、傷自体はそこまで大きなものじゃない」
怪我の程度を考えれば昨日のイリナ達の方が明らかに重傷だ。だが範囲は全身に及んでいる。眉一つ動かす事なくこれだけの事をやってのける人間の心理が理解出来ない。考えただけで吐き気がする。
イリナはウォッカに、いやカティに歩み寄って行く。視線を向けても全く気付く気配はない。もう、カティしか見えていないのだろう。差し出した手でカティの頬を撫でる。
「ごめんね……」
雫がカティの頬に落ちた。雨粒が地面を叩くようにそれが二滴、三滴と続く。何故、イリナがカティに謝らなければならないのか。
妹の手を握りながら頬を撫でる。イリナはようやくホッとしたように笑った。
操り人形の糸が切れるようにして倒れかかったイリナを慌ててご主人が抱き止めた。
「イリナ!」
ぐったりとして動かない。と思ったら塞がっていた目が薄っすらと開いた。
「ウォッカ……」
「何だ?」
膝を折るとウォッカはイリナの顔を覗き込んだ。
「あんたの読み、大外れよ」
「そうらしい」
ウォッカはバツが悪そうに顔をしかめると音を立てて頭を掻く。
「大丈夫、全員ぶちのめしといたから」
だから気にするなと言うように親指を立てる。そんな事を平然と出来るのはこいつくらいのものだが。
「少し……疲れちゃった。ちょっと、休んでもいい?」
「ああ」
目を閉じた。次の瞬間にはもう完全に意識が飛んでいた。吸い込まれるようにして眠りに堕ちた。
目の前で家族を痛めつけられ、妹を助ける事も叶わず拉致され、そして自身も瀕死の重傷を負い生死の境を彷徨った。たとえ傷が癒えていたとしても頭は混乱の只中にあった事は想像に難くない。そんな中にあっても満足に涙を流す時間も暇もなかったハズだ。常に気丈に振舞い、妹二人の背中を叩き、両親を鼓舞し続けた。
カティが戻って来た事でその重圧から解放されたのだろう、ぶっ倒れて当然だ。むしろ今までよく持ち堪えられたと思う。今に始まった話ではないが、全く恐ろしい女だ。
完全に脱力しているイリナをご主人が抱き上げた。
「イリナは俺が運ぶ」
立ち上がるとウォッカに黙礼する。ウォッカもそれに対して黙礼で返した。ご主人はイリナを抱いたまま足早に食堂を後にする。
「アリス」
声をかけられたアリスは驚いたように背筋を伸ばした。
「手伝って欲しい事があるんだけど、いいかな」
「私に、ですか?」
ウォッカが黙って頷くとアリスは入隊したばかりの兵隊のように直立した。放っておいたら本当に敬礼しそうな雰囲気すらある。
食堂を出ようとしていたウォッカは不意に足を止めるとヨハンの方に向き直った。笑っていた。本当に穏やかな笑顔だった。
「ありがとな」
無意識に自分を指差していた。ウォッカに礼を言われる理由が見当たらない。
「ヨハンがここに来るのがあと一分遅かったら、きっと間に合わなかった」
一瞬尻餅を突きそうになった。そんなに際どかったのか。もしここに来るのが少しでも遅かったら、カティはここには戻れなかった事になる。その事実に思い至って腰が砕けそうになった。
「少なくとも、俺は助けられなかった」
ウォッカ以外の全員が顔を見合わせた。ウォッカでなければ誰が助けたと言うのか。
そう言えば、あの時ご主人は誰がカティを助けたと言おうとしたのだろう。柵を越えなければ絞首台まで辿り着けなかった。そしてあったハズの絞首台は既に切り崩されていた。その時にはウォッカの腕の中にカティがいた。
縄を切っただけ、ウォッカはさっきそう言った。吊るされる勢いそのままに絞首台から落下したカティを受け止めたのはそれ以外の誰かと言う事だろうか。
気付けば苦笑いしていた。ウォッカにはウォッカにしか出来ない事を最大限やった上で感謝の言葉を伝えてくれている。お前のしてくれた事の方が余っ程凄いよ。そう言ったところで首を縦に振るような事は絶対にしない。聞かなくても判る。あの時ヨハンがすっ飛んでここに来た事に純粋に感謝してくれているのだ、ならばそれを素直に受け取ろう。
「まだ、やる事が残ってるんだろ? ならそれを精一杯やれよ」
礼を言うのは、そして聞くのはそれからでいい。今ウォッカに余計な事で気を遣わせたくなかった。
「……そうだな」
固まり始めた紙粘土に水を塗るようにしてウォッカの表情が解れた。
「まだ終わった訳じゃない」
区切りはついているかも知れない。だが全て片が付いているとは言い難い。ウォッカはゆっくり息を吐くと閉じていた目を開けた。
「ヨハン」
ウォッカがヨハンを見て笑っていた。いい案配に力が抜けていた。
「何だよ」
殊更偉そうに言った。そうでもしないとまた余計な事を言い出しそうで怖かった。今は俺の事なんかどうでもいいんだよ。
「全部片が付いたら、一杯やろう」
ウォッカがグラスに見立てた拳を軽く突き出した。
「一杯でいいのかよ」
拳を叩き返すと今度はウォッカが苦笑いした。
「潰れるなよ」
腹筋に力を入れたのは込み上げそうになった笑いを堪えるためだった。目を上げるとウォッカも笑っている。
「頼むぜ」
「ああ」
ウォッカはカティを抱えたまま食堂から出て行った。もう振り返らなかった。その後をアリスが慌てて追う。
踵を返した。そのまま店を出る。ここに長居するだけの理由はない。外野は立ち去るのが筋だろう。
「あの!」
馬車の荷台に乗ろうとした時、誰かが呼び止めた。すぐ後ろにミリアムがいた。泣き出しそうな、そして何処か恥ずかしそうな顔をして体の前で重ねた手を動かしている。
「ど、どうしたの?」
そう言えば何の挨拶もしていなかった。別に格好つけようとしていた訳でも何でもなく、ただ単純に忘れていただけだった。本当にそのまま行っていたらただの礼儀知らずの非常識になるところだった。内心肝を冷やした。だが平静を装えるくらいの余裕はあった。緊張感から解放されたのは何もイリナだけではない。
ただ、全く別の意味で大いに緊張する可能性は多分にあった。既に心拍数と体温は普段を遥かに超えていた。測っていなくても判る。
「あの……」
落ち着きなく動かしていた手を止めるとミリアムは意を決したように顔を上げた。
「有り難うございました」
定規を当てたように真っ直ぐ伸ばした背中を綺麗な角度で折り曲げた。見本にしたくなるようなお辞儀だった。
「ヨハンさんがいなかったら、ここに来てくれなかったら、カティはここに戻れなかったかも知れないから……」
深い考えなど何もなかった。誰かが死ぬのを、殺されるのを何もせずに黙っている事なんて絶対に出来なかった。人は生まれた瞬間死ぬ事が決定付けられる。それは摂理であり、誰一人としてそれに抗う事は出来ない。でも生きているうちは懸命に生きようとする。生に執着しようとする。たとえ死ぬ直前であっても。それが人だ。カティも、死にたいなどとは絶対に考えなかったハズだ。だからここに戻って来られた。カティに限った事ではない。みんな懸命に生きようとしている。そう簡単に生きる事を諦めようとはしない。そうだろ、兄貴。
これから起ころうとしている事をレンから聞かされた時、頭の中が綺麗に真っ白になった。だが次の瞬間には全身の血が煮え繰り返っていた。興奮で視界が赤く染まり、不気味に歪んだ。それでも懸命に目を凝らして前を、これからやるべき事を見た。それをやった事でカティが助かったのだとしたら、これほど嬉しい事はない。
ヨハンは笑いながら首を横に振った。
「取り敢えず、顔上げようよ」
改まって礼を言われるような事をしたつもりはない。だからこんな風に頭を下げられるとくすぐったくて堪らなかった。
「俺に何が出来るのか自分でもサッパリ判らないけど、でもやらないといけない事があるなら全力で臨むようにはしてるつもり、かな。今もそうだよ。誰かに死なれるなんて絶対嫌に決まってる。況してやそれが家族なら尚更だろ? 俺にカティを助ける事は出来なかった。でもウォッカなら出来る。そう思ったから思い切り飛ばしてここに来た、それだけだよ」
馬鹿みたいに強い事も、傷を一瞬で癒せるような力もない。それでもやれる事の一つくらいはあるハズだ。それに全力を注ぐ、それだけだった。
「でも、そうして下さったからこそカティは助かったんだと思います」
「直接助けたのは俺じゃない。ウォッカと、」
それと、正体不明の誰かだ。何故カティを助けてくれたのかは判らないが。
「ヨハンさんが大急ぎで来て下さったから間に合った、さっきウォッカさんもそうおっしゃってましたよね?」
直接的にではなく、間接的に助けた。それが結果的にカティの生還に寄与しているならそれでいいではないか。拘る必要はない。
「そうだな」
笑うとミリアムの頬が綻んだ。目尻から零れた涙が頬を伝う。
「それと、」
零れた涙を指で掬った。ミリアムが驚いたように顔を上げた。
「もう、泣いて欲しくないんだ。だから笑っててくれよ」
な? 声を上げて、荒れ狂う濁流のように感情を露にして泣き叫ぶこの子をこれ以上見たくなかった。誰かに死なれる事も、昨日のような出来事も絶対にごめんだった。
不意に温かい何かが手に触れた。ミリアムがヨハンの手を握ったのだ。それを頬に押し当てる。
「昨夜、ずっと私の事を励まして下さいましたよね。本当に、凄く嬉しかった。ヨハンさんがいてくれなかったら、きっともっと取り乱して収拾がつかなくなっていたと思います」
そうかも知れない。偉そうに胸を張るつもりは更々ないが、ミリアムの気持ちは痛いくらいに理解出来た。だからこそしっかり気持ちを受け止める事が出来たと言う最低限の自負はあった。
「まだ、お礼もお伝えしてませんでしたよね」
反省するように拳で軽く頭を叩いた。ヨハンは首を横に振った。そんな暇がなかっただけだ。それに、昨夜は眠ってくれただけで充分嬉しかった。
「本当に、本当に有り難うございました」
もう一度深々と腰を折った。握っていたヨハンの両手を何度も振る。顔を上げるとニッコリ笑った。本当に花が咲いたと錯覚するような笑顔だった。
ミリアムの両肩を掴んだ。そのまま抱き寄せると両腕で抱き締めていた。完全に無意識だった。こんな風に感謝の気持ちを伝えられたら誰だって嬉しいに違いない。況してや想いを寄せている子ならば尚更だ。
ミリアムの手が背中に当たった。肩甲骨の辺りで止まるとヨハンがそうしているように抱き締める。
しばらく抱き合っていた。人肌の温もりを肌で感じる。温かいと聞いた事は何度かあるが、本当に温かかった。昨日はそんな事を考える余裕もなかったが、今は肩の荷が下りたような、或いは枷が外されたような気分だった。と言ってもまだ部分的にだ。完全に解放された訳ではない。だがそれはヨハンの話だ。この子は違う。今は心行くまでゆっくり体を休めて欲しかった。なのに、それとは大いに矛盾する事を切り出そうとしている。
「一つ頼みたい事があるんだけど」
いいかな? 首を軽く傾げると子供のように素直に頷いた。可愛い。
「イリナの傍にいてやって欲しくてさ」
ミリアムは目を丸くしたかと思うとリスが胡桃を食むような顔をして笑った。どうしてこんな顔をするのだろう。
「私も、同じ事考えてました」
奇遇なのか、それとも必然なのか。イリナが何を望んでいるかは判らない。だがご主人よりもミリアムの方が適任に思えた。
兄弟や姉妹は同じ家族でも親とは距離感が少し違う。親にしか出来ない事もあるが、同時に兄弟や姉妹にしか判らない事もある。
「お優しいんですね」
今までとはまた違った意味で頬が熱くなった。どうしてこの子はこんなに素直なんだろう。
体が離れる間際にもう一度ミリアムの手を強く握った。息遣いがハッキリ聞こえるくらい間近に顔がある。胸の奥から突き上げて来る衝動を懸命に抑え込む。ひょっとしたらミリアムも望んでいる事かも知れない。でも行動に移すのは明らかに不謹慎だった。少なくとも、今は。そういう関係になる事もそう遠くはない、多分。それまでお預けにしておこう。
「それじゃ」
「はい」
荷台の縁に手をかけようとした時、まだ綺麗に伸びている奴らが何人か目に入った。瞬間、稲妻のように脳裡で閃くものがあった。
今動ける奴は、抵抗出来そうな奴は一人もいない。意識が戻った後にまともに話が出来なければ意味がない。中には鼻が完全に陥没しているのもいる。開いた口から中を覗くと前歯が粗方消えてなくなっていた。一体どれくらいの力で殴るか蹴るかしたか知らないが、大の男が五人、完全に昇天しているのに対してイリナは全くの無傷だ。実力の程が窺えると言うより圧倒的過ぎて言葉を失う。そして、昨日イリナを半殺しにした奴はこれ以上の力を備えているのだ。
冷たい汗が背筋を伝った。ヨハンが住んでいた世界が狭いのか、世間がそれ以上に広いのか。恐らくその両方だろう。
意識が戻った後に派手に暴れられても困る。何より話せなくては意味がない。どいつもこいつも鼻が完全に潰れるか頬骨か顎が綺麗に砕けるかしている。見た目には目立った外傷がない奴もいるが見事に伸びているところを見ても急所に相当な痛打を入れている事はまず間違いない。つくづく恐ろしい女だ。それを教える師匠も師匠だが。もっとも、イリナに限らずミリアムもアリスも別段躊躇う事なく急所を攻撃している。それがあったからこそ今ここにいられるのだ。
要は加減の問題と言う事だろうか。
気を取り直して倒れている兵士を観察する。鼻が潰れているだけなら話すには問題ないだろう。よし、こいつに決めた。手首を掴むと思い切り引っ張った。やはり重い。馬車まで引き摺ると荷台に放り投げる。頭がぶつかってかなり派手な音を立てたけど目を覚ましそうな気配はなかった。完全に気絶している。もし意識が戻るようならば既に潰れている鼻っ柱に何発かぶち込めばいい。あまり細かい事は考えないようにした。
「あの……ヨハンさん」
首を後ろに捻るとミリアムが眉間にシワを寄せてヨハンを見ていた。怪訝に思うのも無理はない。
「何を、されてるんですか?」
「聞きたい事があってさ」
「聞きたい事?」
困ったような顔をして首を傾げるミリアムに、ヨハンは悪巧みをする悪タレ小僧のような顔をして笑った。
「みんな元気か? ってな」




