五日目 その拾参
一瞥しただけでは誰なのか全く判らない。店を飛び出した時そうだったように一本一本に血管が通っているのかと錯覚するほど髪が赤い。そして目も真っ赤だった。白目が充血しているだけでなく、虹彩が血で溢れ返るように真っ赤に染まっていた。血走った目でギョロリとダンを見る。およそ人には見えなかった。
ウォッカはダンを見たまま背後に左手を突き出した。何をしているのか、いやしようとしているのか判らない。不意にウォッカが左手で何かを掴んだ。握っていた短剣を鞘に収める。何が起こったのか判らない。あの短剣は何処から湧いて出たのか。
ウォッカは声をかける事もなく再び前に視線を戻した。馬から降りるとウォッカの隣に立って視線の先を追う。
崩れた絞首台の辺りに誰かが立っていた。だが柵が邪魔でよく見えない。それがこちらに近付いて来る。正面の柵が微かに音を立てて、そして光を放って揺れた。それがゆっくりこちらに傾いて来る。
倒れた柵の向こう側に誰かが立っていた。ウォッカにひけを取らないくらいの巨体だ。腕も脚も太い。大地に根差して微動だにしない大木を思わせた。無造作に束ねた髪には洒落っ気の欠片もない。僅かに垂れた前髪の隙間から見える目は見ているだけで竦み上がりそうになるくらい鋭かった。それ以上に、剣呑で物騒な雰囲気を湛えている。右腕に何かを、いや誰かを抱えていた。カティだった。左手には剣を握っている。相当な長物だ。息が止まりそうになった。
男が柵を越えた。柵の脇にいた兵士二人が柄に手をかける。
「何者だてめぇ!」
剣を抜くと同時に大上段に振り上げた。
瞬間、首二本と腕四本が宙を舞った。切断された首の断面から血が盛大に音を立てて噴き上がる。腰が抜けたのか、斬りかかろうとしていた他の兵士の何人かが不格好に尻餅を突いた。
「邪魔だ」
本当に鬱陶しそうだった。普通斬りかかられたら鬱陶しいでは済まないが。残りの兵士は剣を捨てた。悲鳴が尾を引きながら遠ざかっていく。男は転がった生首をゴミでも退かすように蹴飛ばした。
いつ、どのように剣を振ったのか全く見えなかった。首二本と腕四本を一瞬で斬り落とす腕力も尋常ではないが、水平に振っているであろう剣の軌跡すら目に映らなかった。相当な凄腕だ。それだけではない。絞首台から落下したカティを受け止めたのは間違いなくこの男だ。何故縄が切れたのかは判らないが、この男がその両方をこなすのは物理的にまず不可能と見るべきだろう。縄を切って落下したカティが地面に叩きつけられる前に抱き止める。絶対に不可能だ。足場が抜けた瞬間に柵を切り裂きカティを受け止め絞首台を斬り崩す。それを一瞬のうちにやってのけたのだ。とても人間業とは思えない。だが、この男がカティを救ってくれた事は紛れもない事実だった。それにようやく気付いた。
男は尚もこちらに歩み寄る。さっきまで感じていた不気味さは幾分かナリを潜めていた。この男が相当に危険な人間である事に変わりはない。だがそれでも一概に敵と言い切れないものがある。 男はウォッカの前で立ち止まった。丁度向かい合う形になる。初めて男の表情に変化が見えた。視線を下げると唇を歪めた。
「少しは冷静になれよ」
この単細胞が。鼻で笑うと言うとかなり失礼に思えるがそれに近いものがあった。呆れているのだろう。
「折角助けたこの娘を灰に変えるつもりか?」
今度は間違いなく鼻で笑った。そもそも言っている意味が全く判らない。灰に変える? 応えがあるかは判らない。だが手掛かりくらいはあるかも知れない。そう思いながら男の視線の先を追った。
ウォッカの掌から黒い霧のようなものが出ていた。よく見ないと気付かない。それくらい微かではあるが絶対に錯覚でも見間違いでもない。羽虫が手の周りを音を立てて飛んでいる。黒い霧に触れた瞬間、焦げるような音と共に姿を消した。一瞬で燃え尽きたのだ。炭のような粉末が風に吹かれて消える。
混乱した。一体何が起こっているのか全く以て理解出来ない。人の理解や想像を越えた出来事に直面している。それは確かだった。
ウォッカは肩を上下させながら何度かゆっくり深呼吸した。その様子を男は睨むような目付きで観察している。赤く染まっていた髪が元の黒に戻った。今髪が揺れたのは風が吹いたからだ。掌から上がっていた黒い霧ももう見えない。ウォッカは胸に右手を置くともう一度深呼吸した。血走っていて焦点がボヤけていた目は真っ直ぐ前を向いている。色も赤ではなく濡れた鴉のような黒だった。
心底ホッとした。いつものウォッカに戻っている。
男がウォッカとの距離を更に詰めた。
「相当痛めつけられてる。衰弱が激しい」
男は右腕に抱えていたカティをウォッカに差し出した。
「手根骨が両方共折れてる」
カティの手首を見てハッとした。引き裂かれた手枷の残骸が絡みついた手首がダラリと力なくぶら下がった。手首を支える部分が完全にイカれてしまっているのは一目瞭然だった。手枷を無理矢理引き裂いたせいで砕けたと言うのだろうか。それをカティがやったとはとても思えない。こんなものを砕くなんて大の男でも絶対に無理だ。それをこんなか弱い娘がやってのけるなど、俄に信じられる話ではない。手枷が食い込んだ手首から血が流れていた。皮膚が裂けても力を加え続けたのだろう。尋常な力ではない。
「ま、お前ならすぐに治せるだろ」
男がまた唇を歪めた。だがさっきとは幾らか雰囲気が違う。笑ったのだ。だとしたら実に不器用で、何より不気味な笑みだった。
ウォッカの両腕にカティが載った。すぐさま目隠しと口枷が外された。閉じられた目尻から溢れた涙が幾つか零れ落ちた。唇の端から血が滴っている。頬は切り裂かれて赤く筋を引き、顎は殴打されて青紫色に変色している。奴らに拉致されてまだ一日足らずしか経っていないが、そんな僅かな時間で見る影もないくらいにやつれ、痛めつけられていた。咄嗟に目を背けたくなった。正視に耐えない。不意に、体の芯に火が点いたように全身が熱くなった。握り締めた拳が音を立てて震える。この子が、俺の娘が一体何をした。多少ドジで抜けたところはある。でも人に迷惑をかけるような事も、誰かを傷付けるような事もしない。真っ当に、そして真っ直ぐに育ってくれた。その娘を、こんなにボロボロになるまで痛めつけるなんて。視界の全てが真っ赤に染まった。万力で締め付けられるように胸が痛む。自分の息遣いが耳に煩かった。もし、今この手に剣を握っていたら、奴ら全員皆殺しにしてやる。それは久しく忘れていた純粋な殺意だった。戦場にいた頃、剣を振り、矢を放った。何を於いてもまず生き残る、考えていた事はそれだけだった。それを邪魔立てする相手には手を抜けなかった。そんな事をしていたらこちらが殺される。それだけは絶対に避けたかった。それを避け続けて来たからこそ、今こうしてここにいる。だが今は違う。娘を傷物にした、奴らに対する憎悪から生まれた純粋な殺意だった。息はあっても充分に重傷なのは明らかだ。何をされたのか、どんな目に遭ったのか、考えるだけで気が狂いそうになる。本当に殺されていたら、きっと抑えが利かなかった。体から力を抜くとゆっくり息を吐いた。さっきから膝を突いたまま体を屈めている隣の男を見る。
ウォッカはしばらく何かに憑かれたように茫然とカティを見詰めると両腕でそっと、でも力強く抱き締めた。カティを抱く肩が、腕が、背中が震えている。泣き出しそうになるのを懸命に堪えるような、心の底からホッとしたような、そんな顔でカティを抱き締めている。カティが拉致された時から、ずっと心配で仕方がなかったのだろう。胸が張り裂けそうになるくらい苦しかったに違いない。でもおくびにもそれを出さなかった。みんなの傷を治し、背中を押して励まし続けていた。それを今取り戻したのだ。同時に、ウォッカにとってカティはそれくらいに大切な存在なのだろう。少なくとも、既に宿屋の娘とその客と言う関係ではない。それを優に超えている。
全く気付かなかった。いつの間に二人はそこまで距離を縮めていたのか。そう言えば、ウォッカがここに来た日から二人は関わっていた。奴らに殴られそうになったカティをウォッカが助けた。翌日はウォッカが売られた喧嘩にカティが巻き込まれた。いやカティが首を突っ込んだと言うべきか。一昨日の夜はウォッカの部屋で何か話していた。何を話していたかは判らない。だが二人の繋がりをより強める何かがあったのかも知れない。ウォッカがカティを負ぶって買い物から帰って来たと聞いた時は丸っきり冗談だと思った。迷惑をかけるなと釘をさされていたのに、広い背中で寝息を立てる娘を想像して思わず笑いそうになった。まずは娘の失態を、ご迷惑をおかけしましたと頭を下げるのが親の責任に違いない。だがどういう訳かそういう気持ちにはなれなかった。
昨日は負ぶられていた娘が今はそっと、でも力強く抱き締められていた。しばらくそっとしておきたかった。恐らく、いやきっとカティもそれを望んでいる。心から伸びていた刺からいつの間にか力が失われていた。助かって、生きていて良かった。腰が抜けるような安堵感がゆっくりと全身を満たしていった。
そう、助かった、生きていた。ウォッカが怒りを鎮めたのはカティが生きていたからだ。さっきまで目や髪が真紅に染まっていたいたのは、あれは間違いなく怒りに依るものだ。我を忘れ、周囲が全く見えなくなるくらいに怒りに震えていた。今のダンがそうであるように。
何故髪の色が、目が色が血のような真紅に変わるのか、当然ダンには判らない。疑問を素直に言葉にする勇気もない。ただ、ウォッカが人とは明らかに違うものを持っていたとしても、死に直面した誰かを救うため懸命に走り、無事取り戻した事を心の底から喜んでいる。ウォッカの怒りがあのまま爆発していたらどうなっていたのか。だがそれを理性で抑え込み、助かった娘をこうして抱き締めてくれている。
今の今まで怒りに震えていた、そして改めて無事である事に思い至って胸を撫で下ろしているダンと何一つ変わらない。胸の奥から込み上げて来るものがあった。
「有り難うございます」
ウォッカの肩に手を置くと驚いたように顔を上げた。我に返ったのだ。
「す、すみません! お、俺……!」
あからさまに狼狽している。心が完全に何処かに行っていたのだろう。それに少し申し訳ないものを感じる。
「まだ、そうしてやっていて下さい」
「いや、そういう訳には……! 早くご主人が……!」
ウォッカは慌てて上着を脱ぐとカティにそれを羽織らせた。カティも上着は着ているが前には殆ど布地が残されていなかった。それだけで何があったのか容易に察せられた。そこも含めて、無事である事を祈りたかった。否、祈るしかなかった。
「この子の傷を治せるのはあなただけです」
お願いします。頭を下げるとウォッカの目の色が明らかに変わった。自分に与えられた役割を、いや義務を思い出したのだろう。
ウォッカは短剣を抜いた。手枷の木目に沿って切っ先を合わせると軽く叩いた。木目に亀裂が入った。反対側も同じ要領で亀裂を入れた。ようやく右手が本当の意味で自由になった。左手の手枷を砕こうとした時、手枷と手首の間に何かが挟まっているのが見えた。何だろうか。ものが挟まるには少し不自然な箇所だった。紙切れのように見えた。まさかあんな僅かな隙間に偶然何かが入り込むとも思えない。
それを気にかける暇はなかった。
不意に近付いて来た足音に顔を上げるとさっきの大男が目の前に立っていた。たったそれだけなのに仰け反って倒れそうになった。それくらい威圧感があった。
何とか踏み止まると男が小さくなった。勿論人の体が自在に伸び縮みする訳がない。しかもあれだけの巨体がだ。大男が跪いたのだ。
「申し訳ございませんでした」
さっきのウォッカへの態度とはまるで正反対だ。実に丁寧かつ慇懃だった。
訳が判らなかった。一体何が申し訳ないのか。何故この男がダンに詫びを入れる必要があるのか。
「まさか、このような形で人質に手を出すとまではついぞ考えませんで。認識が甘過ぎました」
厳かな声だった。演技や上辺ではなく、恐らく本心での言葉だ。この男がダンに嘘を吐く必要が見当たらない。あったとしても誤魔化せばそれで済むだけの話だ。跪いてまで詫びる理由はない。
「顔を上げて下さい。理由も判らずに謝罪を受け容れる訳にはいきません」
ダンに対して何を詫びているのか。それが見えて来ない以上、どれだけ誠意を尽くされても安易に受け取る事は出来ない。この男の立ち位置がまだ見えていない。
「カティを、娘を助けてくれた事は本当に感謝しております。お詫びではありませんが、私の方があなたにお礼の言葉をお伝えしなければならないところです」
「私はお嬢様を受け止めただけです。縄を切ったのはそちらの単細胞ですよ」
ですので、お礼ならそちらに。相変わらず跪いたまま、男は飽くまで淡々と言った。
目を剥いていた。ウォッカがいつ助けたと言うのか。そこまで考えた瞬間、思わずハッとした。
カティが落下した直後、ウォッカは絞首台の方へ左手を突き出していた。そして一瞬後には手に短剣を握っていた。
放り投げた剣で縄を切り、落ちて来たカティをこの男が受け止めた。考えられる可能性はそれしかない。放り投げた短剣をどうやって手元に戻したかは不明だが。ウォッカについてあれこれ考えるのはしばらく控えよう。キリがないからだ。
この男にはその全てが見えていたのだ。ウォッカが短剣を投げた事も、それ以前にダン達家族とウォッカが血相変えてここに来る事も全て判っていたハズだ。その上で待っていた。何が起こるのか、その全てを把握していた。
ならば何故すぐ動かなかったのか。それがこの男の謂うところの事情なのだろう。だからこうして詫びているのだ、動ける状況にありながら動かなかった事に。それを聞いたところで絶対に応えてはくれない。この詫びにはそれも含まれている。
「お願いですから、どうか顔を上げて頂けませんか」
「私には過ぎたお言葉です」
一向に顔を上げようとはしない。別にダンとこの男の間には主従関係などない。頭を下げられる謂われもないのだ。だが無下には出来なかった。
ようやく男が立ち上がった。剣を鞘にしまうと真っ直ぐにダンを見る。
「誰の差し金かは、もう判っております」
背後の柵が置かれていた背後を見る。無意識に視線の先を追った。馬車の荷台にいる誰かがこちらに視線を送っていた。想いを寄せる誰かをこっそり窺うような可愛らしいものではない。誰かの視線に気付いたのか、気配が慌てて幌の奥に引っ込んだ。
「それ相応の報いは受けさせます」
「どういう意味だ?」
カティを抱いたままウォッカが男を睨んだ。男はウォッカを一瞥しただけだった。
「外野は引っ込んでろ」
ウォッカの眉間に思い切り皺が寄った。
「お前には関係ない」
ウォッカでなかったら思い切り掴みかかっていたところだろう。挑発ならばあからさま過ぎる。仮に事実だとしてももう少し言葉は慎重に選ぶべきだ。それが判らないほどこの男は馬鹿ではない。
だから余計に不可解だった。
「お前にはお前のやるべき事があるはずだ」
違うか? 挑発ではなく牽制するようにウォッカを見る。
「じゃ、それが済んだら邪魔するか。ならば問題ねえだろ?」
一瞬、男の顔から表情が消えた。と思った時には薄っすらと笑っていた。背筋が凍るような笑みだった。
「どうされるおつもりですか?」
「今申し上げた通りです。報いを受けさせる、それだけですよ」
報いの中身が気になる。頭を拳で殴りつける程度では済まないハズだ。それをわざわざ聞くのも野暮のする事なのかも知れない。
「あなたには娘を助けて頂きました。それで充分です」
男は柄に手をかけるとさっきそうしたように背後にある馬車を睨んだ。
「奴らへの報いであると同時にそれが私の用でもあります」
「それがここへ来た目的か」
ある種の確信を感じさせる言葉だった。だとしたら、ちょっと待て。ウォッカはこの男の存在を予見していた事にはなるのではないか。正体は判らない、でも誰かがいる。そんな気配を感じ取る所までには至っていた。それが実物を目にして確信へ姿を変えたと言ったところだろうか。
一体いつから気付いていたのか。それだけではない。この男もウォッカの事を知っている。恐らく、ダン達よりも。ウォッカに治癒能力がある事も、感情が昂ると掌から黒い霧を出す事も把握している。だから驚かない。いや驚くに値しない。 既に知っているのだから。
顔を合わせるのはこれが初めてのハズだ。だがカティを助けるために致仕方なく出て来たと言う訳ではないように思えた。どんな意図があるかは判らない。想像もつかない。ただ、元々転ぶほど間抜けには見えない男が娘一人を助けるために姿を見せたのだ。これだけで終わるようには思えなかった。どれだけ目を凝らしても底が見えない壺を覗くように、不気味な震えが体の芯から少しずつ拡がっていく。
「父さん!」
聞き覚えのある声だった。反射的に振り向く。走っている馬車の荷台からミリアムが飛び降りた。アリスがそれに続く。
「カティは? ねえ、カティは無事なの?」
両腕を掴むと激しく前後に揺すられた。気が気ではないのは一目瞭然だった。
「大丈夫だよ」
しゃがんでいたウォッカがカティを抱いたまま立ち上がった。手首に添えた手が淡く光っている。
ミリアムは口を両手で覆うと鋭く息を呑んだ。
「酷い……」
茫然と呟いたアリスの手がわなわなと震えている。
頬は切り裂かれて赤く腫れ上がり至るところにアザがある。この分だと服の下も傷だらけだろう。暴行に依るものではないにしても、両方の手首は綺麗に骨が砕けている。充分過ぎるくらいの重傷だ。
「ウォッカさんが助けてくれたのよね?」
ウォッカが首を横に振るとミリアムは虚を突かれたように目を丸くした。
「俺は縄を切っただけだよ」
「この方がカティを……」
顔を上げた瞬間、今度はダンが愕然と目を見開いた。
今の今まで目の前にいた大男は忽然と姿を消していた。煙なら匂いくらいは残るかも知れないが、僅かな痕跡も名残もない。
「この方って?」
アリスもダンに倣うようにしてキョロキョロ辺りを見回す。ミリアムとヨハンは微妙に顔を歪めたまま首を捻っていた。確かに誰もいないのだから首を捻りたくなるのも判る。ダン自身が今起こった事を理解出来ていない。
ウォッカだけが険しい表情で周囲を睨んでいた。獲物を取り逃がした獣の方が余程可愛いげがあるような顔をしている。不覚に違いない。
「戻りましょう」
ウォッカがカティを抱いたまま立ち上がった。
「いつまでもイリナと女将さんだけには出来ない」
「そうですね」
万が一奴らが来たとしても昨日のあいつ以外なら撃退出来る。一片の迷いもなく断言した娘に心強いものを感じてもやはり一抹の不安はある。
カティを抱いたウォッカが馬車の荷台に飛び乗った。人一人を抱えているのに全く重さを感じさせない。アリスは荷台の縁に片手を置くと柵でも越えるように飛び乗る。もう少し女の子らしい乗り方は出来ないものか、と思う。ミリアムは最初に乗っていた馬の背に跨がった。
全員が荷台に乗った事を確認するとヨハンが手綱を振った。馬が返事をするように一声嘶いた。ゆっくり向きを変えると元来た道を走り出す。
ウォッカは力なくぶら下がっていたカティの手首をそっと包み込むように握った。掌全体が白く瞬くように、そして淡い光を放っている。
アリスがカティの前で膝を突いた。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「もう、大丈夫なんですよね?」
潤んでいたアリスの目が綻んだ。ウォッカが笑ったのだ。店を飛び出してから初めて笑った気がする。ついさっきまではとても笑えるような余裕はなかった。その重圧と緊張感からようやく解放されたのだ。
腰から力が抜けた。気付けば荷台に根が張ったように座り込んでいた。
アリスは憑かれたような目でカティを見詰めている。今目の前にある現実を夢の中の出来事のように感じているのかも知れない。
溢れた涙がカティの頬に落ちた。左手で妹の頭を、頬を撫でる。
「良かった………!」
声が、全身が喜びと安堵で震えていた。今朝食堂で見せた涙とは全く意味合いが違う。
「痛ッ……!」
肩を抱こうと伸ばした手をアリスは飛び跳ねるようにして引っ込めた。
「どうした?」
アリスは腫れ上がった右の掌を驚いたような顔をしてしげしげと観察している。手の甲が膨れ上がって真っ赤になっていた。腫れ方が尋常ではない。
「拳は握れるか?」
「ダメ。これ以上曲がらない」
薬指と小指の付け根の辺りが微妙に歪んでいる。真っ直ぐになっていないせいで拳を握り込めないに違いない。
「アリス」
ウォッカが苦笑いしながら声をかけた。空っぽだった右手をアリスに差し出す。そこにアリスが右手を載せた。生卵でも握るように掌全体でゆっくり包み込む。
「何でこうなったのか聞かないんですか?」
何かを懸命に堪えていたウォッカの肩が微妙な震え始めた。我慢し切れなくなったように勢いよく息を吹き出す。
「想像つくよ」
手綱を握っていたヨハンが首を無理矢理捻って後ろを見た。目が笑っている。ミリアムは口元を手で押さえていた。
「拳って案外脆いんだぜ。ガイデルさんが教えてないとは思えないな」
アリスは遠くを見るような目をして視線を逸らした。ウォッカの表情が更に砕けた。
「骨を狙うなら拳より掌底の方がいい」
そういう助言は今この場には全くそぐわない。でも、そのちぐはぐした感じが逆に不思議な笑いを誘った。居合わせている全員の頬が緩んでいた。
ウォッカが握っていた小鳥を放すように手を開いた。解放された手を何度も引っ繰り返してしげしげと観察する。
「痛みは?」
アリスは黙って首を横に振った。拳を握ったり手を開いたりしている。腫れも引いていた。もう完全に元通りになっている。
「自分の体なんだから、もっと大切に扱ってやらないとな」
アリスは茫然とした面持ちで頷いた。昨日も治してもらっているが殆ど失神していたような状態だった。だが今は違う。拳が握れなくなるほどの怪我がホンの一瞬で全快してしまったのだ。信じられないと思うのも無理はない。
「ありがとう……ございます」
ウォッカはホッとしたように笑った。だがそれもホンの一瞬だった。カティの両方の手首を包み込むようにして握る。閉じていた目を開けた。目の色がさっきまでとは明らかに違っている。多少力を緩める事はあってもカティの傷が全快するまでは完全に気を抜くような真似はしない。
怪我人を治す事はウォッカにしてみれば当たり前の事なのかも知れない。それがウォッカに与えられた、いや課せられた義務なのだろう。お前の役割を果たせ。あの男はあの時そう言った。やはり知っているのだ、ウォッカの素性を。どう動くかも全て計算し把握した上で先回りしていた。そして煙のように忽然と姿を消す。ふざけて出来る芸当ではない。 行為の大胆さとは裏腹に寒気がするような周到さを匂わせている。こちらは、ウォッカはあの男の素性は何一つ判らない。それが不気味さに一層拍車をかけていた。ただ態度には若干挑発するような雰囲気を含んでいた。それでも彼もカティを助けてくれた事は間違いないのだ。だが、そのためだけに姿を現したとも思えなかった。まだ、ダンやウォッカが考えもしないような意図の元に行動している、そんな気がしてならない。報いは受けさせる、確かにそう言った。つまり誰がどんな意図を持ってカティを拉致したのか、それすら知っている事になるのではないか。
それが事実だとしたら。
そこから導き出される可能性を考えた瞬間、体の芯から凍るような怖気が走った。この街を牛耳ったついでにダンの家族に手をつけたのではなく、ダンの家族を拐う事が奴らのそもそもの目的だとしたら。
無意識に頭を振っていた。考え過ぎにも程がある。娘が拐われて殺されかけるような憂き目に遭ったせいで被害妄想に取り憑かれているだけだ。だが殺されかけたのはカティだけではない。イリナが生きているのは偶々ウォッカがこの街に来たからだ。どんな名医でも、昨日のイリナを、ミリアムやアリス、そして妻やダンを救う事は出来なかった。最初に砦の自警団を殺してから、奴らは人質こそ取りはしたが手をかけるような真似は一切しなかった。では何故その方針を転換したのか、その対象がダンの家族だったのか。
「旦那さん?」
声のした方に首を向けていた。ウォッカが怪訝そうに眉を潜めてダンを見詰めていた。
「顔色があまり優れない……と言うか真っ青ですけど」
大丈夫ですか? カティを片手で抱えながら立ち上がると右手を伸ばした。暖かい掌が額に当たる。それだけで随分楽になった。
「だ、大丈夫です」
言った先から声が震えている。説得力の欠片もない。
「父さん、大丈夫?」
アリスが今にも泣き出しそうな顔をしてダンの肩に縋った。妹を殺されかけた直後だけに普段とは比較にならないくらい神経質になっているのだろう。
「ありがとう。俺は何ともないから」
動揺は隠しようもない。その割には自然に笑えたと思う。鏡がないから確かめようもないが。
今は無闇矢鱈に心配事の種を周囲に撒き散らすような真似は控えるべきだ。やっと家族を取り戻したのにそれを台無しにするような事は絶対に出来ない。
「大丈夫、大丈夫だから」
一体何が大丈夫なのか自分でもサッパリ判らなかった。ただそうして自分に言い聞かせていないと今浮かんだ考えに呑み込まれてしまいそうで、それに懸命に抗っていた。そう、抗わなければ。考え過ぎだ。そんな事、考えるべきではない。
ウォッカの腕の中で眠っている娘の額に手を置いた。生を、命の息吹きを感じさせる暖かさが掌から全身に伝わっていく。そうだ、この子は間違いなく生きている。
カティの両肩を掴む。そのまま抱き寄せた。涙が溢れた、止め処なく。望むものなど何もない。またこうして娘を抱き締める事が出来た。失いかけた家族を取り戻したのだ。
それだけで充分だった。




