五日目 その拾弐
ふくらはぎに、膝にかつてないくらいに力が入っている。逆に力が入りすぎて震えそうなくらいだった。でも脚は太い棒が入っているように真っ直ぐ伸びている。腹筋なんてこれまで数えるほどしか鍛えた事がないのに指で押してもへこまないくらいガチガチに張り詰めている。
でも、一瞬でも気を抜いたら途端に震えそうだった。恐怖に負けそうだった。
視界も遮られ、体の自由も奪われ、満足に助けを呼ぶ事も出来ない。誰かが助けに来ない限り、誰かに助けられない限り、自力で生を維持する事はほぼ不可能だった。床板が抜けたらそれで終わりだ。窒息して苦しみ抜いて死ぬか、頸椎が脱臼して即死するか、可能性として濃厚なのはその二つだ。そしてあの女も間違いなくそれを望んでいる。それに応えるつもりは全くない。でも、今のままではそう遠からずそれが現実のものになる。
いつ吊るされるか判らない。そして残された時間はもう何分もない。十分もあれば多い方だろう。
それがカティに与えられた最後の時間だった。
「時間は?」
あの女の声がした。これから買い物にでも行くようにウキウキした声だった。
「十一時五十二分」
誰かが応えた。
背筋が凍りついた。やっぱり十分も残っていなかった。震える歯が口枷に当たって硬い音を立てた。溢れ出した涙が目隠しを濡らす。
それでも諦めたくなかった。まだ完全になくなった訳ではない。僅かでも、目に見えないくらい微かでも可能性がある限り絶対に諦めたくなかった。
「失敗したわ」
またあの女の声が聞こえた。残念なのを無理矢理強調したような言い方だった。
「どうしたんですか?」
「吊るす前に、あの娘の指、全部切り落としておけばよかった」
「そんな事してどうするんですか?」
腹を立てる暇もないのに、血が煮え繰り返りそうなくらいに腹が立った。どうして、何をそんなに憎むのか。それを知る暇すら与えられない事に尚更頭に来た。恐怖ではなく、怒りで体が震えた。
「あの娘の親父に食わせてやるのよ。娘の体の一部と一緒になれるんだから本人もさそ喜ぶでしょ」
返って来た笑い声はあからさまに引き攣っていた。そういう猟奇的な趣味に理解を示すような考えは流石にないのだろう。
「ま、代わりは姉貴三人に引き継いでもらいましょうか」
今度は嬉しいのを無理矢理ごまかすようにぎこちなく笑った。願ってもない幸運とでも思っているのだろうか。
さっきから視界は黒一色で塗り潰されている。今は、それが更に絶望で埋め尽くされそうとしている。絶対に死にたくなかった、諦めたくなかった。生きていたかった。でも、絶望の中に希望の光が差し込む事はもうなさそうだった。誰かが来たとしても、奴ら以外にも張り巡らされた柵に邪魔されてここまで辿り着けない。彼だったら、ウォッカだったらどうしていただろうか。正攻法だろうが反則だろうがあらゆる手段を駆使してでも抗おうとする。そう、ウォッカならば。諦めたくなかった。でも、何をしようと、どれだけ抗おうと、この状況はもう覆せない。
腕が微かに震え始めた。脚に、膝に力が入らなくなって来た。
生まれた瞬間、人は死が決定付けられる。でも死ぬ事を前提に生きる者など一人としていない。
誰かが言っていた言葉だと思う。でもそれが誰なのか一向に思い出せない。そしてその必要もない。それが真理だからだ。誰しも生まれたくて生まれる訳ではない。でも生まれたからには精一杯生きたい。満足までには至らなくても、生まれ落ちて死ぬまでの自分の時間に納得出来るだけのものが欲しかった。
それだけじゃない。
体の芯が音を立てて跳ねた。末端にまでこれまで感じた事もないような熱さが一気に拡散していく。口枷の隙間から漏れる息はそれこそ燃えるようだった。
私は違う。生まれたかったから生まれて来た、生きたいからここにいる。それがこんなところで、こんな形で終わりを迎えるなんて絶対に考えられなかった。考えたくもなかった。
こうして生まれて来たのに、またみんなに会えたのに。みんなと話す事も、声を上げて笑う事も、一緒にご飯を食べる事も出来なくなったら。その全てが失われるとしたら。いや、否応なしに奪われようとしている。
そんな事、絶対に納得出来るものか。絶対に、死んで堪るか!
腕が、脚が、全身が一回り厚みを増したような気がした。体の内にこもっていた熱さが一気に爆ぜた。
獣のような咆哮が上がった。
喉が焼けつくように痛んだ。咳き込むと喉の奥から熱さを伴った何かが飛び出した。唇の端から音も立てずに滴り落ちる。今はそれを確かめる暇などない。両腕を上げた。首に巻きついている、これからカティを吊るす縄を両手で思い切り掴んだ。
「早く、早く吊るしなさい!」
またあの女の声が聞こえた。聞きたくもなかった。お前の思い通りになんかならない、絶対に。
縄を掴んだ両手を引き離そうとした瞬間、体が宙に浮いた。
どれだけ走っても、どれだけ勢いを増しても、疲労が体を覆う気配は一向に窺えなかった。吐き出す息が熱い。呼吸に限らず、体中から熱を発散していた。この熱を冷ます事は絶対に考えられない。
行き交う人は皆例外なく広場の方へ向かっている。その隙間を縫うようにして走り抜けていく。通り過ぎた直後に時折悲鳴が上がる。接触する直前に回避はしているが、それでも風や砂煙が巻き起こるのは避けられなかった。目の前で突然砂煙が上がったら誰だって驚く。でもそれに構う暇はなかった。胸の中で謝る余裕すらない。人混みの中を走り抜けた事は何度かあったが、これだけ人で溢れ返った雑踏をこれだけの速さで走った事はかつてなかった。
宿を出てから一体どれくらいの時間が過ぎたのか。まるで見当もつかなかった。周辺には民家に混じって商店もちらほら姿を見せている。昨日二人で買い物をした商店街も街の中心に程近いところにあった。もう、そう遠くはない。
視界の奥で人が左右に散って行く。大通りとその境目を通り過ぎた瞬間、視界が左右に大きく拓けた。だが焦点は飽くまで視界の奥にあった。
大きな柵の前に人集りが出来ていた。そのすぐ先に一際目立つ大きな台があった。その上に誰かが立たされていた。体の前で窮屈そうに両腕を一括りにされている。黒い布で目を塞がれていた。火が点いたように体温が上がった。全身が燃えるように熱くなる。目に映るもの全てが視界の隅から赤く染まっていく。少しでも油断したら視界が、いや意識そのものが真っ赤に埋め尽くされる。そうなったらもう抑えが利かない。取り返しのつかない事になりかねない。
そうなる前に、何としても……!
絞首台にはそう簡単に辿り着けないと思ってはいたが、案の定こうして柵で取り囲まれている。余程人の感情を逆撫でするのが好きなのか、それとも必ず殺すと言う決意の顕れなのか。何れにしてもそれが吉を招く事は絶対にない。
少しでも距離は縮めておきたい。絞首台まで行って縄を切れればそれが理想ではあるがウォッカに限らず誰かが近付いた事に気付いた時点で吊るす事は容易に予想がつく。となると奴らに気取られる前に縄を切るしかない。ただその場合、誰の目にも触れずに絞首台に辿り着かない限り、カティがあの高さから地面に叩きつけられる事は避けられない。
獣の咆哮のような叫び声が聞こえた。反射的に前を見る。カティが、自らの首に絡みついている縄を両手で掴んでいた。いつ両手の戒めが解かれたのか。深く考える暇はない。助けるとしたら、今この瞬間を於いて他にない。
短剣の柄に手をかける。引き抜くと同時に走る勢いを載せて思い切り投げた。
人混みの中を馬が駆ける。急ぎたいのは山々だが人の往来が絶えない通りをこれ以上飛ばすのは明らかに危険だった。目には見えたとしても止まる事は出来ない。内心で臍を噛んだ。やはり、馬ではなく走って来るべきだったか。いや、ここに来るまでの総合的な時間を考えると絶対に馬の方が速い。ただ焦る気持ちが冷静さを奪っているだけだ。吊るされるのはいつなのか、それに間に合わなかったとしたら。心臓を氷で押し潰されたような錯覚に襲われた。そんな事、絶対にあって堪るか! 何が何でも、命に代えても娘は必ず助ける。一体どんな理由があってあいつらが娘を殺そうとしているのか、ダンにも皆目見当もつかない。これまで人質は取っても手をつけようとしなかった。それを転換させた経緯も判らない。ただ何がどうあってもこれだけは阻止する。それすら出来なかったとしたら、俺は父親の資格すらない。
手綱を握り締めた。僅かに途切れた人波の間隙を縫うようにして馬が突っ走っていく。
視界の奥に不自然な高さの台が見えた。視界が左右に一気に拓けた。誰かが台の上に載っている。否、立たされている。両手を窮屈そうにして体の前につけていた。その首に縄が絡みついていた。心臓が音を立てて凍りついた。今足場が抜けたら、もしそうなったとしたら絶対に助からない。何としても、その前に助け出す。だが絞首台の周りを柵が取り囲んでいる。その前に人集りが出来ていた。人垣の隙間は縫うようにすれば通れるだろう。だがあの柵はそう簡単には越えられない。その間に吊るされるような事があったらそれまでだ。目の前が真っ暗になった。
獣の咆哮のような声が耳朶を打った。見ると体の前で括られていた両手で縄を握っていた。両の手首に引き裂かれた木が絡みついている。恐らく手枷だろう。
誰かが何か叫んだ。
次の瞬間、絞首台からカティの姿が消えた。縄が伸び切る直前、突如として飛んで来た何かが縄を切った。その直後、轟音と共に絞首台が崩れ落ちた。時間にすれば何秒もない。本当に一瞬の出来事だった。だがそれら全てが酷くゆっくり見えた。なのに、事態を正確に把握出来ていない。
柵にまとわりついていた人垣が悲鳴を上げながら一斉に散った。人がさっきまでとは逆向きに流れていく。その流れに逆らいながら前に進む。まだカティの安否を確認出来ていない。煩わしくて、もどかしくて堪らなかった。カティは無事なのか、頭にあるのはそれだけだった。
少しずつ人の流れが途切れていく。その中に逃げ惑うその他大勢とは対照的に、一人だけが茫然と佇んでいる男がいた。肩で荒く息をしながら、恐らくさっきまで立っていた絞首台の辺りを睨んでいる。真っ赤な髪が風もないのに揺らめいていた。
男が振り向いた。ウォッカだった。




