五日目 その拾
さっきから振動で体中が小刻みに、時折激しく上下に揺さぶられいる。ついさっきは石を踏んだ拍子に軽く宙に浮いた、いや跳んだ。落下の衝撃で車輪が外れる事もなく壊れずに済んだのは僥倖と言うべきだろう。普段から手入れを怠らなかった(或いは全くしていなかった)ヨハンに感謝したくなった。今は動きさえすればそれでいい。一刻も早くカティの元に辿り着く事が全てだ。
ダンの店から広場まで、馬車でどれだけ急いでも最低で二十分はかかる。ズボンのポケットから懐中時計を引っ張り出すと蓋を開けた。十一時四十五分。刻限がいつか判らない以上今の時間を把握したところで意味があるとは思えない。だが時間に余裕があるハズがない。時は一刻を争う。間に合ったとしても、カティを助け出す事が出来るのか。奴らも馬鹿ではない、邪魔はさせないように手立ては打っているに違いない。頭の中で慌ててその考えを否定した。何を弱気になっている。必ず助ける、やるべき事はそれ以外にない。何があっても、どんな障害も必ず排除する。
それに、彼もいる。
大して間を空けずに追っているのに未だに背中すら見えない。ウォッカが馬より早く走れる事は間違いないだろう。瞬間的にそれに匹敵する速度で走れるならばまだ判る。それを長時間持続出来るとしたら、それは一体どう理解すべきなのか。
それだけではない。
カティが吊るされると知らされたあの瞬間、ウォッカの髪は拍動に呼応するように波打った、いや脈打った。しかも毛髪に血管が通っているのかと錯覚するほど髪が赤く染まっていた。本当に一瞬の出来事だったが絶対に見間違いではない。
人の小難しい定義などダンには当然判らない。だがダンの知る人と言う生物にウォッカのような特徴を備えた者は一人もいない。より厳密に言えば実物を見るのが初めてなのかも知れない。遠い昔、まだ戦地にいた頃に小耳に挟んだ記憶がある。もっとも到底信じられるような類いの話ではなかったが。人を驚かそうとするならばもう少し工夫を凝らした方がいいと呑気に考えたものだが、それが実在するとしたら話は別だ。
無意識に押さえていた肩が何かを堪えるように震えていた。奴らに向けられた怒りなのか、得体の知れない存在に対する恐怖に依るものなのか。ハッキリしているものは何一つない。全てが曖昧模糊としている訳ではないが、一番肝心な部分は濃い霧の中にある。それが判然としないが故の震えなのかも知れない。
「イリナ達は大丈夫ですかね」
ヨハンはさっきから手綱をひっきりなしに上下に振るい続けている。前を睨む目も鋭いままだった。
大丈夫、とは言い切れないものがある。確かにウォッカが指摘する通り奴らが店に来る可能性は決して高くはないのかも知れない。だが断言も出来ない。それも可能性の問題に過ぎないからだ。これすら奴らの陽動と言う可能性もなくはないのだ。そうでなくても外に誘い出すには格好の口実だろう。
それに思い至った瞬間、心臓を氷で握り潰されたような錯覚に陥った。今店は裳抜けの殻だ。下っ端の雑兵共ならともかく、昨日の男がまた襲って来たら………。あの男にしてみればイリナは死人も同然なのだ、わざわざ時間を割いて止めを刺しに来るとは考えづらい。それに、あの男でなければ問題ない、今朝娘はそう明言した。その言葉を信じるしかない。いや、信じよう。イリナなら余程の事がない限り大丈夫だ。
今すべき事に、やらなければならない事に意識を集中しろ。他の事を考えるのはその後だ。店を出る間際に襲われた違和感が再び脳裡に蘇った。あの時、妻は完全に気を失っていた。それを易々抱え上げる程の腕力は大の男でもそうそうない。火事場の馬鹿力と言う言葉もあるが、それとは微妙に違う気がする。本当に周囲を火で取り囲まれてそうしなければ助けられなかったと言うならばまだ判らなくもない。ただあの瞬間はそこまで切羽詰まったような状況ではなかった。少なくとも、気絶した妻を必ずしも抱き上げなければならなかった訳ではない。咄嗟に体が動いただけだろう。
腑に落ちない事や気掛かりな事がまだ頭の中で渦を巻いている。だが、今はそれに気を取られる訳にはいかないのだ。この身に代えても必ず助ける。鼓動が無意味に速まる。胸を鷲掴みにした。人の鼓動を止めてはいけない。それが誰のものであっても。家族ならば尚更だ。
彼もヨハンも、何かをなくす事の辛さを骨身に滲みて知っている。だからこんなにも懸命にそれを食い止めようとしてくれている。ウォッカが何をなくしたのかは判らない。でも、ひょっとしたらそれは自分以上に大切なものなのかも知れない。
ありがとう。でも今それを言葉にする暇はない。気を抜くのはもう少ししてからだ。
「急ぎましょう」
ヨハンの言葉が意識を現実に引き戻した。空は憎たらしいくらいに晴れ渡っている。眩しすぎるくらいの日差しの中で娘を抱きたかった。否、それを現実のものにする。
改めて正面を睨んだ。額に左手をかざして日差しを遮った。
頬に当たる風が冷たく感じる。それが錯覚なのは既に判っている。気持ちいいを通り越して暑いくらいに日が差し込んでいるのに寒い訳がないのだ。
馬に乗るのは初めてではないけど、鞍がないから気を抜くと滑り落ちそうだった。もう少しゆっくり走ればいくらか楽にもなると思う。でも状況がそれを許さない。
馬が更に速度を上げた。途端に体がずり落ちそうになる。
「ミ、ミリー姉……」
「喋るんじゃないの! 舌噛むよ!」
腰を抱えている手に自然と、そして思い切り力がこもった。絶対にカティを助ける、そのつもりで来たのだ。こんなところで振り落とされる訳にはいかない。しかも自分の姉の駆る馬から落馬した日には笑い話にもならない。咄嗟に受け身を取る自信はあるけど。でも実践しようなどとは当然思わない。
二人を乗せた馬が学校を出てからどれくらいの時間が経ったのか、アリスには見当もつかない。三十分は絶対に経っていない。十五分にも満たないかなと思う。でも時間はどれだけあっても足りない気がした。絞首台の置かれた広場まで、カティの元に辿り着くまで時間を止める事が出来たら。そんな絶対に有り得ない願望に本気で縋りたくなる。だから急いで欲しかった。振り落とされそうだから少しゆっくりなんて口が裂けても言えないし言う気もない。下手にそんな事を言えばその場で叩き落とされる。
姉の腰に回した腕に更に力を入れた。落とされないように抱えると言うより締め上げるような感覚に近い。普通こんな事をされたら絶対に苦しい。肋にやればヒビが入る程度では済まない。丁度拳が当っている腹直筋は鉄板のように硬い。そう、腹直筋ならまだ判る。ただ腹斜筋や腹横筋はそうもいかない。横向きにやっても斜めに体を捻ってもなかなか鍛えられない。そこすら真冬の朝に氷が張るようにガチガチに引き締まっている。いつのまにこんなに鍛え上げたのか。或いは精神力の成せる業なのかも知れない。普段と比べると遥かに冷静に状況を分析している事に驚いた。むしろミリアムの方が余程熱くなっていた。声を荒げ、周りが見えなくなる程に。馬を駆るミリアムには前しか見えていない。それを背中から冷静に観察している自分がいる。
山を駆け降りた馬が街に入った。
普段ならばこの時間帯はどの家も昼食の支度に追われている。仕事の手を一旦止めて畑から家に戻るか、或いは仕事場でお弁当の包みを広げるか、そんな日常の中にある有り触れた光景がそこらに溢れる、そういう時間のハズだ。でも今は明らかに違う。昼食の支度を放り出して家から飛び出し、持っていたお弁当箱を置いて一目散に駆け出していた。どの顔を見ても表情に落ち着きがなかった。不安と焦りが見え隠れしていた。そして誰もが広場に向かって一直線に突っ走っている。子供の手を引いていた母親は一旦足を止めると我が子を両手で抱き上げた。また走り出すのかと思ったら、子供を両腕で抱き締めたまま膝を突いて肩を震わせていた。これから一体何が起こるのか、誰が吊るされるのか、それを自分の目で確かめようとしている。でも、もし殺されるのが身近にいる誰かだとしたら、そんな瞬間をまだ幼い子供に見せる事など絶対に出来ない。子供の心に一生消せない傷を残す事になる。それでも、同時に確かめたい気持ちがある事も否定は出来ないのだろう。大切な誰かと二度と会えなくなるかも知れないのに、何もせずに止める事すら出来なかったら、そして本当に失ってしまったとしたら。後悔と哀しさで心が埋め尽くされる。みんな、必死でそれに抗おうとしていた。今の二人がそうであるように。理不尽な現実を突きつけられて、それに抵抗もせず屈する事なんて絶対に考えられない。絞首台に乗せられているカティの姿が鮮明に脳裡に映し出されて胸が張り裂けそうになった。
イヤだ、絶対にイヤだ!
声を聞く事も、手を握る事も、顔を見る事も出来なくなるなんて絶対に考えられない。何があっても、何に代えても絶対にあの子を取り戻す。決意が体を更に強張らせた。
「あ!」
さっきから黙りこくったまま前を睨んでいたミリアムが硬い声を上げた。釣られて前を見る。奴らの仲間が二人、通りのど真ん中を堂々と闊歩していた。退けよ、邪魔だから。何の疑問もなくそう思った。本来ならばそれは向こうの科白に違いなかった。誰に聞いてもそう応えるだろう。そうではない、あいつらそのものが邪魔なのだ。奴らそのものがこの街に、人の世に必要ない。排除すべき存在だ。
「消えてなくなれーー!」
性格は違ってもやっぱり姉妹だ。考えている事は変わらない。
兵士二人がギョッとしたように目を見開かせて左右に割れた。確かに馬をかわすだけならそれで充分だった。でも目的はそれではない。
「破!」
気合いの一声と共に放ったミリアムの膝蹴りが右にいた兵士の顎を撃ち抜いた。
「せい!」
同じく満身の力を込めて振り上げたアリスの左の膝が反対側の兵士の鼻を叩き潰した。
ものも言わずに派手に吹っ飛んだ。馬が走る勢いに膝を載せてそれぞれ顔面に叩き込んだのだ、普通ならまず立てない。いや死んだとしてもおかしくはない。端から見れば通り魔的な犯行、いや凶行に違いない。でもそれを咎める人はこの街には一人もいない。
消えてなくなれ。つい今しがたミリアムが口にした言葉が耳の奥でこだました。お前らは誰からも必要とされない。だから一日でも早く、いや一秒でも早く、この街から姿を消してくれ。
背後から歓声が聞こえた。それに応えようと顔を上げた瞬間目を剥いた。
目の前に塀があった。それも相当高い。ミリアムも前を向いていたのだから気付かないハズがない。どうして止まるなり旋回するなりしなかったのか。
止まり切れない、そう思った瞬間体が宙に浮いた。
二人を乗せた馬が勢いも一緒に乗せて跳んだ。華麗に塀を飛び越えた。転倒する事もなく無事に着地すると何事もなかったかのように走り出す。馬に恵まれたのか、騎手の腕の成せる業か、考えようとして止めた。時間の無駄だ。
馬は尚も街中を猛然と疾走する。広場までならもういくらもない。この調子で走り続ければもうじき着くハズだ。そう思った矢先、不意に馬が失速した。止まり切る事はしなかったけど大幅に減速した。
「ちょっと、どうしたのよ!」
ミリアムの背中越しに前を見る。広い十字路で馬車が人に取り囲まれていた。囲んでいる方は例外なく剣を握っている。
「あ!」
ミリアムが叫んだ。
「ヨハンさん!」
手綱を握っているのは確かにヨハンだった。酷く緊張した横顔だった。
「父さんも!」
荷台にいた父は奴らが振り回した剣を後ろに身を退いてかわした。
減速した馬がなくした勢いを取り戻すように次第に加速していく。奴らがこちらに気付いた。手前にいた二人が反射的に左右に散った。さっきの二人組と違って距離があるせいで蹴り飛ばす事は出来ない。
馬は尚も速度を維持したまま馬車と距離を詰める。突如現れた二人を迎撃する事もなくあっさり進路を譲ったところを見ても、奴らも完全に虚を突かれたのだろう。
「降りるわよ!」
言われるまでもなかった。反射的に手を離していた。ミリアムも馬から飛び降りる。
「父さん!」
無人になった馬が二人の乗った馬車に向かって走っていく。父が荷台から馬の背中に飛び移った。周囲を取り囲んでいる兵士の脇を抜け、一直線に駆け出していく。
遅れてヨハンが馬車から飛び降りた。酷く驚いたのか目を真ん丸に見開いている。出来る事ならミリアムの手を取りたいところだろうけど、状況がそれを許さない。
「奇遇だな」
「そうですね」
学校を出てからミリアムの表情が初めて解れた。でも、それも本当に一瞬だった。抜き身の刃を持った連中相手にいつまでも背中は晒せない。
必然的に三人が背中を合わせる格好になった。体が、手が自然に構えを取っていた。
「ヨハンさん、仕切っちゃって下さいよ」
声をかけるとぎこちなく背中が動いた。仕切り直すように咳払いする。
「お願いします」
ミリアムも背中を押す。さっきまで殺気が溢れていたのに、それが完全にナリを潜めたとは言わないまでもかなりいい感じに落ち着いていた。拳を交えるならその方が都合がいい。こいつらからすれば一方的な殺戮に過ぎないだろうけど。それを完全に引っくり返す。
「相手は全員で六人づすね」
「じゃ、一人当たり二人か」
「蹴散らしちゃいましょう」
ミリアムはそれが既成事実になっているような口調で言った。微塵もビビっていない。そう、呑気にビビっている暇はない
「さっさと片付けるぞ」
「はい」
今度も声が重なった。
抜き身の刃が日差しを受けてギラリと光った。




