五日目 その九
人気の絶えた廊下を全速力で突っ走る。今が授業中で良かった。今教室や曲がり角から飛び出されたら多分かわせない。と思った矢先に教室から誰かが出て来た。まだこちらに気付いていない。かわせないと思っていたけど、相手の動きも読めるしその前に跳んでかわす事も、その逆も可能だった。それを選択出来る程度の余裕があった。先生は山積みにした本を抱えている。まだミリアムの存在に気付いていない。先生の前に跳んだ。先生がついさっきまでミリアムが突っ走っていた方に向かって歩いて行くのが判った。結局最後までミリアムに気付く事はなかった。ならばそれに越した事はない。
担任の教師が血相を変えて教室に来たのはまだホンの数十秒前の事だ。絶対に一分は経っていない。
話を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。危うくそのまま卒倒するところだった。でも、すぐさま体温が急上昇した。脇目も振らずに教室から飛び出していた。何人かが驚いたようにこちらを見ていたけど当然気にかける余裕はない。
玄関まで来ると上履きのまま校舎から飛び出した。勢いを緩める事なく門へ向かって突っ走る。
どうしてこんな事になるのか、あの子が殺されなければならない理由が見つからない。いや、そんなものは端からありはしない。何れにしても、絶対にそんな事はさせない。何が何でも阻止してみせる。
背後から地面を乱打するような足音が近付いて来た。
「ミリー姉!」
アリスが両腕を激しく振りながら突っ走って来ていた。校内一の俊足と言われるだけあって速い。
「ミリー!」
声のした方に顔を向けた。誰かが馬を引いて門の方に走って来ている。師匠だった。
「使え!」
「恩に着ます!」
「着なくていいから急げ!」
手綱を握ろうとする頃にはアリスが追いついていた。一気に馬の背に飛び乗る。すぐさまアリスの腕を引いて後ろに乗せた。
「俺もすぐに行く! 先に行ってろ!」
「はい!」
返事がピッタリ重なった。完全に気持ちが一つになっていた。考えている事も、やろうとしている事も変わらない。
「しっかり掴まってな! 振り落とされても知らないわよ!」
腰を抱えていた両腕に力がこもった。手綱を思い切り振り下ろした。馬が一気に加速する。
絶対に、絶対に殺させない。何があっても必ず助ける。一緒に笑いながらご飯が食べたかった。並んで料理を作りたかった。特別な事は一つもない。ただ日常に戻りたい、それだけだった。
膝が音を立てて震えている。でも顎に思い切り力を入れているおかげで歯は鳴らなかった。だったら、膝もそうすべきだろう。このまま何もせずに屈するような真似だけはしたくなかった。
人のざわめきや憤る声、罵声の他に周囲の物音や鳥の囀ずる声、あらゆるものが実によく聞こえた。視覚を絶たれているせいで他の感覚が鋭敏になっているのかも知れない。
「いつ、吊るすんですか?」
聞き覚えのある声だった。さっき顔を背けた男だ。
「十二時きっかり。それまで、精々恐怖に震えてもらいましょうか」
あの女の声が聞こえた。何故、どうしてここまで執拗に憎むのか。それが一向に判らない。悔しくて堪らなかった。それが判ったところで何がどうなる訳でもない事くらいは流石に理解している。でも知りたかった。誤解ならばそれを解きたかった。
「じゃ、あと二十分もあのまま立たされてるんですか」
そりゃお気の毒。投げ遣りな口調だったけど僅かに気持ちがこもっているように聞こえた。どうしてあの人はここにいるのだろう。
「それより、あの小娘の代えはどうするんだよ。人質殺すだけなら何の意味もないぜ」
「娘の店にその代えを取りに行ってるみたいだな。これが済んで戻った頃にはやりたい放題だろ」
これから死のうとする人間に気遣う道理もないのか好き勝手言っている。体が自由ならば鼻っ柱に一発見舞ってやるのに。
そんな事より。
代えとは一体どういう意味なのだろうか。これから死ぬ人間に代わって誰かを拐って来る、そうとしか考えられない。
だとしたらみんなが危ない。もし昨日のあいつが来たら。考えただけで寒気がした。
でも今は信じるしかなかった。ウォッカを、みんなを、そして自分を。必ず生きて帰って、またみんなの顔を見る。特別な事なんて何処にもない。ただみんながいる毎日に戻りたいだけだった。
大丈夫、落ち着け。まだ時間はある、冷静に対処しろ。カティにも出来る事はあるハズだ。諦めずに前を向け。絶望に呑み込まれるな。
指も、体もまだ動く。生きている限り、最後の最後まで抗ってやる。ゆっくり息を吐き出す。かつてない程、神経が研ぎ澄まされていた。
血の気の失せた顔をした母をベッドに横たえた。家族を傷つけられ、娘を拐われ、でも満足に哀しむ暇さえなかったハズだ。泣き叫ぶミリアムとアリスを宥め、大丈夫と励ましながら気丈に振る舞う。そう言えば、母が涙を流したのは昨夜イリナが意識を取り戻した時だけだ。それ以降は、どれだけ辛かろうと一滴の涙すら見せなかった。それが許されない事を母は知っていたのだ。今、ようやくそれに気付いた。哀しさに呑まれそうになるのを懸命に堪える事しか出来なかった誰かとは対照的だった。母は、いつそんな強さを身に付けたのだろう。背中を並べて仕事を出来るようになった頃から母に追い付けたように感じていたけど、ものの見事に錯覚だった。実際は追い付く事はおろか背中も見えていなかった。悔しくはなかった。
母の手を握った。指を絡めて強く握り締める。冷たかった。目元を指で拭う。
「ごめんなさい……」
雫が母の手に落ちた。自分の知らないところで、誰かにこんなに無理をさせている。それに気付く事もない。なんて情けないんだろう。誰かの力になる訳でもなく、疲れ果てて倒れた母の手を握る事くらいしか出来ない。
吐いた息はやたら湿っていた。
顔を上げて前を見る。いつまでも俯いている訳にはいかない。まだやるべき事がある。泣くとしたら全て方が付いてからだ。涙なんか誰にも見せたくはないけど。
椅子から立ち上がると部屋を出る。いつまでも油を売っていられる程暇ではない。今は無事を祈る事しか出来なくても、部屋で塞ぎ込むような真似はしたくなかった。
階段まで来たところで物音に気付いた。足音だ。一人や二人ではない、複数いる。まさか、みんなが帰って来た? だったら何故声をかけないのか。名前を呼ばないのか。イヤな予感が胸の中でトグロを巻き始めた。階段を下まで一気に駆け降りる。
「何だ? 誰もいねえのか?」
「いねえって事はねえだろ。死体なら転がってるかも知れけどな」
下卑た笑い声が続いて聞こえた。廊下から食堂を覗くと見知らぬ男が三人我が物顔で中を彷徨いていた。その内の一人と目が合った。驚いたように後退りした。
「何でお前が!」
「生きてたのかよ!」
食堂に入ると全員身を引いた。全部で四人、腰に差している剣を抜く事もせずに動揺を露にしている。
「あんた達、ここで何してるのよ」
誰も応えなかった。一人がようやく柄に手をかけた。
「何してるのかって聞いてんのよ」
一歩踏み出すたびに一歩下がる。この腰の抜けようは一体何なのだろうか。
一番年嵩と思われる一人が動揺を鎮めるように全員の動きを手で制した。
「手負いのガキ一人にビビる道理はねえだろ」
手下三人の体から力が抜けた。表情にも僅かに余裕が生まれている。確かにご指摘の通りだ。でも既に傷は全快している。もう手負いではない。
「昨日拐ったお前の妹が用済みになったから代わりを取りに来ただけだ。素直についてくるなら手荒な真似は勘弁してやるよ」
ここではな。唇の端を不気味に釣り上げた。勝利を確信した笑みだった。
「断るわ」
信じられないくらいに落ち着いていた。心拍数は普段と変わらない。この分なら血圧にも変動はないだろう。
「早く出て行って」
渇いた笑い声が上がった。品もないし、人の神経を大いに逆撫でする声だった。
ここに来て初めて体温が上がった。恐怖ではなく、こいつらに対する怒りで。
「じゃ、輪姦してから連れていくか」
勝手にふざけた既成事実を作らないで欲しい。そういう行為は相手の了承を得てからするものだ。
三歩、間を詰めた。握り込んだ拳を腰の捻りを加えて鎧の隙間に突き刺した。
「が……」
男が右の脇腹を押さえて膝をついた。目の前に立っているイリナを愕然とした表情で見上げる。さっきまであった余裕が一瞬で失われていた。
撃ち下ろした右の拳が音を立てて頬骨にめり込んだ。床すれすれを低空飛行しながらスイングドアの下を潜って店から出ていく。そのまま外に飛び出した。こんな奴らを相手にして店が壊れるなんて馬鹿らしくてやってられない。
外にまだ二人いた。飛んで来た男を慌ててかわす。恐らく、いや確実に状況を把握出来ていない。そしてイリナの存在にも気付いていない。
バルコニーから跳んだ。ようやく目が合った。驚いたように目を見開いている。無防備な鼻っ柱に踵を叩き付けた。そのまま後ろに宙返りして着地する。もう一人とは殆ど距離は離れていない。姿勢を低くしたまま横に跳んだ。男が剣を抜こうとした時には柄に手を置いていた。遅い。振り被った拳が鼻に入った。盛大に砂煙を上げながら後方に吹っ飛んでいく。
ようやく背後がざわつき始めた。店から出た三人はすぐさま散った。逃げられないように前後から取り囲む。元々逃げるつもりもない。こいつら全員殴り倒さない事には気持ちが収まらない。
「お前、一体何なんだよ!」
声が上擦っている。剣を握っている手が震えているのだからビビっているのは明らかだった。
「宿屋の娘で十九歳無職の家事手伝いよ」
それ以外に応えようがない。そもそもこいつらの質問の意図が見えない。それに問答無用で人の家に上がり込んで来たのはお前らの方だ。不法侵入した悪漢を追い出そうとしているだけなのだからそこまで気を遣う道理もない。
「さっさと死ねよこのくたばり損ないがぁ!」
目の前にいた男が剣を振り上げて斬りかかって来た。全開にしている口の中に歯垢で黄色く染まった歯が墓石のように整然と並んでいるのが見えた。多分、と言うか絶対朝御飯食べた後に歯磨いてないな。大袈裟に構えて斬りかかって来ている割には臭い息が顔にかかるまでまだしばらくかかりそうだった。やる気あんのかこいつ。
右の拳を顔のど真ん中に叩きつけた。鼻骨が粉末になると同時に一瞬で陥没した。折れた前歯が口の中で飛び散った。上顎が亀裂を通り越して完全に粉砕された。それら全てが指から全身に伝わっていく。
背後に不穏な気配を感じた。残った二人のうちの一人が背後から斬りかかろうとしていた。無防備に背中を晒しているのだから当然と言えば当然だけど。それが背中を向けた状態で判った。
上段に構えた剣を右上から左下にかけて袈裟斬りに振り下ろそうとしている。当たったら命はない。飽くまで当たったら、の話だけど。
無難に事を運ぶなら左にかわすべきだろう。でもやろうとしている事はその正反対だった。振り下ろされる直前に姿勢を低くしながら右後ろに跳んだ。右足でそのまま地面を蹴って背後に回り込む。
命中を確信していたのか、それとも両腕に返って来た硬い反動が予想の範疇になかったのか、端から見ると笑いそうになるくらい驚いた顔をしていた。恐らく、背後を取っていた相手に一瞬で背後を取られた事にすら気付いていない。完全に無防備になっている後頭部を背後から掴んだ。男の両目が愕然と見開かれた。勢いをつけた膝が男の顔面に突き刺さった。潰れた鼻から、歯の折れた口から血が飛び散る。構わず二発、三発と続け様に膝を叩き込む。一発目の時点で意識は飛んでいたようだけどもう自制が効かなかった。膝を離すと半開きになった口からネットリとした血が流れ出た。鼻は完全に潰れ、前歯は粗方砕かれていた。 右足を踏み込むと同時に一気に左の拳を撃ち下ろした。勢いよく顔面から地面に叩きつけられる。血溜まりが少しずつ範囲を広げていく。死んだのかも知れない。知った事ではないけど。
振り向くと最後の一人が音を立てて後退った。膝が有り得ないくらいにガタガタ震えている、いや笑っている。こいつには笑えるだけの余裕なんて何処にもないだろうけど。
体を綺麗に反転させると悲鳴を上げながら脱兎の如く駆け出して行く。完全に伸びている仲間も乗って来た馬車もそのままだった。追いかけてまで殴ろうとは思わなかった。母一人を残して店から離れる訳にはいかない。
不意に視線を感じた。鼻を押さえたまま剣を抜こうとしている男が視界の片隅に映った。うんざりしながら振り向いた。鬱陶しいのを鎮めるように髪を掻きむしる。剣を抜こうとはしていても地面に座っていてはそれも叶わない。でも立てるだけの余裕もない。軽く駆け出すとそれだけで間合いが詰まった。抜こうとしていた剣の柄に右足を載せると眉間を軽く殴りつけた。相当手加減はしたつもりだけどかなり派手に痛がっている。砕けた鼻に響いたのかも知れない。左足を上げた。振り下ろす勢いを爪先に載せると再び肝臓に突き刺した。血反吐を吐いて悶絶する男を冷ややかに見下ろす。
「二度と、家の敷居を跨がないで」
血に塗れた顔で震えながらイリナを見上げる。白目を剥くと唇の端からだらしなく涎を垂らしたまま失神した。
単に伸びているだけなのか、それとも完全に死んでいるのか、それを確かめる事すら億劫だった。それに間違いなく正当防衛が成立する状況だ。文句を言われる筋合いもない。
それに、人を平気で殺そうとするこいつらは既に人ではない。人の姿をした化け物だ。無論、それが奴らを殺す理由にならない事くらいは判っている。でも、感情がそれを受け入れられない。
もし、もしカティが戻らなかったら。
絶対に平静ではいられない。こいつらを百回殺してもお釣が来る。
でも、こいつらのような外道であっても殺してしまったとしたら、その外道と何一つ変わらない事になる。どんな大義名分があろうとも、人を殺せばただの人殺しだ。誰かを殺める行為に正義など最初から、そして何処にも存在しない。
不意に吐き気が込み上げた。口を押さえつけて辛うじて堪える。身動ぎ一つせずに横たわる男連中を殊更冷めた目でに見下ろす。こんな人の風上にもおけないような連中と同列に扱われるのは絶対に本意ではない。あいつは、充分に人を殺める事が出来るだけの力を持ちながら一度としてそれを実践した事はない。少なくともこの街に来てからは。
大きな力ではあってもそれを自由に行使する事は許されない。そう、絶対に。取り扱い注意。昨夜誰かから聞かされた言葉が耳の奥で蘇った。
どいつもこいつも意識は完全に飛んでいる。でもよく見るとお腹や肩が少し、本当に微かに動いている。溜め息が漏れると同時に少し力が抜けた。殺さなかった事にではなく、こいつらと同類にならずに済んだ事にちょっとだけ安堵した。意識が戻ってもしばらくはまともに動けないだろう。しばし生き地獄を味わえ。
倒れている五人に背を向けるとスイングドアを押した。こいつらに同情する余地はない。どれだけ憎かろうが殺しはしない、それだけの話だ。




