五日目 その八
握った手綱を力一杯振り下ろした。馬車が更に速度を上げる。大通りのど真ん中を砂煙を上げながら馬車が疾走する。まさか二日も続けてこんなに大急ぎでイリナの店に向かう事になるなんて考えもしなかった。とにかく今は急がなければ。前を睨んだまま手綱を振るう。
広場に行くだけならヨハンの自宅から直接向かった方が余程早い。これから何か事が起こるにしても間に合う可能性が高い。だが単に間に合う事には何の意味もない。助け出せなければ全てが終わりだ。ヨハンは最悪の事態が現実のものになる瞬間には間に合うかも知れないが、恐らく、いや絶対に助け出す事は出来ない。
でもあいつなら、ウォッカならそれが出来るかも知れない。いや、絶対に出来る。大飯食らいの大酒呑み、大の男を片手で放り投げるような怪力の持ち主だが、近寄り難いような雰囲気なんてものは微塵もなくむしろ豪放磊落としていて見ているだけで面白い。ヨハンこれまで一本も取った事もないイリナを軽く退けるだけの腕前を持ちながら誇りも傲りもせず、いつも朗らかに笑いながら空を見上げている。それだけではない。昨日に至っては瀕死の状態だったイリナを蘇生させ、重傷を負っていたみんなを瞬く間に全快させた。
全く、何なんだよ、お前は。突然この街に来たかと思ったら次から次へと騒動を巻き起こしてみんなを助けて、でもひょっとしたら自分一人だけ物凄く疲れているのかも知れない。でもそれすらおくびにも出さずにずっと前を向いている。ヨハンと殆ど歳も変わらないのに何をどうすればこんな馬鹿みたいに頑丈な人間が出来上がるのか。羨ましいけど、ヨハンには逆立ちしたって無理だ。どれだけ力を振り絞って走っても、ウォッカに追いつく事はおろか背中すら出来ない。
でも、それで良かった。全然構わなかった。どう足掻いてもウォッカのようにはなれない。ヨハンにはヨハンのすべき事をすればいい。昨夜のように、ヨハンにしか出来ない事も少しくらいならあるかも知れない。それでいい。もう誰かと会えなくなるのも、死に別れるのも絶対にごめんだった。誰も、何もなくしたくなかった。それをウォッカに繋げたかった。何かを、誰かをなくす事がどれだけ重いか、あいつならそれが骨身に沁みて判っているハズだ。
だから、頼む。
振り上げた手綱を一気に振り下ろす。馬車がまた少し速度を上げた。
焜炉かけていた薬缶が激しく息を吹き出し始めた。ダンは焜炉の蓋を閉じて空気を遮断すると薬缶の取っ手を持った。急須ではなく並べていた湯飲みにお湯を注ぐ。ここに来てもう五日経つが、まだウォッカにお茶を入れていなかった。飲むものと言えば水か酒で、それ以外のものは本人も飲もうとしていなかったしダンも勧めなかった。だが飲まないと言う事もないだろう。胃に入るものなら、栄養になるものは全て吸収する。貪欲と言えば聞こえは悪いが生きる事にも、そして誰かを活かす事にも常に積極的だった。絶対に生きる事を諦めるような真似はしない。
まだほんのりと湯気を上げている湯飲みを持つと中身を急須にあける。人に依っては熱い方が好きと言う場合もあるが、今使っている茶葉はこうした方が味が出るのだ。悪いがお付き合い頂こう。
四人分の湯飲みをお盆に載せると厨房を出る。暖簾越しに食堂を覗くとカウンターに妻が腰を下ろしていた。
目の前に湯飲みを置く。妻は初めて気付いたように驚いて顔を上げた。
「ごめんなさい」
目を伏せた妻の肩に手を置いた。今は何も気を遣って欲しくなかった。少しでも体を休めてくれた方が余程嬉しい。ひょっとしたら、案外妻も同じ事を考えているのかも知れない。そう思ったら奇妙な笑いが込み上げて来た。
「後は私がやっておくわ」
お盆を取ろうとした妻を手で制して椅子に座らせた。
「昨夜俺が寝てる間、三人の面倒を見てたんだろ?」
「イリナはウォッカさんが、ミリアムはヨハンさんが見てくれた。私が見たのはアリスだけよ」
「充分だよ」
訳も判らず娘を拐われ、絶叫したくなるような混乱の最中にあっても気丈に振る舞い家族を支えなければならない。怪我が一番軽かったと言うだけで精神的にも肉体的にも相当堪えているハズだ。
「少し休んでてくれ」
頷く妻の頭に手を置いた。今は誰一人として無理はして欲しくない。
食堂の隅のテーブルに行くと、それまで顔を俯けていた長女が顔を上げた。
「大丈夫か?」
「別に何ともないわ」
顔色は悪くはないから眠れはしたのだろう。でも表情にいつもの覇気がない。正直、何ともないとは言い難いものがある。イリナに限らず、疲れていようが参っていようがそれを素直に認めるような真似はまずしない。気丈と言うか意地っ張りと言うか、そういうところが頼もしくもあり、また心配でもある。
「無理はするなよ」
「判ってる」
差し出されたお茶に早速手を伸ばした。体が渇きを覚えていても頭がそれを無視していたのか。飲むものを見た事で渇きを思い出したのかも知れない。何れにしても心ここに在らずと言ったところだろう。
イリナの丁度真向かいの位置にはウォッカが座っていた。入口の壁に面しているので外からはまず見えない。
「どうぞ」
頬杖を突いたまま宙を睨んでいたウォッカが驚いたようにダンを見た。
「お口に合えばいいんですが」
「すみません、お気遣い頂いて……」
恐縮しながら湯飲みを受け取ると早速口をつける。ウォッカも渇きを忘れていたのかも知れない。他に考える事があるからだ。喉を潤すと言うより気持ちを切り換えるきっかけになれば何よりだった。いつまでも考えていたら本当に気が滅入ってしまう。それは自分で自分を追い込むのと然程変わりがない。
ウォッカは相変わらず針のような目付きで宙を睨んでいた。何があってもすぐに動けるだけの準備が既に整っている。今のウォッカは常に臨戦態勢なのだ。常時抜き身の刃を晒しているようなものだ。
「ウォッカさん」
ウォッカの肩に手を置いた。肩が固かった。だが断じて凝っているのではない。
「少し力を抜きましょう」
「はい」
いつでも泰然としているウォッカですらこんなに力んでいる。カティが連れ去られた事はウォッカの中でもそれほど重いのだろう。
ダン達家族にもウォッカは既に他人ではない。家族か、言葉はおかしいがそれ以上の存在になっている。カティが拐われた事に、彼も責任を感じている。
空になった湯飲みをテーブルに置くとゆっくり息を吐いた。息苦しい沈黙が食堂を満たした。
遠くから、微かに蹄の音が聞こえて来た。気にはなるが表に出る事は憚られた。それに、必ずしもここに用があるとは限らない。思い過ごしで済むならそれに越した事はない。
蹄の音が更に近付いてきた。通り過ぎるてと思った頃、蹄の音が止むと同時に店の前で馬車が止まった。間髪入れずに誰かが荷台から飛び降りて来た。そのまま店に突進する。
「た、大変だあ!」
ヨハンだった。足がもつれた。テーブルにしがみついて何とか転倒は免れた。だが地に足がついていない。今にも倒れそうだった。何とか踏み止まったのとウォッカが立ち上がったのがほぼ同時だった。
「た、た、大変なんだ!」
「一体何が大変なんだよ。それを説明してくれ」
ウォッカは完全に動転しているヨハンの肩を掴む。ただ事ではない何かが起こった事は確かだ。ダンも胸の奥から沸き上がる動揺を懸命に抑えながらヨハンの元に駆け寄る。
「ヨハン、頼むから落ち着いてくれ。そうでないと話す事も話せなくなる」
「ついさっき、レン姉が血相変えて買い物から帰って来たんだ。理由を聞いてみたら……」
息が詰まったのか、ヨハンはそこで盛大に噎せ返った。横にいたイリナが慌てて持っていた湯飲みを勧める。
「そしたら、広場に絞首台が置かれてて……」
顔から一気に血の気が引いたのがハッキリと判った。遠退き懸けた意識を辛うじて維持する。
ウォッカはヨハンの肩から手を離すと、今度は胸倉を掴んだ。
「誰だ! 奴ら一体誰を吊るそうってんだ!」
「そ、それが……」
苦しそうに顔をしかめながら、それでもハッキリとした声でヨハンは言った。
「カティみたいなんだ……」
隣に立っていた妻が昏倒した。イリナが慌てて抱き止める。
「母さん!」
完全に意識をなくしている。辛うじて持ち堪えていた気持ちが限界を超えたに違いない。
「その広場ってのは何処にあるんだ!」
ウォッカは尚もヨハンの胸倉を締め上げる。仰天しそうになった。常に冷静沈着としていたウォッカがここまで感情を露にするなんて想像もしなかった。昨日傷を治してくれた時もかなり興奮していたが無事が確認出来るとすぐに収まった。今はその兆しすらない。
それだけではない。
ウォッカの髪が微かに波打つとゆっくりと逆立ち始めた。その色が、一瞬真っ赤に変わった。錯覚ではない。真っ黒だった髪が血のような真紅になった。
「表に出て、大通りを真っ直ぐ左……」
言い終わらないうちにヨハンは店の脇に吹っ飛ばされていた。ウォッカが放り投げたのだ。テーブルに置いていた短剣を手に取ると一目散に駆け出していく。
呼び止める暇もなかった。表に出た時には米粒大を通り越して完全に見えなくなっていた。最早人間の足ではない。
「二人とも、早く追って!」
娘の声で我に返った。茫然としている暇はない。
「私は母さんを見てる! 早くウォッカを追って! カティを助けて!」
「見てるってお前……」
声をかけようとしてギョッとした。完全に気を失っているライザをイリナが抱き上げていた。完全に意識をなくした人間を抱えるなど、大の男でも相当大変だ。それをまだ二十歳にも満たない娘が、重そうな素振りなど微塵も見せずに人一人を抱えて仁王立ちしている。
「早く!」
「わ、判った!」
急いで馬車に飛び乗る。ヨハンが慌ててそれに続く。一気に手綱を振り下ろすともう振り返らなかった。
手綱を握る手に力がこもる。二度と会う事も、話す事も出来なくなったとしたら。そんな事、絶対に考えたくなかった。あって欲しくなかった。笑ってくれるだけで、傍にいてくれるだけでいい。それが失われたら、もう絶望しか見えなくなる。
力一杯手綱を振るった。もう前しか見えなかった。
高台の一番上には丸太が横向きになっていた。その丁度真ん中から先端が輪になった縄がぶら下がっている。話に聞いたり、本で読んだりした事は何度かあった。でも、目の前に立っているこれをそれとは思いたくなかった。
絞首台がこれから吊るされる誰かを待ち侘びるようにして寂しげに突っ立っていた。どうしてこんな縁起でもないものがこんなところにあるのか。
茫然と振り向くと、あの女が呆れたように笑っていた。
「誰が生きたまま返してあげるって言った?」
生きたまま返さなければどうやって返すと言うのか。涙が一筋頬を流れた。
「死体にして返して差し上げるわ。あなたのお父様もさぞ喜ばれるでしょ」
目の前が真っ暗になった。足から力が抜けた。でも倒れる事は叶わなかった。両脇を抱えていた男二人が無理矢理腕を引っ張った。叫ぼうとした口に何かを噛まされた。丸い木の棒だった。言葉を話そうとしても獣の叫び声のようにしかならない。口を閉じられないせいで溢れた唾液が唇から滴り落ちる。
絞首台の周りは柵で囲まれている。その向こう側には大勢の人達がひしめき合っていた。これから何が起ころうとしているのか、それが気になるのだろう。自分の身内が吊るされはしないか、要はそこだ。
絞首台の前まで引きずられた。階段の縁に足を置くと背中を思い切り反らせた。この台の上まで上がったら、もう絶対に助からない。イヤだ、絶対にイヤだ!
階段に突っ張らせていた足は体を少し持ち上げられただけで事の他アッサリと外された。喉が切れそうになるくらい叫んだ。手を、足を無茶苦茶に動かした。首を激しく左右に振った。でも、抵抗も虚しく左右から体を抱え上げられると荷物のように上に運ばれていく。途中で抱えている男と目が合った。
「ふ……う……」
言葉になっていない。でも意味は伝わるハズだ。茫然と見開いた目から涙が零れ落ちた。
「こうしねえと、こっちが殺されちまうんだよ」
悪いな。気不味そうに目を逸らした。
反対側の男を見た。目を見開いたまま首を左右に振る。涙が一滴頬にかかったけど、男は鼻で笑っただけだった。
絞首台の天辺まで来ると床に下ろされた。結構な高さがあるおかげで随分遠くまで見渡せた。そこで視界が遮られた。黒い布で目隠しをされたのだ。恐怖が一気に跳ね上がった。
お願い、誰でもいい。誰か助けて!
私、まだ死にたくない!
声の限りに叫んだ。目の前には絶望しかない。でもそれに絶望してしまったら完全に望みが絶たれる事になる。そんな事、絶対にイヤだった。生きて帰る、みんなとそう約束したではないか。
絶対に諦めない、諦めてたまるか!
顎に力を入れた。拳を力一杯握り締めた。生きている限り生にしがみついてやる。それが、最後の意地だった。
足を踏み出すたび、息を吐き出すたびに体が熱を帯びる。冷める兆しは全くない。むしろ熱さは増すばかりだった。それに冷ましたくもなかった。
どうして、何故あの子を殺す必要がある? 理由を聞いたところで納得する事など有り得ない。正当な理由など端からある訳がない。元々筋も道理もない連中に理屈を求めるのは愚の極みだ。拐いたいから拐う、殺したいから殺す、欲求や必要に駆られて取っただけの行動に理念も理屈もない。今あるのは、いや感じるのは悪意だけだった。苦しむ顔が、泣き叫ぶ表情が見たいから、それを満たすだけの行動に過ぎない。
噛み締めた奥歯が軋んだ。握り締めた拳から血が滴った。
あの子は、あの子だけは何としてでも助ける。もう、何もなくしたくなかった。誰も失いたくなかった。今ここでまた何かをなくしたら………、もういつも通り立ち上がる事も、のんびり前を向いて歩く事も叶わなくなる。体は熱くなる一方なのに、芯から凍えるような身震いがした。
ただ傍にいてくれるだけでいい、笑ってくれるだけでいい。それ以上望むものなんて何もない。
なくしたくなかった。だから絶対に取り戻す。それ以外考えられなかった。




