五日目 その四
椅子に座っている、それは確かだった。でもそれ以上は何をしているのか判らなかった。さっきから先生が黒板に何か書いているけどそれが頭に入る気配はない。手帳に書き写す事もしていない。無理を言って出て来たと言うのに、学校に何をしに来たのかサッパリ判らなかった。
二人の少し後ろを歩いていたウォッカは校門の前まで来ると放課後に迎えに来る事を告げてすぐに回れ右した。それに対してどう返事をしたのか覚えていない。頷いただけのような気もする。
校舎に入った時から明らかに周囲との距離を感じた。誰もが一様に言葉をなくしていた。かける言葉が見つからなかったのかも知れない。頭巾を脱いだ瞬間、付き合いの長い級友は文字通り絶句した。何があったのか、話くらいは聞いていただろう。それも程度によると言う事なのかも知れない。
「髪、どうしたの……?」
「あいつらに切られた」
自分でも驚くくらい自然に言葉が出ていた。隠そうとも思わなかったし言い澱む事もなかった。
級友は完全にかける言葉をなくしていた。迂闊に聞いてしまった事を後悔するように唇を噛む。動揺して震える目尻に涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい」
気を遣って慰めようとしてくれた友人を泣かせた事に、その無神経さに自分がイヤになった。でも今は周りを見るだけの心の余裕がない。
声をかけて慰めてくれる人、悩ましそうに眉間にシワを寄せたまま遠巻きに眺めるだけの人と反応はそれぞれだったけど、誰一人としてカティの事には触れなかった。いつも一緒に来ている妹がいない。それはみんなも気付いているハズだ。でも誰もそれを聞こうとはしなかった。
ふと顔を上げるとさっきまで教壇の前に立っていた先生の姿が消えていた。いつの間にか授業が終わっていた。全然気付かなかった。
椅子を引いた。まるで夢遊病患者のように夢でも見るような足取りで教室を出る。何かあてがある訳ではない。でも教室で無為に時間を過ごすよりこうして少しでも体を動かした方が、胸に吸い込む空気を変えた方が気持ちが落ち着く気がした。
廊下の窓際に立ち止まる。でも窓枠に肘を置いただけで外を見る事はしなかった。顔を上げられなかった。
「アリス先輩」
誰かが声をかけた。聞き覚えはあるのに誰の声なのか判らなかった。
すぐ隣にエレンが立っていた。顔が強張っている。
「昨日、何があったのか聞かせて下さい」
「いくらか耳に挟んでない?」
「先輩の口から、事実を知りたいんです」
同年代のカティより鋭く尖った印象があるけど、今日はそれが更に殺気立っていた。エレンとサラとは昔から一緒に遊んだ仲だ。だから友達と言うより姉妹同然だった。年も一つしか違わないのだから呼び捨てで構わないと言っているのに一向に従おうとはしなかった。良くも悪くもエレンらしかった。力を抜く事を知らない。誰かとよく似ている。
「カティは、あの子は何処に行ったんですか? どうして学校に来ないんですか?」
真っ正面から両肩を掴むと体を揺すられた。昔はまだアリスの方が背も高かったけど、今は殆ど変わらない。
「昨日、奴らに連れ去られた」
腕が、体が何かを堪えるように痙攣した。両肩を掴んでいた手から力が抜けた。床にへたり込みそうになったエレンの腋の下に慌てて両手を差し入れた。
「どうしてカティが……!」
呆然と見開いた目から涙が一筋流れて落ちた。比較的落ち着いていた気持ちがまた動揺して来た。錯乱しそうになる気持ちを抑えるようにして胸に手を置く。
「先輩も、みんな凄く強いじゃないですか! どうして守れなかったんですか?」
「相手にもならなかったわ」
胸ぐらを掴んでいたエレンの手から再び力が抜けた。俯くとそのままアリスの胸に顔を埋めた。
「ごめんなさい……」
「いいのよ」
震えるエレンの肩を抱いた。胸の辺りからエレンの嗚咽だけが聞こえた。
何処にいてもずっと一緒だった。家にいても、学校にいても、すぐ傍にはいなくても呼べば必ず来てくれた。手を握ってくれた。穏やかに笑いかけてくれた。それが日常であり、当たり前だった。隣を見たらそこに立っているような気がする。でもそれは幻想ですらない。ここにいて欲しいと言うただの願望だ。
傍にいてくれただけなのに、それがこんなに有り難かったなんて。どうしてなくしてから気付くのだろう。それが哀しくて、これまで考えもしなかった自分が情けなくて涙が出そうになった。
でも。
アリスは俯いていた顔を上げた。今日、学校に来て初めて自分から顔を持ち上げた気がする。真っ直ぐに前を見据えた。
「絶対取り戻すわ」
誰の言葉をなのか最初は判らなかった。たった今の今まで涙を流していた人間が口にした言葉とは思えなかった。涙の跡はまだ頬に残っている。でも涙が溢れ出す兆しは全く窺えなかった。
下から視線を感じた。エレンが目を真ん丸に見開いてアリスを見ていた。
「大丈夫よ。何が何でも連れ戻す。そう信じて待ってましょう」
下を向いたら気持ちまで沈んでしまう。だからそうならないように前を向こう。あの子が戻って来た時、いや連れ戻した時、笑顔で迎えられるように。そんな当ても希望も何処にもないのに。でもそう信じていないと体が音を立てて崩れそうだった。
まだ何がどうなった訳ではない。何もせずに諦める事だけはしたくない。望む未来が得られるまで全力で抗ってやる。
胸の中にいたエレンが頷いた。震えはいつの間にか止まっていた。




