五日目 その参
水に浸したモップを手で固く絞る。僅かに湿り気を帯びた状態で床を拭く。一見綺麗に見えるけど、白かったモップは徐々に灰色を帯びつつあった。家は人に生かされている、母が昔そんな事を言っていた。そして人は家に生かされている。イリナもこれまで一人で生きてきた訳ではない。これから先も一人で生きていけるとは思えない。みんな揃って初めて一つの家族だ。誰か一人でも欠けるような事はあってはならない。
柄を握る手に力がこもっていた。いつもなら朝一番に済ませている作業を朝食の後にやっている。それに違和感を覚えずにはいられなかった。明日はこれまで通りに起きられるだろうか。いつまでこんな事が続くのだろうか。ヨハンはお兄さんを、司祭様は男手一つで育てて来た子供を奴らに奪われた。家族がいなくなる、それがこれほど辛いなんて。司祭様のように体調を崩して当然だ。こんな生き地獄がいつまで続くのか。光の差し込まない真っ暗な部屋に閉じ込められたような気分だった。気持ちが沈む。気付けば顔を俯けていた。叱咤するように平手で頬を張る。ゆっくり息を吐くと肩から少しだけ力が抜けた。硬くなりすぎず、かと言って力も抜きすぎず、程好く緊張させていないと体が動かない。微かに埃の浮いた廊下にモップを滑らせる。集中すればさして時間はかからない。いつの間にかバケツの水が黒ずんで来ていた。額に滲んだ汗を指先で拭う。モップをバケツに突っ込むと壁に立て掛ける。窓拭き用のバケツに浮いていた雑巾を力一杯絞った。いっぱいに水を張ったバケツを持って窓際に寄る。さっきもそうだったけど、綿を持ち上げるようにまるで重さを感じない。精神状態はこれ以上ないくらいに最悪なのに、体調はそれに反比例するようにちょっとずつ向上しているのかも知れない。
でも今はそんな事以外にすべき事も、そして考える事もある。雑巾で窓を拭く。モップと同じようにして雑巾の色が徐々に灰色に変わっていく。踊り場の近くまで来ると、階段の上の方から誰かが降りて来る足音が聞こえた。
「お疲れ様」
モップをバケツに突き刺した母が淡く笑った。イリナも笑った、と思う。頬が引きつっただけかも知れないけど。
「私は疲れてないわ。母さんこそ疲れてないの?」
淡かった母の笑顔が更に微妙な表情に変わった。疲れていない訳がない。馬鹿な質問だった。
「少し休んでて。後は私がやっておくわ」
母はゆっくり頭を振った。表情に力がない。
「あんな大怪我を負ってた人に昨日の今日でそんなに無理はさせられないわ」
「大丈夫。むしろ体調はいいくらいだから」
嘘ではない。精神面の疲弊とは対照的に体は軽い。酷く不釣り合いだけどいいに越した事はない。
普段元気な母が随分と小さく見えた。いつも通りと言う訳にはいかない。みんなそれだけの痛手を負っている。
いつの間にか母が目の前に立っていた。両腕を伸ばしたかと思うとすっぽりと体を包み込まれた。言葉が出なかった。腕が、体が震えている。何かを懸命に堪えるように腕に力を込めた。しばらく母の温もりに包まれていた。
「あなたがいてくれて本当に良かったわ」
心が芯から弱り切っている。それは誰しも変わらない。気丈に振る舞っている母でも打ちのめされて立ち上がれなくなる、それくらい大きく重い出来事、いや事件だった。
「私も、こうしてまた母さんに会えて嬉しいわ」
自然と頬が綻ぶ。家族といられる事が、当たり前に繰り返される日常がこんなに有り難く得難いものだったなんてこれまで想像した事すらなかった。どうしてなくしてから気付くのだろう。でもそれを知っていたとしてもイリナにあいつを退けるだけ力はなかった。悔しさで涙が滲んだ。
「どうして、ウォッカは二人について行ったのかな」
全く意図した言葉ではなかった。頭に浮かんだ事がそのまま口から転がり出たようだった。
「そうね、ハッキリとは判らないけど多分あなたと同じ理由なんじゃないかしら」
明確な違和感を覚えた。どうしてハッキリ判らないのにイリナと同じ理由と言い切れるのか。そもそもイリナの何と同じ理由なのかが判らない。
娘の表情が微妙に変わった事に気付いたのだろう、母が言葉を添えた。
「責任、感じてるでしょ? 私がもう少ししっかりしていれば、強ければカティを守る事も出来たのに、って」
返す言葉がなかった。どうして判るのだろう。確かに昨夜ウォッカに話した事だ。ただその時もイリナ自身の責任云々については触れていない。胸の中でぼんやりと浮かんでいた事ではあったけど、それを明確な言葉にはしなかった。
それを、その場にいなかった母がどうして判るのか。
「一昨日の夜、お風呂で話した事覚えてる? あなたも含めて、ミリアムもアリスも自分が何を持っているか、その性質もしっかり理解している、だから誤った使い方は絶対しないわね、って。あなたは与えられた責任に於いて、いえそれを全うするために全力を尽くした。それが力を与えられた、力を得たあなたの義務と責任だから。でも……」
母は肩を落とすと気不味そうにに顔を背けた。
守りたかった、でも守れなかった。命を落とす寸前だったのだ、誰かを守るどころの話ではない。結局守る事は叶わず無惨に殺されかけた。結果が全てだ、過程は関係ない。どんな途中経過を辿ろうと負けた事実は覆らない。
負けた悔しさより、目の前にいながら助けられなかった哀しさがそれを凌いでいた。泣き叫ぶカティの手を掴む事は出来なかった。負けた自分が、助けられなかった自分が許せなかった。
「彼も、あなただけじゃなくカティも助けたかった。あなたなら、彼の気持ちも判るわよね」
判る。 痛いを通り越して、思い出そうとするだけで悔しさと哀しさで過呼吸を起こして倒れそうになるくらい判る。反射的に胸を右手で押さえていた。こんな気持ちは二度と味わいたくないし誰にも味わわせたくない。イリナ一人で、一度きりで充分だ。
「カティを守れなかった事に彼も責任を感じてる。だから、きっと同じ後悔はしたくなかったんじゃないかな」
仮にウォッカと同じ立場だったら、同じものを持っていたら果たして何を感じていただろうか。ひょっとしたら、持っているものが、力が大きいだけに跳ね返ってくるものも大きいのかも知れない。だから、自分が言い出した事を反故にしてでも二人に付き添った。同じ理由で後悔しないために。
あいつは一体何のために、いや誰のために動いているのだろう。関わった人間の一人としてその責務を全うしようとしているのか、それ自体がウォッカのケジメなのか。
だ、今にも心が折れそうなくらい苦しい時にあいつが傍にいてくれる事が純粋に嬉しく、何より心強かった。あいつが道に迷ってここに来ていなかったら一体どうなっていたのだろう。全く、大した偶然もあったものだ。
「確かに、これ以上頼もしい護衛もそうはいないわね」
頷いたイリナに母は小さく肩を震わせて苦笑した。攻めであり、同時に守りの要でもある。あいつを抜きに今後の話は進まない。
「気になるなら彼に直接聞いてみたら?」
「そうね、気が向いたらそうしようかな」
簡単に言ってくれる。そういう事を気にせず口に出来るのがいつの事だったのか、今となっては思い出す事も出来ない。母もとうの昔に忘れてしまったのだろう。
「もう戻ってるかしら」
「流石にまだ少し早いんじゃない?」
普通の人ならそれも当て嵌まる。ただあいつは間違いなく普通とは言い難いものがある。イリナは構わず階下に足を向けた。バケツとモップを持った母が後に続く。
厨房の奥の方にある台で父がジャガイモの皮を剥いていた。外から厨房まで見通せるけど、そこは死角になっているせいで見えないのだ。そこだけ見ると影に隠れてやましい事をコソコソしている悪ガキようだった。
「あんな大怪我した後なんだから少し休んでればいいのに」
「それはお前も同じだろ」
全く以てその通りだ。でもジッとしていると落ち着かないのだ。不安ばかりが頭の奥から湧いて出てくる。学校に行く事をせがんだ二人の気持ちがよく判る。
「肉じゃがでも作るか」
剥いたジャガイモもボールに移し終えた父は玉葱を刻みながら言った。お昼のおかずは取り敢えず一品決まりそうだった。まだ棚の奧に椎茸がいくら残っていたからモヤシと一緒にして炒め物でも作ろうか。
厨房から食堂に向かおうとした時、母が肩を引いた。
「そこから先はまずいわ」
何も考えずにそのまま表に出るところだった。命を危ぶまれる重傷を負った翌日に普通に歩いていたら奴らでなくてもびっくり仰天だ。当分店の外には出られない。
持っていたバケツを床に置いた。両手に一つずつ持つのは女の腕力には堪える。でもバケツを手放す前と後でも手に感じる負荷は全く変わらなかった。
外から足音が近付いて来た。顔を向ける頃には巨大な人影がスイングドアを潜っていた。帽子を脱ぐと、ウォッカは滴る汗を首に巻いた手拭いで拭いた。
「お疲れ様」
とは言ったものの、実際ウォッカが疲れているかと聞かれたら全くそんな風には見えなかった。のんびり歩いて帰ったハズがない。優に一里以上はある距離を全力疾走して来たにも係らず息さえ切れない。
「無事で良かった」
「馬鹿言わないで。何かあったら大変よ」
ウォッカは納得するように苦笑した。こいつもこんな風に穏やかではいられないに決まっている。
「放課後に迎えに行く。悪いがその間また外す」
「判ってる」
その時までに進展があればいいが。みんなを助け出せる決定的な足掛かりでもない限り迂闊には動けない。それまではここから出られない。自宅で軟禁されると言うのもおかしな話だけど。
ウォッカは脱いでいた帽子を被り直すと庇を掴んだ。カウンターには座らず厨房に向かう。動けないふりも楽ではない。死んだふりに比べればいくらかマシかも知れないけど。
カウンター越しに厨房を覗く。ウォッカは父の真向かいにある椅子に腰を下ろしていた。表情にいつもの覇気がない。でも目だけは鋭く宙を睨んでいた。




