五日目 その弐
スープが盛られている器から微かに湯気が上がっている。ご飯には目玉焼きが添えられているが、一人を除いて誰も手をつけようとしなかった。ウォッカだけが無心で箸とスプーンを動かしている。でもいつもと比べると明らかに勢いがない。空腹を満たすためではなく、義務で栄養になるものを胃に落としているようだった。食を楽しむのではなく、生きるために食べているように思えた。淡々とスプーンを、ご飯を口に運んでいる。スプーンを握る手の動きが止まる。ゆっくりと溜め息を吐いた。食事を楽しんでいるような横顔には到底見えなかった。
誰も、何も口を利かなかった。 ミリアムは一口だけスープをスプーンに掬った。口にしたのもそれだだった。 あとは眉間にシワを寄せたまま気不味そうな顔をして宙を睨んでいる。右手に握っていたスプーンを器の淵に置いた。
「ごちそう様」
器にはまだたっぷりスープが残っている。ご飯と目玉焼きは全くの手付かずのままだった。
「ごめん、私も」
アリスもスプーンを置いた。ミリアムと違ってスープは半分近くがなくなっていた。でもご飯も目玉焼きも手がつけられた形跡がない。固形物は胃が受け付けないのかも知れない。普段のアリスからは考えられないくらい少食だった。
妻は目を伏せたまま首を横に振った。ダンや妻にしても、湯気を上げるスープをただ眺めるばかりで救っているスプーンを口に運ぶ気力すら湧かなかった。
アリスは俯けていた顔を両手で覆った。時折吐く息は小刻みに震えていた。聞いているだけで胸が締め付けられるようだった。音を立てて崩れそうな心を懸命に支えていた。堤防が決壊するように、一度感情が溢れ出せば歯止めが利かなくなる。それを判っているからこそこうして懸命に耐えているのだ。あれだけ長かった髪も今は見る影もないくらいにバッサリ切り落とされている。ミリアムと大差がない。これまでは極端に髪が長かったせいで気付かなかったが、こうして改めて並べて見るとよく似ている。やっぱり姉妹だった。
どんなに忙しくても、時間がなくても風呂上がりには丁寧に髪を乾かし、入念に櫛を通していた。結い上げた髪をいつも鏡に映して形を確認している時の後ろ姿は何処にでもいる年頃の女の子だった。今はその時の名残すらない。それだけでも相当辛いだろうに、どれだけ苦しくても涙すら見せない。
隣に座る姉を見る。目にも体にも力がない。焦点の定まらない目が宙を漂っていた。死人のような目だった。生気のない目が茫然と虚空を見詰めている。姉として優しく接するよりも、世話をする者の責務として厳しく接していた。少なくともダンの目にはそう映っていた。だから時折誉められた時は決まって嬉しそうに笑って姉を見ていた。カティが辛い時は両腕でしっかり抱き締めていた。出来る事なら今もそうやって抱き締めたいに違いない。でも、今それは絶対に叶わない。それがミリアムから笑顔を奪っていた。
「ウォッカ」
イリナがスプーンを持つ手を止めると妹二人の茶碗と器をウォッカの前に置いた。
「二人の分、頼めるかしら」
「喜んで」
宿の人間が客にする事ではない。そうではなく、既に宿屋とその客と言う関係ではなくなっている。それを優に越えていた。勿論ウォッカは家族ではない。だがそれに極々近い位置にいる。ウォッカがいるからダンら一家はまだ何とか保っている。今ダンが普通に立って歩けるのも、ミリアムやアリスが当たり前のように動けるのもウォッカのお陰なのだ。
ウォッカの存在がこの一家の拠り所になっていた。今、初めてそれに気付いた。
「ご馳走様でした」
両手を揃えて軽く頭を下げた。空になった食器を妻とイリナが手際よく片付ける。
居心地の悪い沈黙が食堂を満たした。目を伏せるばかりで誰も口を開こうとしない。実際何を話せばいいのかも判らない。下手な冗談は却って白けるだけだし現実に則した話は空気がより一層重くなる。
その沈黙をアッサリ破ったのもやっぱりウォッカだった。
「みなさん、一つお願いが」
神妙と言うよりも真剣な声音で唐突にウォッカは切り出した。
誰に言われた訳でもないのに、居合わせた全員は背筋を伸ばした。ウォッカは恐縮するように一度咳払い すると少しだけ胸を反らした。
「今日からしばらくは店から出ないようにして頂きたくて」
思わず誰もが顔を見合わせた。動揺がさざ波のように拡がる。
「特にイリナとご主人、それとミリーは。アリスも、そうだな、やっぱりあまり出歩かれるのは上手くないか」
「どうして?」
素直に疑問の言葉を口にしたアリスを軽く一瞥するとウォッカは厳かな声で言った。
「イリナとご主人は命に関わる重傷を負ってた。それが一晩で完治するなんて事は普通絶対に有り得ない。でも今はそれが起こってる。当然奴らもみんなの怪我が翌朝に治ってるとは絶対に考えていないだろうからな」
そうだ。ウォッカが起こした事実があったからこそ、ダンら一家は今こうしてここにいられる。だがそれは絶対に有り得ない事なのだ。それを完全に失念していた。仮に、奴らがそれを知ったとしたら。
「下っ端共はともかく、みんなをやった奴は相当な手練れです。そいつが最初から本気でかかって来てたら今ここにはいなかった人もいるでしょう」
ゾッとするような話だが紛れもない事実だった。殺そうと思えばいつでも出来た。ただそうしなかっただけの事だ。イリナが左肩を押さえたまま僅かに体を震わせている。
「生きている事が判ったら、奴らは、いや奴は今度こそ間違いなく殺しに来ます」
誰も何も言わなかった。
家族の誰かが殺されるような事も、自分が殺されるような事も誰一人望んでいない。カティとここで再会する事、みんなそれしか考えていない。それを進んで反故にするような真似など絶対にしない。
「それはあなたも含めて、よね?」
「ああ、勿論だ」
一瞬首を傾げたくなった。イリナの問いにウォッカが即答した理由が判らなかったからだ。少し考えてから気付いた。肩の怪我がいつの間にか消えている。昨日はあれだけ出血していたのにそれがまるで嘘のようだった。痛みも消えているのだろう。命に別状はない怪我だったとしても当分戦闘には参加出来ない、それくらいの怪我だった。少なくとも普通の耐久力と回復力を持つ人には。つまり撃たれた事実しか知らない奴らにとってはウォッカも既に戦力外なのだ。
「それに、今は動こうにも動きようがない。情報が少なすぎる。せめてカティを含めた人質が何処に監禁されてるか、それが判ればいいんだが……」
ウォッカが悔しそうに顔を歪めた。
「ウォッカさん、本当に申し訳ない。一昨日の夜にご依頼があった件ですが、まだ返事が来ていないんです」
「ええ。ですから昨夜の段階で砦に関する情報を早急に集めて頂くよう、ここに介抱に来た人達に頼んであります」
それに関してはダンからも昨日の午前中には来客に依頼していた。そして夕方の騒動の後、事態に一刻の猶予もない事を受け改めて頼んだに違いない。あの大混乱の中で次に打つべき手を考え実行に移している事に違う意味で閉口した。大した周到さだ。
「ねえ、ウォッカさん」
ずっと俯いていたミリアムがおずおずと手を上げた。
「私達も、ここにいた方がいいの?」
「出来ればそうしてくれると有り難いけど……」
「お願い」
ミリアムは懇願するような目でウォッカを見た。
「学校には行きたいの。ダメかな?」
「学校に行くって、お前弁当の用意も何もしてないだろ」
今朝はみんな完全に力尽きていた。何をしようと言う気力もなかった。実際誰一人として起きられなかったし、何も出来なかった。学校に行けるだけの余裕など絶対ないと思っていたのに。
「家にいたくない、って訳じゃないの。でも……でも、じっとしてると次から次へと嫌な考えが頭に浮かんで来て止まらなくて……。だから、気持ちを切り替えたいの」
絞り出すような声だった。
これまで奴らに捕まった誰かが殺されたと言う話は聞いた事がない。事態を楽観視するつもりは更々ないが、女であるが故にそれとはまた違った不安が常について回る。本当に気が気ではない。そんな不安を打ち消したいからここを離れたいのだろう。
気持ちは判る。いつ終わるとも知れない不安の中でいつまでも過ごせるような強さは普通の人にはない。
「私からもお願いします」
アリスが椅子から立ち上がった。
「絶対大丈夫だって、何もないって信じてるけど、気持ちを紛らわしたいの。そうでないと……」
見開かれたアリスの目から涙が一筋流れ落ちた。テーブルに雫が落ちたのを見て驚いたように頬を撫でる。涙を流した事に、泣いていた事に本人が気付いていない。まだ精神的にも相当不安定だ。こんな状態で表に出す事に不安がない訳ではない。だがここに繋ぎ止めていても二人の心は疲弊するだけではないかと言う思いもある。
「ウォッカさん、私からもお願いしたい」
立ち上がると同時に頭を下げていた。
「あなたが私達の身を案じて下さってくれるのは本当に有り難く感じております。ですが、今は二人の好きにさせてやって下さいませんか」
「お願いします」
隣にいた妻もいつの間にか並んで頭を垂れていた。
「あなたにご迷惑は絶対にかけません。虫のいい話ですが今は二人の我儘を聞いてやって下さい」
恐る恐る顔を上げるとウォッカは明らかに当惑したような表情で交互に二人を見ていた。まさかこんな風に頭を下げられるなんて考えもしなかったのかも知れない。
「あんたが見た目にそぐわず堅実で堅物なのはよく判ったわ」
ミリアムとアリスの間に立ったイリナは二人の頭を撫でながらウォッカを見た。
「そこを曲げて是非お願いしたいの」
真っ直ぐ前を向いたまま言うと丁寧に頭を下げた。ウォッカはやっぱり戸惑ったままだった。明らかに余計な事を言ってしまったと狼狽しているのは間違いない。
「と、取り敢えずみなさん顔を上げて下さい」
自らの失言を詫びるように、いや悔いるように慌てて全員を見回す。こういう展開は予想していなかったのかも知れない。
ミリアムに続いてアリスが、そして妻が頭を上げた。特にミリアムは目に力がない。今にも塞がりそうな、いや死にそうな目だった。
「みなさんのお気持ちはよく判りました。取り敢えず、八方丸く収まる方法を考えましょう」
ウォッカは観念するように両手を上に上げると器用に片目を瞑った。みんなの表情からようやく力が抜けた。
「ウォッカは今のこの状況をどう見る?」
再び席に着くとイリナは何の前触れもなく唐突に切り出した。
「人質も大勢取られてる上に得られる情報もない。最初から極めて不利だよ」
そしてそれは今も変わらない。厳密に言えばより悪化している。
「奴らがこちらの戦力になる人達を最初にかっ拐ったところを見ても、こちらに関してある程度下調べはしていたと見るべきでしょう。だとすると、戦力には当然イリナやミリー、アリスも含まれていたと考える方が自然でしょうね」
「つまり、どういう事ですか?」
話の中身を整理するようにミリアムが手を上げてウォッカの言葉を遮った。
「奴らは君達三人をもう戦力とは見なしていない。だからここに関心を示す事はないとは言いませんが極めて低い」
「ある程度動いても支障はなさそうですね」
「奴らに見つからなければの話ですが」
やっぱりそうか。見つかった時点で奴らは確実に潰しにかかってくる。となるとやはり不用意に動くのは避けるべきか。
ウォッカは顔を背けると微妙に顔を歪めたまま頭を掻いた。
「仮に奴らに襲われたとしても返り討ちに出来れば問題ないですが」
「あいつでなければ」
即答だった。言葉にも態度にも迷いがない。イリナは胸の高さに上げた拳をゆっくり握り締めた。
「あいつ以外ならどうにでもなる。他はただの烏合の衆よ」
真顔で言い切る表情に慄然とするものを感じる。まだ二十歳にも満たない娘がいつそれだけの自信と実力を養ったと言うのか。
「私は問題ないわよ。あなた達は?」
「こっちが素手で向こうが帯刀してたら流石にキツいけど槍があるなら」
さっきまでとは目が違う。殺気こそ孕んでいないものの敵に対して一片の容赦もしない、そんな決意を感じさせた。
「お互いに素手だったら?」
「馬鹿にしないで」
茶化したアリスを睨み付ける。塞ぎ込んで涙まで流していたのは一体何だったのか。取り敢えず、この分なら妹も全く問題なさそうだった。
何処に出しても恥ずかしくないと言うより、何処に行かせても怖くない。まともに戦える状態ならば、だが。
娘三人を順繰りに見回すとウォッカは前触れもなく椅子を引いた。
「二人なら大丈夫そうだな」
「俺もついていくとか言うんでしょう」
ウォッカは感心するように目を少しだけ大きくした。
「よく判ったな」
「判るわよ、あなたの考えそうな事くらい」
腕を組んだままイリナはフンと鼻を鳴らした。既に態度が客に対するものではない。だが逆にそれが自然に見えた。ウォッカも満足そうに笑っている。上手く言葉には出来ないが、二人の間で奇妙な信頼関係が構築されているのは確かだ。端から見る分にはそれがどんなものなのかが非常に判りづらいが。単純な友達とは違う。苦楽を共にした仲間同士のようだった。いつそんな経験をしたのかまるで見当もつかないが。
「で、本気で行く気なの? だとしたら言い出しっぺのあなたが舌の根も乾かないうちにさっきの話を引っ繰り返す事になるじゃない」
「そりゃ判るんだが、常に最悪の事態は想定しておかないとマズイだろ」
「ウォッカさん」
ミリアムが遠慮がちに手を上げた。
「今、二人なら大丈夫って言って下さったばっかりじゃないですか。それじゃ私達の事信頼してないように聞こえます」
ご指摘ごもっともだった。心配してくれるのはとても有り難いけど。矛盾も承知の上だろう。
「それに……」
不意に、ミリアムは気不味そうな目でイリナを見た。
「もし、ここを外している間にあいつがここに来たら……」
殺されかけた姉を、ここに残される家族の身を案じている。自分ではなく、いつも身近にいる誰かの事を優先する。だが、今回はそれを自ら曲げている。それだけ辛いのだろう。
「それはまずないと思うわ」
隣にいた妻が静かに言った。自信に満ちた口調だった。
「奴らは私達を仕留めたと思ってるでしょうから、ここに来る理由がそもそもないのよ。さっき彼も言ったと思うけど」
「ここにいて奴らに狙われる危険性よりも誰かに見られる危険性の方が高い、と」
補足すると妻はゆっくり頷いた。ウォッカも否定しない。ただその場合、見つかる危険性が格段に高まる事になる。それは本人も重々承知の上だろうが。
「よろしいんですか、ウォッカさん。お気持ちは非常に有り難いですがあなたを危険に晒す事になります」
この男に限って危険と言う事はない、と思う。むしろ彼を見つけた相手の方が余程危険な気がする。見つかった事にウォッカが気付いたら、恐らく確実に相手の息の根を止める。そうしなければウォッカ自身を、そしてこの小さな家族を守る事は出来ない。ウォッカとは既に一蓮托生、運命共同体なのだ。それは今に始まった話ではない。ウォッカがこの店に来た時からこの辺境の街と運命を共にしている。
「俺は全然構いませんから」
命が危険に晒されている事は当然彼も理解している。それを構わないで済ませる彼の感覚は既に常人のそれではない。ひょっとしたら、こういう経験も初めてではないのかも知れない。そう思わせるだけのものがある。一体どんな生活を送っていたのか、それが改めて気になった。
「じゃ、決まりね」
イリナが朗らかに笑った。隣に座っているミリアムの肩を叩く。
「気分を変えて来なさい」
ミリアムはアリスと顔を見合わせた。二人とも浮かない顔をしている。
「どうしたのよ、揃いも揃ってノリの悪い顔して。学校行けるんだから少しは喜びなさいよ」
「だって……」
自分が言い出した事とは言え、それの及ぼす影響を目の当たりにして思うところがあるのだろう。
「ウォッカさんにも迷惑かけちゃうし、それに……もしその間にあいつが来たら……」
「それは大丈夫だって」
ウォッカは広げた手をヒラヒラ振る。緊迫感の欠片もない。
「女将さんも言ったように奴らがここに来る用はもうないんだよ。あんな連中にでもやる事はあるんだ、一つ片付いたら別のものに手をつける。その繰り返しだよ」
これから何に手をつけるのか、それを知る事が今の急務でもある。一刻も早くカティを、みんなを助け出すためにもここでじっとしている訳にはいかない。そう、本来ならば。だが今は下手に動けない。死人も同然だった。
膝に置いていた両手を握り締めた。
「じゃ、支度するか」
ウォッカは椅子から腰を浮かせると廊下の方に向かって歩いて行く。何の支度をする必要があるのか考えているうちにウォッカは食堂から姿を消した。




