五日目 その壱
体が浮いているのか、それとも落ちているのか判らなかった。体が動かない。伸ばした腕は何も掴めなかった。体が見えない底まで落ち切った瞬間に視界が拓けた。何処にいるのか、何をしているのか、全てがあやふやだった。額を伝う汗を手で拭う。目が覚めた事にようやく気付いた。
「大丈夫?」
酷くやつれた顔をした妻がいた。差し出した手拭いで汗を拭く。
「うなされてたのか」
妻は何も言わずに頷いた。
窓から差し込む光が眩しかった。いつもならば朝の支度が済んでいてもおかしくない時間帯だ。どれだけ疲れていてもその時間が来れば勝手に目が開く。そう、いつもならば。普段は正確な体内時計が今日は完全に狂っていた。否、狂うだけの出来事に見舞われた。そしてそれはダンだけではない。
いつからここにいたのか、それを示す明確な記憶はない。ただ手掛かりが全くない訳ではなかった。
ベッドから両足を下ろした。立ち上がる前に膝に触れた。折れた骨が突き出していた皮膚には何の傷跡もなく、気が狂う程の激痛はその名残すらなかった。これまでと何一つ変わらない皮膚が当たり前のような顔をして広がっているだけだった。
「もう、痛みはないの?」
立ち上がると妻に頷いて見せた。今日初めて妻が笑った。いつも見ているハズなのに、前に見たのがいつなのか咄嗟に思い出せなかった。
「彼が治してくれた、そうだったよな」
胸に置いていた手に掌が重なった。妻が両手でダンの手を包み込むように握っていた。
「もう一度、彼にお礼を言わないとな」
妻は笑いながら頷いた。酷く辛そうな表情だった。
「彼がいなかったら、私以外は誰も助からなかったわ」
妻が拳で殴られた瞬間も目の当たりにした。気が付いた時には両肩から大量に出血して完全に意識を無くしたイリナが床に横たわっていた。アリスは失神していたし、ミリアムも虫の息だった。それが、ダンの知る限りではそれだけの重傷を負っていた誰もがほぼ完治していた。イリナに到っては死の淵にいた。誰が見ても完全な危篤状態だったイリナが自発呼吸を再開した時は全身から力が抜けると同時に自分の目を疑った。何が起こったのか、それは未だに理解出来ていない。だが重要なのはそんな事ではない。現実的には有り得ない出来事が自分を含めた家族を救っている。それだけ判れば充分だった。
「行こう」
ドアに向かって歩き始めた。ぶら下げていた手を妻が握った。
目は覚めている。そうでなければ足が動くハズがない。階段を降りようとした時、体から感覚が消え失せた。いつ手すりを掴んだのか自分でも覚えていなかった。あと一瞬遅かったら踏み外していたかも知れない。
そうならなくて良かった。
大きく傾いていた体を階段の上に引き上げると、イリナは気持ちを切り替えるように溜め息を吐いた。
ここで下手に転んで怪我でもしたらあいつに合わせる顔がない。何でもないみたいにアッサリ治してみせたけど、絶対にそんな事はない。血を分けた、と言っていた。出血して失ったイリナの血を補うために。ならば血を分けた以上あいつも血を失っている事になる。誰かを救うために自分の命を削っている。それで大丈夫なハズがない。なのに、何故あいつはあんなに平然としていられるのか。
それだけではない。ウォッカも間違いなく精神的に堪えている。意味合いは違うかも知れない。でも、あいつにとって大切なものを無理矢理奪われたのだ。目の前に、手の届く距離にいたのに助ける事は叶わなかった。
無意識に握り拳で壁を叩いていた。今ほど自分を不甲斐ないと感じた事はない。あんなに深追いしていなければ、せめてもう少し傷が軽ければまだ持ち堪える事も出来たのかも知れない。
心の底から謝りたかった。私がもう少ししっかりしていたら、もっと強ければ。あなた達に辛い思いをさせる事もなかった。傷は癒えても気持ちは全く収まりがついていなかった。完全に混乱している頭を左右に振る。こんな顔、誰にも見せられない。逆に今ならどんな顔が相応しいのか。まるで想像もつかなかった。
階段を一段ずつゆっくり下っていく。二階まで降りた時、見覚えのある背中が見えた。
「起きてたのか」
どう応えればいいか、そしてどんな顔をすればいいのか咄嗟に判らなかった。だから笑った。酷く曖昧な笑顔だったように思う。鏡がないからハッキリは判らないけど。
ウォッカも笑った。いつもと比べると表情に若干陰りがあった。流石にあれだけの事があったらいつも通りと言う訳にはいかないのだろう。誰だってそうだ。今この家にこれまで通りに挨拶が出来る人は一人もいない。
「痛みは?」
喉が強張って声が出なかった。言わないといけない言葉も、伝えないといけない気持ちもあるのに喉は一向に動かなかった。代わりに首を左右に振った。それが精一杯だった。
ウォッカは遠くを見るような目で宙に視線を漂わせるとゆっくり溜め息を吐いた。さっきよりも更に表情が解れた。
「まだ無理はするなよ」
やっぱり頷く事しか出来なかった。心が平静を保てていない今、体に負担をかけるような真似は出来ない。手すりを掴んでいた手を離した。まだ全快とは言い難いところはある。でもこれ以上ウォッカに気を遣わせたくなかった。
「大丈夫か?」
「何とかね」
ようやく声が出た。喉が動いた。これでやっと普通に会話出来る。
屈託なく笑っているけど、やっぱりいつもよりも遥かに疲れて見えた。昨夜はしっかり眠れたのだろうか。
イリナは事の他よく眠れた。目を閉じてから再び開けるまでが本当にあっという間だった。夢を見た記憶もない。あんな事があった直後にこれだけ深く眠れるなんて。それを与えてくれた張本人は眠そうに欠伸を噛み殺していた。
「ウォッカ」
「ん?」
頭をガリガリ掻きながら後ろに首を曲げた。やっぱり眠そうだった。
間近で目が合った途端、昨夜の出来事が脳裡に鮮明に甦った。顔が火照って熱い。耳は真っ赤になっているに違いない。でもこのまま黙っている訳にはいかなかった。キチンとお礼も伝えていない。そんな失礼な真似は絶対に出来ない。
意を決して顔を上げた。お礼を伝えるだけなのにこれほどの覚悟を持って臨むなんて考えた事もなかった。違う、そうじゃない。伝えなければならないのはお礼だけではない。体の前で綺麗に手を揃えると真っ直ぐウォッカの目を見た。
「本当にありがとう。あなたのおかげで命が繋がったわ」
「頭は下げなくていいぞ」
「何でよ」
眉間にシワが寄った。頭を下げないとお礼を伝えた事にならないとは言わないけど、気持ちを伝えるためにはやっぱり必要だと思う。
「お前の個性に相応しくないからな」
「どういう意味よ」
顔が引き攣った瞬間、ウォッカは声を上げて笑った。
「そういう方がお前らしいってだけだよ」
言われて初めてハッとした。そう言えば、同じような事をイリナもウォッカに対して言っている。上手く切り返されたと思う以上に誰しも考える事に大差がない事に気付かされた。さっきとはまた違った意味で顔が赤くなる。
でも、ここで言葉を止める事は出来なかった。まだお礼を、気持ちを伝え切れていない。
「判った。私の個性に相応しくないような真似は厳に慎むわ。でもこれだけは言わせて」
少しずつ本来の自分を取り戻しつつある。でもそれに喜んでばかりもいられない。まだやるべき事が残っている。
「あと、昨夜は、その……止めてくれて、ありがとう」
「止める?」
ピンと来なかったのかも知れない。ウォッカの顔が一瞬微妙に歪んだ。でもそれも本当に一瞬の出来事だった。イリナの言葉と記憶を照らし合わせてそれが上手く重なると、ウォッカは困ったように顔をしかめてそっぽを向いた。
「本当に、昨夜は今以上に混乱してて、自分でも何考えてるのかサッパリ判らなくて」
でも寂しくて辛くて堪らなかった事は間違いない。それこそ体を引き裂かれるくらいに。だから、誰かに縋りたかった。冷え切った体を温めて欲しかった。
抱き締めて欲しかった、そう、出来る事なら。
それを正してくれたのはウォッカだった。そして本当に抱かれたい相手も他にいる。
流されそうになったイリナの首根っこをウンザリしたように掴んでくれた。 だから、こうして自分の気持ちに気付く事も出来た。
「ありがとう、ウォッカ」
いつの間にか頬が綻んでいた。右手を差し出す。
ウォッカはもっと困った顔をした。ガリガリ音を立てて頭を掻く。
「頭は下げるなとは言われたけど、握手を求めるなとは言われてないわ」
「そうだな」
握り返したウォッカの手は温かかった。
「昨夜も言ったけど、自分の体は大事にな」
「そうね」
「あと余計なお世話かも知れないけど、あまり安っぽい真似はするなよ」
ウォッカの表情が少しだけ険しくなった。この男も苦しい事に変わりはないハズだ。でも身近にいる誰かを案じる事が出来るくらいの余裕がある。それを装っているのかも知れない。でもそれを感じさせない。
「全然余計なお世話じゃないわよ」
「そうかい」
イリナに限らず、今はみんな自分の事でいっぱいいっぱいだ。とても周囲にまで目は行き届かない。今、身近にそんな人がいる事が本当に心強かった。昨日と同じだ。何一つ、ウォッカの力になっていない。それが申し訳なく、そしてもどかしかった。何か一つくらい出来る事があってもいいハズだ。
「それと、昨夜の事は早く忘れた方がいい」
咄嗟に言葉が出なかった。確かに頭から消し去りたい事もある。その一方で忘れてはいけない事も同時にあった。
「だから今後は昨夜の話は一切持ち出さないでくれ」
「でも、忘れたらいけない事もあると思う」
「そういう事は覚えておけばいい。俺も余計な事は忘れる」
忘れて欲しい事も、そうでない事もある。ウォッカにとって余計な事は、イリナにとって都合の悪い事だった。それを忘れる、そう言ってくれている。
「昔から物覚えが悪くてな。三歩歩いたらもう忘れてる」
言うが早いかウォッカは唐突に背中を向けた。階下に降りる階段の方に向かって歩いていく。
「ちょっと!」
「はい、もう忘れた」
だから話しかけても無駄。とでも言うようにコメカミを叩いた人差し指を宙に向けた。
だったら何で昨夜の出来事を、昨日あった事を覚えているんだ。全く、格好つけるにも程がある。笑おうとしたら涙が出そうになった。気持ちや感情はまだ安定していないけど、目が潤んだ理由はそれだけではない。その間にもウォッカは後ろも見ずにスタスタ歩いていく。
「イリナ」
声をかけられて思わずそのまま顔を上げそうになった。慌てて目元を手で擦る。
「朝飯、作ってもらっていいか?」
言われて初めて毎朝朝食を用意していた事に気付いた。同時に昨日のお昼に食べてから食べ物を何も口に入れていない。でも全く食欲がなかった。そして湧かなかった。体が食べる事を、命を繋ぐ事を忘れていた。
「悪いな、こんな時に。でも食わないと身が持たないんだ」
食事が喉を通るような心境ではないに違いない。でも、食べない事には体を維持出来ない。
不意に胸が温かくなった。イリナにも、まだウォッカに出来る事がある。それを見つけた。
「じゃ、あんたがお気に召すものを作ってあげるわよ。ご希望は?」
少しずつではあるけど、いつもの自分が戻りつつある。それに感謝するように思い切り居丈高に言った。
「何でもいい。イリナに任せる」
「はいはい」
適当な返事だけど気持ちは、心は信じられないくらいに軽くなった。今はあれこれ自分の事を考えて頭を悩ませている場合ではない。況してや塞ぎ込んで動けないなどもっての他だ。前を向いて歩く事でしか道は拓けない。
前を歩くウォッカを追い抜いて階段を降りていく。余計な事は考えるな。必要な事だけを頭に思い描いて行動しろ。 強く、自分に言い聞かせた。




