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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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四日目 その拾六

 時折息を呑むような声が何度か聞こえた。でも途中で口を挟むような事は誰もしなかった。より厳密に言えばトージが声を上げそうになる度に背後からセージが肩を引いた。気持ちの行き場をなくしたトージはただ無言で壁を蹴っていた。そうでもしないと気持ちが収まらないのだろう。むしろその程度で収まる方が凄いくらいに思えた。アリスだったら、相手があの男でなければ居合わせた全員をぶちのめすまで暴れ廻っていたに違いない。いや、事これに関して言えばアリスに限った話ではない。イリナやミリアムは、ひょっとしたら相手の息の根を止めるまで自制が効かないかも知れない。あの時はそれくらい凄まじい気迫を感じた。

 でも、何処まで話すべきだろう。全てを有りのままに伝えるのは躊躇いがあった。迷いが言葉を詰まらせる。

「カティ」

 セージが小窓の前に立っていた。神妙な顔を気不味そうに歪めている。

「その、みんなの怪我の具合はどうなんだ?」

 覚悟はしていたけどやっぱり聞かれた。そうだ、気にならないハズがない。

「みんな骨折以上の怪我はしてる」

 誰もが言葉を、顔色をなくした。イリナ達の腕前は三人もよく知っている。それなのに全く太刀打ち出来なかったのだ。

「骨折以上って事は、もっとヤバいって事も考えられる訳だろ? 実際どれくらいなんだよ」

 セージが小窓の前にいたトージを押し退けた。実に素直な言葉だった。聞こうとして躊躇っていた二人とは対照的だ。

「アリスは左腕の上腕骨を折られてる。ミリー姉は肋骨を砕かれた。イリナは……」

 そこで声が尻すぼみに小さくなる。ダメだ、やっぱり思い出そうとするだけでも激しく心が動揺する。両肩から血を流して倒れていたイリナの姿が鮮明に脳裡に蘇った。完全に意識をなくし、半開きになった目には欠片の生気もなかった。誰がどう見ても生きているとは、助かるとは思えなかった。

「そ、そんなにヤバいのかよ」

 セージが愕然と呟いた。信じられないのか、それとも信じたくないのか。確かなのはイリナの無事を心底願っていると言う事だけだ。

 頬を伝う涙を拭いながら激しく頭を振った。弱気になるな。崩れ落ちそうになる気持ちを叱咤するように顔を上げる。

「確かに命が危ぶまれるくらいの大怪我だけど、でも彼が間に合っていれば絶対に助かる。だから心配しないで」

 何の説明にもなっていない。でも今はこれが精一杯だった。祈る事しか出来ない。せめて助かった事だけでも判れば。胸が締め付けられる。嗚咽が漏れた。

「少し整理してもいいかな」

 鉄格子の向こうからリーゼルが射るような目でカティを見た。

「彼ってのは一体誰なんだ? で、間に合えば助かる、と」

 リーゼルは腕を組んだまま低く唸る。

「どうしてその彼が間に合えば助かるのかな」

 実に的を射た質問、いや疑問だった。一番気になる部分だ。

 話してしまおうか。一瞬そんな思いが頭を過ったけどすぐに打ち消した。信じてもらえるとも思えなかったし、何よりウォッカとの約束を破りたくなかった。

「それを今ここで説明する事は出来ません。でも彼が、ウォッカさんがすぐ店に戻っていればみんな絶対に助かっているハズです」

「その、ウォッカって男が件の旅人か」

 頷くとトージは宙を睨んだ。ウォッカに対して間違いなく興味を抱いている。

「ここに来た初日に二人ぶちのめしてその翌日には十人以上を相手に大立ち回りしたって聞いたぜ」

「十五人です」

 即座に訂正した。気持ち、少しだけ胸を張りたくなった。

「詳しいんだな」

「いえ、そんな事は」

 その時一緒にいましたから、とはやっぱり言えなかった。照れ臭いような、くすぐったいような気持ちになる。

「怪我らしい怪我もないって話だが」

「はい」

 二人は互いに顔を見合わせている。横に並んでいると鏡に映っているような錯覚に陥る。

「アッサリ信じられる類いの話じゃないな」

「皆さんそうおっしゃいます」

 気付けば三人に背中を向けて少しだけ胸を反らしていた。自然と頬が綻ぶ。カティが誉められた訳でもないのにこんなに誇らしい気持ちになるのは何故だろう。

 二人が可笑しそうに笑っている。

「随分嬉しそうだな」

 指摘されて初めて気付いた。こんな絶望的な状況でも彼の事を思うだけで勇気が湧いてくる。ウォッカの存在はカティにとって間違いなく希望だった。前を向けるだけの力を与えてくれる。いてくれるだけで嬉しくなる。昼間のように、ウォッカの手を握る事が出来たら、傍にいてくれたらどれだけ幸せだろう。だから絶対に諦めたくなかった。何が何でも家に帰る。そう強く念じる事で気持ちを奮い立たせた。

「きっと間に合ってるよ」

 リーゼルがカティを見て笑っていた。

「だから、みんな無事だって」

「俺もそう思う」

 セージも同調するように頷く。自信に満ちたと言うよりみんなの無事を確信しているような雰囲気だった。それ以外の可能性を全く考えていない。

「カティは彼が間に合ってるって信じてるんだろ?」

 咄嗟には頷けなかった。でもここから出る事、そしてまたみんなに会う事以外考えられない。信じるしかない。それ以外に道は残されていないのだ。

「だから大丈夫だって」

 小窓から伸びた手が頭の上に載った。二人を兄のように感じていた時期があった。こんな兄がいたらいいな。無邪気にそんな風に考えていた。ひょっとしたら今もそれは変わらないのかも知れない。

「君を含めて、みんなは誰にやられたんだ?」

 リーゼルの表情が険しくなった。

「パッと見た感じでは人は良さそうなんだけど……」

 思い出そうとするだけで背筋が怖気が走る。あの男は笑いながら人を殺す。そんな人間がいるなんて考えた事もなかった。

「やっぱりアイツか」

 セージが憎たらしそうに、いや忌々しそうに舌打ちした。

「セージや君のお姉さんに勝てるくらいだからな。俺もそいつくらいしか思い浮かばない」

 他の連中はどうにでもなるんだけど。リーゼルは小指で耳をほじると先端に付いていた耳垢に息を吹き掛けた。量が凄い。

「俺らが束になってかかっていっても勝てないだろうな」

「そんな事、やってみなきゃ……!」

 食い下がろうとするトージを目にしてもリーゼルは頷く事はしなかった。助け船を求めた兄も黙って首を横に振った。

「どうしてお前は昔からこう単細胞かなあ」

「誰が単細胞だ! やる前から諦めるような奴らに言われたくねぇ!」

 こうして大声で怒鳴り返すところがいかにも単細胞丸出しだった。誰かといい勝負だ。でもそこがトージのトージたる所以であり、彼の魅力でもあった。単純だけど、何事にも誰よりも一生懸命だった。特に今は生死がかかっている。熱くなって当然だ。

「相手の力量を測るのも実力の内だ。それが判らないようじゃまだまだだな」

 コメカミを人差し指で叩きながらリーゼルは肩を竦めた。

「双子の兄弟なのにどうしてこうも違うんだろうな」

「リーゼルさんだって、ヨハンとは全然似てないですよ」

「ああ、否定しない」

 あんな馬鹿と一緒にされたら困る。声には出していない。でも顔にそう書いてあるようだった。或いは目がそう語っていた。きっと、二人もそう思ってるんだろうな。出来る上を持つと下がキツくなる。そして、上は上で不出来な下に辟易しているのだろう。その気持ちは物凄くよく判る。

 でもどっちもどっちだ。

「あれは純然たる人殺しだよ。俺らみたいに稽古や鍛練のために身に付けたものじゃない」

 剣を扱う事は変わらない。でも本質的に全く違う。強くなりたくて、身近にいるだれかと抜きつ抜かれつしながら前に進むのが楽しいからではなく、相手の息の根を止める事が全てであってそれ以外はない。人を殺すための手段として身に付けているだけだ。

「不意を突かれはしたけど君も多少は拳を交えたんだからあいつの力量くらいは判るだろ?」

 年の功の為せる業なのかそれとも生来の性格か、熱くなっているトージとは対照的にリーゼルは終始落ち着いた口調で言った。

「熱くなったところで何がどう変わる訳でもない。少し落ち着けよ」

 兄はそんな弟をうんざりしたように諭す。暴走しがちな弟の手綱を兄が静かに引く。昔から見慣れた光景でもあった。

「とにかく、あの男は危険だ。迂闊に近付くべきじゃない」

「でも、そいつをどうにかしない事には話も進まないですよね」

「ああ。だから下手に動く前にある程度考えておかないとな」

 眉根を寄せたトージが顔を背けた。セージが上手く切り返したと思ったのにそれをアッサリ肯定された上にその先を行かれたのが悔しいんだろうな、きっと。

「またリーゼルさんの考えようが始まった。考えたところでここから出られる訳じゃないんだから何も変わらないですよ」

「動けなくても動けないなりにやれる事はある。何もしなけりゃそれこそ本当に何も進まない」

 うんざりしたように吐き捨てたトージを別段意に介する様子もなくリーゼルは飽くまで淡々と言葉を綴る。八方塞がりのこの状況下にあっても、この人は諦めていない。希望を捨てていない。澄んだ目が真っ直ぐ前を向いている。

 そうだ。俯いている暇はない。前を向け。

「だから、君には本当に申し訳ないんだけど聞きたい事が山ほどある」

 話す内容は決して軽くないのに顔はおどけるように笑っている。いい具合に肩から力が抜けた。

「はい。私で判る事でしたら何でも聞いて下さい」

 涙はとうの昔に乾いていた。痕くらいは残っているかも知れないけどそれを確かめようとは思わなかった。。

 背筋を伸ばして頷くとリーゼルは満足そうに、でも何処か申し訳なさそうに笑った。

「じゃ早速。君が拉致された時、噂の旅の男は何処にいたのかな」

 一瞬考えた。馬車に乗せられてここに連れてこられる前、最後にウォッカの顔を見たのはお米屋の前での事だ。そこからお店に戻るまで一切記憶はない。

「判りません。私、彼と買い物に行って、その……出先で眠ってしまったんですけど、気付いたら家にいて。その時にはもう彼の姿はありませんでした」

 明らかに余計な事を言っているけど今更言葉を飲み込む事も出来ない。それに事実は事実だし、別に後悔はなかった。

「出先で眠って気付いたら家にいた、と」

 トージは詩を朗読するようにさっきの言葉を淡々と繰り返す。こういう時だけ冷静にならないで欲しい。

 首を傾げたトージの後頭部にセージの手刀が入った。

「だから野暮なんだよ、お前は」

 セージを睨みつつもやり返す事はしない。トージにも思うところがあるのかも知れない。

「じゃ、その間何処に行っていたかは判らない訳だね」

「はい。父や母や姉ならば知っているかも知れませんけど、私は……」

 確かに、何故あんな時に限ってウォッカは姿を眩ましていたのか。よりによってどうして奴らはそんな時に家に来たのか。

 でも今更それを知ったところで一体どうなると言うのだろう。

「何か、改めて端から聞いてるとその男がいない時を見計らって襲って来たみたいだな」

 穏やかな湖面に石を投げ入れるような言葉だった。普段からこういう話し方をすれば彼の印象も大分変わるに違いない。

「そうじゃない。最初から仕組まれてたんじゃないか?」

 セージが答えを促すように首を捻った。カティにではなく、リーゼルに。

「……他に何か変わった事は?」

 セージの言葉が耳に入っていないとは思えない。でもそれを無視して先を促した。顔を見て驚いた。目が、雰囲気がさっきまでとは全然違う。

 そうだ、確かにおかしい。きっかけはそこからだった。トンでもない事が立て続けに起こったせいで完全に頭から飛んでいた。

「あいつら、私が財布を掏った、そう言い掛かりをつけて来たんです。私そんな事絶対にしてないのに」

「でも、いくら何でも証拠もなしにそんな大それた事は普通言わないだろ」

「だから、私が使ってた買い物カゴにいつのまにかあいつらの誰かの財布が入ってて、それをイリナ姉が持ってて……」

 思い出す度に頭が混乱して来る。冷静に考えなくてもおかしな事だらけだ。

「ちょっと待ってくれ。そもそもどうしてカティの買い物カゴに奴らの財布が入ってるんだよ」

 トージの口調がいつもより刺々しく聞こえるのは怒っているからではない。腑に落ちない事があるからだ。

「買い物してる最中にあいつらの下っ端にぶつかったの」

 そう言えばそうだった。奴らと接触したのはその時しかない。

 セージは組んでいた腕を解いた。黙って通路を隔てた向こう側の鉄格子を横目で睨む。

「見計らったんじゃなく、やっぱり最初からそうなるように仕組まれていたと」

「そう考える方が自然だろうな」

 つまり、どういう事なんだろう。ウォッカがいない方が奴らにとって好都合だったと言う事だろうか。

「奴ら、その旅人を相当警戒してるみたいだな」

「でも肝心なのはそっちじゃないと思うぜ」

 確信に近かったセージの言葉をリーゼルはアッサリ否定した。でも誰かと違って熱くなるような事はない。挑みかかるような目でリーゼルを睨んでいる。

「何が何でも君を拉致したかったように思えるな。その時彼が邪魔になるから退席して頂いたってところじゃないか」

 そうだ、ウォッカがいたら絶対妨害されていた。それを嫌って一時的に遠ざけるために策を講じた。その時を見計らってやって来たに違いない。

「ちょっと待てよ」

 トージは苛立ちを隠そうともせず伸びた髪を掻き毟る。

「じゃあ奴らにはカティを拐う理由があるみたいじゃねえか。この子を拐う必要が何処にあるんだよ」

「そんな事知る訳ないだろ」

 さも当然のようにリーゼルは言った。実際当然以外の何物でもない。カティですらそんな理由は知らないのだ、ずっとここにいるリーゼルに知る術などない。

「カティには何か心当たりはないのか?」

 首を横に振る事しか出来なかった。心当たりなんてある訳がない。

「ま、確かに心当たりなんて聞かれても困るよなあ」

 セージは顔をしかめると音を立てて頭を掻いた。聞いた本人の方が困った顔をしている。

「別にそんな大袈裟なものじゃなくていい。誰の顔に見覚えがあったとか、何かおかしな事を言ってたとか、とにかく何でもいいんだ」

 掴んでいる鉄格子を揺らしながらリーゼルは言った。本当に、情報に餓えている。外で何が起こっているのか把握したいと言う好奇心より、ここから出るための手掛かりを探っている。どんな些細な事でもそれが脱出への足掛かりになるなら何でもいい。真剣と言うより必死だった。

 頭がフラついているのはさっき散々殴る蹴るされたからと言うのもあるけど、それより混乱の方が大きかった。家族を執拗に痛めつけられ、その一部始終を目の前でまざまざと見せつけられた。それによって生じた混乱からまだ抜け出せずにいる。

 でも、それでいいハズがない。みんな一刻も早くここから出たい、家に帰りたい。だからこんなに必死なのだ。

 胸に手を置いてゆっくり深呼吸する。眠気を覚ますように頭を左右に振った。脳裡に、その一番奥に引っ掛かるものがあった。そうだ、何か言っていた。でもそれが何なのかすぐに出て来ない。もどかしくて声を上げそうになった。もう一度大きく息を吐いた。落ち着け、冷静になれ。絶対に何か言っていた。それは確かだ。

「あ……」

 声が漏れていた。意図したものではなかった。

「何か思い出したか?」

「馬車に乗せられる時、あなたにはもっと泣き叫んでもらわないと困るって、そう言われた」

 小窓から食い入るようにカティを見ているセージに呟くように言った。

「泣き叫んでもらわないと困る? 要は苦しめたいって事だろ。それじゃカティに恨みでもあるみたいに聞こえるな」

「みたいじゃなくて誰が聞いても思い切り恨んでるだろ。どんな奴に言われたんだ?」

 小窓の前に立っていたトージをセージが押し退ける。

「髪の長い女の人」

「その怪我も、そいつに?」

 頷くと腕を組んでいたセージは低く唸った。

「見覚えは?」

 首を横に振った。下っ端共はちょくちょく顔を出していたけど件の女も、そしてあの男も店に顔を出した事など一度もなかった。正直、いつ何処でどんな恨みを買ったのか全く判らない。見当もつかない。

 まだ材料が足りない。恨まれる、恨みを買う理由があるとすればそれは一体何処にあるのか。その女の恨みの矛先にあるものは何だろう。

 耳の奥で、女の言葉が再生された。頭を金槌で殴られたような衝撃を感じた。

「恨むならあなたの父親を恨みなさい」

「それもその女の言葉か?」

 頷く代わりに頭を抱えた。セージとトージも顔を見合わせている。

「つまり、君のお父さんを苦しませたいがために家族を痛めつけた上で拉致した、と」

 女の意図を推測するとそういう事になる。掴んだ顎を放そうともせず、リーゼルもやっぱり低く唸り声を上げている。

「ちょっと待てよ。あの人は誰かの恨みを買うような人じゃない。それはセージも、リーゼルさんも判ってるだろ」

「おい、少し落ち着けよ」

 いきり立つトージの肩をセージが引く。トージはその手を振り払った。

「いや、今の言葉は聞き捨てならねえ。俺が恨まれるならともかくおじさんが恨まれるなんて考えただけで吐き気がする」

 言葉は少し汚ないけど気持ちは伝わった。それこそ涙が出そうなくらいに。確かにトージは人の三倍くらい熱くなりやすい。紛れもなく彼の短所だけど同時にそこが長所でもあった。誰かを欺く事も自分を偽る事もしない。アリスがここにいたら人目も憚らずに抱きついていたかも知れない。それくらい嬉しい言葉だった。

「そこまで恨みを買うような人はそういるもんじゃない。君のお父さんなら尚更だけど」

 目尻を指で拭うと鉄格子の向こうからリーゼルがカティを見て笑っていた。

「でもちょっと待ってくれよ。じゃ、おじさんはいつ何処でそんな恨みを買うような真似をしたんだ?」

「要はそこだよな」

 セージが横目でリーゼルを睨んだ。それは誰もが感じている疑問に違いなかった。

「君の証言が確かならまずおじさんとその女に接点があるとは思えない。しかも直接関係のない家族にまで手を出すなんて尋常な恨みじゃない。ま、恨みなんて感覚自体が既に正常とは言い難いものだけどな」

更に頭が混乱して来た。どうして何の接点もない父が顔を見た事もない人から恨まれなければならないのだろう。これまで叱られた事も何度もあった。でも最後にはいつも大きな手で頭を撫でてくれた。太い腕で抱き締めてくれた。そんな父が誰かから恨まれるなんて考えたくもなかった。

「でも、やっぱりおかしいだろ。どうして何の関わりもない人から一方的に恨まれなきゃならないんだよ。全く面識もないんだぜ?」

 セージが投げ掛けた疑問にも、リーゼルは別段動じた様子は見せなかった。顎に手を当てたまま黙って宙を睨んでいる。

「ここで接点がないなら他であった、そう考えるしかないんじゃないのかな」

「意味がよく判らないんだけど」

 頭を抱えるトージに、リーゼルは疲れたように溜め息を吐いた。

「言葉の通りだよ」

 カティはむしろトージの意見に近かった。ここで接点がないとすれば一体何処であったのか。それはリーゼルにも、いや誰にも説明出来ないハズだ。

 これ以上考えたくなかった。両手で頭を抱えたまま床に座り込む。

「カティ」

 頭の上から声が投げ掛けられた。

「大丈夫か?」

 頷くのがやっとだった。

 どんな理由があったとしても誰かを傷つけていい事なんかない。そんな理屈が罷り通れば世界中に恨みとそれに対する報復で溢れ返る事になる。

さっきの男はあの女の差し金で動いていた。直接手は下していなくても裏で糸を引いているのがあの女なら根っこはそこにある。

 疑問が頭の中で渦を巻いている。でもこれから料理で使う卵をかき混ぜるような楽しさなんてものは欠片もなく、代わりに真っ暗闇の中をランプも持たすに歩くような不安と不気味さがあった。

「カティ」

 声のした方に顔を上げると苦渋に満ちた表情をしたリーゼルが頭を下げていた。

「済まなかった」

 最初は何故頭を垂れる必要があるのか判らなかった。立ち上がって小窓を覗くと犬が唸るような顔をしたトージがリーゼルを睨んでいた。

「いくらあんたでもこれ以上訳の判んない事抜かすようなら俺が許さねえぞ」

「ああ、判ってる」

 リーゼルは降参するように両手を上げる。

「本当に無神経な発言だった。申し訳ない」

 改めて頭を下げるリーゼルに静かに首を横に振った。

「どんな事でもいいから知りたくなる気持ちはよく判ります」

 ここは外の世界と完全に隔絶されている。外の出来事も知りたいだろうしここから出るための手掛かりになるものならどんな事でも知っておきたい。ついさっき連れて来られたカティですらそうだ、三人なら尚更だろう。

「でも俺の一方的な好奇心で君を、誰かを傷つけていたとしたらすぐに改めるべきだよ」

「私なら大丈夫です。ただ、混乱しただけですから」

 確かに目眩がするくらいに混乱した。でもこれまで感じていた疑問を氷解させるのに大きく貢献する推論でもある。   

 カティだけではない、みんな感じていたハズだ。

 何故、奴らはこの街に狙いを定めたのか。人里離れた僻地、本来の持ち主の手から管理を放棄された砦、中に牢屋まであるお陰で人質を収容する事も出来る。確かに好条件がいくつも揃っている。でも果たしてそれだけだろうか。どうして奴らはここを知るに到ったのか、その情報をもたらしたのは誰なのか。解けそうで解けない知恵の輪を前にした時のようなもどかしさに襲われた。まだ材料が足りない。

 足音と灯りが近付いて来る。セージは真っ直ぐに立てた人差し指を唇に当てた。鉄格子のすぐ後ろに立っていたリーゼルが後ろの壁の方に引っ込む。

「お前ら、さっきから何くっちゃべってんだよ」

 うるせえぞ。片手にランプ、片手にお盆を持った男が毒づいた。お盆にはコップと人数分の水差しが載せられている。

「また飯抜きにされてえのか?」

 後から来たもう一人が差し出そうとしていたお盆を引っ込めた。食器にはよく判らない料理が盛られていた。料理ではなく残飯に違いない。ただここで空腹を満たすにはそれを食べるしかない。

「俺らの幼馴染み連れて来たのはそっちだろ。久し振りに会ったからこうして旧交を温めてたんじゃねえか」

 悪びれるどころか笑みすら浮かべるトージに心強いものを感じる。

「相変わらず口の減らねえガキだな」

「口が減ったら飯も食えないでしょ。もう少し静かに話しますから飯抜きは勘弁して下さいよ」

 リーゼルにしても卑屈になる事もなく軽口すら叩ける余裕がある。一朝一夕で養えるような代物ではない。少なくとも今日ここに来たばかりのカティには逆立ちしたって無理だ。

 男は唇を微妙に歪めたままぶっきら棒にお盆を突き出した。三人は殊更ニコヤカに笑いながら載っていた皿を受け取る。貼り付いたような不自然な笑顔ではあったけど。

 当然箸もスプーンも何もない。三人とも洗ってもいない手を皿に突っ込んで盛られている食べ残しともつかないようなものに手を付けている。それだけでも相当抵抗があった。

「無理して食う必要はないよ」

 残飯を掻き込みながらセージは淡々と言った。

「俺らも最初は全然手を付けなかったからな」

 隣にいるトージは掌全体で豪快に掬うと口の中に放り込む。単に食欲だけで成せる業ではない、と思う。

「ただ、食えるなら食うに越した事はない。生きるためには食わなきゃいけないからな。死にたくなければ余計な自尊心は捨てた方がいい」

 トージほどではないにしても、リーゼルもそれに劣らないくらいの勢いで料理モドキの残飯を口に運んでいる。

 ここに連れて来られたばかりの時は、一体何が起きたのか、何故ここにいるのか判らなくて完全に茫然自失としていた。ホンの数十分前のカティだったら、焦点の合わない死んだような目をしていた事だろう。当然こんなものに手を付けようなどとは到底思わなかったに違いない。

 無心で食事を掻き込む三人を見る。

 誰一人としてここから出る事を諦めていない。生きるため、そして家に帰るためには食べなくてはならない。仮にウォッカがここにいたら、たとえそれが食糧と言えるような代物でなくても間違いなく口にするに違いない。彼も、絶対に生きる事を諦めたりしない。ウォッカの目はいつも前を向いている。

 ご飯なのかパンなのか判らない何かが指先に触れた。思わず突っ込んだ指先を引っこ抜きそうになった。意を決して指先に絡め取ったそれを口に運ぶ。到底美味しいと思えるようなものではない。それでも吐き出さなかったのは絶対に帰りたかったからだ。只でさえ心が弱っている今、食べなければ衰弱がより早まるのは目に見えている。

「凄いな、大したもんだ」

 小窓の向こうでセージが目を丸くしていた。

「しばらく見ないうちに随分強くなったな」

 首を傾げたカティに、トージが食事の手を止めて言った。

「俺もセージもリーゼルさんも、ここに連れて来られた頃は出された食事には手を付けられなかった。こんなもん食えるか、ってな」

 確かにまともな人間の食べるものではない。でも食べなければ生きられない。生きるには食べる以外に選択肢は残されていない。

「帰ろうな。みんなで、一緒に」

 残りを一気に頬張りながらセージが言った。その後ろでトージが顎を上下しつつ頷いている。中身を片付けたリーゼルは空になった器を鉄格子の外に置いた。

 コップに水を注いだ。泣き叫び過ぎて焼けついた喉に沁みる。喉が潤いを取り戻すと呼吸が少しだけ楽になった。

 顎を引いて頷いた。もう涙は出なかった。



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