四日目 その拾伍
指が微かに動いた。重苦しく目を覆っていた瞼をゆっくりこじ開ける。真っ暗だった。いや、僅かに光がある。斜めに差し込んだ光が床を薄っすらと白く染めていた。
腕に力を込めて体を起こす。背中と左右を壁で囲まれている。目の前にあるのは鉄格子だ。手も足も動かそうとするだけで痛みが走る。懸命に堪えながら立ち上がると鉄格子の入口に手をかけた。硬い音を立てただけだった。当然の事ながら鍵がかけられている。
真後ろの壁の上の方から外が見えた。そこにも鉄格子が嵌められているので登って脱出する事は不可能だった。鉄格子の向こうは大半が塀に覆われていて殆ど空は見えない。その僅かな隙間から月明かりが差し込んでいた。
肘に手を添え膝を支えながら壁に凭れかかる。露出している胸を引き裂かれた服で覆った。折った膝に両腕を載せるとそのまま俯く。
牢屋に監禁されている事は間違いなさそうだった。自力で脱出する事もまず不可能だ。視界と意識が黒い絶望で覆われていく。
何が起こったのか、それを未だに正確に把握出来ずにいた。奴らに襲われて、父も母も、イリナもミリアムもアリスも、みんな大怪我を負った。イリナの虚ろな表情が脳裡に蘇った。完全に意識をなくしていた。溢れ出した血がイリナの上半身を真っ赤に染め上げていた。仮に即死は免れたとしても、適切な処置をしなければ確実に命を落とすくらいの重傷だった。素人目にもそれは明らかだった。
お願い、どうか無事でいて。
涙が頬を伝って床に落ちた。
ウォッカは間に合ったのだろうか。それを祈るしかなかった。ウォッカならばイリナを、みんなを助ける事が出来るかも知れない。触れただけで裂けた皮膚を元通りにしてしまった。冷え切った体を、かじかんだ指先をあっという間に温めてくれた。今はそれに頼る以外にない。みんなを救えるのはウォッカだけだった。俯きながら胸の前で両手を合わせた。いつここから出られるのか、みんなに会えるのか判らない。でも出られた時に会えなかったら。考えただけで体が絶望で疎んだ。
さっきあれだけ泣いたのに、涙は枯れる兆しもなく溢れ出してくる。涙を拭った袖が濡れた。顔を上げると頬を両手で叩く。
泣いてばかりでいいハズがない。こんな状況でもやれる事は、やらなくてはならない事は絶対にある。絶望に押し潰されるな。鋭く息を吐いて天を仰ぐ。闇に慣れた目に月明かりが眩しかった。
そもそも、どうして奴らはカティを拐ったのだろう。これまで女性を拐ったと言う話は聞いた事がなかった。だとすると方針を転換したのかも知れない。男が女を拐う理由など一つしかない。それが判らないほど子供ではない。でもその可能性を考えただけで恐怖で体が疎んだ。馬車に乗せられた時に奴らが見せた下卑た顔が鮮明に蘇る。込み上げた吐き気を右手で口を押さえて堪えた。あの時はウォッカが来てくれたお陰で中断されたけど、その先に何が待っていたのか。身の毛がよだつとはこういう事を言うのだろう。そこだけは何としてでも守りたかった、そう、女として。膝を両腕で抱えて胸を隠す。獣のような男共に蹂躙されるなんて死んでも御免だった。そんな目に遭うくらいなら、いっその事一思いに……。一瞬頭に浮かんだ考えをすぐに捨てた。弱気になるな。絶対にみんなの所へ帰る。ここはカティの居場所ではない。カティに限らず、ここにいる人達は無理矢理家族から引き離されたのだ。みんな、家に帰りたいよね。ただいま。ここはそんな当たり前の言葉から遠く離れた場所だった。
帰りたい。でも帰れない。
目の前が真っ暗になった。光が全く届かない深い井戸に放り込まれたように気持ちが沈む。登ろうにも手がかりになるものはない。スベスベした石垣が真上に向かって延々と続いている。
次に繋がる希望がここにはない。あるとすれば絶望だけだった。涙が溢れた。喉が震えた。ここへ連れて来られて初めて声が出た、いや漏れた。声を、喉を震わせて泣いた。泣くまいと歯を食いしばると余計に涙が溢れた。希望を見出だしたい。でも頭に浮かぶのは絶望だけだった。
何か硬いものを叩く音が聞こえた。よく見ると壁に小さな戸がついている。誰かが頻りにそこを叩いているのだ。
「ひょっとして、カティか?」
聞き覚えのある声だった。かかっていた閂を外して戸を開ける。
「あ、やっぱり!」
「セージさん!」
「何でこんな所にいるんだよ」
「トージさんも!」
二人とも髪や髭が伸び放題で風貌がすっかり変わってしまっている。そしてかなり痩せた。でも二人である事に間違いなかった。
全く同じ顔が狭い窓の向こうで朗らかに笑っていた。
さっきまで目の前が真っ暗だった。一筋の光も見えなかったのに、まだ手は届かないけど僅かな光が真上にある。それだけでこんなに気持ちが軽くなるなんて。
「久し振りだな」
「久し振りも何も、俺らがここに連れて来られて以来会ってないんだから当たり前だろうが」
興奮気味のトージを背後からセージがたしなめる。さっきとは全く違う意味で涙が止まらなかった。迷子になって心細くて死にそうだったところで見知った顔を見かけたような気分だった。地獄に仏とはこの事だ。抱き締められたらどれだけ嬉しいだろう。
もっと塞ぎ込んでいるかと思っていたけど二人を見るとそんな風には見えなかった。勿論この状況を良しとはしていないだろうけどそこまで悲観的ではなさそうだった。
「カティ、どうしたんだよ。顔も体も傷だらけじゃねえか」
二人が気不味そうに顔を背けた。それでようやく気付いた。慌てて前を隠す。
「奴らに、やられたんだな」
俯きながら頷くとトージが憂さをぶつけるように壁を蹴飛ばした。セージは悔しそうに唇を歪めたまま顔を背けていた。
「私だけじゃないの。父さんも母さんも、イリナ姉もミリー姉もアリスも、みんな……」
そこから先は言葉にならなかった。口を塞いだけど声が震えるのは抑えられなかった。
「みんなどうしたんだよ! まさか、死んだ……?」
興奮して窓に顔を突っ込もうとしたトージの肩を後ろからセージが引っ張る。
「まだそうと決まった訳じゃねえだろうが。カティから詳細を聞いてもいねえのに。少し落ち着けよ」
「お、おう」
暴走しそうになる弟の手綱を引くのはいつも決まって兄だった。顔は本当に瓜二つだけど性格は全く違う。考えるよりも先に体が動くトージに対して、セージはいつも考えてから動く。或いは考えながら動く。一人で突っ走ろうとする弟を上手く手懐けつつ、弟は弟で腰の重い兄に早く動くよう発破をかける。そういう意味で二人は表裏一体だった。互いが互いの足りない部分をしっかり把握していて、常にそれを補い合う。最初から双子で生まれる事が決まっていたかのようだった。
司祭様の自慢の息子だった。
別に司祭様でなくてもきっと自慢したくなったに違いない。こんな兄がいたら良かったな。昔は半分くらいそんな気持ちで接していた。それだけカティに、いや姉妹四人に近い所に二人はいた。特にイリナやアリスは切磋琢磨した仲だ。イリナもアリスも、二人がいたからこそあそこまで強くなれた。そうやって互いの背中を常に追いかけていた。だから二人はいつでも四人のすぐ傍にいた。手が届くくらい傍にいて、背中を叩き合いながら、或いは互いに蹴飛ばしながら(嘘でも冗談でもなく本当に蹴っていた。稽古の中ではあったけど)常に前に進んでいた。気付けば気持ちもすぐ傍にあった。もっとも、アリスはともかくイリナはそれを表に晒すような真似はしなかったけど。それでも見ていれば判った。一緒に組手をやる時は気合いの入り方が尋常ではなかった。何より嬉しそうだった。積極的に自分を見せようとしないイリナが唯一素直に全てを晒け出していた。
端で見ていて何だか胸が温かくなったのを今でもよく覚えている。自分の事でもないのに無性に嬉しくなった。傍にいてくれるだけで気持ちが温かくなる。上手く理由は説明出来ないけどそういう人は間違いなくいる。
二人がここに連れて行かれたと知った日、泣き崩れるアリスの隣でイリナは背中を向けたまま拳を握り締めて立っていた。そんな時でも涙は見せなかった。
「イリナに、みんなに何があったのか、それとどうしてカティがここに連れて来られたのか、それを聞かせてくれないか」
「それ、俺からも是非お願いしたい」
君には申し訳ないけど。
不意に聞こえた声に驚いて周囲を見回した。今話していたのはセージだけど、件の声は隣ではなく明らかに違う所から聞こえた。
「ちょっと驚かさないで下さいよ、リーゼルさん」
「いや、悪い悪い。ただどうしても外の様子が知りたくてね。ここじゃ得られる情報が限られてるからな」
リーゼルと呼ばれた男は前に垂れていた髪を鋤いた。半分隠れていた目が露わになる。長めの睫毛が伸びた目が人懐っこく笑っていた。あ、と思った。よく知っている誰かに似ていた。
「不出来な弟が君のお姉さんには随分お世話になってるからね」
うんざりしたように溜め息を吐いている。苦笑いするのがやっとだった。アリスはともかく、イリナやミリアムもそんな目でカティを見ているに違いない。
「こちらこそ、姉がいつもお世話になっております」
体の前に添えた腕で胸を隠しながらお辞儀した。
実に勿体ない、いや光栄な言葉だった。
下級生はともかく、イリナが道場に立つと同年代や上級生の男子が泣いて逃げ出す事もさして珍しくはなかった。別に苛めていた訳でもなんでもなく、単に練習内容がキツすぎたり組手でしごかれすぎて逃げ出したりするのが大半だった中で、積極的に剣をぶつけていたのは彼とトージくらいのものだった。勝った事はおろか一本すらまともに取った事はなかったけど、それでも諦めるどころかむしろ嬉々として勝負を挑む彼を周囲の男子は呆れた顔で見ていたものだ。
「礼儀正しいんだね、君は」
斜向かいの独房にいるリーゼルは申し訳なさそうに顔をしかめて頭を掻いている。これまで、片手で足りるくらいだけど彼の顔は何度か見た記憶がある。組手で不出来な弟を軽々一蹴していた。と言っても彼がそこまで弱いと言う事ではない。リーゼルも相応の、弟を軽くあしらえるだけの実力を持っていると言う事だ。それはそれで相当凄い事でもあるけど。
「君の爪の垢をヨハンにも呑ませてやりたいな」
そんな風に言われると何と言っていいのか判らなくなる。恐縮すればヨハンに申し訳ないし、はいそうですねと肯定するなどもっての外だ。何様のつもりだろうか。別に何か特別な事をしていた訳ではない。カティが三人の妹だったと言うだけだ。
「君には大変申し訳ないが、聞きたい事が山ほどある」
口調は砕けているけど目は笑っていない。セージとトージも気不味そうに目を合わせている。
「ここに入って来る情報は極めて限られてる。ここじゃ満腹にはなれないけどそれ以上に飢えてるのは情報なんだ」
「情報?」
「外で何が起こってるのか、それを知りたいんだ」
常にここに監禁されているのだから外の様子を知る術はない。外の世界に何か変化があればその影響がここにも及ぶ事は充分に考えられる。だから知りたいのだ、飢えているのだ。
「それに、最近街に旅人が一人来たんだろ? 旅で来たんだから君の宿にはいるよね」
「ウォッカさんの事ですね」
「酒の名前とはまた随分変わってるな」
その上成人したばかりなのにザルの大酒呑みと言ったらセージはどんな顔をするだろう。一瞬そんな想像をして笑いそうになった。
「その彼の事も含めて」
矢継ぎ早に話したリーゼルは気不味そうに咳払いするとカティから視線を逸らした。
「勿論、今話したのは単にこちらが知りたいと思ってる事を君に求めただけであって、それに応じるか拒むかは君次第だ。だから強要するような気は一切ない」
窓から隣を見るとセージとトージもカティから顔を背けていた。傷だらけの顔やこの身なりを見れば何があったかは大方想像がつく。相手の都合も考えず自分の欲求や好奇心を満たそうとするのはただの無神経でしかない。切れた唇や血の痕、引き裂かれた服が月明かりに照らされて初めてそれに気付いたのかも知れない。みんな物凄くバツの悪そうな顔をしている。まるで隠していた赤点の答案を母親に見られた時のように不自然に顔を背けていた。
さっきの出来事は思い出そうとするだけでも体中を刃物で切り裂かれるような苦痛に苛まれる。でもここに連れて来られた以上カティも三人と一蓮托生なのだ。伝える事で何かが変わるなら話すだけの価値は充分にある。内にこもって塞ぎ込んでいても何も始まらない。
「お話します」
それで皆さんのお力になれるなら。はだけそうになった胸を腕で隠す。着ていた服を差し出そうとしたトージに笑いながら首を横に振った。
「こんな汚ねえ服寄越すヤツがあるかよ。ホントに無神経だな」
「でも、あんな格好じゃ可哀想じゃねえか」
「二人ともありがとう。でも、私は大丈夫だから」
そう、絶対大丈夫。そう信じるしかない。イリナが、みんなが無事である事も。いつかここから出られる日が来る事も。
気持ちを抱え続けるのが辛くなったら、いっその事放り出せばいい。踞ったまま前に進めない事に比べれば余程マシだ。
背筋を伸ばして顎を引いた。三人の視線がこちらに向けられたのがハッキリと判った。




