四日目 その拾参
背中と腰に腕を添えたままゆっくり横たえた。肩にかかっていた腕を解くと体の両脇に置く。静かに寝息を立てるミリアムを見てようやく肩から力が抜けた。
良かった、眠ってくれた。
頬にはまだ涙の跡があった。でも明日の朝には乾くハズだ。もう彼女の涙を、泣き顔を見るのは金輪際ごめんだった。人が泣く様を見たいと思う奴の気が知れない。それが好きな子なら尚更だった。考えただけで胸が張り裂けそうになる。でも今はこうして眠ってくれている。頭を撫でたかったけど一歩手前で踏み止まった。もし目を覚ましてしまったら。そう思うとこれ以上この子に触れるのは憚られた。心がボロボロな分、今は少しでも体を休めて欲しかった。それを妨害するような真似は絶対にしたくなかった。
部屋を出ると音を立てないようにドアを閉める。いつまでもここにいる訳にもいかない。そろそろ戻らないと。
階段を降りて食堂に入る。カウンターに女将さんが腰を下ろしていた。
「有り難うございました」
女将さんは立ち上がると丁寧にお辞儀した。ヨハンも頭を下げる。
「ミリアムの様子は?」
「今は、よく眠ってます」
眠るまでの経緯を説明する必要はない。この人には充分判り切っている事だ。
女将さんは胸に手を置くと肩を上下させてゆっくり息を吐いた。
「本当に有り難うございました。大変だったでしょう」
「いえ、別に大変なんて事は……」
つくづく、言葉というものは便利だと思う。錯乱するミリアムを宥め、落ち着かせて眠らせるまで実際相当の時間を要した。ミリアムの頭の中で次々に膨らむ悪い想像を丁寧に打ち消しながらひたすら大丈夫と励まし続ける。大丈夫という言葉が気休めにすらならない事は百も承知だ。でもそれ以外に適当な言葉が浮かばなかった。
何より、泣きじゃくるあの子を見続けなければならない事が堪らなく苦痛だった。可哀想で見ていられなかった。胸が張り裂けそうだった。だから眠ってくれた時は本当にホッとした。同時に怒りで頭がクラクラした。奴らは絶対に許せない。人質がいなければ今すぐに殴り込んでいるところだ。だが、迂闊に動く事も出来ない。
拳を握り締めた腕が音を立てて震えた。奴らはこちらを殺す事はしないが活かす事もしない。殺さず、人質としての価値を維持しながら生き血を啜る。考えただけで吐き気がした。
「座って下さい」
促されて腰を下ろした。肩が重い。気が張っていたせいかその時は気付かなかったが、かなり堪えている。肉体的と言うより精神的な疲労が大きい。
「どうぞ」
仄かに湯気が上がるグラスが差し出された。頭を下げると早速グラスに口をつける。温かかった。
「アリスは?」
「さっきようやく眠りました。それまではおいおい泣いてましたけど」
「ですよね」
家族の誰かが連れ去られて冷静さを維持出来る人なんて絶対にいない。みんな、身を切られるように辛いハズだ。
「あの子にとっては、たった一人の妹だから」
アリスの妹の溺愛振りは相当なものがあった。気の強い姉二人に囲まれているアリスからして見れば、素直で大人しいカティは可愛くて仕方がなかったのだろう。下に兄弟はいないが気持ちは判る。鈍くて不器用なところはあるが、見えないところで人一倍努力もするし姉妹の中で一番穏やかなのは間違いなくカティだ。あんな妹がいたらヨハンも絶対可愛がる。
居心地の悪い沈黙が食堂を満たした。女将さんにしても、大切な娘を無理矢理連れ去られたのだ。精神的にも相当堪えているハズだ。
「あなたがいてくれて、ここに来てくれて本当に助かりました。有り難うございました」
「そんな改めてお礼を言われるほど大層な事はしてないですよ」
女将さんは穏やかに笑いながら首を横に振った。
「今のミリアムにはあなたが必要でした。あなたが傍にいてくれたから、あの子も気持ちを落ち着ける事が出来たんですよ」
どうしてここまで自信たっぷりに言い切れるのか。でもそれを聞く勇気はなかった。
「あの子の気持ちは、判りますよね?」
「はい」
即答した。迷う余地などない。逆に判り過ぎて辛かった。
「気持ちをしっかり理解して応える事は口で言うほど簡単じゃありません。ウォッカさんも傷を癒す事は出来ても今のあの子の気持ち全てを受け止めて応える事は出来ないかも知れない。あなたにしか出来ない事をして下さったんです。本当に有り難うございました」
女将さんは椅子に座ったまま真っ直ぐ背筋を伸ばして頭を下げた。気持ちのこもった、丁寧なお辞儀だった。
胸が、全身が熱くなった。
ここへ来た時、床に倒れていたみんなを見て自分の無力感と不甲斐なさに打ちのめされそうになった。傷を一瞬で癒すような特別な力はヨハンにはない。苦痛にのたうつ様をただ見るだけで何も出来ない。拳で壁を殴りつけたくなった。大声で喚き散らしそうになった。自分はなんて無力なんだろう。何の助けにもならない、出来る事の一つもない。さっきまではそう考えていた。
ミリアムの気持ちを理解して、それに応える事がヨハンにしか出来なければ、自信にはならないかも知れないが救われるものを感じる。こんな俺にも、まだ出来る事がある。それだけで少しだけ胸が張れそうだった。
そして、この人は相手の気持ちをしっかり理解してキチンと応えてくれる。四人は女将さんと旦那さんの背中を見て育って来たのだ。少し口が悪くても、生真面目過ぎて融通が利かなくても、喧嘩っ早くて女らしさに欠けていても、多少抜けているところはあっても、みんな人の気持ちに敏感だった。誰かの気持ちにそっと寄り添う優しさがあった。この人が四人の母親で良かった、と素直に思った。旦那さんもいい人を嫁にもらったものだ。
「イリナは何を話してるんでしょうね」
ヨハンは無言で首を振った。イリナからしてみれば判らない事だらけで何処から手をつければいいか大いに迷うところだろう。あれだけの重傷を負っていたのだ、死を覚悟していてもおかしくない。それが一瞬で回復したのだ。ヨハンも間近でその一部始終を目の当たりにしたのに未だに信じられない。
最初に会った時から普通とは少し違う雰囲気を漂わせていたけど、それをかなり違った意味で裏切られた。誰もそんな事は絶対考えない。しかし普通では有り得ない出来事が現実に起き、それが死にかけたイリナを、重傷を負ったみんなを救っている。女将さんは顔を殴られたようだがその跡すらない。骨折も、内蔵の損傷に至っては直接触れる事すらせずに治している。
一体何者なのか。何故そんな事が出来るのか。気にはなるが今考えるべきなのはそんな事ではない。
「あ、あの……」
背後で声がした。振り向くと若い女が立っていた。ヨハンよりは歳は上だろうがそう大して変わらない。申し訳なさそうに顔を歪めていた。いや、遥かに切迫した表情だった。
「先日この街に来られた旅の方はいらっしゃいますか?」
佇まいに落ち着きがない。お気に入りの食器を割ってしまった事を母親に詫びる子供のような目をしていた。
「彼は今席を外しておりますが、何か?」
「あの……その方、背中に大怪我をされてましたよね?」
背中と言うか肩にも近かったような気もするが。そう言えばどうしてあんな怪我を負っていたのだろう。
「それをお詫びしたくて……!」
ワッと泣き崩れて床に膝をついた。さっきまでのミリアムやアリスほどではないにしてもかなり錯乱している。
「彼、ご無事なんですよね?」
「ええ。ピンピンしてますよ」
そのまま床に倒れ込みそうになった彼女の肩を慌てて女将さんが支えた。よく見るとなかなか可愛い顔立ちをしている。
「さっき、私の子供が馬車に乗っていたあいつらに撃たれそうになって……彼が庇ってくれたんです」
あれだけ激しく出血していたのはそのためか。もっとも、本人にとっては大した傷ではなかったようだが。
「すぐその場でお礼を申し伝えたかったんですけど、あっという間にいなくなってしまって……」
話の流れから察するにウォッカがここに戻る直前の出来事なのだろう。一番急いでいた時だ。カティを拉致した奴らが馬車で砦に戻る途中に、どういう経緯かは不明だがそれを追い掛けていたウォッカが銃で撃たれた。ウォッカにとって大した怪我でないのなら気に留めるだけの理由もない。
必死に馬車を追い掛けていたが奴らの妨害にあって已む無く諦めざるを得なかったと言うところだろうか。つまり、ウォッカを直接銃で狙ったのではなくたまたま近くにいた無関係な人間に銃口が向けられた。咄嗟に背中を盾にして防いだが故の傷に違いなかった。
奴らがそんな真似をしていなければ、今頃カティはここにいたかも知れない。そうなっていれば、みんなこんな苦痛に苛まれる事もなかったろうに。
そこまで考えて初めて愕然とした。もし仮にそうなっていたとしたら、ウォッカがここに戻るのももっと遅くなっていたハズだ。そうなっていたら果たして何が起こっていたか。
握り拳でカウンターを思い切り叩きそうになった。確かにカティを助けられた可能性も全くなかった訳ではないかも知れない。だがそうなっていたら、恐らく間に合わなかった。イリナは助からなかった。
素人目にもイリナが危篤状態だったのは明らかだ。同時に二人を助ける事は出来なかった。そして、それを一番よく理解しているのはイリナを助けた他ならぬウォッカ本人だ。
ミリアムを宥めていた時とは全く違う意味で胸が苦しくなった。滅茶苦茶に掻き毟りたくなった。二人とも助けたかった。でもそれは絶対に叶わなかった。それを痛いくらいに判っているだろうに、何故あいつはあんなに平然としていられるのか。声を荒げる事も取り乱す事もなく、山積みになった仕事を順繰りに片付けるように自分に出来る事を淡々と消化している。悔しくないのかよ。ヨハンがウォッカの立場だったら、もしそうだったらテーブルを引っ繰り返すか大声で喚き散らすかしている。気持ちを、感情を絶対に抑えられない。
若い母親は動揺を隠すだけの余裕もないのか、子供のように肩を震わせて泣いていた。女将さんは子供をあやすように彼女の背中を擦っている。
「彼は、彼に出来る事をしただけだと思う」
女将さんが独り言のように呟いた。ヨハンを見ると首を横に振った。
そうだ、この人は巻き込まれただけだ。偶々運悪くそこに通り掛かって銃口を向けられた。何も悪くない。むしろ被害者であって絶対に加害者にはならない。誰が彼女を責められるだろうか。
廊下の方から足音が近付いて来た。見慣れた顔がひょっこりと顔を出した。
「ウォッカさん、お疲れ様」
ウォッカは軽く頭を下げた。流石に少し疲れているようだった。肉体的にではなく精神的にだろうが、あれだけの事があった後にいつも通り立って歩けるのが不思議だった。やはり並みではない。
「イリナはどうだ?」
「さっき寝たよ。今は少しでも長く体を休めた方がいい」
イリナに限った話ではない。みんな疲れ切っている。今日の出来事はそれだけ大きく、そして重い。
「ウォッカさん、お客様がお見えですよ」
「お客様?」
思い当たる節がないのか、ウォッカは首を傾げた。床にへたり込んでいた彼女が慌てて立ち上がった。
「あ、あの、先程は危ないところを助けて頂きまして本当にありがとうございました!」
バネ仕掛けの人形のように何度も頭を下げる。まだピンと来ないのか、ウォッカは困った顔をして頭を掻いている。
「あの、俺何かしましたっけ?」
「私の娘が撃たれそうになった時、身を挺して庇って下さいましたよね。背中は、お体は大丈夫ですか?」
「撃たれた撃たれた……あ、さっきの」
一刻も早くここに戻らなければならなかったウォッカにはそれこそ些末な出来事なのだろう。背中を撃たれたら普通は命が危ぶまれる重傷だがそれすら跡形もないのだ。
「その後お子さんは大丈夫ですか?」
「はい。お陰様で何ともありません」
「そりゃ良かった」
無邪気に頬を綻ばせる。普段は老け顔なのに笑うと子供に戻る。
「ご無事ならそれで充分ですよ。こんな遅い時間にわざわざお見えになる事もなかったのに」
「いえ、そんな事は。あんな大怪我までさせてしまったのに何のお詫びもしないなんて……」
そこで初めて彼女の顔が奇妙に歪んだ。ヨハンは女将さんと顔を見合わせた。女将さんは困ったように苦笑いしている。事実を話す訳にはいかないし、仮にそうしたとしても信じてもらえるとは思えない。
「見た目ほど大した怪我じゃなかったんでもう大丈夫です。ご心配には及びませんよ」
無理をしているならともかく実際怪我をしている様子もなくピンピンしている本人を目の当たりにしたら頷かざるを得ないだろう。ヨハンにしてもウォッカがそんな怪我を負っていた事など今の今まですっかり忘れていた。傷自体がいつの間に消えていれば尚更だ。傷を治す力は勿論だが、恐らく回復力そのものも普通の人間のそれを遥かに凌駕している、と考えるべきだろう。一般的な感覚はこの男には当て嵌まらない。
「あの、こんな事言うのもおかしいかも知れないですけど、肩の力を抜いて下さい。それじゃお子さんがビックリしますよ」
女将さんは驚いたように目を丸くした。若い母親も思う処があったのか僅かに顔を強張らせた。ウォッカだけが食後に日向で昼寝をするような顔をして笑っている。
「彼ならもう大丈夫だから。あなたの気持ちは充分伝わってる。だからもう少し落ち着きましょう。今のあなたを娘さんが見たらきっと心配するわ」
いくら身を挺して子供を助けてくれたとは言え、それが元で命を落とすような事になったらきっと罪悪感に苛まれるに違いない。死には到らなくても何らかの後遺症に悩まされる事になっていたら。
実際には絶対に起こらないのだが。さっき女将さんが呟いた言葉が脳裏で蘇った。銃弾の盾になる事も誰かの傷を癒す事も、ウォッカにはさして特別な事ではないのだろう。ウォッカに出来る事を、いやウォッカにしか出来ない事をしているだけだ。
彼女は背筋を伸ばすと平手で自分の頬を叩いた。ウォッカの肩からようやく力が抜けたように見えた。
「ごめんなさい。まだ少し気が動転してるみたいで……」
目の前で自分の娘に銃口を向けられたばかりか実際に発砲までされている。彼女も我が子が「死んだ」と本気で考えたのかも知れない。
殺されそうになった我が子の無事を喜びつつ詫びに来てみれば、助けたハズの人間には怪我の一つもない。ヨハンだったら動転するより混乱する。
その理由を事細かに説明する事は出来ないが。
「あれは元々俺に向けられた銃弾なんです。偶々近くにいたあなたを巻き込んでしまった。だから謝らなきゃならないのは俺の方なんですよ」
ウォッカが目を伏せた。
咄嗟に言葉が出なかった。確かに彼女は被害者だ。ウォッカにも彼女に害が及ぶきっかけを間接的に作ったと言えなくもないが、責任は果たしている。
「ウォッカ、もういいよ」
「巻き込んだ事は事実だ」
ミリアムに負けず劣らず頭が硬いのか、それとも責任感が強いのか、妥協する気配は見えない。それがこの男の通すべき筋なのかも知れない。
「家まで送りますよ」
外を見てやっと気付いた。外はもうすっかり日が落ちている。若い女が一人で彷徨く時間ではない。だったら、どうして一人でここへ来たのか。
店を出ようとしたウォッカの肩をヨハンが引いた。
「俺が帰りがけに送るよ。だからお前はじっとしてろ」
ウォッカは目を隠すようにして掌で顔を覆った。
「この後誰かが異常を訴えるって事も全く考えられない訳じゃない。今はここにいた方がいい」
「……そうだな」
溜め息を吐くと椅子に腰を下ろした。閉じそうになった目を無理矢理開いて正面を睨む。
「助かる」
「あんま格好つけるなよ」
「馬鹿言え。筋を通しておきたいだけだよ」
雰囲気は砕けているが冗談を言っているようには思えなかった。見た目に反して結構な堅物なのかも知れない。
「あの……本当にありがとうございました」
改めて頭を下げる母親にウォッカは軽く手を上げた。あれだけの事があったばかりなのに、無理矢理でもよく笑顔を作れるものだ。
若い母親が笑った。ここに来て初めて見せる笑顔だった。成程、作りものでも笑顔を見せたのはそのためか。言葉も確かに便利だが作り笑いでもそれが人を安心させるためならいい方便になる。
ただヨハンに言わせれば少し気を遣い過ぎだ。見知った相手ならともかく、初対面の人間に対して、だ。もっと楽に生きる事も出来るだろうに、何故そうしないのか。
ウォッカは椅子に根を張るように腰を据えている。しばらくは押しても引いてもビクともしないだろう。やはり、相当疲弊している。いや堪えていると言った方がいい。一度関わった以上もう他人ではない。そんな人達が理不尽な暴力に晒され、一人は殺されかけ、一人は拉致された。
気持ちは判らない訳ではない。でもかける言葉が見当たらなかった。ひょっとしたら、この男の抱えている苦悩はヨハンよりも遥かに重いのかも知れない。根拠はない。不意に脳裏で閃いた直感がそう告げていた。
化け物染みた体力の持ち主のウォッカでも流石に堪えている。帰りがけと言うのもあるが、若い母親の付き添いを申し出たのはウォッカにこれ以上無理をさせたくなかったからだ。少し休めよ。真っ正面からそう言っても今のこいつの耳には届かない。
「少し休んでいて下さい。私、何か作って来ますから」
ウォッカの返事を聞くより先に女将さんが椅子から腰を浮かせた。
「あとは頼むわね」
「はい」
頷き返すと女将さんは声をかけようとしているウォッカを置いて足早に厨房へ駆けていく。中途半端に椅子から腰を上げているウォッカの肩を上から押さえつける。
「休んでろって言ったろ?」
ウォッカは全身を使って溜め息を吐くと観念したように椅子に腰を下ろした。横顔が酷く悔しそうに見えた。ウォッカ本人がどう思っているかは判らない。でも、こうでもしないとそれこそ暴走しそうな気さえする。錯覚か、或いは思い過ごしならばいいが、一体何がこの男をそこまで駆り立てるのか。
「じゃ、俺はあの人を送って来る」
「頼む」
「ウォッカは飯食って少しゆっくりしてろよ」
ここで倒れて眠ってしまったとしても、誰もウォッカを責めたりしない。一番の功労者は間違いなくウォッカだった。
「行きますか」
ヨハンが前に立つとそのすぐ後に若い母親が続いた。店を出る間際、もう一度ウォッカに頭を下げる。ヨハンも首を捻ってウォッカを窺う。さっき見た時は悔しさが表に出ていた。今は静かに怒りをたぎらせているように見えた。もしウォッカが本気で怒りを露わにしたら一体どうなるのだろう。
夜の帳が落ちた街は本当に暗い。ランプがなかったらまともに歩く事も出来ない。こんな中を彼女は一人で店まで来たのだ。ヨハンが旦那だったら絶対こんな時間に独りで出歩かせない。全く、一体何を考えているのか。そこまで考えた時、体の芯がゆっくり冷えていった。本当に何処まで鈍いんだ、俺は。こんなに若くて可愛い嫁を放っておく旦那などいる訳がない。一緒に行きたくても行けないのだ。考えられる可能性はそれしかない。
当たる夜風が肌に冷たかった。母親は上着についている頭巾を目深に被っている。
「大丈夫ですか?」
不意に声をかけられたせいで最初はそれが誰に向けられたものなのか判らなかった。首を曲げると心配そうな目でヨハンを見ている。無意識に掌で腕を擦っていた事に今気付いた。
「は、はい」
声が少し上擦る。多少の動揺は否めない。
「あの、寒くないかなと思って……」
ここで何の考えもなく寒いですと言えるだけの素直さはヨハンにはない。彼女が今着ている上着を差し出されても困る。無理矢理笑ったまま首を横に振って見せた。
「子供は風の子ですから」
既に子供と言える年齢ではないかも知れない。冗談だとしたら面白くさの欠片もなかった。
でも母親はおかしそうに笑った。ちょっと驚いた。肩から力が抜ける。
「いつだったか、主人もそんな事を言ってました」
嬉しそうな笑顔だった。こんな風に笑ってくれた方が気持ちも解れる。誰であれ、さっきのような泣き顔は見たくない。ミリアムのは特に。
「必ず帰って来ますよ」
自然と口を突いて出た言葉だった。でも後悔はなかった。無神経とも思わない。
母親が目を見開いてヨハンを見た。開いていた指を硬く握り締める。
「あの……私、言いましたっけ? 主人が、家にはいないって」
ヨハンは笑いながら首を横に振った。
「俺の兄貴もです」
だからあなたの気持ちは良く判る。余計な言葉はいらない。
「信じて待ってましょう」
母親は涙ぐみそうになるのを懸命に堪えながら頷いた。
ただ、もう待ってばかりもいられない。状況はこちらに極めて不利だ。これまでの人質と同様に、カティも殺されるような事はないだろう。だが、捕らえた以上獣のような奴らがあんな可愛い娘を放っておくハズがない。身内でなくても真っ先にそれが頭に浮かぶ。イリナ達はそれこそ気が気ではないに違いない。それを思うと女将さんの冷静さには頭が下がる。それが女将さんの、母親としての強さなのかも知れない。
どんな手を打つにしても、慎重に事を運ばなければ取り返しのつかない事になる。真っ正面から乗り込んでも人質を盾にされて武装解除されるだけだ。裏をかくか隙を突くか、何れにしても正攻法で勝負に出る訳には行かない。
あいつだったら、ウォッカだったらどうするのか。攻撃だけでも相当なものを持っているが、今日目にしたものはある意味それを遥かに凌いでいる。攻撃だけでなく防御に関しても文句無しに盤石だ。あれだけの重傷が、死にかけていたイリナが息を吹き返したのだ。あの時のイリナは誰が見ても死の淵にいた。それを瞬く間に元通りにしてしまった。
でもこれだけ素晴らしい力を持っていても、ウォッカ曰く「万能」ではないらしい。イリナは目を覚ましたから良かったが、命は助かっても意識が戻らない事も、出血が原因で脳死してしまっていたらそれはもう元には戻せない。あの時ウォッカはそれを匂わせるような発言をした。表面的な傷を癒す事は出来ても一度完全に破壊されたものを元に戻す事は出来ない、そういう事だろうか。イリナもまだ死んではいなかったから、死ぬ直前だったから助ける事が出来た。
確かに、それが出来たらウォッカには死人を蘇らせる力がある事になる。そこまで考えてハッとした。
そうだ、そんな事が出来たとしたら……。
「あの……大丈夫ですか?」
遠慮がちな声が隣から聞こえた。手綱を握る両手が、肩が異常な程大きく震えていた。さっきの比ではない。
「だ、大丈夫です。何でもありませんから」
大丈夫と言う言葉ほど説得力に欠けるものもない。この状態ではまずボタンは留められない。手綱を握ろうとしても指に力が入らない。
「本当に、大丈夫です」
一瞬頭を支配した想像にまだ身震いしている。そんな事、ある訳がない。それはウォッカもキッパリ否定したではないか。それを疑う訳ではないが、仮定から導き出された可能性から脱け出せずにいる。
違う。あいつが、ウォッカがみんなを助けてくれた事に変わりはない。ウォッカがいなかったらイリナは確実に死んでいた。それは間違いない。
こんな事を考えるのは明らかにウォッカに失礼だ。あいつが聞いたら怒るだろうか。申し訳なくて顔を上げられなかった。
全く、一体何なんだよ、お前は。そんな言葉をぶつけたとして、あいつは素直にそれに応えてくれるだろうか。
かじかんでいた指にようやく力が伝わり始めた。手に力が入るうちにこの母親を家に送り届けよう。ウォッカに比べれば極々些細ではあるが少し救われる気持ちになる。
指は動いてもまだ体は冷え切っていた。どうにかして温めたいが手っ取り早いやり方が思い浮かばなかった。とにかくこの冷えた体をどうにかしたかった。どうしてこんなに人恋しいのだろう。なくしたものが戻れば、冷えた体も温まるかも知れない。それがいつになるのか、皆目見当もつかなかった。




