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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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四日目 その拾弐

 ベッドの背凭れに背中を預けたまま両手を見る。何かに触れれば当然感覚もあるし動かす事も出来る。肩も足も、痛みがぶり返すような気配はない。頬っぺたをつねった。やっぱり痛い。夢じゃない。

 そう、夢ではない。瀕死の重傷を負った事も、そこから無事生還した事も、カティが拐われた事も、全て現実に起きた事であって夢でもなければ嘘でもない。喜ぶべきか憤るべきか一瞬迷った。別に難しい事ではない。それぞれを別々に切り分ければいい。

 傷を治した当の本人は膝に肘を置いたまままんじりともせずに黙っている。

「ウォッカ、教えて」

 応えなかった。ただ聞いてくれているのは判った。耳を澄ませるようにイリナの方へ首を傾けている。

「傷は、あなたが治してくれたんでしょ? どうやって治したの?」

 意識が戻ったのはついさっきだ。当然その間の出来事は覚えていない。瀕死の、死ぬ事がほぼ確定していた状態の人間をどうやって蘇生させたのか、それを純粋に知りたかった。

「ここまで来たらもう隠す必要もないからな」

 ウォッカは椅子から立ち上がるとベッドに歩み寄った。差し出した左手が淡い光を放っている。

「こうやってな」

 額に左手が触れた。信じられないくらいに温かかった。熱いのではなく、温かい。体が冷えていれば芯から温め直すような、温かければ自然な発汗を促すような、人の体が活力を取り戻すには丁度いい温度だった。

「この状態で触れれば大抵の傷は治せる」

 肩を貫通した刀創傷やそれに伴った骨折も治している。でもそれだけではないだろう。

「ねえ、ミリアムもかなりヤバかったでしょ?」

「ああ。折れた肋が肺に突き刺さってたからな」

「それも、治したのよね」

 ウォッカはベッドに腰を下ろすと黙って頷いた。切開する事もなく触れただけで体内の傷まで癒やしてしまう。もう魔法と言うしかない。

 額の左手を見る。まだ淡く光っていた。その瞬間、脳裡で稲妻のように閃くものがあった。見たのは今が初めてではない。

「ねえ、カティが頭をぶつけた時もそれを使ってなかった?」

「カティが頭をぶつけた……、あ、ここに来た最初の夜か」

 カティの額を擦るウォッカの手は間違いなく薄っすら光っていた。そう、やはり錯覚ではなかった。

「大した観察眼だな」

 ちょっと胸を張りたくなった。最初は見間違いかなと言う気もしたけど、これでハッキリした。

「その光で傷を治してくれたのは判ったけど、私相当出血してたわよね。傷を塞ぐだけじゃ本当の意味で治した事にはならないんじゃ……」

 体の中に血が巡っていなければ死んでしまう。つまりはその問題も解決している事になる。

「察しが早いな」

 ウォッカは腰を浮かせると机の上に置いたままにしていた桶を手に取った。

「ご指摘の通り、傷を塞ぐだけじゃ根本的な解決にはならない。血が足りなくなったら血圧そのものが下がってあっという間に死んじまう」

「じゃあ、どうして私は助かったの?」

「簡単な話だよ。血を造ったからさ」

 すっかり混乱している。血を造る? 何処から話を理解すればいいのか、その取っ掛かりすら掴めない。

「何処が簡単なのよ。訳が判らないわ。血を造るってどういう事よ」

「出血して血が減った分を新たに用立てた、それだけだよ」

「だから、用立てるってどうやって?」

 ピンと伸ばした人差し指に桶を載せる。そのままクルクル回し始めた。

「俺の血を分けた。その上でそれを急激に増加させた」

「血を分けるって……」

 そんな事が可能なのか。出血したからと言って隣にいる誰かの血が代わりになるなら何の苦労もない。

「そんな事が出来るの?」

「俺のならばな。誰に対しても代わりになる」

「万能薬みたいなものなの?」

「薬とは少し違うな。血そのものだよ。不足した分を体内に入れればその人の血として機能する。薬は今見せた光がそれに当たる」

 薬ではなく誰に対しても使える万能血液と言ったところだろうか。

「でも、代わりになったとしても出血した量が多かったら大変でしょ」

なくした血液全てをウォッカが補っていたら今度はウォッカが出血多量で死んでしまう。

突然、胸の奥から何か込み上げて来た。ウォッカが素早く差し出した桶に慌てて吐き出す。中を覗いてギョッとした。一面が真っ赤に染まっている。ひょっとしたら、まだ傷が全快していないのかも知れない。或いは内臓の何処かに痛手を負っているのか。

 混乱し始めた頭を抱えながら見上げるとウォッカは幼児に数学の定理を教えようとする教師のような顔をして立っていた。何を何処からどう説明すればいいか判らないんだろうな。イリナも何処から理解すればいいのかサッパリ判らない。

「今言ったろ? 分けた血を増やした。ただ出血が激しかったからそれを大急ぎで補う必要があった。簡単に言うと増やし過ぎた血が口から出たって事なんだが、」

 判るか? ぎこちなく頷いた。理屈は理解出来る。でも我が身に起こった事実としてすんなり頭に入るかと聞かれるとやっぱり首を捻ってしまう。

「どうして、こんな事が出来るの?」

 素朴で、何より自然な疑問だと思う。これで疑問も何も感じなかったら馬鹿みたいに素直か純粋に馬鹿かのどちらかだ。

 ウォッカはポケットから何か取り出した。差し出された手拭いを受け取る。

「ありがとう」

 口の周りを拭う。白かった手拭いがあっという間に真っ赤になった。

 ベッドの隅に腰を下ろしたウォッカは不貞腐れたような顔で窓の外を眺めていた。

「そういう血なんだよ、俺のは」

「そういう血って、傷を治したり分け与えた血を増やせる、それがあなたの血なの?」

「ああ」

 傷を癒す事も失われた血を増やす事も、全て血の成せる業だとしたら、この男の中に流れる血は果たして何なのか。

 姿形は人と何ら変わらない。でも、人ではないのかも知れない。

「ここに戻る途中に、カティを乗せた馬車を見つけた」

「どうして判ったの?」

「声が聞こえた」

 馬車なら当然走っていただろう。となると聞こえたとしてもホンの一瞬に過ぎないに違いない。そしてそれを聞き取れるだけの聴力がこの男にはある。

「だから追い掛けた。もう少しで追いつきそうだったんだが、あの子に止められた」

「どうして?」

「早く戻って、みんなを治してやってくれってな。それとちょっと背中を撃たれた。大した事はなかったけど」

 背中を撃たれる事自体が既に大事だ。でも痛がる様子もないところを見るとそれももう治しているのだろう。

 いや、それよりも。

 気にかけるべきなのはそこではない。

「ちょっと待って。じゃあカティはあなたのその力を知ってたの?」

「ああ」

「いつ、知ったの?」

「一昨日奴らが束になって襲って来た時に軽く皮を切られてな」

 戻って来たウォッカに傷を負った様子はなかった。服に血がついていたような事もなかった。傷はすぐに治した上でカティには口止めをしたのだろう。確かに誰かにうっかり話せるような事ではない。

「あのまま馬車を追い掛けてたらカティは助けられたかも知れない。でもあの子はそれを望まなかった」

 ウォッカの力を知っていたから、助けられる可能性がある事が判っていたから、だからすぐここに戻るよう頼んだ。だから助かった。命を繋ぐ事が出来た。イリナを直接的に救ってくれたのはウォッカだ。でも間接的に助けてくれたのはカティだった。

 目を閉じる。吐いた息は殊更熱く、そして湿っていた。どんな思いでカティはウォッカを止めたのだろう。

 肩に触れた。すべすべしていた。とても骨と動脈を両断されたような重傷を負っていたとは思えない。

「ねえ、ウォッカは傷を見たの?」

「いや、触れただけだ。傷の確認は女将さんにお願いした」

 真っ当だし、何より妥当な判断だと思う。致し方ない事もあるだろう。それでもウォッカは見る事はせず治してくれた。それもイリナに対する気遣いに違いなかった。でも、

「あなたも見て。治ってなかったら、傷が残ってたらどうするの?」

「傷がない事は間違いない。女将さんにしっかり見てもらってる」

「でも治したのはあなたでしょ? 治した本人が見ないでどうするのよ。それもあなたの責任でしょ?」

 どうしてこんな事を言っているのか自分でも判らなかった。でも傷を治した本人に、ウォッカに見せなければ気が済まなかった、納得出来なかった。

「ま、それもそうだな」

 一理あるとでも言うように、でも何処か仕方なさそうにウォッカは頷いた。

「俺は別に構わねえけど」

 そっちはどうなんだ、と言いたげに顎をしゃくる。普段と比べて変わった様子はない。

「私も問題ないわ」

 声が少し震えていた。ウォッカは一瞬横目でイリナの様子を窺った。やっぱり仕方なさそうに溜め息を吐いただけだった。

「判った」

 ウォッカは顔を背けた。首を捻らない限りイリナは見えない。見る気がないのか、それとも興味がないのか、そのどちらとも取れる態度だった。でもどちらなのかは判らない。

 ボタンにかけた指がもつれた。自分から言い出しておきながら肝心の覚悟がまだ出来ていなかった。男に肌を晒した事なんてこれまで一度たりともなかった。見て欲しいと思う相手はいたけどそれを伝えた事はない。そんな勇気があったら、今こんなに動揺しない、と思う。ボタンを外す手が止まった。ウォッカは相変わらずそっぽを向いたままだった。スケベ心丸出しにされるのは困るけど、ここまで澄ましていられるのも少し戸惑うものがある。緊張はおろか動揺すらない。全く以て普段通りだった。こいつにとって女って一体何なんだろう。

 一番下のボタンが外れた。肩から服が落ちる。声を掛けるべきだろう。でも喉は凍りついたように動かなかった。

「支度は済んだか?」

 どうして背中を向けているのにこちらの様子が判るのか。ここまで来てしまったからにはもう後には退けない。

 肩を上下させてゆっくり深呼吸した。冷めて欲しいのに、体は火照る一方だった。

 ウォッカが振り向いた。一気に体温が上がった。体から汗が噴き出す。胸は同年代の友人と比較しても充分大きい方だと思う。手には余るくらいの大きさだった。形も悪くはない。所謂お椀型だ。ウォッカの目にはどう写っているかは判らないけど。腰周りは間違いなく括れている。自慢する気はないけど自信なら充分あった。足腰を鍛える事は基本の基本だ。どれだけ走り込みをやったか判らない。腹筋も背筋も息が出来なくなるくらい鍛えたものだ。今でも間違いなくそれが生きている。視線を落として傷の様子を確かめる。皮膚を引き裂いていたであろう傷は影も形もなかった。見慣れた肌がなだらかな曲線を描いている。ウォッカは真剣な眼差しでイリナの体を、いや傷のあった箇所を見ている。冗談を差し挟めるような雰囲気ではない。手に光が灯った。貫通した肩に手を当てる。温かかった。それだけで体の中の澱みが音もなく消えていくようだった。

 鎖骨の下に指が触れた。そのまま左の脇腹までゆっくりとなぞる。そう言えば、右肩を刺された後に右の鎖骨の下から脇腹にかけて袈裟斬りにされていた。動脈を二本も切断されて体を斜めに切り裂かれた。ウォッカが来る前に絶命していても何ら不思議はない。それにようやく気付いた。どうして生きているのだろう。

「手酷くやられたな」

 返す言葉がなかった。殺されかけたのだ。ウォッカがいなければ今頃は確実に彼岸にいた。

「相手にもされなかったわ」

動きは悉く読まれ、攻撃はほぼ全て封殺された。一発当たったとは言ってもかすった程度だ。後は一方的な展開だった。渾身の一撃ですら難なくかわされ、後の先で肩に致命傷になる突きをもらった。

 実力の差は歴然だった。

 ウォッカはもどかしそうに、或いは苛立ちを無理矢理抑えつけるようにして髪を掻き毟っている。

「とにかく、間に合って良かった」

 苦笑いしながら言った。慰めようとしたけど上手い言葉が見つからなかった、そんな顔をしていた。

「傷は残ってない」

 判り切った事ではあった。でもこうして本人の口から聞きたかった。確かめたかった。

「痛みは?」

 黙って首を横に振った。自分の我儘にウォッカを付き合わせただけだった。他にやらなければならない事は沢山あるのに。顔がもっと熱くなった。

 ウォッカはさっきそうしたようにイリナから顔を背けた。今の今まで間近で見ていたのだからそんな事をする必要など何処にもないのに。全く、不器用な男だ。格好つけているのではない。それが今出来る最大限の気遣いなのだろう。確かに服を着る様子までまじまじ見る必要もない。そう考えると行動としては自然なのかも知れない。

 服に袖を通す。衣擦れの音を聞いても微動だにしない。

「いいわよ」

ボタンは敢えて上まで留めなかった。胸の上の辺りがいい案配で拝める格好だ。それだけ見るとイリナが挑発しているようにしか見えない。それも承知の上だった。

判り切った事ではあるけど、この男は一般的な普通の男とは明らかに違う。違いに対する好奇心なのか、この男への興味なのか、それを確かめたいのかも知れない。

 ウォッカがこちらを向いた。雰囲気にも態度にも変わったところはない。腹が立つくらい落ち着き払っている。

「男って、女に対してもっとガツガツしてるものだと思ってた」

「一般的にはな」

 膝に両肘を置いたウォッカは淡々と応える。

「そうじゃない奴も中にはいる、それだけの事だろ」

 裸の女を前にしても男としての本能を剥き出しにする事もなく夜風に当たるように泰然としていたら、それは確かに一般的とは言い難いかも知れない。イリナがこれまで男に対して抱いていた印象を根底から覆すものだった。

 そしてそれは決して普通ではない。ウォッカが特殊、いや異端なのだ。

「悪かったわね。傷を見て欲しいだなんて我儘に付き合わせて」

 治療のためとは言え、男に進んで裸を見て欲しいと思うような女などまずいない。そういう配慮を無にする要求だった。恥ずかしさより気遣いを無視した無神経さでまた顔が熱くなった。

 ウォッカは肩を竦めると左右に首を振った。

「体は大事にすべきだよ、特に女はな。気にしない方がおかしい」

 気を遣ってくれての事だったら、本当に心が軽くなる。本心ならば尚嬉しい。

 そんな言葉だった。

「あなたは、何も感じないのね」

「感じない?」

「その……女を見ても」

 困ったような、気不味いような顔をしてウォッカは頭を掻いている。あ、と思った。後悔しても遅い。

 ウォッカが女に対して何も感じない事は間違いない。少なくとも性的な興奮を覚えている様子は全くない。それ故に見まいとしていたのだ。ウォッカ自身も見たいとは思っていないし、露出狂ならともかくそうでないなら男に積極的に見られたい女なんていない。

何故女に対して何の興味も抱かないのか。見た目が人の三倍は頑健で頑丈なだけに余計に不可解だった。

でも、だとしたらあの時見せたあの惚けたような顔は一体何なのだろう。女に興味がないならあんな顔はしないハズだ。

 何だか気持ちがスッキリしない。さっきから何を求めてこんな事を必死に考えているのだろう。他に考えるべき事もあるだろうに。

「今夜はゆっくり休むといい」

 ウォッカの声がやけに遠くから聞こえた気がした。それだけ自分の考えに没頭していた証拠でもある。

「って言っても難しいか」

 あんな事があった後だもんな。言葉にいつものような力強さがない。そうだ、何も堪えているのはイリナ達家族だけではない。目の前にいたのに助けられなかったのはウォッカも変わらないのだ、相当大きな痛手を負っているに違いない。なのに、どうしておくびにもそれを出さないのだろう、落ち着き払っているのだろう。

 あれだけの敗北を喫した事も生まれて初めてだったし、負けたが故にカティを助ける事も出来なかった。さっきよりいくらか落ち着きはしたけど少しでも気を抜くと途端に気持ちが不安定になる。

「こんなに見事に負けたのって生まれて初めてよ」

「だろうな」

 これまでのイリナは知らなくても、ウォッカは昨日直に手合わせしている。イリナの腕前は充分承知しているハズだ。技術的なものは勿論だけど、何より経験の差が大きい。

「動きも速いし技術も相当高いものを持ってた」

 でも、それだけでは全く太刀打ち出来なかった理由が説明出来ない。実力以上に歴然たる違いがあったハズだ。

「世の中知らなきゃいけない事は山ほどある。でも知らなくていい事もゴマンとある」

「どういう事?」

「負けた理由を突き詰めてまで知る必要はない。今回はな」

「どういう意味よ」

「言葉通りさ」

 聞いているこちらが凍えるような声だった。さっきまでとは雰囲気が違う。

「今回負けたのはそいつがお前より強かったからだ。それ以上理由はない」

「でも……でも! 私が負けたせいであの子を、皆を守れなかった……!」

 涙が頬を伝った。右の掌で顔を覆う。声が、全身が震えていた。悔しくて、哀しくて堪らなかった。体が音を立てて崩れそうだった。

 吐く息が湿っていた。嗚咽を抑えようとした肩が激しく戦慄く。

「イリナもミリアムもアリスも、素手で人を殺せるだけの技術もあるし経験も積んでる。でもそれを実践しようとした事はないだろ?」

 素手であれ剣であれ、確実に相手の息の根を止める手段は確かにある。それを学びはしたが使った事は一度もない。だったら何故そんな事をわざわざ教える必要があるのか。最初はそう思った。でも今は違う。

「ガイデルさんがイリナに伝えたのは自分や人を守る手段であって、相手を殺める術じゃない。だから使い方は絶対に間違っちゃいけない。それが力を与えたガイデルさんの、授けられたお前の責任なんだ」

 純粋に剣術が好きで、ただ楽しくて熱中していた時期もある。その時は何故強くなりたいかなど考える事もしなかった。自分や誰かを守る事は出来ても、使い方を誤れば最初は白かった力が一瞬で真っ黒に変わる。いや違う。元々黒いものを白く見えるように扱っていただけだ。誰かを守るために使うのは体裁のいい綺麗事に過ぎない。

 でも、誰かを殺めるために身に付けたものではない、絶対に違う。それが剣術が持つ本来の意義かも知れない。それでも、これまで誰かを傷つける事を目的に剣を、拳を振るった事はない。

 そう、あいつとは違う。

 あの男は人を痛めつけ、破壊するために剣を握っている。剣術に与えられた意義を全うしていると言えば聞こえはいいけどやっている事は単なる人殺しだ。人を殺す事に慣れていて当然だ。剣を抜いたら血を吸わせるまで、誰かを殺すまで鞘に収めない。あれはそういう人間だ。いや、人とは思いたくない。ただの殺人鬼だ。

「危険につき取り扱い注意。そういう代物なんだよ、俺達が持ってるものはな」

 それが判らないなら持つべきでは、いや持ってはいけない。あいつは間違いなく持ってはいけない類いの人間だ。しかも非常に高い水準の技術と経験を積んでいる。

「そいつにとって誰かを殺すなんて事は既に日常茶飯事なんだよ。別に珍しくも何ともない。腕に止まった蚊を叩き潰すようなもんだ」

 蚊を叩く事を躊躇うような人なんてまずいない。いたら問答無用で叩き潰す。あいつはそういう感覚で人を殺す。確かに危険だ、これ以上ないくらいに。

「だから仇を撃とうなんて考えるな。中途半端な覚悟で臨んだら今度こそ間違いなく殺されるぞ」

 脅しでも何でもない。次に互いに面を突き合わせたとしたら奴は間違いなく殺しに来る。殺し損ねるなど奴の中では絶対にあってはならないハズだ。

「片は俺が付ける。だから済むまでここにいろ」

 口調は穏やかだけど不気味な迫力があった。戦力にならないとは考えていない。でも前線に立つ事は絶対にさせない。そんな意思が体中から滲み出ていた。

「出来るの?」

「最初から選択肢は一つしかないだろ」

 音もなく立ち上がると手を当てたまま首を曲げた。ゴキリと首が鳴る。

「やるしかないんだよ」

 小指から順繰りに指を握って拳を作る。怒っている事は間違いない。でもそれ以外の何かも確実に含まれていた。それが一体何なのかは判らないけど。

 あの男も充分に強い。でもウォッカもひょっとしたらそれ以上に底が見えないところがある。殺意はないにしても、本気で斬りかかった木剣の一撃を難なく捌き、脳天に振り下ろされた真剣を素手で叩き折れる腕力と動体視力、そして技術と経験がある。それだけあってもあいつに勝てる保証など何処にもないけど。

「ウォッカ。もし私が連れて行って欲しいって頼み込んだら、やっぱりそれでも連れて行ってはくれないの?」

 判り切った事ではあった。でも聞かずにはいられなかった。あいつに負けた事にではなく、助けられなかった事に未練があった。ロクに抵抗も出来ず、まともに一太刀も入れられずに軽くあしらわれた自分が、殺されかけた自分が許せなかった。

「さっき言ったろ。イリナはここにいろ」

 やっぱり、返事は変わらないか。多少の戦力にはなれるかも知れないけど今のウォッカにはただの足手纏いにしかならない。少なくともあいつを相手にする以上、それは避けられない。

 ウォッカは前を向いたまま静かに言った。

「頼むからここにいてくれ。こっちに来ちゃいけないんだよ、お前は」

 憂いを含んだ目で一瞬だけイリナを見た。どうしてそんな顔をするのか判らない。でも、そう思ったのはそれこそ一瞬だった。

 大きな思い違いをしていた。ウォッカはここに、この家に留まっていろ、そう言っているのではない。ウォッカの傍に、いるところに来るなと、そう言っているのだ。

 そうか、やっぱりあなたもう……。

 ウォッカも、イリナ達とは違う世界の住人だ。ま、それはそうか。それを可能にするだけの技術を充分に持ち合わせている。今更驚く事ではない。でも胸の中が冷たい哀しさで埋め尽くされていく。そうあって欲しくなかった。心の何処かにそんな願望があったのかも知れない。

「ねえ、最後に一つだけ、聞いてもいい?」

 ウォッカは目を閉じている。耳を澄ませるようにこちらに首を傾げて見せた。

「今、あなたにしてあげられる事って、ない?」

 頬が、顔全体が熱くなった。でもどう言えばいいのか、どう聞けばいいのか判らなかった。

「その……さっきからあなたに助けてもらってばかりで、私何もしてあげられてないから……」

 身を切られるように辛いのはウォッカも変わらない。それを表情にも感情にも出さないだけだ。苛立つ事も安易に感情を昂らせるような真似もせず、体だけでなく心の痛みも和らげようとしてくれている。

 なのに、イリナは何もしていない。どんな些細な事でもいい、少しでもウォッカの力になりたかった。

 それだけではない。

 震える体を両腕で抱いた。ぶつかる歯がガチガチと硬い音を立てた。

 ウォッカに何かしてあげたい。それが本心である事に偽りはない。でもそれは同時に方便でもあった。

 殺されかけ、目の前で家族を痛めつけられ、妹は拉致された。体の傷こそ癒えたけど、心は使い古した雑巾をハサミで切り裂いたようにボロボロだった。それはイリナだけではない。みんな光も届かない、深い穴の更にドン底にいる。

 体が音を立てて崩れそうだった。誰かに支えて欲しかった。胸に縋りたかった。

 胸元のボタンを外した。もう指は震えていなかった。胸の半分が露わになる。

「イリナ」

 ウォッカは下駄箱で会った級友の寝癖を指摘するような雰囲気で言った。

「相手が違うんじゃないのか?」

 火が点いたように顔が熱くなった。さっきまでとは意味合いが全く違う。そういう事を世間話でもするように言わないで欲しい。イリナが言えた義理ではないけど。

 今の今まで晒していた胸元を慌てて隠した。頭がクラクラして前がよく見えない。

「寒いのか」

 素直に頷いた。体の芯から凍えそうになるくらい冷え切っている。カティが戻らなかったら、そう考えただけで不安で怖くて死にそうだった。ずっと一緒にいた家族と無理矢理引き離されるなんて、それがこんなに辛くて哀しいなんて。代われようものなら代わりたかった。何をされてもいい。カティが獣のような男共の渦中にある事が既に耐え難く、そして許せなかった。考えただけで体が震える。

 お願いだから、どうか無事でいて。今はここから祈る事しか出来ない。それがもどかしくて辛くて、今にも涙が出そうだった。

 ウォッカはイリナのすぐ隣に腰を下ろした。目の前に左手を翳した。驚いて目を閉じる。目を瞑っていてもウォッカの手が光っているのが判った。温かい掌が額に触れた。冷え切っていた体の芯が少しずつ温かさを取り戻していく。やがてそれは拍動に呼応するようにして全身に拡がって行った。まるで真冬に池に張った氷を触った時のように冷たかった指先が今はすっかり温かくなっていた。もう寒気など欠片もない。

 途端に猛烈な倦怠感に襲われた。砂袋を体中に巻き付けたように全身が重い。どうしてこんなに疲れているのだろう。座っているだけなのに体を支えられなかった。前のめりに傾いた体を誰かが受け止めた。いや抱き止めた。腕が肩から背中にかけて、もう一本の腕は腰に辺りに添えられた。そのままゆっくりと仰向けに横たえられた。

 不意に何かが胸元に触れた。肌に直接触れたのではない。胸の外側で何かをまさぐるように指が動いている。

「こういう事は自分でやれよ」

 ガキじゃねえんだから。苦笑いしながら頭を掻いている。

 喉元の一番上を除いてボタンは全て留められている。どう足掻いても胸は見えない。

 体に毛布が掛けられた。体の末端にまで温かさが行き渡っている。今にも意識が飛びそうだった。でもさっきのような絶望的な雰囲気は一切なかった。あんな事があったばかりなのに、こんな穏やかな気持ちで眠りに就けるなんて考えもしなかった。

 半分塞がりかけた目でウォッカを見る。淡く光った左手がもう一度額に触れた。

「取り敢えず、今はゆっくり寝てくれ」

 辛うじて頷いた。もう指を動かすのも億劫だった。

 でも、どうしてもあと一つだけやっておきたい事がある。それが済むまでは何としても意識を繋ぎ止めておきたかった。

「それだけやってくれりゃ充分だ」

 特別な事は何も必要ない。それを無理矢理口実を作って、ウォッカをダシにして自分の気持ちをごまかそうとしていただけだった。それを他ならぬウォッカ本人から指摘されて初めて気付いた。

 顔が熱くなった。穴があったら入りたかった。

 でも今は入る穴を探すよりも先にすべき事がある。

「ウォッカ……」

 今にも消え入りそうな声だった。少しでも気を抜いたらその瞬間に意識が飛ぶ。

 ウォッカは先を促すように軽く首を傾げる。表情が少し不似合いなくらい子供っぽかった。思わず頬が綻ぶ。

「ありがとう……」

 声は尻すぼみに小さくなると空気に紛れて消えた。

 視界の中にいるウォッカが笑った。心の底から安心出来るような、それくらい穏やかな笑顔だった。

 良かった。ちゃんと伝えられた。安心感が胸を、そして満たしていく。そうだ、今は何も考えずに体を、そして心を休めよう。

 目を閉じる。体が宙に浮いているような錯覚を感じた。目が覚めた時、果たして自分は何処にいるのだろう、そんな考えが頭を過った。ここにいるに決まっている。判り切った事なのに、そうやって念を押しておかないと全てが幻のように消えてしまいそうで、それが怖くて堪らなかった。

 カティ……。

 お願いだから、どうか無事でいて。今は眠らないといけないのに頭から離れない。あなたが無事でいてくれたら、本当にそれだけで充分だった。何としてでも取り戻す。傍で笑ってくれていたら、他にはもう何もいらない。握ろうとした拳にはもう力が入らなかった。

 見えない何かに吸い込まれるようにして意識が途切れた。


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