四日目 その拾壱
啜り泣く声は止む気配もなく廊下に響いている。女将さんはそんな娘の頭を優しく撫でていた。腕にすがっているミリアムも肩が震えそうになるのを懸命に堪えていた。出来る事なら、喉が張り裂けるくらいに声を上げて泣きたいのかも知れない。ならば、何故そうしないのか。
「ヨハンさん」
前を歩いていた女将さんが足を止めた。アリスを抱いたままドアを開ける。
「私はこの子を見ています。申し訳ないんですが、もう少しだけミリアムをお願いしてもよろしいでしょうか?」
女将さんは疲れた様子もなく穏やかな顔で言った。目が合うと綺麗な角度で頭を下げる。
声が出なかった。この人も、女将さんも本当なら泣き崩れそうになるくらいに哀しく、そして辛いだろうにおくびにもそれを出さない。違う、出せないのだ。今、女将さんは倒れそうな娘を支えなければならない。自分が倒れる訳にはいかないのだ。
リーゼルが捕まった時、奴らに対する怒りと自分に対する不甲斐なさ、何より耐え難いくらいの喪失感でまともに立つ事すら儘ならかった。自分の事で精一杯だったのだ。無論それではいい訳がない。それに気付かせてくれたのはレンだった。目を見開いて茫然と立ち尽くしたまま涙を流すレンを見た時、自分にかまけてばかりいた事に初めて気付いた。同時に、レンの想いの強さにも。義理の弟として出来る事が何一つなかったとしたらこんなに情けない話も他にない。
身を切られるように辛いのは誰しも変わらない。それに流されてばかりもいられないしそれすら叶わない、いや許されない時もある。女将さんはそれを充分に理解している。それがこの人の、母親としての強さなのかも知れない。ヨハンにはまだ持ち得ないものだった。いつ、何処でそんな力を養うのだろう。兄貴に聞いたとして、果たして応えてくれるだろうか。
「判りました」
邪な考えは一切なかった。ウォッカのような特別な力はヨハンにはない。だが出来る事の一つくらいはあるハズだ。
「有り難うございます」
女将さんはアリスの肩を擦りながら部屋に入っていった。
廊下にはヨハンとミリアムしかいない。要所要所にランプが置かれているおかげで明るさは充分だった。歩くには全く支障はない。
ミリアムの部屋の前までの僅かな距離を極端にゆっくりと歩いた。ミリアムはまともに歩く事すら出来なかった。それくらい堪えている。気持ちはよく判る。それこそ痛いくらいに。だから、イリナも女将さんもミリアムをヨハンに託したのだ。
全く、お二人とも判ってらっしゃる。ヨハンよりも余程周りが見えている。
部屋に入るとミリアムをベッドに座らせた。少し迷ったがすぐ隣に腰を下ろした。別にやましい気持ちはない。この子の力になれる事があるなら何でもいいからしてあげたかった。
ミリアムの漏らす嗚咽だけが聞こえた。気の利いた言葉の一つも浮かばない。こういう時、口の上手い奴が無償に羨ましくなる。どうして自分はこうも不器用なのか、口下手なのか。
「ごめんなさい」
「謝る事なんかないよ」
何処にもそんな必要はない。今はそんな事など気にして欲しくなかった。少しでも気持ちが楽になる事を、落ち着く事を考えてくれれば何よりだった。
でも。胸が痛むものを感じながらミリアムを見る。目は虚ろで焦点を結んでいない。全身が小刻みに震えている。今は全く期待出来そうもない。それを求めるのは酷と言うものだ。
「誰かが突然いなくなるなんて、これまで考えた事もなかった」
それはそうだ。誰しもそんな事は普通考えない。
「今までずっと一緒だったから……」
言葉が空気に紛れて消えた瞬間、堰を切ったようにミリアムの両目から涙が溢れ出した。
「ねえ、どうしてあの子が拐われないといけないの? 一体あの子が何したって言うのよ!」
涙だけでなく感情も抑えが利かなくなっている。いや、抑えていたものが涙と一緒に溢れ出たのかも知れない。
確かにこの子は人より強いものを持っている。それでも、やっぱりまだ十八歳の女の子なのだ。突然身に降りかかった理不尽な暴力と家族を拐われた事による混乱で完全に我を忘れていた。そんな目に遭って冷静さを維持出来る子なんてそうそうお目にかかれるものではない。出来たとしてもそれを装う程度だ。況してや二十歳にも満たない子供なら尚更だ。
でも、だからと言ってここで一緒に流されるような事はあってはならない。女将さんのように、この子の母親のように腹を括らなければ。
ゆっくり深呼吸すると体からいい具合に力が抜けた。震えるミリアムの頭に手を置く。
「判るよ」
涙を拭う事もせず、ミリアムはしゃくり上げるだけだった。落ち着きを取り戻す兆しも見えない。常に動じず毅然としている彼女を知っているだけに、今のミリアムが余計に痛々しく、可哀想で堪らなかった。出来る事ならこれ以上泣いて欲しくない。
「辛いのはみんな同じだよ。イリナもアリスも女将さんも旦那さんも、それにウォッカも。今は何も考えられないかも知れないけど、辛い気持ちに身を委ねてたら余計辛くなるだけだ。だから笑えとは言わない。せめて前を向こう」
ミリアムがヨハンを見た。涙が頬を一筋流れたかと思ったら、紙でも丸めるように顔がクシャクシャになった。
「出来ないよ! 前なんて向けない!」
顔を両手で覆ったまま激しく首を左右に振る。
ベッドから腰を浮かせるとミリアムの前に膝を突いた。震えるミリアムの肩に両手を載せる。
「辛いのを堪えるのって本当に苦しいもんな」
それも判ってはいるつもりだが、それがミリアムにどれだけ伝わっているかは判らなかった。指の隙間から溢れた雫を手で拭う。涙目のミリアムともう一度目が合った。不意に力が抜けた。ここに来て初めて見せる笑顔かも知れない。
「今君が本当に辛くて哀しくて堪らないのはよく判るよ。でも、それを端から見るのも結構辛いんだぜ。例えば、君のご両親とか」
俺も、とは言わなかった。絶望に苛まれて泣き崩れるこの子をこれ以上見たいとは思わない。笑ってくれればそれが何よりだった。
ミリアムはハッとしたように体を強張らせた。何かに気付いたのかも知れない。
「確かに状況はこっちが圧倒的に不利だけど、きっと方法はある」
それが見つかれば、形勢を逆転させる事も不可能ではないハズだ。今更女を拐った奴らの意図は判らないが、積極的に殺すような真似をするとは思えない。そんな事をしたら足枷にならない。火に油を注ぐようなものだ。
ただ、女だけに別の意味で大いに気掛かりな事はあるが。むしろそちらを心配すべきところだろう。
呑気に構えている暇はない。時は一刻を争う。でもその前に、この子の気持ちを少しでも楽にしてあげたかった。泣き顔なんて見たくない。
「何か出来る事があるといいんだけど、俺、馬鹿で不器用だからこういう時何すればいいか全然判らないんだ。だから教えてくれると凄く助かる」
イリナが言う開けっ広げなところが更に全開になっていた。本心を一切包み隠さず晒け出している。でも今の彼女と接するにはこうしないと失礼な気がした。下心も邪な考えも一切ない。何とかしたい、してあげたい、それだけだった。
ミリアムは顔から手を離すと虚ろな目でヨハンを見た。おずおずと差し出した手でヨハンの両手を握る。冷たかった。失われた温もりを取り戻すように強く両手を握り締める。本当に、辛くて哀しくて、苦しくて堪らなかったに違いない。胸が痛んだ。
今度は解いた手をヨハンの肩に置いた。そのままゆっくりとヨハンに覆い被さった。いい香りがした。
「しばらく、こうしていてもいいですか?」
「君の好きにしていいよ」
ヨハンの背中に回した手に力がこもった。何かを懸命に堪えるように強くしがみつく。辛い事以上に、怖くて不安で堪らないのかも知れない。
ミリアムの背中を軽く擦るとゆっくり抱き寄せた。肩が震えていた。
啜り泣くミリアムの声だけが聞こえる。震える肩を、黙って撫でていた。




