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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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四日目 その拾

 体が重い。瞼は重石を載せているようだった。でも、真っ暗だったさっきとは違って意識はあった。ただこれを、今の状態を意識と言えるかどうかは判らないけど。瞼が塞がっているせいで前が見えない。瞼の隙間から僅かに光が入り込んでいる。

 目が開いた。見覚えのある天井が目の前に広がっている。部屋の隅には使い慣れた机があった。机の上には一昨日読んでいた本が置かれたままだった。

 全く、気が利いている。生まれてからも、そして死んでからもここから始まるのか。ただここにいるのはイリナだけだろう。そう思った瞬間、寂しさと哀しさが体の芯から指の先まで波紋のように拡がっていった。見慣れた場所ではあっても、ここにいるのはイリナ一人だけだ。不意に口から漏れた声はハッキリそうと判るくらいに震えていた。慌てて口を塞ぐ。まだ現実を受け容れられていない。左肩に触れた。服の上からでも傷がない事は判った。痛みもない。もう死んでいるのだ、感じる必要もないか。霊魂に痛覚がないのか死後に痛みと言う概念が存在しないのか、考えようとして止めた。それこそ時間の無駄だった。

 毛布を剥いだ。床に足を置く。恐る恐る立ち上がる。さっきまではまともに動く事も出来なかったのに、今は何の痛みも感じない。ま、そうだよな。判り切った事ではあった。でも現実をまざまざと思い知らされた気がした。受け容れるしかない。

 天井を仰いだ拍子に溜め息が出た。さて、これからどうしよう。外に出れば誰かに会えるのだろうか。会えるとしたら誰なのか。考えても何も始まらない。まずは自分から動いてみる、それしかなかった。

 背後でドアが開く音がした。反射的に振り向く。誰かが開け放たれたドアの前に立っていた。息を呑むような顔で口元を両手で塞いでいる。一瞬誰なのか判らなかった。でもすぐにハッとした。アリスだった。あれだけ長かった髪が今は見る影もないくらいに、ミリアムと殆ど大差がないくらいに短くなってしまっている。少女と言うより少年のそれに近い。

 そんな事よりも何よりも、どうしてアリスがここにいるのか。混乱した。

 アリスはものも言わずに体当たりした。否、抱きついた。程なくして大声で泣き始めた。殆ど反射的に頭を撫でていた。もう何年もこんな事をした記憶はないけど。

 何故アリスが泣くのか、その理由が判らなかった。ここにいるのは、いるべきなのはイリナ一人のハズなのに。

「良かった、イリナ姉! 気がついて本当に良かった~!」

 子供のように声を上げて泣いている。実際これならば泥をこねくり回して遊んでいる幼児と何ら変わらない。年齢を疑いたくなる。

 アリスは抱き締めている両手に更に力を込めた。苦しいと思うと同時に閃くものがあった。

「アリス、あなた左腕は?」

「もう大丈夫だよ」

 ほら。アリスは腕を解くと袖を肩まで捲り上げた。二の腕が露わになる。とても骨折していたとは思えない。その形跡すらない。完全に元通りになっていた。

「ねえ、どうしてあなたがここにいるのよ」

 虚を突かれたようにアリスは目を丸くした。イリナが何に疑問を感じているのか、恐らくそれが判って、いや伝わっていない。

「どうしてって、ここがみんなの家じゃない」

 いやそれはそうなんだけど。やっぱり伝わってなかった。どう聞くべきか考えていると、また誰かが部屋に飛び込んで来た。

「イリナ!」

 ミリアムだった。アリスがそうしたように両腕で力一杯抱き締められた。

「良かった……!」

 涙が頬を伝って腕に落ちた。ミリアムが泣くところなどもう何年も見ていない。その妹が肩を震わせて泣いている。

 誰かがドアの前に立っていた。母だった。やっぱり泣いていた。

 母は一歩ずつ歩み寄るとイリナの前に立った。すっぽりと両腕で体を包み込まれた。頭を掴んだ母はイリナに頬をつけた。涙が頬を濡らす。

 ひょっとしたら、私はかなりとんでもない思い違いをしているのかも知れない。でもそうだとしたらどうしても説明のつかない事が一つだけ出て来る事になる。

「母さん」

 母は涙で膨らんだ目でイリナを見た。泣きながら笑っていた。

「私、生きてるのよね?」

「そうよ、当たり前じゃない」

 頭を撫でられた。クシャクシャになった髪を整えると母は頬に唇をつけた。

「夢じゃないよね。目が覚めたらみんないなくなってるなんて、そんな事ないよね」

「ある訳ないでしょ。今あなたは自分の足で立って、自分の言葉で話してるじゃない」

 イリナは足元を見た。床の上に真っ直ぐ伸びた両脚があった。確かにイリナの足だった。

「でも、私大怪我してたハズなのに。私だけじゃない、アリスもミリアムも、母さんも」

 アリスは上腕骨を叩き折られていた。ミリアムも肋を粉砕された。母も顔、恐らく鼻っ柱に拳をもらっている。でも誰一人として怪我をしている様子はない。

「ミリアムも、もう動けるのね?」

「うん、大丈夫」

 頷いた拍子にミリアムの目から涙が零れた。アリスは真っ直ぐ伸びた上腕をこれでもかとばかりに目の前に突きつける。

「夢じゃないのよね?」

「夢じゃない。あなたは生きてる」

 母がもう一度頭を撫でた。

 全身から力が抜けた。みんなに抱き締められていなかったらそのまま倒れていた。

 不意に視界が歪んだ。零れ落ちそうになった雫を握った拳で拭う。

「でも、どうして怪我が治ってるの? あんな大怪我がもう何ともないなんて……」

 普通に考えなくても絶対に有り得ない事だ。両方の鎖骨とその下の動脈を両断され大量の血を失った。意識が途切れる直前、死すら覚悟していた。こうしてみんなと再会出来るとは思いもしなかった。実際、今の今まで生きているとは全く考えていなかった。

 それが、目を覚めすと自分の足で立てるまでに回復している。傷も痛みも全く残っていない。一体何が起こったのか。

「彼が治してくれたのよ」

「彼? 治した?」

 知り合いに医者などいない。いたとしても瀕死の重傷を僅か数時間で完治させる事などどんな名医でも絶対に不可能だ。

 それに、彼とは一体誰なのか。

 誰かがドアから顔を覗かせた。嬉しいような恥ずかしいような、何処か決まりの悪そうな顔をして頬を掻いている。思わず眉間に皺が寄った。

「ミリー、彼って、あれ?」

 ミリアムは首を捻って後ろを見た。笑いながら首を横に振る。

「何であんたがうちにいるのよ」

「気になったから見に来てやったんだよ。少しは感謝して欲しいもんだな」

 一体何に、いや誰に感謝しろと言うのか。

 ヨハンは鼻の下を人差し指で擦った。目尻が部屋の灯りを反射して光っている。

「大の男が何女の前で涙なんか流してるのよ」

「誰が泣くかよ。目に埃が入っただけだ」

 ヨハンは腕を組むと顔を背けた。声が既に震えている。

 全く、素直じゃない。いや、イリナが人の事を言えた義理ではないか。何故ヨハンがここにいるかは判らないけど、家族以外に自分の無事を喜んでくれる誰かがいる。

 それは素直に、そして心の底から嬉しい事だった。

「ねえミリー、彼って……」

 不意に誰かの視線を感じた。気付けばヨハンの隣に見覚えのある人影が立っている。

 どんな顔をすればいいのか、咄嗟には判らなかった。仕方ないから笑った。仕方なさそうに。

 ウォッカは体中から完全に力を抜くように息を吐くと開け放たれていたドアに背中を預けた。何処から調達したのか、手に持っていた桶で自分の額を叩く。

「痛みは?」

 イリナは首を横に振った。体の状態だけならむしろ普段よりいいくらいだ。とても死にかけた直後とは思えない。

「本当に、あなたが?」

 ウォッカは苦虫を噛み潰したような、或いは猛烈な便意(勿論大きい方)を我慢するような顔をしたまま黙っている。

「そう言えば、父さんは?」

「眠ってるよ。傷の方も問題ない」

 折れた骨が皮膚を突き破って飛び出していた。出血も相当あったハズだ。問題ないと言う事は、それももう癒えていると考えるべきだろう。

 俄かに信じられる話ではない。でも普通なら考えられない出来事がイリナ達を救っている。

「ただ、精神的に相当疲弊してる」

 居合わせた全員の表情が硬くなった。本来ここにいるべきもう一人は何処にも見当たらない。姿を表す気配もない。

 居心地の悪い沈黙が室内に充満し始めていた。嗚咽を漏らすアリスの肩をミリアムが抱いている。慰めるミリアムの目にもさっきとは明らかに違う種類の涙が滲んでいた。

「ねえ、みんな一つ頼んでいい?」

 目を伏せたまま言った。何となくだけど、目を合わせづらかった。単に恥ずかしいだけなのかも知れない。

「ウォッカに聞きたい事があるの。悪いけど、席、外してもらっていい?」

 みんな交互に顔を見合わせた。ウォッカは顔を俯けたまま、やっぱり黙っていた。

「判ったわ。行きましょう」

 母がみんなを促した。震えるアリスの肩を抱くと、母はこちらを見て笑った。無理矢理繕った笑顔だった。

「ヨハン」

 ビックリするようにヨハンの肩が跳ねた。呼ばれるなんて考えもしなかったに違いない。

「今は、ミリーの傍にいてあげて」

 それが形としては一番望ましい。ヨハンなら、きっと今の気持ちも判るハズだ。

「お、おう」

 内心の動揺を懸命に抑えようとしているのがありありと判る。でも降って湧いた幸運とは思って欲しくなかった。

「手ぇ出したらタダじゃおかないわよ」

「お、おう」

 何がおう、だ。思わず口元が緩んだ。ミリアムはヨハンに支えられるようにして部屋を後にした。

 何の物音も聞こえなかった。ウォッカは相変わらず目を伏せて壁に背中を預けていた。

「ねえ、座らない?」

「ああ」

 言葉は肯定しているのに体は一向に動き出す気配がなかった。でも無理矢理促すのも気が引けた。

 居心地の悪い沈黙が室内を満たす。ウォッカは顔を上げると机の椅子を引いて横向きに座った。

 よくよく考えてみたら、この男とこうして二人きりになるのは初めてだった。ウォッカがここに来た最初の夜も二人で呑んだけど、少なくとも厨房に父がいた。今はに壁やドアに隔てられた空間に二人だけしかいない。自分から言い出しておきながら何をすべきなのか、何を話すべきなのか判らなかった。聞きたい事は山ほどあると言うのに。

「イリナも座れよ」

 促されてベッドに腰を下ろした。

 ウォッカを見る。この部屋に来て、初めてウォッカが笑った。やけに仕方なさそうな、でも親しみのある笑顔だった。


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