四日目 その九
蹄が地面を叩く度に荷台が揺れる。路面が多少デコボコしているせいもあるだろうが。だが今はそんな事に構っている暇はなかった。
出来る事なら荷台を外して行きたかった。その方が確実に速度が上がる。そう、冷静に考えれば。それが出来なかった。それくらい焦っていた。気が気ではなかった。それは今も変わらない。
司祭様を連れた師匠が血相を変えて店に転がり込んで来たのはホンの数十分前の事だった。だがそれ以上の時間が経過しているような錯覚に襲われている。必死に走っている馬の背中に怒鳴りつけてやりたくなった。動作の全てがもどかしく、まどろっこしく感じた。
「しばらく、ジェイクを預かってやって欲しい」
店に来るなり、師匠は早口にそれだけ言った。訳が判らない。怪訝に眉根を寄せた親方とヨハンを目にすると、師匠はさっきから茫然自失としている司祭様を女将さんに押し付けた。ヨハンと親方の手を引いて店を出る。
「突然申し訳ない」
「事情くらいは説明してくれるんだろ?」
「ああ。ただ今は時間がないから手短にな」
師匠は表のベンチに腰を下ろす。親方がその隣に陣取った。
「非常にマズい事になった」
「だから、何がだよ」
「奴ら、ジェイクを利用してウォッカを誘き出しやがった。この間に絶対何かしかけて来る」
咄嗟に言葉が出なかった。言わんとしたい事が上手く想像出来ない。
「どういう事ですか?」
「ジェイクからウォッカに用がある、そう告げてウォッカを呼び出した。厳密には指示に従わないと二人のうちのどちらかを殺すと脅されてな」
今度は絶句した。親方も組んだ腕を解く事もせずに固まっている。
「こんな七面倒臭い手間をかけてる訳だからな、必ず何か事を起こす」
すぐさま親方が納屋の方に駆け出して行く。年齢を感じさせない行動の速さだった。
「ヨハンはすぐに宿に行ってくれ。その上で状況を後で伝えて欲しい」
師匠は顔を歪めると首を横に振った。何事もなければそれに越した事はないが、それはまず有り得ない。絶対に、それも飛び切り悪い事が起こるのは間違いない。
「俺はここでジェイクを見てる。今あいつを一人には出来ねえ」
「どうしてですか?」
「首をくくるか手首を切るか、何れにしても深刻な事態を招きかねない」
脅されていたとは言え、自分の行動がどんな結果を招くのか想像する事くらいは出来たハズだ。それが故に自分がした事の重大さに脅えている。今の司祭様の心境を鑑みれば、自責の念に駆られて自ら命を絶つ事も大いに考えられる。全く有り得ない話ではない。
だから司祭様をここに連れて来たのだ。
「悪いな。でも今のジェイクの心境を理解出来る奴が咄嗟に浮かばなかった」
指示に背いたらリーゼルが死ぬ、そう脅迫されたらヨハンも同じ事をしていたかも知れない。絶対にないとは言い切れなかった。奴らはこちらを殺す事は極力しない。だが同時に生かす事もしない。確実に弱らせる術を心得ている。真綿で首を締めるように、或いは生き血を啜るように。握り締めた拳が、腕が震えた。やり方が汚な過ぎる。
「ヨハン、すぐに行って来い」
馬車を引いて来た親方が手綱をヨハンに寄越した。
「俺はガイデルと一緒にジェイクを見てる」
荷台に飛び乗った。そのまま後ろも見ずに馬車を駆った。
誰にも司祭様を責めるような真似は出来ない。もしヨハン達の知らないところでレンがこんな風に脅迫されたら、どうなっていたか判らない。その対象がヨハンやレンではなく司祭様だった、それだけの話だ。他に家族のいない司祭様なら誰かに気取られる事もない。相談されて途中で計画が露見する可能性も更に低くなる。だから司祭様を狙ったのだ、ウォッカを宿から確実に遠ざけるために。
下っ端連中は単細胞の馬鹿ばかりだが、全員が全員そうと言う訳ではなさそうだった。状況を冷静に分析して最善策を模索する程度の頭がある奴はいるらしい。今にも腸が煮え繰り返りそうだった。どいつもこいつも、余計な事ばかりに知恵を働かせやがって。
目一杯飛ばせば二十分もかからないはずだ。頼むから間に合ってくれ。何事もなければいいが。今はみんなの無事を祈るしかない。それに、イリナもいる。並大抵の奴が相手ならあいつが全員蹴散らしてくれる。だがさっきから沸き起こっている胸騒ぎは一向に収まる気配がない。それが焦る気持ちに拍車をかける。差して暑い訳でもないのに額から汗が吹き出している。手綱を力一杯握り締めていた。
今は前しか見えなかった。一刻も早くみんなのところへ。考えられる事もそれだけだった。
荷台に乗っていただけなのに、どういう訳か息が上がっていた。肩は激しく上下し、汗が眉間から鼻筋に流れて落ちる。
次の角を曲がればもうすぐそこだ。それにしても、さっきからやたら人がそこら中を彷徨いている。胸騒ぎが一層激しくなった。
宿が見えた。いや、厳密には店の前に出来上がっている人だかりで入口はほぼ完全に隠れている。
馬車を止めると荷台から飛び降りた。
「ちょっとどいてくれ! 通してくれ!」
人垣を押し退けて店に入る。
これまで何度も嗅いだ覚えのある匂いが鼻を突いた。床に人が何人も倒れていた。
「イリナ!」
両肩から血を流しているイリナが仰向けに横たわっていた。唇の端から血が垂れているがそれを拭う事もせず半開きになった目を宙に漂わせている。
「頼む、誰かイリナを早く……!」
「じっとしてろ、ダン! お前も充分重傷なんだ!」
介抱しているオッサンが叫んだ。よく見るとダンの足から折れた骨が皮膚を突き破って飛び出していた。これでは動く事もままならない。突如として込み上げた吐き気を手で口を塞いで堪える。
何があったのか考えるまでもなかった。いや考えたくなかった。ダンの隣にはミリアムとアリスがそれぞれ倒れていた。完全に意識を失っているアリスとは違い、ミリアムは時折僅かに体を痙攣させている。だが自分の意思では全く動けないようだった。
これが悪い夢ならさっさと覚めて欲しかった。一番見たくなかったものが現実になってしまっている。大声を上げて卒倒出来たらどれほど楽だろう。
背後から誰かが慌ただしく店に入る足音が聞こえた。反射的に振り向く。ドアの縁に手をかけたウォッカが目を見開いてこちらを睨んでいた。
「何があった!」
突然怒鳴り付けた。これまでとは印象がまるで違う。
「あんたが留守にしている間に奴らがやって来て、カティを拐っていった。抵抗しようとしたダンやイリナ達もみんな返り討ちに……」
説明していたオッサンが顔を引き攣らせて一歩退いた。後ろ姿しか見えないが、それでもウォッカが尋常でないくらい怒っているのは一目瞭然だった。
よく見るとウォッカから背中の辺りが血で真っ赤に染まっていた。何があったかは判らないが、これだけ出血するような傷を負っているなら結構な重傷なハズだ。
ウォッカは店内を睨み付けるとイリナの所に駆け寄った。
「イリナ! しっかりしろ!」
全く反応がない。ひょっとしたら、もう既に事切れているのかも知れない。いや、こいつに限ってそんな事はない。殺しても死ぬようなタマじゃない。いつものように憎まれ口を叩きながらムックリと起き上がってくるに違いない。
ウォッカがイリナの手首を握った。脈を測っているのはすぐに判った。
「いつまで寝てんだ! 早く目ぇ覚ませ!」
やはり返事はない。目には生を感じさせるような光は既になかった。目の前が真っ暗になった。おい、冗談だろ? お前に限って、そんな事。ウォッカはイリナの肩に宛がわれていた布切れを剥いだ。まだ止まり切っていない血が患部から溢れ出す。鎖骨とその下にある動脈が切断されているのだ、これを止めない限り死は避けられない。ウォッカは自分の肩から流れているいる血を指に掬い取るととそれをイリナの傷口に当てた。
「おい、あんた何やってんだ!」
「うるさい! 黙ってろ!」
気圧されたオッサンが尻餅を突いた。語気だけで軽く人を圧倒するくらいの迫力があった。
血に塗れたウォッカの手が薄っすらと光った、ように見えた。いや錯覚ではない。間違いなく光っている。それもかなり強く。余っていた左手からも同じように光が放たれた。未だに出血しているイリナの右肩にそっと宛がう。火が少しずつ燃え盛るように光が徐々に強まっていく。光が強すぎるせいで中の様子は窺えない。
「貫通してるのか」
ウォッカは小さく舌打ちした。反対側にも同じようにして手を当てる。今まで光に包まれていた右肩が露になった。パックリ口を開けていた傷が綺麗に塞がっていた、いや傷そのものがなくなっていた。
訳が判らない。何故触れただけで傷が治るのか。そもそもどうして手が光るのか。
「よし」
右肩から手を離すと軽く握り込んだ拳で今度はイリナの胸、心臓の辺りを叩き始めた。傷は塞がってもまだ予断は許さない状態である事に変わりはないようだった。そうだ、肩を貫かれて、動脈が切断されているのだ。傷口は塞がっても出血量が多ければ失血死する事になる。根本的な問題はまだ何も解決していない。
ウォッカは血で濡れている自分の肩にもう一度触れた。患部を指で押して更に血を出した。それを掌に掬い取るとイリナの左肩の傷口に流し込む。人差し指と中指の先端を傷口に差し入れた。指が、掌が更に強い光を放った。心臓を叩いていた左手で左肩の後ろに触れる。左手が淡く光った。
どれくらいの間そうしていたのか判らない。肩に当てていた手を離すと鎖骨の下から脇腹にかけて切り裂かれた傷、より厳密には血の痕を睨んだ。服の上から傷口をなぞるようにして掌を這わせる。
熱を測る時のようにイリナの額の上に左の掌を置いた。右手は相変わらず肩の傷に差したままだが、光はさっきよりもいくらか弱まっていた。
左肩から指を抜いた。改めて手首を握ると脈を取る。ウォッカはゆっくり息を吐き出した。額に浮かんだ汗を腕で拭う。半開きだったイリナの目はいつの間にか閉じられていた。だが規則的で力強さを感じさせる息遣いがハッキリと聞き取れた。
張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
だが、まだ終わった訳ではない。
「ウォッカ!」
意図せずに叫んでいた。この状態は尋常とは言い難い。
ウォッカはすぐさま駆け寄るとミリアムの前で膝を突いた。
唇と爪が明らかに紫色に変色していた。爪の紫が徐々に指全体を浸食し始めている。意識は辛うじてあるが混濁しているし呼吸にも力がなかった。今にも止まりそうだ。
ウォッカはミリアムの手を退けると胸の脇の辺りに触れた。眉間に皺が寄った。
「ウォッカさん……」
息も絶え絶えと言うような声だった。余程痛むのか、時折激しく体を痙攣させる。
「私よりも、アリスを先に診てあげて。あの子、腕を折られてる……」
ウォッカは患部に掌を宛がったまま困ったように顔をしかめた。
「君は折れた肋が肺に刺さって酸欠を起こしてる。君の方が明らかに重傷だよ」
掌の光が強くなった。痛むのか、ミリアムは苦しそうに目を閉じた。
「普通は肋が折れただけでも相当苦しいんだぜ。だからもう喋るな」
そうだ。昔肋を折った人から、呼吸するだけで痛むから常に痛みと息苦しさがついて回ると聞いた事がある。その上それが肺に突き刺さっているとなれば痛みも尋常ではないハズだ。
「これが終わったらすぐにアリスの所に行くよ。だから今は少し休んでな」
ミリアムはウォッカを見ると微かに頷いた。目尻に滲んでいた涙が床に落ちた。眠りに就くように目を閉じる。
ウォッカの掌が強く光った。イリナにもそうしていたように、左手をミリアムの額の上に置いた。
しゃっくりでもするようにつっかえていたミリアムの呼吸が徐々に穏やかになっていた。さっきまであれだけしていた痙攣も今はすっかりナリを潜めている。当のミリアムは目を閉じたまま微動だにしない。いや、完全に眠っている。ウォッカはアリスの前で腰を屈めると声をかけた。
「アリス、大丈夫か?」
ウォッカが折れた腕に触れた瞬間、鋭く息を飲む音が聞こえた。
「あっ……!」
アリスが折れた腕を押さえてのたうつ。
「痛っ……!」
「ごめんな、起こしちまって」
掌が強く光ると短く悲鳴が上がった。
「すぐ、すぐ楽になるからあと少しだけ勘弁してくれねえかな」
まるで子供をあやすようだった。心の底から安心出来るような声だ。
「他に痛むところは?」
アリスは右の脇腹と鳩尾を指で示した。
「殴られたのか」
顔をしかめたウォッカに、アリスは力なく頷いた。よく見るとあれだけ長かったアリスの髪がバッサリ切り落とされている。今はミリアムと殆ど大差ない。これだけ痛めつけてその上女の髪まで切るなんて、あいつらやっぱり絶対に普通の人間じゃない。人の皮を被った化け物だ。
「今はゆっくり休むといい」
目を閉じるとすぐに規則的な息遣いが聞こえて来た。確かに、今は少しでも眠っておいた方がいい。相当体力を消耗しているハズだ。
ウォッカは立ち上がると女将さんの前で膝を折った。鼻が歪んでいる。掌から放たれた光が顔全体を包み込んだ。歪んでいた鼻が少しずつではあるが確実に真っ直ぐ元通りになっていく。
薄っすらと女将さんの目が開いた。瞬間、一気に意識が覚醒した。
「ここは? 一体何があったんですか?」
ウォッカは顔を歪めたまま首を横に振った。
「カティが、奴らに拉致されました」
女将さんは目を見開くと鋭く息を飲んだ。確かに、さっきからカティの姿が見えない。
でも、奴らがカティを拉致しなければならない理由が見当たらない。これまで女など拐った事もなかったのに。
「どうしてカティが……!」
愕然と見開かれた女将さんの目から涙が一筋流れ落ちた。ウォッカは黙って首を横に振った。拳を握り締めた右腕がブルブル震えている。
「それに、この子達はどうしたの? 一体何があったの?」
「奴らにやられました。ですけど、傷はほぼ治しました。ご心配には及びません」
「治したって……」
治ったならばまだ判らなくもない。それでもあれだけの重傷がものの数分で完治するなど絶対に有り得ない。
考えられない事が目の前で起きた。それは紛れもない事実だった。
「女将さんに一つお願いしたい事が」
「私に、ですか?」
「イリナ、服が血塗れなんです。部屋に行って着替えさせてやりたいんで、ご用意をお願いしてもよろしいですか?」
「判りました。用意しておきます」
「助かります。俺もすぐ向かいますので」
女将さんは立ち上がると足早に食堂を後にする。これだけの事が起こったのに涙を流したのは最初だけだった。穏やかな見た目に反して精神的にはかなり頑丈だった。少なくともヨハンを軽く凌ぐくらいの強さがある。
女将さんを見送ったウォッカは旦那さんの前でしゃがみ込んだ。
「ウォッカさん、あなた一体……」
「んな事はどうでもいいんです。今は旦那さんのお怪我を治すのが先ですよ」
言うが早いかウォッカはダンの足に手を宛がった。
「痛みますか?」
「は、はい……」
ダンが顔をしかめた。折れた骨が皮膚を突き破っているのだ、痛くないハズがない。失神してもおかしくないくらいだ。
骨が肉の中に隠れた。ウォッカはもう一度自分の肩を押した。さっきそうしたように血を掌に取ってまだ空いている傷口に少しずつ流し込む。今度は傷口に指を差し入れた。さっきイリナにしていたのと全く同じ行程を辿っている。
「気分はどうですか? 目眩がしたり頭がフラついたりとか」
「はい、頭が重いですね。気分も優れません」
ウォッカはダンの手首を軽く握った。顔をしかめる。
「ですよね」
指先が強い光を放った。眩しいのか、ダンは顔の前に手を翳して目を閉じた。でも顔を背ける事はしない。光の中に目を凝らしている。まるでこれから起こる事をしっかり目に焼き付けるように。
「イリナ程ではないにしても、旦那さんも相当出血してましたから」
「そう、ですね」
「体力が回復するまでしばらく休んでいて下さい」
応えようとするダンを制するように、ウォッカは彼の額に手を当てた。頭がスッポリと白い光に包まれる。
「いかがですか?」
「大分、いやかなり楽になりました。もう、普通に動けそうです」
ウォッカは心の底から安心したように笑った。いい具合に体から力が抜けている。
気を取り直すようにウォッカの顔が引き締まった。まだ全て終わった訳ではない。
空いていた傷口が少しずつ塞がっていく。傷そのものが完全に見えなくなるとようやくウォッカの手から光が消えた。目を閉じるとゆっくり息を吐いた。
ウォッカは動こうとしたダンの肩に手を置いた。首を横に振る。
「体力が元に戻るまで休んでいて下さい。ここで無理をすると体に障ります」
ダンの体を静かに横たえた。額の上に手を載せる。
「ウォッカさん」
ダンがウォッカの手を握った。目元が濡れていた。
「ありがとうございました」
額に置いていたウォッカの手がもう一度光った。ダンがゆっくりと目を閉じた。そのまま動かなくなる。床に横になったダンの胸の辺りが微かに上下している。
膝から力が抜けていく。立っていられなかった。そのまま床に尻餅を突いた。
ウォッカがヨハンを見た。
「さっきは済まなかったな」
「済まないって、何がだよ」
「つい怒鳴っちまってさ」
「そんな事気にすんなよ。あの状況で冷静でいろって方が無理な話さ」
ねぇ、とさっきからずっと隣で尻餅を突いた姿勢で茫然としているオッサンに同意を求める。オッサンは呆けたように頷いた。腰が抜けているのかも知れない。実際腰が抜けるような事がここで起こった。それは紛れもない事実だった。
「それより、どうしてここに?」
「さっき師匠に司祭様を預かるよう頼まれた。俺にはここの状況を確認して来いってな」
「そうか、なら話が早い」
ウォッカはヨハンのところに来ると手を差し出した。手が血塗れだった。全く気にせず手を伸ばす。力強く引き上げられた。
「俺も状況を正確に把握してる訳じゃない」
だが大方察しはつくハズだ。この男は見た目の印象ほど粗野でも馬鹿でもない。
「ガイデルさんからは何処まで聞いてる?」
「ウォッカをさっき呼び出さなければ二人のうちのどちらかを殺す、司祭様が奴らにそう脅迫されてたってな」
「そこまで聞いてれば充分だな。一つ頼みがある。ここであった事、みんなが襲われて大怪我した事やカティが拐われた事は絶対に司祭様の耳に入らないようにして欲しい」
「ああ、判った」
言える訳がない。ヨハン一人だけならそれも容易い。だが表には騒ぎを聞きつけて集まった人達が大勢いる。そういう連中の口を塞ぐのは想像以上に大変だ。人の口に戸は立てられない。だがこれまで司祭様に世話になった人もいるに違いない。ある程度事情を説明すればきっと判ってくれるハズだ。迂闊に人に話せるような事ではない。
「それと、今見た事も他言無用だ。絶対に黙っててくれ」
口調は静かだが有無を言わさぬものがあった。拒む事は許されない。
実際それを間近で目の当たりにしたヨハンですら夢でも見ていたような錯覚に陥る。それくらい非現実的だった。だからそれをその場に居合わせなかった人が聞いたところで素直に信じるとも思えなかった。取り越し苦労と言う気がしないでもない。
だが今目の前で起こった事は紛れもない事実なのだ。大怪我をしたダンや瀕死だったイリナをここに担ぎ込んだ人もいる。そんな人達がすっかり回復した二人を見たら……。
何れにしてもおいそれと人に話せるような事ではない。ウォッカに釘を刺されるまでもなく黙っているのが筋だろう。
ウォッカは横になっていたイリナをそっと横向きに抱き上げた。
「怪我は、もう大丈夫なんだよな?」
「怪我はな」
下がりそうになったイリナの頭を腕で支えた。イリナの息遣いだけが聞こえる。
「ただかなり出血してたから外傷よりも脳の方が心配だ」
「それってどういう意味だよ」
「何らかの障害が残るか、或いは意識そのものが戻らないか……」
倒れそうになったヨハンの腕をウォッカが咄嗟に掴んだ。女とは言え、大人一人を抱えたままよくすぐさま体が動くなと思う。
それよりも、
「そんな縁起でもねぇ事言わないでくれよ。すっかり助かったもんだと思ったのに」
「済まねえ。飽くまでそういう危険性がある、それだけの話なんだが全くないって訳でもないからな」
たとえそうだとしても非常に心臓に悪い。ようやく這い上がった崖の天辺から思い切り突き落とされたような気分だった。
「それも、ウォッカの力で何とかならねえのかよ」
「そこまで万能じゃない。出来ない事もある。でも、」
ウォッカは再び手に光を灯すとイリナの額に触れた。
「最善は尽くす」
ウォッカの腕が音を立てて太くなった。眼光が更に鋭くなる。抜き身の真剣を目の前に突きつけられたようだった。
「頼むぜ」
ウォッカの肩を拳で叩いた。声が震えていた。
応える代わりにウォッカは黙って頷いた。そのまま食堂を後にする。
あの憎まれ口を聞けなくなる事も、ここであいつが作った飯が食えなくなる事も、酒を酌み交わしながら馬鹿笑い出来なくなる事も、どれも絶対に考えたくなかった。誰かに会えなくなる事も、死に別れる事も絶対にごめんだった。
戻って来いよ、絶対に。
ヨハンは店から出た。ウォッカ程ではないにしても、ヨハンにもやるべき事がある。今はそれを全うしよう。死んでいい人なんか一人もいない。だから早く戻って来い。今はそれ以外考えられなかった。




