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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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四日目 その八

 壊れたゼンマイ人形のようにシャカリキに手足を振っているせいで動きだけみると一生懸命なのはよく判るけど何処か笑いを誘うものがあった。距離があるせいで表情は窺えない。でも鬼気迫るような尋常じゃない雰囲気は充分伝わって来た。それこそ痛いくらいに。

 兵士が彼を指差して笑い声を上げた。

「おい見ろよ。あいつ走って追い掛けて来てやがるぜ。本気で追いつけると思ってるのかよ」

 だとしたら正真正銘の馬鹿だな。笑い飛ばした兵士の後頭部を殴りたくなったけど、そいつの言う通りだった。どれだけ懸命に走っても人が馬の足に敵う訳がない。判ってはいたけど、考えると改めて絶望的な気持ちになった。

 でも可能性がある以上捨てたくなかった。藁のような頼りないものでも今は全力で縋りたかった。

 涙で滲んだ目でもう一度外を見る。心なしか、さっきより距離が縮んでいる気がした。いや、錯覚じゃない。今は表情もハッキリ見える。ウォッカだった。いつもは眠そうにしているか穏やかに笑っているのに、それが想像出来ないくらいおっかない顔をしている。怒るとこんな顔をするのか。鬼のような形相でこちらを睨んだまま、ウォッカはものも言わずに駆け続けている。

 その後も距離は離されるどころか逆に縮まっていく。兵士連中の顔から笑みが消えた。目に見えて引き攣っている。

「おい、もっと飛ばせ!」

「やってる!」

 馭者が怒鳴り返した。

 蹄が地面を叩く音が鼓膜を揺るがしている。息遣いが聞こえるほど近付いてはいないけど、それも時間の問題だ。

「ちょっと、さっさとどうにかしなさいよ!」

 今度はさっきの女が怒鳴った。あからさまに苛立った声だった。全速力で走っている馬に人が走って追い付こうとしているのだ、これまで当然想像した事すらないのだろう。当たり前だ、そんな事は普通誰も考えない。それが現実に起ころうとしている。

 尚も距離は縮まっていく。兵士が転がっていた棒状のものを手に取った。槍だった。最初は顔も見えなかったのに、今は槍が届くまでに近付いている事になる。でも素直に喜べない。

 兵士が槍をウォッカに向けた。息が止まりそうになった。槍を突き出した兵士の動きが止まった。と思ったら次の瞬間には槍を持ったまま幌の外に悲鳴を上げながら飛び出して行った。顔を地面に叩きつけられると砂煙を上げて転がる。そのまま動かなくなった。ウォッカが受け止めた槍を引っ張ったに違いない。

 ウォッカならば、この調子で走り続ければいずれ追い付くだろう。でも、今大切なのはそんな事ではない。それにようやく気付いた。

「来ちゃダメ!」

 立ち上がっていた。ウォッカに向かって声の限りに叫んだ。

 ウォッカは構わず馬車に向かって突進している。ダメだ、ウォッカの耳に届く言葉を選ばないと。馬車に追い付くまでウォッカは止まらない。出来る事ならカティもそうして欲しいしすぐにでも戻りたい。でもそんな事をしていたら間に合わない。

 イリナを救うには、絶対にウォッカの力が必要だ。だから一刻も早く戻ってもらわないと。イリナだけじゃない。みんな相当な怪我をしている。医者に診てもらっても元に戻らないかも知れない、それくらいの傷を負っている。でもウォッカならば、あの力を使えばみんなを救えるかも知れない。傷を治すだけじゃなく、恐怖で冷え切った心も掌で包み込むようにして温めてくれた。

 ここに来てくれる事は涙が出そうになるくらい嬉しいけど、今はここにいるべきじゃない。その力を、みんなのために使って欲しかった。

 幌の入口近くにいた兵士が懐から取り出した何かをウォッカに向けた。息が止まりそうになった。

 想像していたよりずっと乾いた音だった。撃った瞬間は殆ど反射的に目を閉じていた。恐ろしくてとても見られなかった。

 ウォッカはさっきまでと全く変わった様子もなく突っ走っている。良かった、外れたみたいだ。でもまだ安心なんて出来ない。

 また乾いた音がした。今度は見た。より正確には目を背ける暇がなかった。弾丸が発射されると同時にウォッカは右に跳んだ。銃口を突きつけられても臆した様子は微塵もない。むしろさっきより明らかに表情が険しくなった。

 続け様に放たれた銃弾を右に左に跳んでかわす。次の瞬間、ウォッカの顔にピッタリと照準があった。今撃たれたら間に合わない。

 銃声が蹄の音を一瞬かき消した。反射的に目を思い切り閉じていた。跳んでかわすにはあまりに時間が短か過ぎた。絶対に間に合わない。耳に入るのは蹄と人の足が地面を叩く音だった。ウォッカは尚も走り続けていた。振っていたはずの右手がいつの間にか顔の前にあった。右の拳に握っていた何かを親指で弾いた。それまで拳銃を撃っていた兵士が肩を押さえて尻餅を突いた。指の隙間から赤いものが流れ出ている。

 何が起こっているのか全然理解出来なかった。

「少しは頭を使えよ」

 みんなを散々痛めつけたあの男が兵士の手から落ちた銃を拾い上げた。銃口をウォッカの顔に向ける。ウォッカは動じた気配もなく相変わらずこちらを睨み付けたまま真っ正面から突っ込んで来る。

「私はいいから、すぐに戻って! みんなを助けて!」

 それでも足を止めない。ウォッカの目的は飽くまでカティを奪還する事だ。それが叶うまで絶対に諦めない。そんな不動の意思を感じさせるには充分な表情だった。

 そうじゃない。今は私よりもみんなを、イリナを助けて!

 顔に合わせていた照準を不意に左にずらした。ウォッカが跳んだ。銃口の逆ではなく、その正面に。

 激しく首を横に振りながら、声の限りに叫んでいた。

 何度目かの銃声が耳朶を打った。走っていたはずのウォッカが膝を突いてこちらに背中を向けていた。一体何が起こったのか、それを瞬時には把握出来なかった。。

 目の前にまで迫っていたウォッカの姿があっという間に小さくなる。彼の右の背中、肩よりやや胸に近いの辺りから染み出した赤が瞬く間に背中全体を浸食していく。やがて子供の泣き声が聞こえて来た。側にいた若い女性が悲鳴を上げながらウォッカに、いや彼の胸にいる我が子に駆け寄る。

 ウォッカではなく偶々側を通っていた子供を狙ったのだ。ウォッカが庇う事を見越した上で。その子の盾になったウォッカの背中に弾丸が命中した。信じられないくらいの勢いで血が広がって行く。ウォッカは肩越しにこちらを睨んだ。これだけ出血しているのに、普通の人間ならば間違いなく致命傷だろうに全くそれを感じさせない。判っていた事ではあるけど、やっぱり彼は、ウォッカは普通の人間ではないんだろうな。

 そして、こいつは別の意味で絶対に普通の人間じゃない。やっている事は吐き気がするくらい下衆だ。でもこうして目論見通りウォッカの足を止めている。身の周りにあるものを上手く利用して目的を達成させる。馬鹿には出来ない芸当だ。しかもこの切迫した状況の中で、だ。

 小さくなったかと思ったウォッカの後ろ姿はそのまますぐに見えなくなった。必死に掴もうとしていた糸が指の隙間から抜けて行くような気分だった。ウォッカには一刻も早くみんなの所に戻って欲しい、その気持ちに偽りはない。でもウォッカの後ろ姿が完全に見えなくなった瞬間、夜空に漆を塗りたくったように目の前が真っ暗になった。父や母、イリナやミリアムやアリス、学校の友達、そしてウォッカに次に会えるのは一体いつなのだろう。もう、会えないのかも知れない。そんな考えが脳裡を過った瞬間、両目から一気に涙が溢れた。

 だから、せめてみんなには助かって欲しかった。もっと早くウォッカを気付かせる事が出来ていたら、彼もあんな大怪我を負う事もなかった。ごめんなさい、本当にごめんなさい。また会う事が出来たら、その時はキチンとお詫びをしよう。そしてお礼を伝えよう。いつかみたいに何も言えないような事がないように。

 視界に映る全てがゆっくりと、しかし確実に歪んでいく。やがて角砂糖がお湯に溶けるようにして意識が薄れて行った。


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