四日目 その七
上がった砂煙が風に吹かれて消えていく。仰向けに倒れ、半開きになったイリナの目には生気と言うものが全く窺えなかった。溢れた涙が目尻を伝って地面に落ちた。それを拭う事もせず、焦点の定まらない目が虚空を漂っている。
「イリナ姉……」
それ以上声が出なかった。叫び過ぎて喉が焼けつくようだった。ただ涙だけが途切れる兆しもなく流れ続けていた。
「やっと片付いたな」
男は剣を振ると付いていた血を払った。倒れている五人を順繰りに眺める。
「結構楽しめたよ」
切れた頬から依然として流れている血を指先で拭う。血を舐め取る表情は背筋が凍るくらいに冷酷だった。呼吸するように人を殺す、この男はそういう人間だ。
「ま、あのガキの方が多少上手だが大差はないな」
握っていた剣を鞘にしまった。止まっている馬車の方に向かって歩いていく。
「どうして、どうしてこんな事……!」
嗚咽が声を詰まらせた。男は檻の中に閉じ込めている実験用に捕獲した動物を観察するような目でカティを見た。
「何の恨みがあってこんな酷い事するのよ!」
「別に恩も恨みもない」
男は目だけ動かしてカティを見た。表情が穏やかな分、それが却って不気味だった。
「元々縁も所縁もないんだからな」
「だったらどうして!」
男は考えるように顎に手を当てるとゆっくり首を横に振った。
「ガキのお前には判らないよ」
「どういう意味よ!」
「全てを意のままにする、それがどういう気分か考えた事はあるか?」
興奮と怒り、それと混乱で頭がまともに働かない。ただ間違いないのはこれまで一度たりともそんな事を考えた試しがないという事だ。逆にそんな事を考えるせいで血が流れるくらいなら、そんなものは絶対にない方がいい。
「お前を含めて、生殺与奪は俺にある。その意味が判るか?」
顎を掴まれた。無理矢理男の方に顔を向けられる。
「ここで倒れている誰かの胸に剣を突き立てればそれだけであの世行きだ」
男は再び剣の柄に手をかけた。
「止めて!」
考えるより先に声が出ていた。掴みかかろうにも屈強な兵士に羽交い締めにされていては満足に動く事も出来ない。
「別にお前の身内に限った話じゃない」
男はカティの服の襟元に手をかけた。そのまま勢いよく引き下げる。音を立てて布地が引き裂かれた。恐怖で喉が、体が硬直して全く動かない。茫然と見開かれた目から涙が一筋流れて落ちた。取り囲む下っ端共が途端に下卑た笑みを浮かべる。はだけた胸元から中が見えそうだった。それを隠す事も出来ない。
「当然、お前もその中に含まれる」
殺す事も出来る。ただ今はそうしないだけの話だ。
取り囲んでいる一人が短剣を抜いた。抜き身の刃を目の前に突きつける。顔を逸らす事も出来ない。いや、下手に動けば顔を切りかねない。恐怖に耐え切れずに目を閉じた。その拍子に髪の毛が何本か落ちた。次は剣の切っ先をゆっくりと喉の根元に当てた。一瞬息が止まった。刺すような痛みの後、血が喉から伝って胸へと流れていく。膝が音を立てて震えている。羽交い締めにされていなければその場にへたり込んでいた。
「いい面構えになって来たな」
男は心底楽しそうに笑った。人を痛めつける事に全く躊躇いを感じていない。何をどう間違えるとこんな人間になるのか。理不尽な暴力に晒される怒りよりも、家族を痛めつけられる様をまざまざと見せつれられた衝撃があまりに大きすぎて今にも心が壊れそうだった。思考も感覚もほぼ完全に停止していた。今考えられるのはこの地獄から一秒でも早く解放されたいという事だけだ。悪夢ならば何れは覚めるかも知れない。でもこれは紛れもない現実だ。これ以上何かされたら一体どうなるか判らない。カティの理解の範疇を越えている事は確かだった。
「久し振りにいいものを見させてもらったわ」
不意に女の声が聞こえた。女と言うだけでその場に不似合いに感じるのは何故だろう。
「ありがとね」
それが誰に向けられた言葉なのか最初は判らなかった。波打った長い髪を押さえながら、女は労を労うように件の男の肩に手を置いた。笑ってはいるけど、女の言葉を素直に喜んでいるようには見えなかった。
「意外に時間がかかったわね」
「こいつらより余程、いや遥かに手強いですよ。宿屋で酔っ払いの相手をさせるには勿体ないですね」
「へぇ、あなたが相手を誉めるなんて珍しいわね」
「事実を申し上げたまでです」
手持ちの兵士より余程使えると評した姉三人をこいつは軽く一蹴しているのだ。言葉に説得力がない。
「あなたが言うと嫌味にしか聞こえないわ」
「ただその娘三人に俺が勝っただけの話です。事実に変わりはありません」
「変わりはないねぇ」
女は倒れている五人を実に楽しそうな顔で見下ろす。男よりも年齢は間違いなく上だけど、かなりの美人だった。でも唇の端を極端に上げて笑う横顔は美しさよりも明らかに狂気が勝っているように見えた。人が苦しめられ、痛めつけられる様子を目の当たりにしても何の感慨も湧かない。こいつも同じ類いの人間か。
「その割には楽勝って感じだけど」
「紙一重ですよ。相手が誰であれ急所に一発入れればそれで終わりです。あるとすれば……」
男は顎に手を当てると思わせ振りに宙を睨んだ。
「後はご想像にお任せします。姐さんならすぐに判りますよ」
姐さんと呼ばれた女はカティの方に向き直ると男の言葉に同意を示すように頷いた。歩み寄ると伸ばした手でカティの顎を掴んだ。
「あんたにはもっと泣き叫んでもらわないと困るわ」
背中の毛を逆立てて警戒する猫をあやすような声で頭を撫でたかと思うと、何の前触れもなく拳で鳩尾の辺りを殴った。
息が止まった。羽交い締めにしていた兵士が腕から力を抜いた。地面に膝を突くと同時にこれまで抑えていたものが堰を切って溢れ出て来た。胃液を盛大に吐き出すと涙の滲んだ目で睨み付ける。
「そうそう、その顔よ。段々いい表情になって来たわね」
今度は横面を蹴り飛ばされた。倒れたところを頭と言わず体と言わず、全身の至る所を踏みつけられる。悲鳴を上げる暇もない。
「ま、恨むならあなたの父親を恨みなさい」
倒れていたところを前髪を鷲掴みにされた。無理矢理顔を上げる形になった。歯が食い込んで切れた唇から血が滴っている。拭いたいけど手にも指にも力が入らなかった。目に涙が滲んでいるせいでよく見えない。でもこの女が笑っている事だけはハッキリ判った。
「連れていって」
体に力が入らない。とても自力では立てそうになかった。背後から両脇を抱え上げられると荷物のように肩に担がれた。
嫌だ、行きたくない。辛うじて意識はあるけど抵抗出来るだけの気力も体力も残されていなかった。幌の中に入るとものでも扱うように放り投げる。喘ぐように声を上げるのがやっとだった。
仰向けに倒れているせいで服を破かれた胸元が剥き出しになっていた。隠そうにも腕に力が入らない。
「年の割に案外出るところは出てるもんだな」
取り囲んでいる男達がいかにも好色そうに笑った。背筋が今にも凍りつきそうだった。
腕で見えそうになっている胸を隠す。こんな獣のような連中を前にして肌を晒すなんて死んでもごめんだった。構う様子もなく下卑た笑みを浮かべて距離を詰める。身の毛がよだった。力を入れた腕がガクガク震えた。それを無理矢理押さえつけて体を起こす。
「いや! 止めて!」
竦めた首を激しく左右に振る。理性のタガが外れたのか、そもそもそんなものは最初からないのか、或いは本能がそれを軽く凌駕しているのか、獲物を仕留める獣のように男共がにじり寄る。
「おい、何だあれ?」
荷台の端に陣取っていた兵士が不意に声を上げた。釣られるようにして外に視線を向ける。
誰かが馬車に向かって一直線に突っ走って来ていた。




