四日目 その伍
不意に流れた風が髪を揺らした。靡く髪を押さえる事もなく切っ先の向こうにいる相手を黙って睨む。表情だけ見れば善人のそれだ。でも澄み切ったドス黒さが確実に滲み出ていた。母を除けば皆間違いなく重傷だ。それだけの事を、この男は別段躊躇う事もなくやってのけた。そして、これからやろうとしている事はそれすら凌ぐ。
背中を伝う汗がかつてないくらい冷え切っていた。意識して殊更ゆっくり深呼吸した。気持ちが引いていたらまずここは切り抜けられない。落ち着いて、平常心を維持しなければ。
「イリナ姉……」
茫然と見開かれたカティの両目から涙が止めどなく溢れている。家族を目の前で半殺しにされて平静を保てる人なんて絶対にいない。その恐怖と衝撃で完全に思考が停止していた。
「大丈夫、そんな顔しないで」
自分でも信じられないくらい自然に笑っていた。挫けそうになった心を無意識に叱咤していたのかも知れない。いや、そうじゃない。絶対にあの子を取り戻す、その一念が自分を奮い立たせていた。
「大丈夫?」
男は左手に持っていた剣の切っ先を初めて上げた。でも構える事はしない。顎の高さに合わせただけだった。
「何がだ?」
「ここに連れ戻す。それだけよ」
「成程」
今度は杖を差すように剣の切っ先を地面に突き刺した。気勢を削がれると言うか、攻める意欲をなくしたようにも見える。
「じゃ、是非実践してみてくれ」
踏み込むと同時に袈裟斬りに剣を振り下ろした。でもそれよりも先にかわされている。やっぱり速い。返す刃を横に薙いだ。硬い衝撃が跳ね返って来た。凌ぎの上で刃が止まっていた。
相手の剣を押し返して後ろに跳んだ。迂闊に足を止めるような真似は出来ない。かと言って勝算がある訳でもない。迷いが動きを鈍らせる。
眼前に振り下ろされた剣を柄の手前で辛うじて受け止める。あと一瞬遅かったら胴から首が切り離されていた。後ろに飛び退くと同時に左の肘と膝を折って体を丸める。鞭のようにしなやかな蹴りが肘と膝に当たったのはその直後だった。
更に一歩身を引いた。左手と左脚の感覚が鈍い。痛みなのか痺れなのか判らない。ただ直撃をもらっていたらそこで終わっていた事は間違いなかった。
「本当に大丈夫か?」
わざとらしく溜め息を吐いているけどそれに腹を立てる余裕はない。一瞬でも気を抜いたらそこで全てが終わる。
命を懸けて誰かと剣を交えたのはこれが生まれて初めてだった。それに気付いて初めて腕が、体が震えた。昨日のウォッカとの手合わせも全く気は抜けなかったけど、それとは全く異質だった。生きるか死ぬか、そのどちらかであってそれ以外はない。なのに、何故この男はこんなに平然としていられるのか。考えられる可能性もいくつかあるのかも知れない。でも頭に浮かんだのは一つだけだった。慣れているのだ、命を懸けた戦いにも、人を殺す事にも。この男にとっては晴れた日に散歩する程度のものなのだろう。だとしたら経験の差は明らかだ。
だからと言って退く訳には行かない。それは死に直結する。逆にこの男を退けてカティを取り戻す。選択肢はそれ以外残されていない。やるべき事は決まっているのだ。前を見据えたままゆっくり息を吐いた。強張っていた体からようやく力が抜けた。かつてない緊張感と重圧、そして恐怖に晒されている事に変わりはない。でも絶対に負けられない、負ける訳には行かない。
剣を正眼に構えたまま体を前に傾けた。男の顔が僅かに引き締まった。足を運んだ勢いをそのまま剣に載せる。突き出された切っ先を男は右に跳んでかわした。動きを追尾するように横に薙いだ剣は柄の根元で止められた。右にかけていた力を再び正面に向ける。今度は男が後ろに飛び退いた。裂けた右の頬から血が滴っている。当たった感触はあったけどやっぱり浅かったか。仕留め切れなかった。露骨に舌打ちした。
拭った指先に付いた血を舐めると男は唇の端を上げて笑った。かなり凄絶な表情だった。気が弱い人ならそれだけで卒倒しそうだった。これがこの男の本性なのだろう。つまりはそういう人間だ。
「惜しかったな」
最後に踏み込むのがあと一瞬早ければ終わっていたかも知れない。そう思うと確かに悔やまれる。でも落ち着いて冷静に事を運べば対処出来る。そうだ、焦るな、落ち着け。急いては事を仕損じる、確かにその通りだ。先人の作った言葉に間違いはない。恐怖と重圧から解放される事を望むべきではない。さっきから早鐘を打ち続けている鼓動を鎮めるように深呼吸する。出来る事なら胸に手を置きたいけどそんな暇はない。
正眼に構えた瞬間、男も突っ込んで来た。剣と剣が斜めに交差する。重心を低くして相手の剣を押し戻す。それに素直に応じてくれるほど相手もお人好しではない。
「なかなかいい腕だな」
今にも心臓が音を立てて破裂しそうだった。少しでも気を抜いたら目の前に突きつけられた刃で全身を切り刻まれる。
「取り敢えずお前もこっちに来い。そこで突っ立ってる馬鹿共より遥かに役に立つ」
突っ立っている馬鹿共が誰なのか確認する余裕は取り敢えずない。応える代わりに睨み付ける。押し付けられた剣を両手で弾き返した。すぐさま垂直に振り下ろした剣は凌ぎで止められた。体勢が整う前だと思っていたけど、身のこなしが軽いだけでなく反応も速い。
「死んでもごめんよ」
熱湯のような汗が眉間から鼻筋にかけて流れ落ちて来た。長引くのは絶対に避けたかった。戦況がより不利に傾く。
「そうか」
腕に力を込めたまま腰を沈める。押さえつけていた剣が一気に弾き返された。
「それは残念だ」
下から剣が勢いよく振り上げられた。抑えようとした両腕が万歳でもするように跳ね上げられる。首から下がガラ空きだ。
「――ッ!」
腕を、剣を何処まで戻せたのか。それを冷静に把握する暇などない。全力で後ろに跳んだ。白い光が目の前で弧を描いた。
全力で振り抜かれたはずの剣はいつの間にか鞘に収まっていた。張り付いたような不自然な笑顔はその名残りすらなく、今は不気味なくらいの無表情でこちらを睨んでいた。
剣に体重を載せて押さえつけていたのにそれをあっさり弾き返し、ガラ空きの胴に向けて真横に剣を薙ぐ。正直、今立っていられるのが不思議なくらいだった。右腕から流れ出した何かが下に落ちた。
「よくかわせたな」
間に合わなかったか。右腕の三頭筋がパックリ割れていた。そこから溢れ出た血が腕を真っ赤に染め上げている。
「イリナ姉!」
「皮が切れただけよ。大した傷じゃないわ」
傷自体が軽傷である事は勿論だけど、興奮状態にあるせいか差して痛みは感じなかった。腕も、指も動く。大きな支障はない。
踏み込みに併せて垂直に振り下ろされた剣を頭の上ギリギリで受ける。右腕が重い。さっきまでと比べて明らかに反応が鈍っている。
退くか攻撃に転じるか迷いが生じた瞬間、右足の太股に重苦しい衝撃を感じた。
慌てて退こうとした時、今度は右膝の内側に痛みを覚えた。
「ぐっ……!」
痛みよりも痺れるような感覚に近かった。力が加わるとそれが明確な痛みに変わった。
「これでもう動けないだろ」
身震いするほど悔しいけどこいつの言う通りだった。立っているのが精一杯だ。この状態ではまともに動く事も出来ない。
迂闊だった。この男が剣だけでないのは先刻承知していた。でもいつの間にか意識が剣に集中していた。斬撃で動きを止めている間にガラ空きの膝に下段蹴りが二発。意識的な死角から放たれた蹴りは、その痛みは事の他大きかった。
「さて」
剣を構える事もせずゆっくりと歩み寄ってくる。もうその必要もない。そう、こいつにとっては。あとは猫が死にかけた鼠をいたぶるようなものだ。苦労などない。
でも。柄を両手で力一杯握り締めた。ここで退く訳には、負ける訳にはいかない。一瞬でも気を抜いたらもう二度と触れる事も、声を聞く事も叶わなくなる。
それだけは、絶対に嫌だった。死んでも耐えられなかった。二度と家族と会えなくなるなんて絶対に考えられない。
剣を握り直した。吐く息に併せて前に踏み出そうとした瞬間、左肩に激痛が走り抜けた。
「あ……」
愕然と目を見開いたまま左肩を見る。深々と突き刺さった剣が肩を貫通していた。
「振り下ろせば一発で終わったんだが、それじゃつまらないだろ」
斜めに、袈裟斬りに切り下ろせば間違いなく絶命していた。そうしなかったのは勿論温情や手加減に依るものではない。
単になぶりたいだけだ。
剣に串刺しにされているせいで身動ぎも出来ない。下手に動こうとすれば肩とその周辺に激痛が走る。男は苦悶にのたうつ様を見て楽しむように笑っている。
「俺って優しいだろ?」
剣が引き抜かれた瞬間、膝から崩れ落ちた。それでも悲鳴は上げなかった。こんな奴に、こんな人の風上にも置けないような下衆野郎にこれ以上自分の弱さを晒すなんて死んでもごめんだった。
左腕が動かせない。熱さを伴った痛みが左肩を中心に少しずつ周囲に広がっていく。鎖骨は綺麗に両断されている事だろう。その下にある動脈も言うに及ばずだ。僧帽筋も大部分が確実に切断されている。右腕とは比較にならない勢いで赤が面積を広げていく。
間違いなく死に直結する傷だった。
意識が朦朧とし始めて来ていた。でもそう遠からず死が訪れる事は朧気ながらにも理解は出来た。
こんな形で突然死ぬ事になるなんてこれっぽっちも想像しなかった。こんな事なら昨夜もっと呑んでおけば良かった。 父さんとも母さんとも、もうお酒は呑めなくなる。それだけじゃない、皆と話す事も声を上げて笑う事も……。視界の片隅にカティの姿が映った。涙は枯れる兆しもなく止めどなく溢れ続けている。懸命に首を左右に振りながら何か叫んでいるけど上手く聞き取れない。せめて、せめてあなただけでも助かってくれれば。
ごめんね。悔しいけど、私にはこいつを止められそうもない。でもこのままじゃ絶対に終われない。せめて一矢報いたかった。一太刀返したかった。こいつを止めるだけの力は残ってないけど、次に繋がる傷を負わせる事が出来れば。戦況をこちらに有利に傾ける事だってきっと不可能じゃないハズだ。
後は頼んだわよ、ウォッカ。全く、こんな時に限って一体何処をほっつき歩いてんのよ。笑おうとして笑えなかった。その代わりなのか、涙が流れた。でも何故涙が出るのか判らなかった。
気を抜いたらそのまま倒れそうだった。懸命に目を見開いても、視界に映ったものは全て輪郭がボヤけていた。もう長くは持たない。顔を上げて前を睨む。男は実に悠然とした雰囲気で距離を詰めて来ていた。遠いのか近いのか、それすら判らない。でも意識を集中しなければ。この剣がギリギリ届く間合いまで引き付けて、そこで残った全てをぶつける。望みをかけるとしたらそこしかない。
吐く息が熱い。肩は焼けつくようだった。痛みを通り越して既に感覚がない。だらしなくぶら下げた左腕を伝って血が地面に落ちる。左腕はもう使い物にならないな。治療すれば元には戻るだろうけど、それまで命を繋ぎ止める事が出来るか。傾きそうになった体を辛うじて踏ん張って支える。視界が徐々に、でも確実に歪んでいく。あまり速くても困る。でもゆっくり過ぎては身が持たない。笑うに笑えなかった。ゆっくり息を吐いた時、間合いの僅かに外に立っていた男が一歩踏み込んだ。鋭く息を吸い込む。
一気に息を吐き出すと同時に右手一本で握り締めた剣を男の胴に目掛けて真っ直ぐ前に突き出した。体が伸び切った姿勢で動きが止まった。
「意外に楽観的なんだな」
男が困ったような顔をして頭を掻いていた。柄を握っていた右手から力が抜けていく。
「その状態で本気で当てる気だったんだからな」
目を見開いて凝然と右肩を見る。突き刺さっているせいで刃先は見えなかった。さっきほど深くはないにしても骨や動脈を断つには充分な一撃だった。
何をするのか完全に読まれていた。そして先回りされた上での反撃だった。
手から落ちた剣が乾いた音を立てた。殊更時間をかけて肩から剣が引き抜かれた。そのまま鎖骨の下から左の脇腹へかけて切っ先が皮膚を裂く。
もう痛みは感じなかった。やたら熱い何かが体全体を覆っていく。体が後ろに傾いだ。目に映る全てはボヤけ、何の輪郭も残してはいなかった。
すぐ側にいるハズのカティの声が酷く遠くから聞こえる。カティの顔が見たいのに、何処にも姿がなかった。呼ぼうとしても喉は凍りついたように動かない。それが哀しくて堪らなくて涙が溢れた。教えて、何処にいるの? お願い、返事してよ。
体が重い。瞼はそれ以上に重く、そして冷たかった。でも眠気とは明らかに違う。霧に覆われた夜空より暗く、どす黒くて絶望的だった。もう目は見えなかった。やがて意識の全てが黒一色で埋め尽くされていった。




