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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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四日目 その四

 声が聞こえてからそこに到着するまでに三秒かからなかった。悲鳴と言うのは絶対に只事ではない。況してや聞き覚えのある、身内の人間の声ならば尚更だ。

 すぐ先にカティがいた。その背後には見知らぬ男が立っていた。こちらに駆け寄ろうとしたカティの腕を男は捻り上げた。小さいが鋭い悲鳴が上がった。

「手を放しなさい」

 カティの顔が苦痛に歪んでいる。手首を握る手に少しずつ力を加えている。いつだったか、ウォッカが奴らにした事だ。もっともウォッカはこんなか弱い女ではなくむさ苦しい男共だったが。

 男は必死に悲鳴を堪えているカティを大して面白くもなさそうな顔で見下ろしている。

「断る」

 前に身を乗り出そうとした時、隣にいた父が腕を伸ばして制した。

「うちの娘が、何かご無礼を?」

「ああ」

 男が初めてこちらを見た。見た目はウォッカより遥かに若いが年齢はこいつの方が確実に上だ。顔立ちも悪くない。磨けば光るのではなく既にある程度光っている、そういう類いの顔だった。それがこちらの不意を突くように笑った。実に人畜無害な笑顔だった。でも行動と言動がそれに伴わない。人が良さそうに見えるせいで却ってその笑顔が薄ら寒かった。つまりはそういう顔だ。

「無礼がなきゃこんな手荒な真似はしないよ」

 油がまとわりつくような目でカティを見るとゆっくり首を横に振った。助平が浴びせる視線とは全く異質なものだった。そしてそれより遥かに質が悪い。

「大した力もない女子供の自由を奪う事が手荒だと言う自覚があるなら、今すぐその手を離して下さい」

 声や態度は普段と殆ど変わらない。ただ眼光だけは射るように鋭く、ゾッとするくらいに冷たかった。これから沸き上がるであろう怒りを懸命に抑えるように。

「その子がそこにいなくても、話は出来るでしょう」

「その科白、そっくり返そうか」

 手首を捻り上げながら腕を引き絞る。カティの顔が激痛で激しく歪んだ。あのまま上に持っていくと確実に腕が折れる。

「小娘一人がいないだけで話も出来ないんじゃこの先商売もままならないだろ」

 小馬鹿にするように首を傾げた。挑発だと判っていても猛烈に腹が立つ。

「痛い、離して」

 泣き声を上げないのはカティの細やかな意地なのかも知れない。その代わりとでも言うように目尻に涙を滲ませたまま男を睨み付けている。

「何の理由があってこんな乱暴な真似……」

「それを張本人のお前が聞くのか?」

 カティを見下ろす目が残酷に笑っている。まともな人間が見せる表情には程遠いものがあった。やはりこいつらとはまともな話し合いは成立しない。人の姿をした、いや人の皮を被った化け物だ。

「人の財布をすっておいてよくそんな事が言えたもんだ」

 怒りで強張っていた父の顔が僅かに曇った。さっき手渡した財布に目を落とす。

「お前の指示か?」

 だとしたら大した父親だな。皮肉や挑発ではなく、純粋な悪意でここまで人の神経を逆撫でするのはある種の素質や才能がなければまず出来ない。そう、普通の人間には。それを羨む気にはとてもなれないけど。

「父さん、もう堪える必要なんかないよ」

「ああ」

 ミリアムの言葉を背中で聞きながら、父は頷きもせずに件の男を睨み続けていた。

「生憎、私はあなた方と違って一般的な常識や礼儀作法しかわきまえておりませんので、子供に伝えた事は精々その程度です。人の懐から財布をするなんて罪人みたいな真似なんて教えちゃいません。人畜無害な一市民には端から無理な芸当です。人の街に土足で踏み入って好き勝手踏みにじるようなあなた方には想像すら出来ない事かも知れませんが。ですので、非常に残念ですが人違いです」

「だったら、部下に預けていたはずの俺の財布が何故ここにある?」

 応えに詰まる質問だった。思う事はあっても安易に即答出来ない。あいつらが仕組んでいるとしか思えない。でもそれを示す証拠はない。

「何故私の娘がそれをすったとお考えになったんです?」

「街中でお前の娘とぶつかった後に財布がない事に気付いた。実際出て来たんだからこれ以上の証拠もないだろ」

 客観的な事実だけ並べればこちらの両手が上がるのは避けられない。でもそれだけで割り切れる訳がない。完全な濡れ衣だ。せめてカティが側にいれば声高にそれを主張出来た。でもあいつらの手の内にいる以上下手は打てない。

「普通やましい事をしてそれを誰かから指摘された場合、本当に心当たりがあるなら平静を装うのは相当難しいはずなんですがね」

 あなたには想像も出来ないかも知れませんが、とは言わなかった。でも父の本心はそこにある。

「突然理不尽な暴力を受ける事に対して動揺はしていてもあなたが今おっしゃってる財布に関してはどうでしょうか」

 カティは涙を懸命に堪えながら激しく首を左右に振っている。あの子がそんな事なんかする訳がない。最初から判り切っていた。こいつらが描いた絵図に従う道理など何処にもない。

「娘を返して下さい」

 静かだけど有無を言わさぬものがあった。これまでとは迫力が違う。

「断る」

 動揺した様子など微塵も見せず、むしろ静かに怒りをたぎらせる父を見て心底楽しむように笑っている。

「何れにしてもこの娘には用がある。過程はどうあれ結果に変更はない」

 さっきから飾りのように男とカティの背後で突っ立っていた兵士数人も同調するように薄ら笑った。

 挑発の意図があったかどうかは定かではないし、それに乗った訳でもない。少なくともこのままじっとしていても何も変わらない事だけは確かだ。駆け出す直前に一瞬体を低く沈み込ませるのと奴らの背後に母が立ったのが殆ど同時だった。気付かれないように裏口から出て来たのかも知れない。手に握っていたデッキブラシを音もなく振り上げる。

「えい!」

 薪を斧で叩き割るような音が聞こえた。振り抜いたデッキブラシが丁度側頭部の辺りで微妙に揺れていた。兵士が一人倒れた。

「えい!」

 返すデッキブラシで隣の兵士を狙う。直撃には到らなかったけど怯ませるには充分だった。

 さっきから仕切っていた男がカティを脇にいた兵士に押しつけた。再びデッキブラシを構えようとしていた母に一歩歩み寄る。

 瞬間、何かが破裂するような音が聞こえた。母は声も上げず仰向けに倒れる。

「あ~!」

 裏口の方から飛び出して来たアリスが奴らに突進して行く。意表を突くには充分な速さだった。油断していた兵士の横面が正拳突きで派手に弾き飛ばされる。拳を引いた僅かな間だけ動きが止まる。その瞬間を見逃さずアリスに振り下ろされた拳を横から父が受け止めた。年齢に相応しくない素早さだった。

「娘を離してとっとと帰れ」

 唸るような低い声で言った。これまで聞いた事もないような声だった。恐らく、いや間違いなく完全に怒っている。

本気で怒る父を目にしたのはこれが初めてだった。

「手間が省けた」

 軋むような、或いは砕けるような鈍い音と共に父の顔が歪んだ。息を呑んだ。膝の脇から折れた骨が皮膚を突き破って飛び出していた。堪らず膝を折った。それでも声は上げなかった。

「そこでしばらく大人しくしてな」

 鞘から剣を引き抜いた。地面に置いていた父の手の甲に音もなく突き刺す。

「父さん!」

 カティが叫んだ。駆け寄ろうとしたカティを兵士が羽交い締めにして抑えつける。

「その子を離してとっとと失せろ」

「やっとあんたの本音が聞けた気がするな」

本当に清々しい笑顔だった。人を何一つ躊躇う事なく蹂躙するような人間が見せる表情ではない。

「心外か?」

「いや、光栄だよ。実に」

 軽く弾みをつけると爪先で父の右の脇腹の辺りを蹴り上げる。堪らず脇腹を押さえて踞った。

 絹を引き裂いたような悲鳴が上がった。

「この~!」

 拳を脇に引いたまま、アリスが男に向かって突進した。鼻っ柱に放たれた正拳突きは難なくかわされた。真横に薙いだ蹴りを半歩下がってよける。足が地面に着くと同時に一気に間合いを詰めた。上下に打ち分けた拳の乱打を折り畳んだ両腕で綺麗に受け止める。

「筋は悪くない」

 腕の隙間から声が漏れ出るように聞こえて来た。

「ただ少し単調だ」

 男が握り込んだ拳を顎の下の辺りに構えた。顔に向けて放たれた拳を腕で防いだ。鞭でひっぱたいたような甲高い音が響いた。続けざまに拳が浴びせかけられる。アリスよりも明らかに速く、そして重い。防ぐ腕に力がなくなりかけた時、下から突き上げた拳がアリスの鳩尾の辺りを捉えた。顔をしかめると後ろに飛び退く。男は悠然と距離を詰めるとアリスの脇腹を蹴った。アリスは膝を折り畳んで受け止める。足を降ろして構え直した。足元がフラついている。男がまた蹴った。今度は脇腹ではなく、直接脚を狙った。体が大きく傾く。間髪入れずに反対側を蹴った。アリスは膝を曲げたままもう一度後ろに引いた。歯を食いしばって懸命に耐えているけど相当効いているはずだ。

「取り敢えず、動きは止まったな」

 男は実に悠然とした雰囲気でアリスとの距離を詰める。攻守が完全に逆転していた。

 踏み出そうとしたミリアムが動きを止めた。攻撃の対象がアリスである事は間違いないけどこちらを目で牽制する事も忘れていない。しかもアリスを間に挟んでいるせいで下手に動くと盾にされる。それを考慮しつつ動きやすい位置を常に維持している。力任せに暴れ回るような単細胞でない事は間違いなさそうだった。

「アリス、もういいわ。引きなさい!」

 一旦は離した間合いを徐々に詰めようとしている。まだ諦めていない。その根性だけは買う。でも選択自体は決して賢明とは言えなかった。

「お前より姉貴の方が引き際ってものを心得てるみたいだな」

 男は横目でこちらを窺うと嘲るように笑った。言い終える前にアリスが飛び掛かっていた。

 顔面に向けて放たれた正拳突きを捌いた直後、アリスの口から嗚咽のような悲鳴が漏れた。右の脇腹を押さえたまま両膝を突く。

 脚を痛めているせいで勢いは落ちるし踏ん張りも利かない。この男ならかわすのも容易いだろう。アリスの拳を右手で払うと同時にガラ空きだった右の脇腹、恐らく肝臓の辺りに拳を叩き込んだのだろう。

「あ……う……」

 立ち上がる事はおろか動く事すら出来ない。相当効いている。口から血の混じった胃液を吐き出した。

「何だ? もう終いか?」

 失望したように溜め息を吐くと右足の爪先で何度か地面を蹴った。直後、何かが砕けるような鈍い音がした。アリスの左の上腕が真ん中の辺りから不自然に曲がっている。悲鳴を上げながら倒れそうになったアリスの髪を男は鷲掴みにした。

「もう戦えないわ! 止めて!」

「まだ仕上げが済んでない。もう少し付き合えよ」

 男は脇に差していた短剣を抜いた。吊り下げられて真っ直ぐに伸びているアリスの髪の端に刃を宛がう。

 糸が切れた操り人形のようにアリスは仰向けに倒れた。開いた掌から切れた髪が風に吹かれて舞い散る。

 カティの絶叫が響き渡ったのと木槍を手にしたミリアムが男に飛び掛かったのがほぼ同時だった。真っ直ぐに放たれた槍の先端を鞘で受け流した。

「絶対に許さない」

「別に端から許されようなんて思ってない」

 体を反転させると槍の反対側を勢いよく振り回した。最初の一撃と同様に鞘で受け止める。

 得物の長さはミリアムの方が遥かに上だ。それに対して特別焦りや戸惑いは感じているようには見えない。泰然と言うより悠然と鞘を構えた。構えるとは言っても手に取っただけだ。武器としては扱っているとは言い難い。

 ミリアムは槍を構え直した。そのまま真っ直ぐ突進する。狙い澄ました先端が喉元に突き刺さったかと思った刹那、男が姿を消した。極端に姿勢を低くした男が後ろに飛び退いて距離を取った。

「いい反応だな」

 男が左腕を右手で擦っている。それで理解出来た。槍をかわした瞬間にミリアムの懐に飛び込んでいた。それをミリアムが右脚で、膝で迎え撃ったのだ。長さがある分懐に入り込まれやすい。そうなってしまったら膨大な隙を相手に晒す事になる。でもそれはミリアムも重々承知している。

 肩を上下させてゆっくり息を吐く。ミリアムが改めて槍を構え直した。考えもなく突っ込むような迂闊な真似は出来ない。それが許されるような相手ではない。いつもより長めに構えた槍の先端を男の喉元に合わせる。

 顔の真ん中に放たれた槍を横に跳んでかわした。間髪入れずに足元を槍で薙いだ。垂直にした鞘で受け止めた瞬間、そこを起点にして一気に間合いに侵入した。ミリアムは体を背後に反転させて右の踵を突き出した。重ねた両腕に踵がぶつかる。直撃は回避されたけど衝撃で後ろに戻されるくらいの威力はある。軸足に体重がほとんど残っていない。

「動きが読みやすいな」

「あんたもね」

 男が腰の左後ろに短剣を差し直した。

「一つ教えてやるよ」

 今度は長剣の鞘を脇に差した。手に何も持っていない。これもある種の挑発かも知れない。でもそれに安易に乗るほどミリアムは単純ではない。

「槍の長さに頼り過ぎだ」

 瞬間、ミリアムは姿勢を低くして前に跳んだ。アリスに引けを取らない速さだった。元々決して広くなかった間合いが瞬時に縮まる。胸の真ん中に放たれた槍が直撃したかに思えた刹那、男の姿が再び消えた。さっきとほぼ同じ構図だ。

硬い何かが砕けるような音がした。

「あ……」

 ミリアムの手から槍が落ちた。

「言ったろ?」

 男はミリアムの右の肋骨に宛がっていた短剣を鞘に収める。

「槍の長さに頼り過ぎなんだよ。それに次の動きも判りやすい。だから懐が空く」

 懐に潜り込んだ男はミリアムが迎え撃つよりも先に膝を右手で上から押さえ付けていた。迎撃出来なかったばかりか、無防備だった肋骨に腰の捻りを加えた短剣の柄、鉄の塊を力一杯ぶつけられたのだ。腰の後ろに短剣を差し直したのはそのためか。確実に折られた、いや折れただけで済めばいい。

 両膝から崩れ落ちたミリアムが仰向けに倒れた。背中が地面についた瞬間、短い悲鳴が上がった。

「あ……あ……」

 呼吸するたびに体が激しく痙攣する。男は羽を引き千切った虫を見るような無感動な目でミリアムを見下ろしている。

「ここでまた肋を踏みつけたらどうなるかな」

「そんな真似、絶対にさせないわ」

 倒れていた兵士の鞘から剣を引き抜く。構える事はせず、切っ先を下げた。

「一番下のあの娘と一緒に来るならこれ以上手出しはしない」

「死んでもごめんよ」

「そうか」

 男は腰に差していた剣に手を掛けた。ゆっくり引き抜くとイリナがそうしているように構えはせず切っ先を下に向けた。

「ならば死ね」

 剣の重みを確かめるように軽く振った。重すぎもせず軽くもなく、丁度良く手の中に収まる重さだった。

 ゆっくり深呼吸しながら、両手に持った剣を正眼に構えた。程好く男前に整った顔が穏やかに笑っていた。歪んだ笑みだった。


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