四日目 その参
風が埃を僅かに舞い上がらせた。肘を載せていたモップを脇に抱えるようにして持つとミリアムは床掃除を再開した。テーブルももう一度拭いておく必要がある。
そこまで厳しく注意したつもりはない。むしろかなり甘かったかなと言うのが正直な感想だ。少なくとも顔を赤らめて出ていかれるとは考えなかった。
普段から末っ子に、カティに甘いと異口同音に散々言われているが、ダンにもその自覚はあった。それを変えようと言う気持ちもあるし意識もしている。だが端からはそうは見えないのだろう。叱るたびに「あれの何処が厳しいのか」と小言を頂戴するのが常だった。今も厳しくしようと思って慎重に言葉を選んだつもりだが実際蓋を開けてみれば一般論を並べていただけだった。別に口調や態度がキツかった訳でもない。口の悪い輩に言わせれば「ただ注意しただけ」と言われるのが関の山だ。
ミリアムは無駄口を叩く事もなく、埃で汚れた床を黙々とモップで拭いている。無言で見えない重圧をかけられているようだった。下手に言葉を口にするより沈黙の方が余程堪える。それを狙っているのか、はたまた考えすぎなのか。
確かにカティに対して甘い事は事実だ。四人の娘の中で唯一無難に、女の子として全うに育っていると思う。道は踏み外して欲しくなかった。要はその思いが強すぎるのだろう。
厳しく叱ろうとしているのにそれが形にならない。なのに顔を赤らめて出て行ってしまった。たったあれしきの言葉で堪えたとは考えたくなかった。甘いは甘いがそこまで甘やかしてはいない。
気不味さをごまかすようにして椅子から腰を浮かせた。下手に動くと不自然さがついて回るような錯覚に襲われる。やるべき事もあるにはあるが手を出せなかった。ここでまた椅子に腰を下ろすのは更に不自然だった。テーブルに転がっていた布巾を手に取る。中途半端に湿った布巾を綺麗に折り畳んだ。
「どうしたの?」
声は掛けたが手は止めない。気にかけているようにも見える一方で特別これと言った関心がないようにも思えた。やっぱり考えすぎだろうか。
「別にどうもしないよ」
「何だかうんざりしてるように見えるけど」
ミリアムの観察眼が優れているのか感情が顔に出やすいのか、考えるより先に溜め息が出た。隠し事の一つもロクに出来ないようでは逆に娘に探りを入れる事も今後叶わないだろう。長女とはまた違った鋭さがある。
「ここを出ていった時のカティの顔、見たか?」
「ええ」
あっさり頷かれると逆に返す言葉に詰まる。自分ばかりが無駄に気にし過ぎているように思えて来てしまう。そこまで考えて初めてハッとした。やっぱり考え過ぎだ。
「やけに赤かったように見えたが」
「錯覚じゃないと思うな」
相変わらずモップを動かす手は止めない。そしてこちらを見る事もしない。平静を装う理由があるとも思えない。
「確実に赤かったわね」
誰の目から見ても。一目瞭然と言ったところか。
「でもそれがどうしたって言うの? キツく叱りすぎたなんて後悔してるとか」
からかう事もなくミリアムは飽くまで淡々と言った。イリナだったらこうはいかない。アリスならば言うに及ばずだ。
「少なくとも厳しいなんて事はなかったわね。態度も口調も普通だったし」
それはそれでまた重い言葉でもあった。これしきの事で重いと言うのも情けないが、それを相談する相手もいない。
「だから叱られて泣いてるなんて事はまずないでしょ。あれくらいで泣いてたら相手も出来ないわ」
至極全うな見解だと思う。あれくらいで堪えていたら打たれ弱いにも程がある。
つまり厳しくしようと思っているだけで全く実践出来ていない事になる。それが端から見ても判るくらいだから話にもならないだろう。
結構痛い。
そしてあそこまで顔を赤くする理由が何処にあるのか。それが全く見えない。
「なら何だってあんな赤い顔をしてたのかな」
「さあ。あの子にはあの子の事情があるでしょうし、それを根掘り葉掘り探るのはどうかと思うけど」
我関せずと言う程薄情でもないしまとわりつくような暑苦しさもない。良くも悪くもミリアムの個性が表れていた。
「詮索屋は嫌われるわよ」
「仮にカティと同じような状況だったとして、俺からあれこれ聞かれたら応えてくれるのかな」
「相手にもしないわね」
即答だった。ちょっと哀しい。
「言いたくない事の一つや二つくらい誰にでもあるでしょ」
それをあれこれ探られて面白い訳がない。要はそっとしておいてと言う事だろう。全く以てその通りだった。
子供に教える事より子供から学ぶ事の方が多い気がする。昔から何度となく経験していた事だが最近はより顕著になった。
どちらが育てていてどちらが育てられているのか、たまにそれが判らなくなる。
「ねえ」
イリナが食堂に顔を出した。
「二人ともこれに見覚えはある?」
差し出されたものを見る。財布だった。
「いや、初めて見るな」
「私も見た事ないわ」
イリナは露骨に顔をしかめた。
「何処にあったんだ?」
「カティが持ってたカゴの中」
顔が歪んだのが自分でも判った。身に覚えのない、しかも直接的に金の絡んだものを持っていたとあってはそのまま捨て置く事など出来ない。
「あの子、何か言ってなかった?」
ミリアムと顔を見合わせると首を横に振った。聞く間もなくここから出て行ってしまった。
「薪を取りに言っただけだからもう戻って来ると思うが」
言い終えそうになった時、表から悲鳴が聞こえた。
転がっていた石コロを蹴飛ばして道の脇に退けると足を速めた。ツナギのポケットに両手を突っ込んだまま足に馴染んだ山道を歩いて行く。
部活がない分時間も体も空く。普段ならば暇を潰す手段を探すのに難儀するところだが今は違った。
どうしてジェイクはあんな事を言い出したのだろう。余所者のウォッカに話があるとも思えない。なのに何故会おうとするのか、何の用があると言うのか。気になるから教えて欲しいと言うのが素直な本心だ。話してくれるかどうかは別だが。
足音が近付いて来た。それもかなりの速さだ。振り向くと巨大な人影がこちらに向かって一直線に突っ走って来るのが目に入った。あ、と思う間もなく人影がガイデルを追い抜いた。直後に砂煙を上げながら滑って行く。靴の裏が確実に磨り減る止まり方だった。
「よぉ」
声を掛けると人影、ウォッカは顎の先から滴っている汗を拭いながら返事をするように頷いた。
「奇遇ですね」
「いや、俺もジェイクに会いに行こうと思ってな」
「ジェイク……あ、司祭様の事でしたよね、確か」
ガサツな見かけに反して察しは早い。肩を上下させてゆっくり息を吐く。
「そこまで急ぐ事もないんじゃねえか?」
「知らされたのがついさっきなんですよ」
これだけ急いで来たとなると本当に直前なのだろう。何よりあれだけの速さで走って来たと言うのに息も切れていないし疲れた様子もない。目に見える変化と言えば汗をかいている事くらいだ。
顔を見た時、意図せず眉根が寄った。程好い緊張感を保ちつつ適度に脱力するような微妙な立ち位置を維持していたウォッカの目が桶に放ったメダカのように泳いでいた。虚ろで焦点を結んでいない。心ここに在らずと言った風情だ。普段の泰然とした佇まいを知っているだけに余計異様に見えた。
試しに顔の前で手を左右に振ってみた。反応はない。
「お~い」
声をかけても返事はなかった。少なくともここにいるのはガイデルの知っているウォッカではない。
「おい」
手刀でウォッカの額を叩いた。虚ろだった目がようやく焦点を結んだ。
「一体どうしたんだよ、ボーッとしちまいやがって」
目を瞑っているのと何ら変わらない。こんな状態でよくここまで走って来られたものだ。
「いえ、別に俺は何も……」
完全に心を置き忘れた今の状態に何の異常もないのだとすればそちらの方が遥かに問題だ。泥酔したまま馬に乗る方が余程マシな気がした。
同年代の連中よりもしっかりしているとは思っているが、それでもまだまだ年相応なところもあると言う事なのかも知れない。不意に笑いが込み上げた。口元を左手で覆ったまま空いた右手でウォッカの肩を叩く。
「取り敢えず、行くか」
はあ、と気のない声を出して頷いた。
「何があったか知らねえが、お前にとっては余程の事なんだろうな」
今度も返事はなかった。何があったかは判らない。ただウォッカにとってはとんでもない何かが間違いなく起こっている。降り下ろされた真剣を素手で受け止めて叩き折るような男にとっての「とんでもない出来事」と言うものが皆目検討もつかないが。
今は何を言っても右から左だろう。ジェイクも気の毒に。こんな状態のウォッカに何の話があるのか。
「俺に用って一体何なんでしょうね」
「やっぱそう思うよな」
外野ですら真っ先にそれを考える。当人が気にならないはずがない。話した事もないのだから面識以前の問題だ。
「何の話なのか、想像はつくか?」
「はい、漠然とですけど」
朧気ながらでも輪郭が掴めているなら全体像もじき見えてくるだろう。それを連想させるきっかけが何処にあるのかが気になるところだが。
あれこれ考えていても仕方がない。一番手っ取り早い方法がもう目の前にある。
「あとは本人に聞けば済む事だな」
ウォッカは苛立ちを抑えるようにしてもどかしそうに頷いた。早く帰りたいんだなあという事がありありと判る。ならば尚更さっさと用件を済ませるべきだろう。
「ジェイク、入るぜ」
ノックにも呼び掛けにも一切反応はなかった。音は聞こえないが人がいる事は間違いない。人の気配と言うものはそう簡単に消せるものではない。
思わず顔をしかめた。隣にいるウォッカを見ると仕方なさそうに苦笑いしている。仮に今会えなかったとしても怒らない。むしろ早く帰れる分その方が助かる、そんな顔に見えた。どれだけさっさと帰りたいんだ。完全なやっつけ仕事ではないか。唐突に頼まれたウォッカにしてみればやっつけ仕事以外の何物でもないのかも知れないが。
溜め息を吐きながらノブを捻る。何の抵抗もなくドアが開いた。盗られて困るものもないとは思うがそれにしても少し無警戒過ぎる。ならば、施錠に加えて居留守まで使っていた一昨日の念の入りようは一体なんなのだろうか。
「司祭様、入りますよ」
開け放ったドアから中に入る。姿は見えないが感じるものがあった。間違いなくいる。ならば何故出迎えないのか。しかも自分から呼んでおきながら。
普通なら呆れてものも言えないがそういう気にはなれなかった。そのまま引き返すのではなく、むしろ尚更本人と会って話がしたかった。
部屋は綺麗に片付いている。昨日と何ら変わらない。応接間に続くドアは開け放たれている。窓から差し込んだ夕陽が床を鮮やかな橙に染めていた。部屋の奥を覗き込むと誰かが椅子に座ったまま項垂れていた。いくらなんでもこちらの気配には気付いているだろうに出迎える事はおろか顔を上げる事すらしない。吐き出したい気持ちをごまかすように頭を掻いた。ウォッカは困ったように首を傾げている。何のために呼び出したのか全く判らない。
わざと足音を立てて歩くとジェイクの真向かいに座る。それでも顔を上げようとはしなかった。ここで腕を組んでふんぞり返ったら不良債権を回収しに来た金貸しにしか見えないな。早く返せよ、いえ払えません。そんな下世話なやり取りを想像してた自分にうんざりするものを感じた。下世話と言うより不謹慎だった。
呼び出された当人はドアの前で気不味そうに頭を掻きながら突っ立っている。ガイデルは顎をしゃくるとウォッカに隣に座るよう促した。
二人が並んで目の前に座ってもジェイクは俯いたままだった。何の話があるのか、何を頼みたいのかすら判らない。ウォッカは困ったよう苦笑いを浮かべている。無理もない。自分から呼び出しておきながら礼を述べる事も挨拶すらもしない。どれだけ気が長くてもいい加減怒るところだ。
気持ちを抑えるように殊更ゆっくり息を吐き出した時、膝に置いていたジェイクの手が極端過ぎるくらいに震えている事に初めて気付いた。
「ミリアムから、俺に用があると伺いました」
怒る事も苛立つ事もなく、ウォッカは飽くまで淡々と言った。外野の分際で既に苛ついている誰かとは大違いだった。
「体調が優れないようでしたら日を改めますが、ご用件だけでもお聞かせ頂けますととても助かります」
呆れるくらいに丁寧な口調だった。さっきまでの心ここに在らずと言った雰囲気は一体何処に行ったのか。
「もう、用件は済んでおります」
地の底から響くような低い声が聞こえた。一瞬軽く混乱した。
「おいおい、おかしな冗談は止してくれよ。今来たばっかりで何の話もしてねえのに用件が済んでるも何もねえだろうが」
「今日この時間に、あなたにここに来て頂く事、それがあなたをここにお呼びした理由です」
「おい、そりゃ一体どういう……」
言葉の裏に隠された意味合いが耳の奥まで吸い込まれた瞬間、首筋に抜き身の刃を突きつけられた時のように心臓が一瞬にして凍りついた。それとウォッカが立ち上がったのが殆ど同時だった。
「ガイデルさん、一つ頼みが」
前を睨んだまま早口にウォッカは言った。確かにのんびり出来る余裕などない。
「司祭様の側にいてあげて下さい。今は絶対に一人にしないで下さい」
「判った」
頷いた瞬間、ウォッカはドアに向かって文字通り突進した。ドアを閉める事もせず全力で駆け出して行く。窓から外を見る。化け物染みた勢いであっという間に視界から姿を消した。一瞬だけ見た横顔は人には見えなかった。それこそ獣のようだった。
ジェイクは両手で顔を覆ったままガタガタ震えている。まだ何が起こったと決まった訳ではない。だが自分がした事の重大さに戦いているのは明らかだった。拳を握り締めた拍子に爪が掌に食い込む。溜め息を吐くと少しだけ力が抜けた。掻き毟った髪からフケがパラパラと落ちた。
「ウォッカをここに呼ぶよう言われた、いや脅されてたのか」
震えながら頷いた。それが精一杯なのだろう。
「奴らが接触したのは一昨日の夕方だな」
「どうして判った?」
「あんな判りやすい居留守されて不審に思うなってのが無理な話だな」
ようやくジェイクが顔を上げた。目が、全身が茫然自失としていた。目は開いていても像を結んでいない。意識はあっても正気を保っていない。
泳いでいた視線がようやく安定した。強張っていた肩から力が抜ける。そうなるまで優に一分はかかった。
「部屋の明かりも点いたままで表に馬が止まってたら、逆に返事がない方が疑わしいか」
全く以てその通りだ。落ち着いて考えればすぐに気付きそうな事でも切迫すると途端にそんな余裕は消し飛ぶ。
「どう動くかはこちらの自由。だが指示に従わなければ二人のうちのどちらかが死ぬ、それでも構わないなら好きにしろ。それが奴らの要求だった」
死人が口を利いたらきっとこんな声なのかも知れない。脱け殻の方が遥かに可愛いげがあった。
「誰かに話したかった。でも下手に動いて奴らに知られたら殺されるかも知れない。そう思ったら、誰にも話せなかった」
実際それが可能か否か、それを落ち着いて考えるだけの冷静さは期待出来なかった。ジェイクが誰に接触して何を話したのか、奴らがそれを逐一把握するには四六時中ジェイクを張っている必要がある。現実的な手段とは言い難い。ただの脅しだ。それを見抜けない。
それが奴らが嵌めた足枷だった。
握り締めた拳を思い切り壁に叩きつける。部屋全体が揺れた。やっている事はこれ以上にないくらい下衆だ。だが戦術としては極めて有効だ。だから余計に腹が立った。腸が煮え繰り返った。
これから何が起ころうとしているのか、正確には判らない。だが想像は出来る。それが現実にならない事を祈るしかなかった。出来る事なら今すぐにでもウォッカの後を追いたかった。そうしたところでまず間に合わないし、今のジェイクを一人にする事は出来ない。
間に合ってくれよ。
窓の外を睨んだ。千切れた雲の隙間から馬鹿みたいに鮮やかな夕陽が差し込んでいた。




