四日目 その壱
風がそよぐ度に木漏れ日が揺れる。放課後、こうして歩き慣れた道で帰途に就くのは本当に気分がいい。こんなに天気がよくて宿題も出されていなければ尚更だ。普段だったら友達とゆっくりお喋りに興じるか飼育小屋で動物と遊ぶかしているけど、今日は少し違った。一刻も、いや一分でも早く帰りたかった。どうしてこんなに気持ちが急いているのか自分でもよく判らない。家に帰っても何をする訳でもないのに。いや帰宅したら手伝いをするのは日課だけど、それ以外に特別何も予定はない。息が弾むくらいの速さで走って家に帰る理由なんて何処にもない。
山道から家の屋根が見えた。もうすぐそこだ。なだらかな坂道を一気に駆け下りる。家の脇で薪割りをしていたイリナの横を通り過ぎた。何か言い出しそうな顔をしていたけど無視した。用があるなら声をかけるくらいの事はする。それがないなら最初から用はないのかあったとしても大した事じゃない。
「ただいま!」
初等部に上がりたての子供のような声で言った。どうして今日はこんなに元気いっぱいなのだろう、上機嫌なのだろう。
「ホントにいいんですか?」
「暇ですから。いくらでもこき使ってやって下さい」
「こき使うだなんて、そんな失礼な事は出来ないですよ」
自分から言い出している癖に、母は緩んだ口元を右手で覆っている。対するウォッカは太鼓判でも押すように胸を叩いていた。
「どうしたの?」
「あら、カティ。お帰り」
カウンターの向こう側にいた母はカティを見ると穏やかに笑った。食堂には母とウォッカ以外に人影はない。昼食にしては遅すぎるし晩御飯を食べるには明らかに日が高い。一番中途半端な時間帯だ。
ウォッカは母が持っていた麻袋とカゴを受け取る。
「買い出しに行こうと思ってたんだけど、」
「皆さんお忙しいから俺が行きます、って言っただけだよ」
母は助かったような困ったような顔で苦笑いしている。厚意には甘えたいけどアッサリそれに従っていいものかと思うと躊躇うものがあるのだろう。
「そんな気ぃ遣わないで下さいよ。時間は有り余ってるんですから」
「そうよ。どうせ暇なんだから」
いつの間にか二人の背後に立っていたイリナがウォッカの肩に肘を置いて言った。
「時間を有効に使うには持ってこいよね」
「これ、イリナ」
「実際その通りですよ、女将さん」
目尻が僅かに引き攣り始めた母に昼寝でもすりようにウォッカはのんびりと言った。
「逆にこういう事がないと暇をもて余すだけですから。時間を有効に利用するならこの方が絶対にいいですよ」
「よく判ってんじゃない」
まるで仕事の出来を褒める上司のような態度だった。とても宿屋の娘とそこの客と言う風には思えない。互いに気心の知れた旧知の間柄に見える。そう、親友のようだった。
「じゃ、頼むわよ」
「そっちも仕事しろよ」
袋とカゴを両手に抱えたウォッカが出入口に歩いて行く。
「待って」
考えるより先に体が動いていた。袖口を掴むとウォッカが振り向いて首を傾げた。
「私もご一緒します」
させて下さいと言うべきだったかなとも思ったけど言わんとしたい事は変わらない。ただ多少の図々しさは否めない。
「何であんたが一緒に行くのよ」
早速来た。
「そうやって仕事サボりたいだけでしょう?」
「違います。どうしてそういう意地悪な言い方しか出来ないのよ」
抗議してもイリナは特別怯んだ様子もない。ツカツカと足音を立てて歩み寄ると腰に両手を当てた姿勢でこちらを見る。
「そもそも、あんたが一緒に行く理由なんか何処にもないじゃない」
「道案内して差し上げるの。ウォッカさん、まだここに来て四日しか経ってないんだから何が何処にあるかなんて判らないじゃない」
イリナは感心したように目を丸くした。咄嗟に出た応えにしては上々と言ったところだろうか。実際その通りだけど。背筋を冷や汗が伝う。
「確かに皆さんが行くより多少、場合によっては相当時間はかかるかも知れないですね」
ウォッカは納得するように頭を掻いている。本人のお墨付きがあるのだから外野にあれこれ言われる筋合いはない。
「まあ、ウォッカさんがそうおっしゃるなら」
母がカティの頭に手を置いた。
「ご迷惑はかけないようにね」
「かける訳ないじゃない。心配し過ぎだよ」
全く、何処まで子供扱いするのか。首を横に振って抗議しても不安を拭えないような微妙な表情で眉を掻いている。私ってそんなに信用ないのかなあ。
「言ったからにはあんたがしっかり案内してあげなさいね」
イリナは頭を鷲掴みにした右手に更に力を込めて行く。髪をクシャクシャにしないで欲しい。
「そんな訳でよろしく頼むわね、ウォッカ」
「どうして俺に言うんだよ」
もっともな意見だと思う。
ウォッカの左手にあったカゴを取る。余った右手でもう一度ウォッカの袖を引いた。
「行きましょう」
店を出るとズンズンウォッカの手を引っ張って行く。どうしてこんなに積極的なのか自分でもよく判らない。誰がどう見ても強引についてきたようにしか見えない。ようやくそれに気付いて耳の先が熱くなった。首を竦めたまま恐る恐る振り向くと、ウォッカは困ったような顔で頬を掻いていた。でも迷惑そうには見えなかった。それだけで嬉しくなった。
「そこまで急ぐ理由もないだろ?」
ウォッカを引く右手が途端に重くなった。ウォッカが速度を落としたのだ。
「ゆっくり行こうよ」
ウォッカは被っていた帽子の庇を上げて辺りを視線を巡らせた。別にこの後何か用事がある訳じゃない。勢いに任せて飛び出して来ただけだ。それに、その方が彼と過ごす時間も必然的に長くなる。
足から力が抜けた。さっきまでは前しか見えていなかったけど、今は視野の全体が見渡せる。
「そうですね」
何だかさっきまでとはまた違った意味で頬が熱くなった。こっそりウォッカの様子を伺うと年齢を疑いたくなるような顔で笑っている。笑顔だけ見たら十歳くらいにしか見えない。見た目は三十歳、いやそれ以上だけど。
ウォッカがそうしたように額に手をかざして空を見上げた。雲は殆ど見えなかった。抜けるような青空を燕が一匹横切って行く。
「今日もいい天気だな」
本当に気分が良さそうだった。晴れ渡った空一つでここまで上機嫌になれるのも羨ましい気がした。
「こういう日は、のんびり散歩するに限る」
思わず笑みがこぼれた。どうしてウォッカが買い物を引き受けたのか、それが少し判った気がした。
「折角外に行くなら何かのついでに出た方がいいですもんね」
「そ。そういう事」
判ってんじゃん。今度は悪戯小僧のような顔になった。彼の個性にはこちらの近い。少なくとも優等生には見えない。
「君に案内してもらった方が俺も助かるしな」
街の地理を把握したいと言う事なのかな。そこまで長居する訳でもないだろうに、どうしてもっと知る必要があるのだろう。
「正直なところ、まだ街の中心はどうなってるのかよく判らないんだ」
「はい、ご案内します」
ウォッカはニッと歯を見せて笑った。
空いていたウォッカの左手に自然と手が伸びた。ウォッカも別段躊躇う様子もなく握り返した。温かかった。どうしてこんな事をしたのか自分でもよく判らなかった。でもやましい気持ちも大袈裟な意図も何もない。こうした方がきっともっと親しくなれる、そんな気がしただけだった。ウォッカが馬鹿みたいに大きいせいでまるで子供の頃に戻ったようだった。周りからはどう見えるのだろう。そこまで考えた時、誰かに見られるかも知れない、その可能性に気付いて初めて頬が赤く、いや熱くなった。見上げるようにしてウォッカを見た。お腹いっぱいになって眠りこけるように穏やかに、そして朗らかに笑っていた。やっぱり、こうして良かった。後悔なんて欠片も感じなかった。握る手に力がこもる。握り返すウォッカの手はやっぱり温かかった。
歩くだけで軽く汗ばむ。まだ四月なのにどうしてこんなに暑いのだろう。手はそれ以上に熱い。でも離したくなかった。日差しがもう少し弱かったとしても、これだけ人でごった返していたら暑いのも仕方のない事なのかも知れない。
「結構な人だな」
ウォッカも感心したように周囲を見回している。
「一昨日来た時も人はかなりいたけど、今日はそれ以上だな」
「夕飯の買い出しに来る人達が大勢いるからどうしても混雑しちゃうんですよね」
それでもかなり多い方だ。人里離れた田舎の街でも人はいると改めて実感する。それだけここが住みやすい証拠なのかも知れない。そう思うと、それを奪ったあいつらが憎たらしくて堪らなくなる。一日でも、一秒でも早く何とかしたい。みんなそうだった。でも何とも出来なかった。家族を盾に取られていたら、手出しはおろか身動きも取れない。もし家族の誰かが奴らに捕まったりしたら、そう考えただけで身震いがする。
でも彼なら、ウォッカなら何とか出来るかも知れない。馬鹿みたいに強いのは腕力だけではなかった。脚力も持久力もずば抜けている。何より、これまでどんな生活を送っていたのか真剣に疑いたくなるほど強い。馬鹿みたいに強い。横顔を窺う限りではとてもそうは見えないけど。昨夜、父と母がウォッカに話していた事が何となく判った気がする。ここに来てくれて、今一緒にいてくれて本当に良かったと思う。最初に会った時も、その翌日も、ウォッカがいなかったらどうなっていたのか判らない。とんでもない目に遭っていたかも知れないし、最悪今ここにいる事すら出来なかった。思い出すだけでも寒気が走る。こうして仲良く並んで歩いているのが半ば冗談のように思えてならなかった。本当は既に死んでいるのに、生きたいと言う願望が見せている幻なのではないのか、そんな風に考えて目の前が真っ暗になった。隣を見上げる。山のような大男が風に舞い上がりそうになる帽子を手で押さえながら呑気に笑っていた。そう、夢である訳がない。その後何度もご飯を食べたし味もした。眠気も感じて実際寝た後にしっかり目が覚めた。今ここにあるものは絶対に幻覚なんかじゃない。
「どうしたの?」
「え?」
「さっきからずっと手ぇ握り締めてるけど」
言われて初めて気付いた。指が折れそうなくらいに力を込めて握っていた。
「わ!」
叫ぶと同時に手を離す。手に当たる風が冷たかった。汗ばむくらい力を込めて握っていた事になる。同時に気持ちが萎んだ。うっかりとは言え、どうして手を離してしまったのだろう。
「ごめんなさい。考え事してたら、ついうっかり……」
ついうっかり何だと言うのだ。考えに没頭したところで手を握り締める道理はない。それを指摘する事もなく、ウォッカは不思議そうな目でこちらを見ていた。鈍いのかそれを演じているのか、そのどちらとも取れる表情だった。でも絶対に演じるような真似はしない。ただそう見えるだけだ。それがウォッカの性格を端的に表している。
「昨夜、父と母がウォッカさんに何を話していたのか聞く気はありません」
同時に聞いてはいけない事だと思っている。だからこそ、父は昨夜カティを退席させたのだ。
「でも、これだけは言わせて下さい。ウォッカさんには災難以外の何物でもないですけど、あなたがこの街に来てくれて、本当に良かったと思っています」
ウォッカからして見れば災難以外に当て嵌まる言葉が見当たらないに違いない。だから今の発言がどれだけ無神経なものかと言う事も理解している。でも言わずにはいられなかった。それがカティの、ウォッカに対する率直な気持ちでもあった。それに対してウォッカがどう思っているのか、それについては全く考えていなかった。それが故の無神経だった。仮にだけど、ウォッカが本当にそう思ったとしてもそれだけは伝えておきたかった。こんな気持ちになった事なんてこれまで一度もない。きっと、それだけ嬉しかったんだろうな。今もこうして二人で街を歩いている。やっぱり嬉しい。自然と頬が綻ぶくらいに。
「素直なんだな」
ウォッカはガリガリ音を立てて頭を掻いた。頬が紅潮しているのは暑さのせいか、それとも他に何か理由があるのか。照れ臭いのか、顔を少しだけ背けた。それを目の当たりにして、初めてカティの頬が熱くなった。抜き身の刃を突きつけられても眉一つ動かさないような豪胆な肝っ玉の持ち主が明らかに動揺している。穴があったら入りたくなった。嬉しい事は確かだけど、同時にそれくらい恥ずかしかった。私、物凄く恥ずかしい事言ったよね。それに初めて気付いた。
「ありがと」
本当に照れ臭いのだろう、顔が真っ赤だ。それ以上に嬉しそうだった。風貌に似合わず、こういう風に笑うと子供のような顔になる。彼も十分に素直だと思う。
庇を下げて目を隠した。照れ隠しなのかも知れない。
「行こうか」
「はい」
どちらからともなくお互いに手を取った。こっそり見上げるとウォッカもこちらを見て笑っていた。別に誰に見られても構わなかった。お互い別々に歩くよりこうしている方が自然だと思う。
手を通して彼の温もりが伝わる。遠足に行く朝みたいに気分が良かった。
しばらくそうして歩いた。時折ウォッカの横顔をこっそり伺った。大抵は真っ直ぐ前を見て歩いていた。目が合うと厳ついナリからは想像も出来ないような穏やかな顔で笑った。ムッツリ黙っているよりこうして笑っていてくれる方がずっといい。側にいるだけで嬉しくなる。
「あ」
「どうしたの?」
ウォッカの手を無理矢理引っ張って引き戻した。
「写真」
「写真?」
「一緒に写真撮りましょうよ」
写真屋のおじさんがこの街に来たのはほんの数ヶ月前、あいつらが街を占領する少し前だった。写真屋の主人もどうしてこんな田舎街に行商に来たのだろう。それが運の尽きと言うヤツで、以来おじさんはこの街と運命を共にする事になった。気の毒な話だった。
「確かに、そういう人がいてもおかしくはないな」
同じ境遇の人に共感するでもなく、我が身に降りかかった不運を嘆く様子もなく、ウォッカは普段通り淡々と言った。
この街の住人が彼に出来る事があるとすれば仕事を提供する事くらいだ。写真自体はとても高価なものだから頻繁に利用する事は少し難しいけど、街の人達はいつも気にかけている。彼も立派な被害者の一人なのだ、気持ちは判るに違いない。
「でも買い物中だろ? あんまり時間かかるようじゃマズいんじゃないかな」
「写真撮るだけならすぐ終わるよ」
腕を引っ張って行くと大人しく着いて来た。よく飼い慣らされた大型犬を連れているようだった。
「ごめん下さ~い」
入口から中を覗くと、おじさんは椅子に腰を下ろしたまま項垂れていた。やっぱり落ち込んでるのかな、と思ってよく見ると頭が時折小刻みに上下している。なんだ、寝てるだけか。営業中に堂々と居眠り出来るくらいだから、案外この街にも馴染んでいるのかも知れない。
「おじさん、写真お願いします」
授業中に居眠りしていたあまり出来のよろしくない学生みたいに体を痙攣させて跳ね起きた。
「やあ、いらっしゃい」
唇の端から流れていた涎を袖口で拭う。この人大丈夫かなあと思いつつもそんな処に力が抜けるようなおかしさも感じる。眼鏡の奥にある目はまだ焦点を結んでいないけど、人の良さそうな穏やかな雰囲気を湛えていた。
「すみません、休んでたところにお邪魔しちゃって」
「いやいや、仕事中に居眠りしとったのはワシだから」
実際その通りだった。仕事中にそんな事をしていたら問答無用で張り倒される。
「誰かと思ったら宿屋の一番下のお嬢さんか。買い出しの途中で寄り道かい?」
「はい」
何で判ったんだろう。手元を見てあ、と思った。こんな大きなカゴやら袋を持っていたらすぐにピンと来るか。
「それに、今日は有名人も一緒か。二人で記念撮影かな?」
完全に見透かされている。いや、写真屋に写真を撮る以外の理由で立ち寄る事があるなら聞いてみたいくらいだ。
「別に有名人じゃないですよ。ただの宿泊客です」
「何を言うとる。いきなりあのクソ忌々しい馬鹿者共を二人もぶちのめしたじゃろ」
ワシも見たかったが。ご主人はしみじみ言った。
「人の飯の邪魔したから叩き出しただけですよ」
ウォッカからしてみれば単純にそれだけの話だ。別に恩も恨みもない。煩わしかったのは間違いないだろうけど。その中にカティがいた。こんな事を考えるのはおかしいのかも知れないけど、あいつら二人にちょっとだけ感謝したくなった。
「その調子で奴ら全員この街から叩き出してくれ」
ウォッカは苦笑いしながら頭を掻いている。彼ならば、絶対出来るに違いない。なら、どうしてすぐ行動に移さないのだろう。
「街の人が奴らに囚われてる以上、下手に手を出すような真似は出来ないですよ」
思わず膝が折れそうになった。真っ正面から強行突破出来るだけのものを持っていたとしても、人質を盾にされたら身動ぎも出来ない。今ここで突っ込むのはただ無謀なだけであって決して誉められるようなものではない。
見るからにガサツで大雑把な印象を受けるけど、そんな見た目に反してかなり冷静だった。
「真っ正面から突っ込むより先にすべき事がありますから」
「確かに、その通りじゃな」
写真屋さんのご主人は伸び始めた顎髭を撫でながら頷いた。二人とも今この街に何が必要なのかしっかり理解している。
「折角ここに来たんじゃから、そんな所に突っ立っとらんで早くこっち来い」
ご主人はウォッカの腕を取ると強引に引っ張って行く。腕は細いけどそれを感じさせないくらい力強く見えた。少なくともウォッカを引っ張れるくらいだから相当なはずだ。
「嬢ちゃんも早く来なさい。二人が揃わん事には撮るものも撮れん」
奥から椅子を引っ張り出すとそこに無理矢理座らされた。
「二人とも写真撮りに来たんだからもっといい表情せんと、ほれ」
世間話をしていたかと思ったら、いつの間にか仕事をする人間の顔になっている。さっきよりもずっといい顔をしていた。
「有名人、帽子を脱がんと顔が見えんぞ」
「だから有名人じゃありません」
「ちょっと椅子が低いな」
ご主人は低く唸りながら奥に引っ込んだ。出てくると少し足の長い椅子を引きずっていた。
「こっちに座ってくれ」
足が床につかない訳ではないけどかなり高さがある。どうしてこんな椅子にしたのだろう。
「有名人、もう少し右、そうそうその子の後ろに立ってくれ」
もう何も言わなかった。ウォッカはご主人の言葉に大人しく従った。
「もうちょっと右かな」
ウォッカをもう少しだけ右に移動させるとご主人はこちらに駆け寄って来た。
「で、こうすると」
ウォッカの手を取ったご主人はそれをカティの肩に置いた。心臓が音を立てて跳ねた。対してウォッカは落ち着いている、ように思えた。少なくとも肩に置いた手からは動揺は窺えない。
「じゃ、撮るぞ~」
改めて背筋を伸ばす。頬が自然と綻んだ。ウォッカはどんな顔をしたのだろう。笑ったとは思うけど、無表情ならそれはそれで面白い気もする。
「お疲れさん。なかなかいい絵が撮れたぞ」
「有り難うございました。おいくらですか?」
「仕上がった時の支払いでいいぞ。現像に失敗したら台無しじゃからな」
ご主人は腰に手を当てるとガガガと声を上げて笑った。そんないい加減な仕事をするとは思えない。
「出来上がるのはいつ頃ですか?」
「二、三日ってところじゃな。ま、今は暇じゃからそこまでかからんかも知れんが」
出来たら店に届けるよ。ご主人は被っていた帽子の庇を上げながら言った。器用に片目を瞑る。格好つけているつもりなのかも知れない。実際に格好いいかどうかは判らないけど、ご主人の人の良さは伝わった。
「それじゃ、よろしくお願いします」
「おう、まかしとけ」
力瘤を出して見せた右腕はやっぱり細かった。この腕でよくウォッカを引っ張れたものだ。
「面白いおじさんだなあ」
「そうですね」
最初は指先を絡める程度だったけど、お互いに手を取り合った。温かかった。
二、三日と言わず、暇なら是非ともすぐに仕上げて欲しかった。出来上がった写真を見るのが今から楽しみで仕方ない。
「結構時間食っちまったな」
「はい」
非常に有意義な時間を過ごす事が出来た反面、買い物に充てる時間を浪費してしまった事も事実だ。あまりのんびりは出来ない。
「二手に別れよう。その方が早い」
「でもウォッカさん、お店の場所は判るんですか?」
「勿論、それを君に教えてもらった上でね」
そりゃそうだ。場所を知らなければ行きようがない。全く、我ながら一体何を言っているのか。
市場の中心に来たところで、何が何処に売られているのかをかいつまんで説明した。一から全て探していたらどれだけかかるか判らない。
「じゃ、俺はこっち」
「私はこっち」
重いものはウォッカ、軽いものはカティに割り振った。別に楽をしようなんて考えはなかったけど、ウォッカ曰く「適材適所だろ」との事だった。確かに間違ってはいないと思う。効率もこの方がいい。少なくともこの逆よりかは遥かに。でも、やっぱり悪いなあと思う。イリナだったら当然のように重い方を任せそうだった。
「それじゃ、三十分後にそこのお店の前で待ち合わせようか」
空のカゴを持ちながら足取り軽く歩いて行く。と思ったら早速お米屋さんに入って行った。歩き方に迷いがない。この分なら一人でも大丈夫だろう。と言うか全く問題なさそうだった。大きな子供を見るような感覚でウォッカを見ていたけどやっとそれが誤りである事に気付いた。
若干後ろ髪を引かれるような気持ちで首を後ろに捻ったまま歩いていた。顔を前に戻そうとした時、体の前面に軽い衝撃を感じた。そのまま弾き飛ばされるようにして尻餅を突いた。
「何処見て歩いてんだ! 気をつけろ!」
思い切り怒鳴り付けられた。見ると貧相な格好をした兵士がこちらを見下ろしていた。怒鳴られた事は悔しいけど確かに言い分ごもっともだった。余所見をして歩いていればぶつかるのも当たり前だ。
「あの、すみませんでした」
手を体の前に添えて丁寧に腰を折る。半ば反射的な動作だった。筋を通せば無理は通らない。こちらに否があるなら気持ちを込めて頭を下げる。それが事態を丸く収めるコツだ、と言うのは父の弁だ。
「しっかり前見て歩けよ」
至極全うな忠告を寄越すとそれ以上は何も言わなかった。明らかにこちらにに否があるけど、それを責めるような目で見る人は一人もいなかった。
お尻についた砂埃を手で叩く。前を見ていなかったのは確かだけど、女子供相手にそこまで声を荒げなくてもいいのに、と思う。。そういうまともな輩が一人くらいはいてくれても良さそうなものだけど、まだ一度も見かけた事がない。聞いた事もない。これまで生きて来た環境も考え方も文化も全てが噛み合わない。互いに一生相容れる事はないに違いない。奴らがこの街から姿を消すまでそれが続くのだ。
歩きながら胸の前で手を合わせた。お願いします。あなたなら、この街の現状を変える事が出来るはずです。いつウォッカがそれを実行に移すのか。根掘り葉掘り探りを入れるような気はない。せめて、今夜食べたいものがあるなら何でも作ってあげようと思う。それくらいしかウォッカにしてあげられる事がないけど、全くないより遥かにマシだ。腹が減っては何とやら、じゃなくて戦は出来ないんだから、彼のお腹を満たす事はひいてはこの街を救う事にも繋がるハズだ。早く買い物を済ませてウォッカが待ち合わせ場所に来る前には戻ってよう。さっき走って家に帰って来たのに足取りはやたらと軽かった。
「あ」
驚くと言うより意外そうな声だった。
既にベンチに腰を下ろしていたカティは余裕の表情で手を振った。内心ではかなりヒヤヒヤだったけど。ここに来てから時間にして一分くらいしか経っていない。差があるとすればほんの紙一重だ。
「早いねぇ」
早いのではなく、ウォッカよりも先に済ませて当然なのだ。むしろ先を越されるような事など絶対にあってはならない。
「結構急いで済ませて来たつもりなんだけど」
胸を張りたくなった。実際には鼓動が激しくて胸が張り裂けそうだった。全速力で突っ走って良かった。
「ウォッカさんを待たせるような真似は出来ませんよ」
生まれも育ちもこの街のカティが、ここに来て一週間と経っていないウォッカよりも買い物を済ませるのに時間がかかるとあっては誰に何を言われるか判ったものではない。イリナが知ったらお尻を蹴飛ばされる程度では済まないだろうな、絶対。
「そこのお店で米買ったら終わりなんだ。あと少しだけ、ここで待っててもらっていいかな」
「はい」
断る理由なんて何処にもない。律儀と言うか腰が低いと言うか、こういう処に人となりが見える。
両腕には荷物を満載したカゴをいくつもぶら下げている。連れと合流出来たのだから預けてもいいと思うけど、それに気付いていないのか責任感が強いのか時折荷物を持ち直しながらお米屋に歩いていく。
軒先から店の中を覗き込むと吸い込まれるようにして姿を消した。見た目の印象と挙動の素早さが噛み合わない。
この分ならすぐに戻って来るだろう。ただでさえ時間を食っているのだ、これ以上油を売っていたら確実に雷が落ちる。腕にかけていた荷物を床に下ろした。ゆっくり息を吐くと全身から力が抜けた。息が弾むくらいの速さで三十分以上走り続けた後に休憩も取らずに荷物を持って歩くのは結構な運動になるのかも知れない。実に心地好い倦怠感、いや眠気が隈無く全身を覆っていく。眠い。瞼が塞がりそうだった。気を抜いたら意識が飛ぶ。これから歩いて帰るのだ、絶対に寝る訳には行かない。内心で葛藤しながらも目を閉じた。あ、と思う間もなかった。天秤が重い方の皿に傾くようにして意識が真っ暗闇の中に吸い込まれて行った。




