三日目 その拾八
欄干に置いていた酒瓶を手に取る。この時間になると殆ど灯りは見えない。何もなければ大抵の人間は床に就く、そういう時間帯だ。では何か用があるのかと言えば別にそういう訳でもない。酒を呑んでいたらいつの間にか時間が過ぎていただけだ。
風が髪を揺らした。酔いを冷ましながら呑むならここは打ってつけだった。昼間はいくらか暑くても日が落ちると流石に涼しくなる。酒で火照った体に夜風が心地よかった。
グラスを持って来なかったのはいちいち注ぐのが面倒だったからだ。唇に宛がうと酒瓶を大きく傾ける。もう半分も残っていない。ようやく少しだけ酔いが回って来た。酔い潰れるまで呑むつもりもないし、ここ何年かは酔い潰れた試しもない。まだ考えなければならない事がある。ヘベレケになるとしたらその後だ。
ダイスはもう一度酒瓶を煽った。この分ならまだ酔う事はない。ある程度肩の力を抜くならどうしても酒は必要だ。
今日も五人やられた。日を追う毎に確実にこちらの手駒が減っていく。状況としてはあまり芳しくない。真っ向から勝負を挑むのは徒にこちらの兵力を減退させるだけだ。賢い選択とは言い難い。
ならば当初の目論見通りに事を進めるのが最善の策だった。どんなに大きな力を持っていてもそれを使う事が出来なければ無用の長物だ。縁があってここに来たのだ、彼にも是非足枷を嵌めてもらおう。一度足枷が嵌まったらそれを自分で外す術はない。そうなれば話は早い。
背後で足音が聞こえた。
「お待たせしました」
頭髪が後退し始めた五十絡みの男が緊張した面持ちで立っていた。ダイスより十以上は確実に歳上だろうが別段こいつに払うべき敬意はない。こういう場では力が全てだ。
「遅くなりまして申し訳ございませんでした」
「別に構わねえよ。何処にいるか俺も伝えなかったからな」
男の表情から少し力が抜けた。まさか取って食われるとでも思ったのだろうか。食わねえよ、手前みてえなブ男。
「ご用件は?」
「お前、昔スリやってたんだってな」
「はい。それで飯を食ってましたので」
「いつまでだ?」
「ここに来るまでは。今はお陰様で日の下を堂々と歩けるようになりましたが」
下卑た声を上げて笑った。貧相な笑みだった。積極的に付き合いたくない類いの人間だ。用がなければ声をかける事もなかっただろう。ならばさっさと済ませるべきだ。酒まで不味くなりそうだ。
用件だけを手短に伝えた。男はキョトンとしたように目を丸くした。
「出来るか?」
「そりゃ出来ますが、」
不器用に言葉を切った。何か言いたいのか口がモゴモゴと不自然に蠢いた。
「不満でもあるのか?」
「不満だなんて滅相もない。ただ何でまた、そんな面倒な事を?」
ご指摘ごもっともだった。それを別段躊躇う事もなく口にする素直さは評価出来ないが。
「何をするにも理由があった方がいい、それだけだよ」
「理由、ですか」
大義名分とも言える。それでも小細工に過ぎないが。
「盗人にも三分の理、って事ですかね」
平たく言えばそういう事だ。やろうとしている事は盗人以上だが。罪悪感はないが最低限それくらいの自覚はある。
「家が何処かは判ってるだろ? 朝から張ってりゃいい」
「はい、判りました」
素直に頭を下げると姿を消した。少し余計な一言が多いが物判りは悪くない。今後使う機会があるかどうかは別だが。
さて。
頭上から降り注ぐ月の光をかざした指の隙間から睨んだ。月に雲がかかっていた。思わず見とれるくらいには美しかった。単に満月が浮かんでいるだけならこうは思わなかったに違いない。雲がかかっているからこそここまで美しさが際立ったのだろう。
明日はどんな風に表情を歪ませてくれるのか。それが見たくてやる訳ではないが、何をするにしても楽しむ要素は必要だ。それを実行する事に些かの躊躇いも持たない。感覚が麻痺しているのではなく、元々持ち合わせていない。別に必要なものでもなかった。食うか食われるか、生きるか死ぬかの二択でここまで来た身から言わせれば直接生存に結び付くものでなければ存在意義はない。邪魔ならば排除するし、必要とあらば取り込む。利用価値がなくなれば切り捨てる、その繰り返しだ。
旅の男も自分にとって障害となり得るのか。ならば排除するまでだ。それ以外に選択肢はない。それまでの退屈しのぎだと思えばいい。ここの環境にもいい加減飽きて来ていたところだ、良くも悪くも丁度いい。
これが一段落着いた後の身の振り方について考えておくのも一興だろう。身の危険よりも退屈が一番嫌いだった。退屈で身を持ち崩すくらいなら喉元に刃を突きつけられたような気分を味わう方が余程いい。一般的には理解し難い感覚だろう。別に理解される必要もない。誰の為に生きる訳でもない。自分の為にしか生きられない。俺はそういう人間だ。それを改める気もない。
足音が聞こえた。階段を上がり、じき展望台に姿を現す。内心では舌打ちしていた。一人でゆっくり酒が呑みたいからここにいるのに。何れにしても歓迎は出来ない。出迎えるような心境でもない。生まれ故郷に思いを馳せるようにして夜景に視線を移した。そんなもの実際は思い出したくもないが。
階段を上がり終えた足音がこちらに近付いて来る。ここまで聞こえていて気付いた素振りすら見せないのは明らかに感じが悪い。溜め息を吐きたくなるのを堪えながら振り向いた。
長い髪が風に吹かれて靡いていた。頬に髪を押さえつけながら酒を瓶で煽る姿はちょっと異様にも見えた。しかもいい年の女が。
「珍しいですね」
正直な感想だった。唇の端から滴った酒を手の甲で拭うとそれを舌で舐める。ジュリは薄く笑った。出るところは程々に自己主張しているし、女の身でありながら剣術の心得があるだけあって引っ込むところも引っ込んでいる。護身術に毛が生えた程度のものだから腕前は宿屋の娘に遠く及ばないが、体型の維持には一役買っているようだ。一般的には十分美人の範疇に入る。それがあるからここにいられる。少なくともダイスはそう思っている。抱く気は更々ないが。
「どうしたんですか?」
「順調みたいね」
「何がです?」
ジュリは瓶を傾けて舌を湿した。ダイスもそれに倣った。量はとても舌を湿す程度ではないが。
「明日の仕込みよ」
「抜かりはありません、と言いたいところですがそういう事は結果を見てからご判断頂ければ」
ただ首尾は順調だ。小細工も含めて。あのくたばり損ないがこちらの指示を拒むとは思えない。そのための人質だ。そこさえしくじらなければ後は問題ない。
「随分謙虚なのね、見た目に反して」
「第一印象も充分控えめだと思いますけど」
互いの立場を判らせる最低限の努力はするが、こちらから積極的に手を出す真似は基本的にしない。でしゃばったり歯向かわれたりしたらまた話は別だが。どちらが上でどちらが下かなど敢えて見せつけるまでもない。それすら判らない奴に与えるのが指導であり、そこから学ぶものが彼らにとっての教訓だ。
「私も混ぜてよ」
加える事が前提のような口調だった。自分を中心に世界が回っているとかなり本気で信じている、そういう類いの人間だ。美人でなければこいつに存在価値は見出だせない。
「別に構わないですよ」
面倒は面倒だが拒むだけの理由もない。余計な横槍は入れるかも知れないが邪魔は絶対にしないはずだ。それはこの女の本意ではない。
「別に気にしないで。事の成り行きを見守ってるだけだけだから」
邪魔をする気はないと言う事だろう。純粋に見守る事が、成り行きを傍観する事がこの女の目的なのだ。全く、大した情熱だ。それを違う方向に使えないのか。それが出来ていたら今頃ここにはいない。その果てに行き着いた所がここだとすれば、こいつの性根も相当に歪んでいる。いや、そうでなければここにいられないのか。何れにしても、この女もろくでなしの人でなしである事に変わりはない。
「明日が楽しみだわ」
子供が見せるような純粋な笑顔には程遠い表情だった。だがこの女にも子供の頃は確実にあったのだ。
何がこいつをここまで変えたのだろう。足を踏み外す何かがあった事は間違いないが、それに本人が気付いているとは思えなかった。それを気の毒にすら感じない自分も大概だが。
「あなたはまだ呑むの?」
「そうですね。寝るには勿体ない月夜ですから」
普段はツマミと一緒に呑むがこれだけ月が綺麗ならばそれだけで充分肴になりそうだった。
「一つ、聞いていいかしら」
「何なりと」
「随分回りくどい事するのね。あなたなら強行突破で何の問題もないんじゃない?」
予想の範疇の質問だった。誰しも考える事なのだろう。
「今回は戦闘が目的ではありませんからね。障害物は事前に排除しておくに越した事はありませんよ」
「そのためにここまで面倒な事をする訳? しかもあなたから率先して動くなんて案外部下思いなのね」
「自分から動かなきゃ誰もついて来ませんよ。それに一番肝心な部分でしくじりたくないんでね」
そこを任せられるだけの人間がいない事も事実だ。だから動かざるを得ないだけに過ぎない。ここでのんびり酒を呑んでいる間に事が運ぶならとっくにそうしている。どんな組織でも人材難は共通して抱える問題だ。
「その男、あなたの指示に背くなんて事はないのかしら」
「聞かないならそれはそれで構いません。どう行動しようが最終的な責任を本人が取れさえすればいいんですから」
それはまず有り得ない。喉元に刃を突きつけられて首を横に振れる人間などそうはいない。況してや身内の人間が危険に晒されるとなれば尚更だ。
仮に背いたとしたら、その時は必然的に強行突破する事になる。
「旅の男、ウォッカって名前らしいわね」
ふざけた名前だ。偽名か通称か、まず本名とは思えない。それが何らかの通り名だとすればこれまで耳に挟むような事があってもおかしくはない。
「名前に聞き覚えは?」
「ありませんね」
その世界にそこまで通じている訳ではない。だが噂くらいは流石に耳に入る。それすらないと言う事は、まだ名を知られる前かこれまで隠し通して来たのか。日の当たる場所を歩いて来たとは思えない。
一瞬自分達と同じような匂いを感じたがそれは明らかな錯覚だった。互いに相容れる事は絶対にない。敵対する事は既に決まっている。ぶつかるしかない事も。ならば少しでもこちらに有利に事が運ぶよう手筈を整えればいい。
「直接ぶつかったとして、勝算は?」
「まだ何とも」
今日やられた五人も一撃もまともに入れられていない。素手で真剣を叩き折ったとの報告もある。昨日に至っては全員殺されていて手掛かりの一つもない。相当な手練れである事に変わりはないが。
「あなたがここまで慎重になるのは確実に事を運びたいか、」
「勝てる見込みがないからか」
からかうようにジュリの唇の端が上がった。それも全く有り得ない話ではない。傍観する事しかしない輩に指摘されるのはあまり愉快ではないが。
「腕が立つ事は間違いないですね、絶対に油断は出来ません。だから、今の段階でこちらの状況が少しでも有利になるようにしておきたい、そのためにやれるだけの事はやっておく、それだけですよ」
感心するように頷いている。別に腹も立たない。
「あなたって、やっぱり見かけに依らず慎重なのね。見直したわ」
「有り難うございます」
無礼に対して笑顔で応じるくらいの礼儀は持ち合わせている。この女に相手を侮辱している自覚があるかは疑問だが。天然だとしたら、最早かける言葉もない。よく今まで生きて来られたものだ。
「姐さんも死にたくはないですよね? それは俺も、誰しも同じです。ロイドさんにしてもそうでしょう。死なないように するために労は惜しまない、それを怠ったらどうなるかなんて考えるまでもないですよね」
そんな事は理屈で考える必要すらない。生まれた瞬間に死ぬ事は決まっているが、死ぬ事を前提に生きるような奴は何処にもいない。不様に生き恥を晒すくらいなら潔く散るだなんだと抜かす輩もいるが、ダイスから言わせれば理解不能だ。そんなに死にたければさっさと殺してやる。
目の前にいる女はどうなのだろう。生きている自覚もないならここにいる理由もない。義理で付き合ったり愛想笑いを浮かべるくらいの最低限の礼儀は持ち合わせているが、そんな事にすら気付かないようならばこうして一緒に酒を呑む機会もそのうちなくなる。待ち遠しかった。その前に引導を渡してやってもいいのだが。もう少しだけこの女の都合に付き合ってやろう。道半ばで命を絶たれるとなれば誰しも未練は残る。少なくとも成仏は出来ないに違いない。
全く、俺って奴はつくづく人がいい。
「ま、取り敢えず明日になればある程度見えて来ますから」
もうしばらくお待ち下さい。来客に応接間で上司の不在を詫びる秘書のような口調で言った。卑屈と言うより慇懃無礼な態度だが、問題はこの女がそれに気付くかと言う事だ。
「あなたの事だから下手に失敗するなんて事はまずないわよね」
「どうですかね。人のやる事に絶対はありませんから」
そして完璧も有り得ない。抜かりなくやっていても思わぬところで考えもしなかった何かが起こらない保障はない。針の先っぽのような小さな綻びでもあってはならない。今回並べたドミノは全て綺麗に倒さなければ意味がないのだ。
そして、すべき事はそれだけではない。
グラスに残っていた酒を一気に煽った。喉が焼けつくような刺激に堪らず噎せ返る。唇から溢れた滴を手の甲で拭った。表情を歪めた自分の顔が鏡に映っている。まるで泣き出しそうになるのを懸命に堪える子供のような顔だった。そこで初めて我に返った。全く、少しは落ち着いたらどうなんだ。気持ちだけが先走っていて目の前が見えていない。呑み切れなかった酒が僅かにグラスに残っていた。軽く息を吐くと改めてゆっくりグラスを傾けた。酒が喉を通り過ぎて胃に落ちる僅かな時間でも出来る事はある。呑んだ量は明らかに増えているのに頭は綺麗に冴えていた。ここ数日、酒の量は確実に増え続けている。眠気も来なければ酔う気配すら見えない。その兆しもない。より判りやすく言えば酒に逃げていた。今度こそ空にしたグラスをテーブルに置いた。すぐさま継ぎ足す。口元まで持って来たグラスを睨むと椅子に腰を下ろした。
少し落ち着いた方がいい。溜め息が出た。完全に取り乱している。右手で顔を覆った。酒臭い息が顔にかかった。
「手は打ってあります」
飯時、ダイスはグラスを傾けながら言った。
それはロイドも知っている。だが具体的に何をしているかまでは把握していない。
「何をする気だ?」
「折角ここにお越し頂いたんですから、こちらもおもてなしして差し上げるべきじゃないかと思いましてね」
「どうやって?」
「ここでしか出来ない貴重な体験をすればご満足頂けるかと」
今更だが、この男も根っからの下衆だ。一般的にまともと言われる感性の持ち主はここには一人もいない。そうでないからこそここにいると言うか、そうだったから普通には暮らせなかったと言うか、世間一般で言うはみ出し者の集団である事は疑いようもない。異端である事の自覚はあるが、だからと言ってそれを改める気もないし堅気の生活に戻れるとも考えていない。居場所はここにしかない。あったとしてもそれを用立てるなら探すなりするにはそれ相応の、いや相当な労力を要する。
居場所がなくなるだけならまだいい。なくなったら探す、それしか選択肢は残されていない。だがその前に死ぬ事になったらそれすら必要なくなる。それが現実になる可能性、いや危険性が見え隠れし始めている。
旅の男に関してはある程度目処は立った。詳細は後日報告すると言っていたがいちいち話を聞くまでもないだろう。見れば判る事だ。懸案はまた別にある。
「いる事は間違いないんだな」
「そうですね」
あっさり認めた。そうではなく否定出来る要素も理由もない。ダイスは事実を確認しそれを伝える事が役目だ。その本分を全うしているに過ぎない。
昨日から行方を眩ましていた兵士が今日の昼に見つかった。元々生きているとは考えていなかったが、案の定立派な死体になっていた。顎は砕かれ鼻は陥没し、上腕骨や大腿骨もへし折られ、全身の至るところを余す事なく痛めつけられていた。ここにいる連中なら恨みの一つや二つは買われているだろうが、下手人の動機が怨恨でない事は明白だった。
「何か聞きたい事があったんじゃないですかね」
明日の天気でも予想するように牧歌的な口調でダイスは言った。だから執拗に痛めつけて吐かせた。尋問ではなく明らかな拷問だ。
一つだけ有力な情報もあった。
「かなりの大男のようですね」
曰く、行方不明の兵士を捜索していた時に、廃屋の一角で見覚えのない大男を目撃した。それを追跡したところ、死体を発見した旅の男の元に行き着いた。そう聞いている。
「顔を見た奴はいないのか?」
「残念ながら。後ろ姿だけみたいですね」
思わず舌打ちしたくなった。ダイスは唇を歪めて持ち上げたグラスの底を睨んでいた。
「追跡していた男と旅の男が同一人物である可能性は?」
「それはまずありませんね。旅の男を発見した時、奴は宿屋の娘と一緒でした。もし二人が同一人物なら追跡していた最中に合流した事になる。ですがそんな隙はなかったようです」
そんな隙だらけの尾行しか出来ないようなら本格的に必要ない。流石にそこまで無能ではなかったようだが最後の最後で見事にこけている辺りに脱力を禁じ得ない。
「で、取り逃がしたと」
ダイスは空だったロイドのグラスに酒を注いだ。自分のグラスにも酒を継ぎ足すと早速唇をつけた。
「いつそれに気付いたんだ?」
「旅の男を見つけてしばらく経ってからですね。最初は二人を同一人物と誤認していたようですから」
「その後の行方は?」
ダイスは黙って首を横に振った。テーブルに拳を叩きつけたくなった。酒を煽る事くらいしか出来なかった。
「他に手掛かりになりそうな情報はないのか?」
「大柄な男である事、それくらいですかね。拷問も殆ど素手でやっていたようですから、どんな武器を扱うのかも判りません」
どんな些細なものでもいい。今絶対的に足りないものは情報だ。正体不明の大男に行き着く手掛かりは殆ど全くと言っていいほどないのが現状だ。それに対して相手は何処までこちらを把握しているのか。
「死因は失血死と聞いたが」
「ええ。心臓を見事に剣で串刺しにされて。ですが使われた剣は死体の持っていたものでした。僅かに目撃されただけで それ以外には何の痕跡もない。人に見られるのが死ぬほど嫌いみたいですね」
笑えない冗談だった。既に十八人を惨殺しているがこれと言った手掛かりはない。目撃された大男が下手人の可能性は確かに高いが確証もない。そして何処にいるのかも判らない。唯一ハッキリしている事は正体不明の殺人者がこの街の何処かに潜んでいると言う事だけだった。
「死体が見つかったところは昨夜捜索した範囲に含まれていたんだろう? どうして見過ごしたんだ?」
「一軒一軒隈無く見るのはそれなりに骨も折れるし時間もかかりますからね。しかも地下室でしたから少し見た程度では気付かなかった可能性も考えられます」
「全く、大した仕事をしてくれるな」
「人間のする事ですから」
穏やかに笑っている。実に慇懃無礼な笑みだった。
「その時発見出来ていればそいつを捕縛する事も出来たろうに」
「いや、それはかなり難しいと思いますよ」
上目遣いに睨めつけても臆した様子はない。指に絡めて弄んでいたグラスを口元に宛がう。
「いつどの段階でそいつを拉致したのか判りませんが、少なくとも誰一人としてその様子を目撃した者はいません」
痕跡を全く残さないのは口で言うほど容易ではない。だが僅かに目撃されただけで他にこれと言った痕跡も情報も残されていない。
「昨日旅の男にぶちのめされた前後でしょうが、完全に動けなくなった状態の人間を運ぶのは想像以上に大変ですからね」
大の男でも一苦労だ。自分の足で歩かせた可能性もなくはないが、何れにしても目撃情報はない。
「拷問に使われた地下室もなかなかの惨状でしたね。死体を見れば一目瞭然ですが、床は血だらけだし相当長い時間をかけて執拗に痛めつけたのは確かかな。その上すぐには見つからないように地下室のある家を事前に把握してるんですから、通りすがりの犯行なんて事はまず有り得ない。かなり入念にこの街の状況を調べてますね。そして、そこに踏み込まれたとしても返り討ちに出来るくらいの技術は最低限備えているでしょう。裏を返せばそれが不可能なら最初からそんな逃げ道のない場所を選ぶなんて馬鹿な真似はまずしないかな。少なくとも俺だったら」
確かに筋は通っている。普通なら袋の鼠だが、こいつには格好の狩り場だったのかも知れない。逆に踏み込んでいたら死体の数が増えていた可能性もある。そう思うと気味の悪い汗が背筋を伝う。
「不可解なのが、どうして自分が殺した死体を表に晒すような真似をしたのか、って事ですかね」
「隠し通す事も出来たろうにな」
拷問されたのは地下室だが死体が発見されたのは一階だった。そのまま下に転がしておけば発見を遅らせる事も出来たはずだ。見つける事も困難だったに違いない。気付くとすれば腐敗が進行して腐乱臭が漂うようになった頃か。口を押さえたのは軽い吐き気を覚えたからだ。飯時に考えるような事ではない。
「遊んでいるようにしか見えませんね」
日を追う毎に死体が増えて行く。その度に右往左往する様子を見て嘲笑っているかのようだった。いいように遊ばれているがそれに抵抗する術は今のところない。猫が鼠を殺さずいたぶるようにされるがままだった。
「取り敢えず、今は出来る事を一つ一つ確実に消化して行きましょう」
不安と焦りが冷静さを奪っていく。動揺が臨界点に達するような事態だけは避けなくてはならない。旅の男にしてもこいつにしても障害である事に変わりはない。ならば排除するまでだ。
旅の男に関してはある程度目処は立った。まずはそちらを完全に消化する事に集中する。それが済み次第次に移る。今の段階でやれる事があるとすればそれくらいしかない。
椅子に腰を下ろしたままグラスを傾ける。舌と喉が焼けるように熱くなっただけだった。何の味もしない。せめてそのどちらかだけならまだ対処もしやすかったろうに。どうして揃いも揃って同時に来るのか。
この街を牛耳ってからもうじき半年になる。人質を取っている限りここの住民が自由に動く事は出来ない。こちらに手を出す事も、下手に逃げる事も叶わない。迂闊に動けば捕まっている誰かが殺される、その脅しが抑止力として働いてくれた。全く効果がなくなったとは言わないが外部からの刺激に対しては弱さが露呈した感がある。ここの住人がどうなろうがそいつには一切関係ないからだ。仮にここに立ち寄ったとしても、誰がどうなろうが知らぬ存ぜぬで出て行かれた挙げ句ここの現状が外部に知られる事になれば全てはご破算だ。足止めするだけでなく、完全に屈服させるための何かが必要だ。
目を閉じるとゆっくり息を吐いた。胸の中で渦巻いていた苛立ちと不安が少しだけ薄らいだ気がした。俺らかお前らか、一体どちらが優位な立場にいるのか判らせればいい。それだけの話だ。この街に生まれた事を、偶々迷い込んだ不運を呪うがいい。
当然ながら躊躇いは感じなかった。これまでも、そうやって誰かを押し退けて、蹴散らし踏み台にして生きて来たのだ。否、そうしなければ生き残れなかった。法も秩序もない世界を生き抜くには何かを犠牲にしなければならない。我が身に無関係なものを切り捨てる事に感慨など湧く道理がない。全ては俺が生き残るためだ。その屍の上に立つ事が出来れば犠牲としての役割は充分に果たしている。よくぞ俺の為に死んでくれた。
これまで通りに事を運べばいい、それだけの事だ。視界が音を立てて歪んだような気がした。気の焦りが不安のせいか、少し事を大袈裟に捉えていたようだった。そう、動じる必要などない。自分のために精一杯生きる、それだけあればいい。どんな事にも犠牲は付き物だ。一見輝かしく見える戦果も尊い犠牲の上に成り立っている。身を以て経験していた事なのに、いつの間にか記憶から消えていた。貪欲に生きればいい。忘れていた感覚を取り戻す事が出来た。それだけで感謝すらしたいくらいだった。酒が喉を通り過ぎて胃に落ちる。やはり何の味もしなかった。




