三日目 その拾七
固く絞った布巾でテーブルを拭く。客席のテーブルを二つくっつける。五人以上が同じテーブルにつくにはそうするしかない。ウォッカと一緒に食事をする事が六人の中で既成事実になっている。まるで家族の一員になったようだった。何とも一方的な話だけど、それを彼に告げても怒るような事は絶対ないだろうな。むしろ笑って歓迎してくれるに違いない。
間仕切りから厨房に顔を覗かせると三人の姉がそれぞれ釜戸の前で鍋を振るっていた。
「はい、こっちは上がり」
出来上がったと同時にアリスが鍋を釜戸から離した。
「私も」
両脇から鍋を掴んだミリアムは力を込めて持ち上げると厨房の真ん中にある台に置いた。
「イリナは?」
「後は煮込むだけだからこのままでいいわ」
お玉で鍋をゆっくり掻き回す。出来る事ならすぐ食器に取り分けたいところだけど、今はそういう訳にもいかない。
「いつ戻ってくるのかしら?」
「さあ」
イリナとミリアムは互いに顔を見合わせると肩を竦めた。アリスは露骨に不満そうな顔をして天井を睨んでいる。
いつもだったら仕上がった時点でお皿や器に盛り付けてすぐに食べる。冷めてしまうと温め直す手間が増えるしものに依っては煮崩れたり味が若干変わってしまったりする。誰しもそういう無駄は極端に嫌うものだ。
でも食卓に全員揃わないのに取り分けたりしたらあっという間に冷めてしまう。だから食べたくても食べられない。完全にお預けを食った形だ。
「お腹減ったんだけど」
「そうね」
アリスの呟きを半ば無視するようにして、ミリアムは食器棚から人数分のお皿を出して台に置いた。
「ミリー姉はお腹空かないの?」
「だから今そうね、って言ったでしょ」
「頷くだけで動かないなら何も変わらないじゃない」
「じゃ、あなたが呼んできなさい。部屋のドアを叩いて支度が済みました、って言えば終わりなんだから」
実際にウォッカの分も含まれているのだから、接客している最中にそれを知らせるのは失礼に当たらないと思う。かと言ってそれを実践出来るかどうかは別だけど。
「それもそうだけど、」
「そうだけど?」
「何を話してるのかしら」
ミリアムは額に手をかざして天井を見た。釣られるようにしてアリスも天井を見上げる。食器を並べる手を止めるとこっそりイリナの様子を伺う。時折鍋の様子を窺いながら汚れた食器を洗っていた。動きに無駄がない。
何となくだけど、イリナなら知っているような気がした。確証がないから黙っているだけなのか、知っているけど敢えて口にしないだけなのかは判らないけど。二人が改まって頼む事があるとしたら一体どんな事だろうか。しかもお客である彼に、だ。まさかあんまりいっぱい食べないで下さいなんて事はないと思うけど。
廊下から足音が近付いて来た。と思った時には二人が厨房の入口からひょっこり顔を覗かせた。
「ごめんね、すっかり遅くなっちゃって」
「いいよ。丁度仕上がったところだから」
みんなの肩からホッとしたように力が抜けた。誰しも折角作った料理が冷めてしまうのは歓迎しない。ミリアムもアリスも早速器に取り分けている。
「カティ、ウォッカに声掛けて来て」
野菜炒めをお皿に盛り付けようとしていると背中からイリナが声を掛けた。
「じゃ、これが終わってからでいい?」
「ここは私達がやっておくから」
指を解いて菜箸を取り上げると、イリナは耳元で囁くように呟いた。
「まだ話したい事があるんでしょ?」
驚いて顔を上げると悪巧みをする子供のような顔をして笑っている。全く、この姉の前だと隠し事の一つも出来ない。どうして何でもお見通しなんだろう。
「じゃ、行って来るね」
「早く来ないとなくなるって言えばすっ飛んで来るわよ」
吹き出しそうになったアリスが慌てて口元を両手で押さえた。父は鍋に油を敷きながら苦笑いしているし、母に到っては声を上げて笑っていた。ミリアムだけはいつもと変わらず淡々と盛り付けたお皿をまとめて間仕切りの前に置いていた。
厨房を出て階段の前まで来るとそれまでゆっくりだった足取りが急に早くなった。こんなところを父か母に見られたら絶対に怒られるだろうなあとは思うけど、体は全く止まる兆しを見せなかった。四階まで一気に駆け上がる。少しだけ息が弾んでいた。胸に手を置いてゆっくり深呼吸する。呼吸と一緒に気持ちも整える。聞ければ聞こう。でも聞けなければ、胸にしまっておこう。出来る事なら聞きたくはないし、絶対に聞いてはいけない事だった。
これまで人を殺した事があるんですか? 幼子にこんな質問をされたら一体彼はどんな風に応えるのだろう。笑いながら「ない」と否定するのか、それとも曖昧に言葉を濁してごまかすのか。彼が人を殺めた事があるかどうかなんて当然考えたくもない。でもそれを可能にする技術も力も持っている。本気で殺しにかかって来た相手を一蹴するなんて事は、それまでそういう修羅場を潜り抜けて来なければまず実践出来ない。それがあったから、昨日彼はカティを守る事が出来た。でも彼が人を殺めているとは考えたくなかった。絶対に嫌だった。
だからそれを確かめたかった。でもそんな事迂闊に聞ける訳がない。今も聞かずに済むならそれに越した事はない、そう思っている。ならば、どうして私はここにいるのだろう。
彼の部屋の前に立った。もう一度ゆっくり深呼吸する。握った拳でドアを叩いた。はい、と言う声がすぐ近くから聞こえた。
「あ、あの、お食事の用意が出来ました」
「ありがとう、今行くよ」
言い終える前にドアが開いた。ちょっとビックリする。武骨な顔が器用に笑っている。濡れている目元を指で擦った。
「起こしちゃいましたか?」
「大丈夫、別に寝てた訳じゃないから」
寝ていたのかと思ったがそうではないらしい。それはそうだ、ついさっきまで父や母と話していたのだから。頻りに目元を擦りながらドアを潜る。
「どうされたんですか?」
「いや、何でもない」
何でもない割には声が震えている。震えそうになる声を抑えている、もっと判りやすく言えば泣きそうになるのを懸命に堪えているようだった。
混乱した。ウォッカが涙を流す理由が何処にあるのかがそもそも判らない。冗談だと思いながら横顔を盗み見た時、指の隙間から滴が一筋頬を流れて落ちた。ギョッとした。何で泣いているのか。しかも大の男が、年下の女の前で。
足を止めると壁に凭れかかった。ゆっくりと吐いた息はやたらと湿っていた。泣いているから当たり前なんだけど。
「ごめん、ちょっと待ってもらっていいかな」
「はい」
頷く事しか出来なかった。頭を抱えたくなった。目を手で覆ったのはウォッカの顔を見ないようにするためだ。本人も見られたくないに違いない。でも、そんな思いとは裏腹に塞がっていた指は少しずつ開いていく。大きな手で顔全体をズルリと撫でるもう一度ゆっくり息を吐いた。完全に乾いてはいないが涙の跡は殆ど残っていない。少し見る程度では泣いていた事はまず気付かないだろう。何よりももうすっかり落ち着いていた。
「悪かったね」
さっき客室で話していた時と同じ顔をしていた。ついさっきまで涙を流していた人間が見せる表情ではない。
「やっぱり、ビックリした?」
咄嗟にどういう顔をすればいいのか判らなかった。目を背けながら小さく頷く。
「そりゃそうだよなあ」
隣から溜め息が聞こえた。さっきまでのそれとは意味合いが全然違っている。
こんな風に突然涙を流すような真似はまず誰もしない、そういう自覚はあると言う事だろう。少し安心したけど、だったら何故堪えられないのか。
事に於いて動じず、常に泰然自若としているウォッカからは程遠い、いや想像すら出来ない表情だった。涙を流すなら昨日あいつらに取り囲まれた時の方が余程自然だ。どうして今突然涙を流すのか。その理由が何なのかも判らない。
「あの、何かあったんですか?」
「いや、別に何もないよ」
説得力がない。だったらどうして泣いたりするのか。何かがなければ普通涙など流さない。何もないのに涙が出るなら精神的に相当参っているかそれにすら気付いていないのか、およそ全うな状態ではない。
「ひょっとして、」
「ひょっとして?」
「さっき、父と母から何か傷付くような事でも言われたとか……」
「まさか。むしろその逆だよ」
言下に否定された。二人がお客に向かってそんな失礼な事を言うなんてまず考えられないけど、カティがウォッカと話した後に彼と顔を合わせたのは父と母の二人しかいない。何処に彼が涙を流す理由があるかは判らないけど、きっかけにはなっているはずだ。
「あの、逆とおっしゃいますと」
「とても温かいお言葉を頂きました」
無邪気に笑っている。強張ってた体から自然と力が抜ける、そんな笑顔だった。急に顔が熱くなった。さっきから本人も口にしたくないような事を根掘り葉掘り聞き出そうとしている。全く、なんて不躾で無神経なんだろう。ウォッカもそれを拒む事もせず素直に受け答えしている。それが恥ずかしさに拍車をかけた。
自然と背筋が伸びた。両手を重ねて体の前に置く。
「すみませんでした」
慌てて腰を折った。ウォッカが制止するように前に手を出して来たけど無視した。
「涙を流した理由なんて普通誰も言いたくありませんよね。それをさっきから根掘り葉掘り……」
「気になるから聞いただけだろ? そこには何の感情もない訳だし」
「でも相手の気持ちは考えるべきですよね。そういう配慮が欠けてました」
僅かに間があった。息を吐く音が頭の上から聞こえた。
「取り敢えず、顔上げようよ」
そうしたい気持ちはあるけど、今はウォッカにどういう顔を向ければいいのか判らない。
「俺、人に頭下げられるのってあんまり好きじゃないんだ。だから、せめて頭だけは上げてくれないかな」
声が少し硬くなった。反射的一瞬に体が強張った。恐る恐る顔を上げると表情を硬くしたウォッカがカティを見下ろしていた。と思ったらもう笑っている。干した椎茸が水で戻るよりも遥かに劇的で急激な変化だった。さっきまで泣いてたのにもうその名残すらない。
「ま、常にそうやって周りを見て配慮が出来ればそれが理想なんだろうけど、人ってそこまで万能じゃないからね。理性を失う時くらい誰にでもある」
さっきまでのウォッカがそうであったように。目が覚めるような感覚だった。涙を流していた理由を聞こうとしていた時はそればかりに気を取られてそれ以外の事、ウォッカの気持ちにまでは思いが到っていなかった。一方的な感情を抑える役目を果たすのもやはり理性だろう。誰しも起こり得る事だからそれを咎める事は出来ない。顔を上げさせた本当の理由はそれに違いない。頭を下げられるのも苦手は苦手なんだろうけど。
「嬉しくて涙が出た、単純にそれだけだよ」
それ以上でも以下でもない。それが事実であり全てなのだろう。ただ、
「普通の人はそんな事で涙なんか見せないけどな」
見た目の印象とはかなり不釣り合いだ。そういう弱々しいものとは全く無縁に思えた。昨日ウォッカにボコボコにされた連中が嬉しいくらいで人目も憚らず涙を流す彼を見たら一体何と言うだろうか。単に馬鹿だと思うだけなのか、呆気に取られて言葉をなくすのか。
カティはと言うと、そのどちらでもなかった。気付いたら頬が綻んでいた。
「あ、笑ったな」
ウォッカが抗議の声を上げた。でも顔が笑っている。
「ま、笑われても仕方ないよな。普通そんな事くらいで誰も泣かないし」
「ごめんなさい。そういう事ではないんですけど」
不思議そうに首を傾げるウォッカに口元を握り拳で押さえながら顔を背けた。油断すると本当に笑い出しそうで怖かった。
「優しいんですね」
「優しい?」
自分を指差しながら少しだけ目を丸くした。頷いて見せてもぎこちなく顔を歪めたまま頭を掻いている。
「それだけ誰かの気持ちを理解している、そういう風に考える事も出来ると思います」
「単に涙脆いってだけだよ。それに泣こうが喚こうがそれが相手の気持ちを正確に理解する事にはならないと思うけど」
「どうしてですか?」
「泣くってのは飽くまで俺個人の感情だからな。相手は一切介在してない。俺自身が大袈裟に解釈して勝手に一喜一憂してる可能性の方が遥かに高いしなあ。だから別に優しいなんて事はないよ」
確かに正論だと思う。でも首を横に振るウォッカを目の当たりにしても全く動じなかった。音もなく背筋が伸びた。
「それだけ感情が揺さぶられているって事ですよね。ひょっとしたら少し大袈裟に取っているかも知れないし、場合に依っては間違って受け止めているかも知れない。でも、自分の気持ちが正確に伝わった事が判れば、それを伝えた方はやっぱり嬉しいと思います」
デタラメな方向に解釈していたら馬鹿に見られる事もあるだろう。でも、それがしっかり伝わっているなら、相手の気持ちを受け止めた上での事ならやっぱり優しいと思う。
ムカつく相手を殴り倒す事も別段躊躇わないし裸で人を出迎えたり何を考えているのかよく判らなかったりする処もある。でも、絶対に悪い人じゃない。やっとそれが判った気がした。いや、最初から判っていた。まだウォッカの個性を掴み切れていなかったから自信が持てなかっただけだ。彼がいい人で、そんな人と知り合う事が出来て良かった。それが純粋に嬉しかった。
ウォッカもそれ以上首を横には振らなかった。仕方なさそうに、でも照れ臭そうに笑っている。いやそうじゃない、笑いたくなるのを懸命に堪えていた。それが逆に見ている方の笑いを誘った。湯が沸くように喉の奥から笑いがゆっくりと上がって来た。気付けば声が出ていた。ウォッカも釣られるようにして笑った。
「お料理が冷めちゃいますから、早く行きましょう」
「そりゃ大変だ」
本当に大変そうに言うから面白い。冗談ではなく本気で言っている。
「あんまり遅いと全部食べちゃうってイリナ姉が言ってましたよ」
「そりゃもっと大変だ」
サッと駆け出した。素早い。さっき少し食べて呑んだのに普通にまだまだ余裕のようだった。十人を潰してその後呑み直すような胃袋だ、あの程度では食べたうちにも入らないのだろう。
「待って下さいよぉ」
「ダメ」
と言いつつ踊り場で素直に止まった。でも早く下に行きたいんだろうな。
ウォッカの隣に立つとカティを見て笑った。よく判らない鼻唄を歌いながら階段を降りて行く。見るからに機嫌が良さそうだった。
今の出来事は胸の中にしまっておこう。ウォッカだって誰にも知られたくないハズだ。何より、昨日の一件も含めてウォッカと秘密を共有出来る事が嬉しかった。父と母が彼に何を頼んだのかも気になるけど、二人に聞いても答えてくれない気がするしそれをウォッカに聞くのは明らかに気が引けた。ほとぼりが覚めた頃に聞いてみればいい。それがいつになるかは全く判らないけど。
階段を降りて行く背中に向かって一気に駆け降りた。




