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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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三日目 その拾伍

まだ僅かに湿っている毛先が時折首筋に当たる。もう少し丁寧に髪を拭いておけばよかったかなと言う気もするけど、そんな事で時間を無駄にしたくなかった。

 彼の部屋の前で足を止める。一体何のためにここにいるのか、自分でもさっぱり判らない。別に何か用がある訳でもない。理由を聞かれたら絶対に動揺しそうだった。ここに来る理由など最初から何処にもないのだから。

 強いて言えば、彼と話がしたかった、それだけだ。何を話すと決めている訳でもないのに、どうしてこんな気持ちになったのだろう。そこを突っ込まれたら絶対焦るだろうな。カティにも説明出来ない。

「今日はどうだったの?」

 母はイリナの背中を流しながら言った。耳だけ傾ければいいのに、カティは首を捻って後ろを見た。

「完敗よ。相手にもならなかったわ」

 実にサッパリとした表情でイリナは言った。引きずるものが何もなかった。負けた事を素直に受け入れたような表情だった。

「私も身動きすら取れなかった」

 ミリアムがそれに続いた。普段以上に落ち着いた雰囲気だった。

「私は一発もまともに入れられなかったわ」

 アリスは二人に比べるとかなり気持ちがこもっているように聞こえた。でも胸を掻きむしりたくなるような悔しさは窺えなかった。いつものアリスなら絶対にそう感じているだろうに。

「あなた達三人が口を揃えてそう言うなんて、やっぱり彼も相当腕が立つのね」

 半ば返事を予想していたような言葉だった。昨日はこれを遥かに上回る芸当を披露しているのだ、そう考えれば驚くには値しないのかも知れない。

「力は勿論だけど、速さも技術もとても及ばなかった。一体どれだけ練習したらあんな風になれるのよ」

 イリナは吐き捨てるように言った。そう言いたくなるくらい圧倒的だった。

「しかも、まだ二十歳になったばっかりなんでしょ? 私達とそう大して変わらないのにどうしてそこまで違うのかしら」

 背中を流す手を止めるとアリスは言った。もっともな疑問だと思う。

「カティは昨日ウォッカが闘ってた渦中にいたんでしょ? どんな風に闘ってたの?」

「判らない。ずっと目を瞑ってたから」

 アリスはあからさまにガックリと肩を落とした。仮に目を開けていたとしても説明出来なかったに違いない。平衡感覚がなくなるくらい、終始目まぐるしく動いていた。抱えて走って飛び跳ねて、今にして思えばよく吐かなかったものだ。

「ま、普通に考えなくても彼が普通じゃないのは間違いないからね」

 背中を流す手に力を込めながら母は至って淡々と言った。冷静になって考えるまでもない。ウォッカがいなかったら、いや傍にいたのがウォッカでなかったら確実に死んでいた。それに怖じ気づく事もなく真っ向から挑みかかる三人も絶対普通じゃない。

 でも、やっぱりダメだった。まともに相手に出来る人を探すのが難しいくらいなのに、その三人が全く相手になっていなかった。一矢報いる事すら出来なかった。イリナは下段蹴りが一発だけ入ったけど肝心の斬撃は全てかわされた。対してウォッカは肘を軽く拳で叩いただけだ。腕が痺れただけで目立った外傷はない。全力で斬りかかって来たイリナの気迫などものともせず、最も相手を傷つけない方法で終わらせた。手加減するだけの、手加減しても勝てるだけの余裕があったのだ。実力の差は歴然だ。

「どうしてなのかしらね」

 イリナに背中を流してもらっていた母が思い出したように言った。

「どうしてって、何が?」

「どうしてそこまで大きな力を求めるのかなと思ってね」

「ウォッカが、って事?」

 イリナの問いに対して母は静かに首を横に振った。

「あなた達も含めて」

 母の背中を流していたイリナの手が止まった。ミリアムは首を捻ると背後にいるアリスと顔を見合わせる。驚いたような、何処か困ったような顔をしていた。

「別に武器がなくても、素手でも人を殺める事が出来るくらいの力はあなた達にもあるでしょう?」

「そ、それはそうだけど……」

 二十歳を前にして三人はそれだけの技術を当たり前のように備えている。その事実に対して背中が寒くなる。母なりの疑問なのかも知れない。

「彼の力が飛び抜けているのは間違いないけど、あなた達もそれには及ばないまでもそれに近いものを持ってる。だから時折不安になるの」

「人を傷つけたり、その、殺したりしてしまうんじゃないか、って?」

 口ごもるイリナに母はゆっくり首を横に振った。

「半分は正解。でももう半分は違うかな」

 アリスは眉根を寄せて首を傾げた。ミリアムはイリナと顔を見合わせるとバツが悪そうな表情で耳を掻いた。イリナは顔をしかめたまま溜め息を吐いた。

「私達が怪我をするとか、そういう事が心配、って事?」

「当たり前でしょう? 自分の子供の心配をしない親が何処にいますか」

 今度こそ母は本当に困った顔をした。肩を落として溜め息を吐いた。

「言い出したら聞かなかったもんね、あなた達は」

 三人は交互に目を合わせたかと思うとそれぞれが微妙に視線を逸らした。思い当たる節がなければこんな不自然な反応はしない。

「でも、これまで負けた事なんて数えるくらいしかなかったんだからきっと大丈夫だよ。手加減するやり方もちゃんと師匠から教わってるし」

 今日肘で急所を攻撃した人の言う言葉ではないと思う。教わっている事は間違いないだろうけど。

「ならば、あんたは教わった事をしっかり実践しなさい」

 イリナはナイフでも突き刺すように言葉をぶつける。結構、いやかなり痛いはずだ。

「そんな冷たい言い方しなくても……」

「何言ってんの、自業自得でしょ」

 ミリアムが更に追い討ちをかける。身内だけに遠慮がない。

「紙一重、じゃないかな」

 手桶の湯を体にかけながら母は穏やかな口調で言った。

「そういう力を持っている以上、一線を超える可能性は誰にでもあるわ」

 イリナとミリアムの表情がギクリと音を立てて固まる。対照的にアリスの頬が緩んだ。してやったりと言う顔をしていた。

「イリナもミリアムも感情より理性が勝ってるからその一線を迂闊に踏み越えるような事はないでしょうね。でも、きっかけさえあれば案外あっさり超えてしまう事もあるんじゃないのかな?」

 何かの拍子で一気に感情に火が点く事は、そうなる可能性は誰にでもある。一昨日、イリナがそうなったように。あの時、カウンターに手をついて一気に躍り越えたイリナの横顔はいつもと明らかに雰囲気が違っていた。普段も怒る事はあってもあそこまで我は忘れない。ウォッカがいなかったら、相手が客であろうがお構いなしに殴りかかっていたに違いない。そうなっていたら結構とんでもない事になっていただろうな。背筋が音もなく冷えた。それが判っていたから彼は席を立ったのかも知れない。妹を守るためとは言え、商売人として越えてはいけない一線を越えようとしていたイリナを止めるためにあいつらを殴り飛ばした。そんな風に考える事も出来ると思う。聞いてもはぐらかされるだけだろうけど。

「家事も仕事もよく手伝ってくれてるから私達も本当に助かってる。その上で自分の好きな事を見つけて一生懸命頑張って、他の人より抜きん出たものを身につけてる。でも、そこまで大きな力を求める必要はないと思うな」

「どうして?」

 殆ど間がない。何も考えていないか力を持つ事に疑問を感じていないかのどちらかだった。

 母はアリスの頭に手を置くと穏やかに笑った。

「あなた自身も傷つく事はないし、誰かを傷つける事もないでしょう?」

 人差し指で頬を掻きながらアリスは母から目を逸らした。耳が痛いに違いない。

 三人が稽古を重ねる中で誰かに怪我をさせたり怪我をする事は確かにあった。と言ってもそこまで大きな怪我ではなかったけれど。

「確かに怪我は付き物だけど、私はあなた達が怪我をするのも嫌だし誰かに怪我をさせるのも見たくないのよ」

お湯の滴る髪を結い上げながら母は言った。爪先からゆっくり湯に浸かる。

「怪我をさせた事も数えるほどしかないし、手加減する術も身に付けてるわ」

 イリナが母の隣に座った。背中に垂れる髪を全て頭に載せているせいで巨大な帽子でも被っているかのようだった。

「力の使い方が判れば抜き方も判る、いつだったか母さんもそう教えてくれたじゃない。実際その通りだと思う」

 母を挟んでイリナの向かい側に座ったミリアムが膝を両腕で抱える。

「力がなかったら何も出来ないけど、あったら自分だけじゃなく傍にいる誰かを守る事も出来るでしょ?」

 剣ではなく、盾として力を使えば無闇に誰かを傷つける事もなくなる。

「使い方を間違えるな、いつもそう言われてるわ」

 馬鹿とハサミは何とやらと言うけど、確かに使い方次第だ。それを誤りさえしなければ大きな間違いは起こらない、と思う。お師匠さんはそれを身に沁みて知っているに違いない。戦地では持っていたものを全力でぶつけて来たから、今こうしてここにいる。無闇矢鱈に振り回せるような代物じゃない。

 ただの護身術ですよ。ごまかしているのか本気なのか最初は判らなかった。実際にそれをを目の当たりにした後はその域を遥かに超えていると、単純にそう思った。でも、ウォッカがそれで自身を守っている事も事実なのだ。だから決して嘘ではない。身を守る、それを遥かに凌ぐ力を同時に備えている。それに思い至って寒気に近いものを感じた。身を守るだけでなく、容易く人の命を奪う力を備えているのだ。

 昼間、聞こうとして聞けなかった事がある。それを今になって改めて言葉にする勇気はなかった。

「あなた達なら、今持っている力を決して間違って使うような真似はしないわね」

 母は湯に浸かっている娘の頭に順繰りに手を載せる。イリナは真っ直ぐに口を閉じていた。不貞腐れているようにも見える。ミリアムは頬を赤らめたまま少し目を逸らしていた。アリスだけが無邪気に笑っていた。一人だけ蚊帳の外に置かれているけど寂しくはなかった。カティには縁のない話だった。

「ごめんね、突然。でもずっと気掛かりだった、心配だった」

 そこで唐突に言葉が途切れた。声が微かに震えていた。

「強くなりたいと思って一生懸命努力するのはとても素晴らしい事だしそれを否定するつもりはない。でもその力が悪い事をあなた達に引き寄せるような、そんな気がしてならないの」

「そんな事ないよ。絶対起こらないって。考えすぎだよ」

 ミリアムが母の肩に手を置いた。そんな事はこれまで考えた事もなかった。でも判らなくもない。日々の稽古の中で組手を行い常に勝ち続けて来た。それがあるから今の三人がいる。改まって挑戦状を叩きつけられるような事がなかっただけで、挑戦そのものは稽古を介して受け続けて来ていた。

 近い将来に、腕が立つと言う噂を聞きつけた誰かが三人に手合わせを申し込みに来るかも知れない。今日三人がウォッカにしたように。立場は逆だけど考え方は変わらない。その中で怪我をしたり、或いはさせたりする事も全くないとは言い切れない。

 それを思うと腕が痺れる、アザを作る程度で決着をつけたウォッカの技量の程が窺える。いや、正確には窺えないか。全く底が見えていない。

 でも容易く人の命を絶てる程度の力は間違いなく持っている。また背筋がゾッとした。それでウォッカが怖いかと聞かれたら、それはまた違った。これまで何度か三人の組手に立ち合った事があるけど、直前は真冬の朝みたいに緊張感で空気が張り詰めていた。でも今日はそんな雰囲気は欠片もなかった。少なくとも、彼には。それが闘う人が纏うものだと勝手に思っていたけど、そんな思い込みを綺麗に覆してくれた。そんな荒々しさなんてものは微塵もなく、日溜まりで散歩か昼寝でもするような、見ていて気持ちがホッとするような雰囲気に満ちていた。見た目の印象と全くそぐわないものを持っている。どうしてそうなのか、そんな事が無性に知りたくなった。誰から武術を学んだのか、どうしてそれが必要なのか、そして何故旅をしているのか。聞きたい事や知りたい事が水のように次から次へと湧いて出る。

 いつ湯から上がったのかよく覚えていなかった。普段ならこの時間は厨房で鍋を振るうか食堂で接客をしている。こうして客室の前で拳を握って立っていられるのは今日が定休日だからだ。

 中途半端に拳を握って肘を曲げたものの、腕は宙に止まったまま動かない。何をしに来たのか自分でも全く判らなかった。ドアを叩いて彼が出迎えてくれたとしても一体何を話せばいいのか。溜め息が出た。何をしようとしているのか全く以て判らない。考えすらまとまらない。なのに勝手に手が動いていた。ドアを叩く音を聞いて一番驚いたのはカティ本人だった。私、何やってんだろう。反射的に周囲を見回したけど人の姿はない。ドアが開く気配もない。ホッとするのではなく、苦い風邪薬を飲んだ後のように気持ちが沈んだ。本来ならばすぐにここから立ち去るべきだろう。でも実際はそれとは全く正反対の事をしていた。一歩前に進み出るとドアノブに手をかけた。捻ってゆっくりと手前に引く。何の抵抗もなくドアが開いた。ベッドの他には小さな机と椅子があるだけだった。ウォッカの姿はない。一歩一歩中に入る。躊躇う気持ちもあったけど体は止まらない。ベッドの脇に巨大なリュックが置かれていた。そこに剣が立て掛けられている。大中小、三本が仲良く並んでいる様は物騒と言うよりむしろほのぼのとして見えて逆に笑いを誘った。それが本来持っている目的を忘れさせるくらいに穏やかだった。無意識に手を伸ばしていた。僅かに抵抗は感じたけど不思議な好奇心に呆気なく押し流された。一番短い、と言っても優に一尺はある剣を手に取る。ズッシリと重い。包丁以外の刃物を手にしたのはこれが初めてだった。大きさからすると片手で扱う事は間違いなさそうだけど、柄の長さや重さがそれを許しそうもなかった。これは飽くまで片手で振るう、それを運命付けられているようだった。短剣を魅入るようにして見詰めたまま左手で一気に鞘を抜いた。分厚い刃が顔を覗かせる。イリナが前に道場で使っていた剣とは違って片刃だった。最初は刃の幅が随分あるように見えたけど、実際はそうでもない事に気付いた。刃の厚みに対してそれくらいの幅がないと釣り合わないのだ。大きさは相当だけど決して不恰好ではない。水平にした短剣の柄尻から切っ先までをまじまじと見詰める。何故か酷く懐かしく感じた。目にするのも手に取るのも初めてなのに何故懐かしさを感じるのか。大いに混乱したけどカティにも理由を説明出来ない。ただ懐かしく、そして嬉しかった。

「こらこら」

 背後から聞き覚えのある声がした。冷水を浴びせられたように背筋か伸びる。よく取り落とさなかったものだ。

「そんな危ないもの持っちゃダメだよ」

 カティの指を丁寧に解くと短剣を握る。鞘に仕舞った短剣をリュックに立て掛けた。

「すみませんでした!」

 大慌てで頭を下げた。客室に無断で入った上に荷物に手を出すなんて言語道断だ。父に知られたら大目玉だ、いやそれだけでは済まない。

 どうしてこんな事をしたのか自分でも判らない。ウォッカと何か話がしたかった、最初はそれだけだった。だからいないと判った時は酷く気持ちが萎んだ。その後の一連の行動はカティにも説明出来ない。何かに取り憑かれたように完全に無意識だった。

「別にやましい気持ちなんてこれっぽっちもなかったんです! ただ、ウォッカさんにお会いしたくて、でもお会い出来なくて……。ノブを捻ったらドアが開いたからいらっしゃるかなと思って中を覗いてみたらやっぱりご不在で……」

 声が尻すぼみに小さくなる。自分でも何を言っているのか判らない。会いたかった事は確かだけど客室に無断で入っていい理由にはならないしその後は言うに及ばずだ。どうしてこんな事をしてしまったんだろう。混乱するばかりで考えがちっともまとまらなかった。

 温かい何かが頭に載った。ウォッカの右手だった。

「そういう気持ちがないのは判ってるつもりだから」

 これまで一度も怒った事がないと思えるくらい朗らかな顔でウォッカは言った。勿論そんな事はないだろうけど、カティにはウォッカが怒る様を想像する事すら出来なかった。彼がここに来た日も、昨日も感情が混ざった事はあったけど怒ってはいなかった。

 どうしてこんなに穏やかなのだろう。

「まだ見るかい?」

 鞘に仕舞った短剣を引き抜いた。

「これまでも何度か見せて欲しいってせがまれた事あるし」

 そう言えばイリナもそうだった。って、そういう問題ではない。

「いえ、そういう事ではなくてお客様のお部屋に無断で入ってお荷物に勝手に触れた事が問題なんです」

「気にしなくていいよ」

「気にします!」

 自分でやっておいて言えた科白ではないけど。ウォッカが笑うのも道理だった。

「荷物を出しっぱなしにしてた俺にも責任はある。最終的には自己管理だよ」

「でも!」

「じゃ、お客の命令なら聞いてもらえるかな? 宿代払ってる訳だし」

 そう言われると返す言葉に詰まる。力を抜くようにしてウォッカの表情が解れた。首を横に振る。

「別に何も気にしてない。だからこの話はもう終わり」

 鞠でもつくように軽く頭を叩かれた。完全に子供扱いされている。

「君は何が悪かったのかもう判ってるし反省もしてる。それだけあれば充分だよ。後は同じ失敗をしないようにすればいい」

 親が子供に諭して聞かせるような雰囲気だった。歳は四つしか離れていないのにとてもそうとは思えない。彼が大人びているのか、それともカティが子供なのか。

「何か用があってここに来たんだろ? でなきゃドアを開ける必要もない。で、たまたま目がついた所に剣が転がってたから鞘から抜いた。やましいものがあるって言うなら話は別だけどそうじゃないんだし」

 自己弁護する気は更々ないけど、今ウォッカが話した事が概ね事実だった。それ以上でも以下でもない。

「取り敢えず、座らない?」

 ウォッカは腰を下ろしていたベッドの隣を軽く叩いた。

「何か用があったからここに来たんだろ?」

 応えに詰まった。間違っていないけど正しいとも言えない。強いて言えば話がしたかったけど、何を話すかなんてこれっぽっちも考えていなかった。

 いや、そうじゃない。聞きたい気持ちはあったけどそこから目を背けていただけだ。

「本当に、申し訳ありませんでした」

「だからもういいって」

 首を竦めたままチラリとウォッカの横顔を窺う。バツが悪そうに口元を歪めたまま頬を掻いていた。

「昼間、短剣で姉と組手をしましたよね」

 木製だったけど。でも直撃したらただの怪我では済まない。打ち所が悪ければ即死だ。それを一辺の容赦もなく打ち合っていた。そしてここにはそれを上回る本物がある。

「私、本物の刃物ってほとんど見た事がなくて」

「そうなんだ」

 へぇ。酷く意外そうに聞こえた。武術や剣術を好んでたしなむ姉に囲まれているのに、と言ったところだろうか。

「姉三人は物騒ですけど」

「物騒と言うより趣味嗜好の問題だと思うけどなあ。君はそういう事に興味がないだけで」

 そう、全くと言っていいほど興味がない。なのに、何故客人の持ち物の剣を手に取ったのか。そして鞘まで抜いたのか。何より、懐かしいと感じた理由が判らない。

 これだけ強ければ身を守るための武器など必要ない。拳一つあれば充分だ。どうして持っているのか。それが知りたかったから剣に手が伸びた。ウォッカには必要のないものだ。だから持って欲しくなかった。

「あ、あの」

「ん?」

 ウォッカが僅かに首をこちらに曲げた。慌てて目を逸らす。どういう顔をすればいいのか判らなかった。

「その、どうしてウォッカさんはこういうものを持つんですか?」

「こういうものってのは、剣の事かな?」

 応える代わりに頷いた。声に出して伝える勇気が持てなかった。

「身を護るため、って言っても説得力に欠けるか」

 苦笑いしたウォッカに釣られるようにして笑った。頬と一緒にようやく気持ちも少しだけ解れて来た。

「昨日襲って来た程度の連中なら束になってかかって来ても問題ないんですよね」

「そうだな」

 素手の状態でも加減を間違うと過剰防衛になりかねない。彼に限ってそんな事はまずないと思うけど。

「だったら、別にそんなもの持たなくてもいいじゃないですか。何もなくてもこんなに強いんですから」

 どうしようが彼の自由だし、大きなお世話だと言われたらそれまでだ。でも止められなかった。

「刃物って、剣って人の命を奪うためのものですよね。身を護る事も出来るけど、本来的には誰かを傷つけるためのものでしかない」

「間違ってはいないな」

 見るとウォッカが首を曲げてこちらを見ていた。と思ったら泣く子をあやすように笑ってみせた。

「使い方、いや捉え方の問題かな」

 間違ってはいない。でも一概に正解とも言えない。そんな含みのある言い方だった。

「確かに君の言う通り剣に与えられた存在意義は人を殺す事にあるからな。だから今君が言った事は何一つ間違っちゃいない。ただそれは剣を武器としてしか見ない時に言える事かな」

 噛んで含めるように一言一句を丁寧に発音する。自分の理論に対する自信もあるだろうけどやっぱり子供扱いされている。それが悔しいのに満足に抗弁も出来ない。歳は四つしか離れていないのにどうしてこうも違うのだろう。これまでどんな経験を積んで来たのか全く判らない。

「馬鹿とハサミは何とやら、って言うだろ? どんなものでも使い方次第だよ」

「使い方、ですか?」

「剣は人を斬るものだけど、同時に身を守る事も出来る。剣術を学ぶ中で攻める術だけじゃなく守る術も学ぶんだよ。全部引っくるめて一つであってそこだけ身に付けても意味がない。と言うか、守る事も学ばないとまず生き残れない」

 言わんとしたい事は判るけど、カティの意図からはかなり離れて来ている。違う、そういう事じゃなくて。

「確かに技術がなければ、経験を積んでいなければ相手の攻撃を受け止める事なんか出来ないですよね。それは姉との組手を見ていても判りました」

「ならば後は簡単だろ? 守る技術を高めていけば別に誰かを傷つける事もない」

「あの」

 無意識に体を前に乗り出していた。授業中に質問でもするように右手を上げる。

「ウォッカさんがおっしゃりたい事は判ります。でもそういう事ではなくて何て言うか、もっとこう……」

 気持ちが上手く言葉にならない。胸を掻きむしりたくなった。

「そんなに大きな事じゃなくて、もっと個人的と言うか」

「個人的?」

「ウォッカさんご本人の事です」

 吐き出したら思いの外スッキリした。言葉にするだけなのに学校まで全力疾走した直後のように体中がぐったりしている。

「力や技術があるに越した事はないと思います。高い水準で維持しておけば調整が利く事も理解出来ます」

 力があるから加減が出来る。ないから勝手が判らない。故に力はあるに越した事はない。昔イリナが玉葱を刻みながらそんな事を言っていた。その時は意味がよく判らなかった。でも今は違う。

「どうして、力を得ようと思うんですか?」

 意図した言葉ではなかった。かと言って嘘かと聞かれたらそれもまた違う。

「俺、そんな事話したっけ?」

「いえ、直接的には。でも現状に満足はされていないですよね?」

 自分でも驚くくらいに淀みなく自信に満ちた口調だった。普段だったら逃げ腰になってしまってまず言えない。

「ま、そうか。そんな簡単に満足なんか出来ないからな」

「どうしてですか?」

 口が勝手に動いていた。声が震えている。こんなにも強いのに、どうしてまだ力を求めるのか。それに納得出来ていない。

「臆病者でね、常にそうして自分を焚き付けてないと不安で堪らなくなるんだよ」

「全然信じられません」

「そうかい。そりゃ残念」

 例によって全く残念そうには聞こえなかった。笑っているから余計にそう見えた。

「昨日だって助けてくれたじゃないですか。あの時だって全然怖がっているようには見えなかった。むしろ怯えてた私を励ましてくれたじゃないですか。そんな人が臆病なんてとても信じられません」

「それは単に誰かと殴り合う事に慣れてるだけだよ。昔はともかく、今は別にこれと言って感慨はないな」

 それはそれでまたかなり凄い事だった。刃物を携え殺意を露にした相手を前にしても怯える事はおろか震える事もない。玉葱を切り刻むように淡々と障害を排除していく。敵である以上容赦はしない。そういう冷酷さも併せ持っている。

「怖いものなんて何もないように見えますけど」

「なくすのが怖いんだよ」

 実にあっけらかんとしたした横顔だった。少なくともなくす事を心底恐れているようには見えない。そもそも何をなくしたくないのかが判らない。

「なくす? 負ける、ではなく?」

「別に負けるのは構わない。勉強なんか勝った試しがなかったしな」

 声に笑いが混ざった。切れ者には思えないけど馬鹿にも見えない。

「ただ負けて死ぬならば話は別だな。それだけは絶対にごめんだ」

「命をなくすのが、って事ですか?」

「それもあるな」

 それもと言う事は他にもあると言う事だろう。だとしたら、何をなくしたくないのか。

「臆病と言うより欲張りなのかも知れない」

「欲張り?」

「身の回りにあるもの全て、目に見えるものは一つもなくしたくないんだよ」

 これまでものをなくした事は何度もある。その度にうんざりしたり後悔したり、遣り切れない思いで胸が満たされる事はあった。でもなくす事自体をここまで恐れた事はなかった。

「本当に大切なものがなくなると、それだけで体が音を立てて崩れていくような気がするんだよな。自分のせいでそうなったら、そう思うと体の芯から震えが来て止まらなくなる」

 震えが止まらないくらいの喪失感が一体どれほどのものなのか、カティには想像もつかなかった。つまりウォッカはそれを知っている事になる。

「でも、守れるだけの力があれば何もなくさずに済むだろ」

「だから力を求めるんですね」

 頷く事も首を横に振る事もしなかった。ただ黙って宙を見詰めていた。

「だったら、尚更似合わないですよ」

 リュックに立て掛けられていた剣を手に取るとウォッカに両手で差し出した。

「こんなものがなくても、あなたは充分強いですよ」

「身を守るための道具の一つだよ。ただそれが攻撃する要素も備えてるってだけでね」

 いつの間にか頬が綻んでいた。どうしてこんな気持ちになるのか自分でも判らない。

「やっぱり似合わないです。誰かを守ろうとする人がこういうものを持つべきじゃありません」

 たとえそれが身を守るための道具であっても。首を横に振ると微かに湿り気を帯びた髪が頬を撫でた。

 一瞬ウォッカの目が丸くなった。と思ったら子供のような顔で笑っている。やっぱり、こういう風に笑う人にこんな物騒なものは似合わない。

「そんな事言われたの初めてだ」

「そんな事?」

「こういうものが似合わないなんてさ」

 握っていた剣を鞘から引き抜いた。部屋の四隅と中央で灯っている蝋燭の炎を受けてキラリと光る。

「ナリが物騒に見えるんだろうな」

 自嘲気味に言っているけどそれは否定出来ない。

「実際物騒だからな」

 恵まれた体格を鍛え上げた筋肉で覆っている。普通に考えなくてもその見た目だけで充分に物騒だった。そう、見た目だけは。

 でも実際は違う。体が大きいだけでなく、それに見合うだけの広い心と人を気遣うだけの優しさがある。こういうのを包容力と言うのかな。何を考えているのかよく判らないところもあるけど。

「第一印象がそう見えるだけですよ」

「有り難いお言葉だな」

 ウォッカはカティを見て笑った。見様に依っては怒りたいのを我慢して無理矢理笑っているようにも見える。いつもの笑顔とはまた少し違っているけど、彼が怒っていない事は間違いなかった。まだ会って三日しか経っていないけどそれはハッキリと判った。

 ウォッカは厚みのある片刃の短剣を鞘に収めた。

「ウォッカさんにはこれが必要なんですよね」

「ああ」

 腰に差そうとしていた短剣を引き抜くとさっきそうしていたように他の二本の隣に据える。

「いつかこういうものが必要になくなる日が来るといいですね」

「そうだな。でも、人がいる限りそれは絶対に有り得ない話だよ」

 何処か悟ったような雰囲気だった。そして寂しげでもあった。

「どうしてですか?」

「人がいるところには大なり小なり必ず諍いがある。それが目に見えるか見えないか、それだけだよ」

 急に哀しくなった。それではまるで人が諸悪の根源のようではないか。

「ま、今のはちょっと言い過ぎかも知れないけど、火種が燻ってなくてもその予備軍みたいなものは絶対何処かに転がってる。それには必ず誰かが絡んでるってだけの話さ」

「それじゃ、まるで人が悪い事全ての元凶みたいじゃないですか!」

 言い終えてから慌てて口を両手で押さえた。お客に接する態度ではない。

「そこまでは言わないけど、大抵のゴタゴタには人が絡んでるもんだよ」

「そんな事……」

 ないとは言い切れなかった。何が気に食わない、誰が気に入らない、そこにはほぼ必ずと言っていいくらい人が関わっている。でもそんな人達全てが何かをしでかすと決まっている訳ではない。そう思うとやっぱり極論と言う気がする。

「どんなきっかけで何がどうなるなんて誰にも判らないからなあ」

 自分の事を言っているようにも、はたまた全く縁も所縁もない赤の他人の事を言っているようにも聞こえる。誰にでも起こり得る、それが故に恐ろしいのかも知れない。

 ウォッカは頭の後ろで両手を組むとベッドに横になった。仰向けになったまま茶色い天井を見る。

「だから、自分から進んで拳を上げるような真似だけはしちゃいけないんだよな」

 一瞬混乱したのはただの誤解に依るものだった。昨日も、そして一昨日もウォッカは自分から手を出すような事はしていない。昨日に至っては事前に警告までしている。

 やっぱり、この人は絶対に乱暴者なんかじゃない。自分が持っているものの性質や使い道をちゃんと理解している。

 似合わない。もう一度そう言ったら今度はどんな顔を見せてくれるだろうか。

「で」

 体を起こすとウォッカは少しだけ眠そうな顔をしてカティを見た。

「何しに来たんだっけ?」

 頭が真っ白になった。無断で客室に入ってまでやろうとしていた事を全て忘れている。いや、そうじゃない。目的が半ば、ひょっとしたらそれ以上達成出来ているのかも知れない。

 忘れているのはそのためだ。

 でも何でもないなんて絶対に言えない。

「何でもありません」

 自分の声が鼓膜に吸い込まれた瞬間、本当に前のめりにずっこけそうになった。何を考えて何を口にしようとしているのか自分でも全く判らない。

「そうなの? その割には随分マジな顔して話してたような気がするけど」

 およそ何でもないようには見えなかったのだろう。確固たる目的があってここに来たのだからご指摘ごもっともだった。決していい加減な気持ちで部屋に侵入した訳ではない。胸を張って言える事ではないけど。

「すみません。何でもないって言うのは口から勝手に出てしまっただけで、ちゃんとした用はありました」

「どんな?」

 即座に聞き返された。子供じゃないんだから、せめて一拍くらいは空けて欲しい。

 無意識に背筋が伸びた。首筋から頬が真夏の陽射しに晒されたように火照っている。

「あ、あの、」

「うん」

 丸っきり子供を相手にするような反応だった。悔しいと言うより恥ずかしい。

「な、何でもいいから、その、ウォッカさんとお話したくて……」

「話? 俺と?」

 ウォッカは目を丸くすると自分を指差した。考えもしなかったのだろう。

 耳の先まで熱くなった。

「どんな?」

 今度こそ本当に応えに詰まった。咄嗟に上手い言葉が出て来ない。

「あ、あの……」

 さっきからあのとそのしか言っていない。隣ではウォッカが悪戯っぽく笑っている。

「ど、どうして、」

「どうして?」

「どうしてもっと強くなりたいのか、それが知りたくて」

 その場凌ぎの言葉にしてはまずまずだった。実際さっき聞いた事だから嘘ではないし、本当に聞きたい事を煙に巻いてごまかす事も出来た。

「なくしたくないのは私も同じです。でもウォッカさんが臆病だなんて事は思いません」

「そうかな」

 首を傾げるウォッカに、カティは笑いながら首を横に振った。

「なくさないために強くなろうとしてるんですよね? そういう人は絶対臆病なんかじゃありません」

「じゃ、何かな?」

「優しいんだな、って」

 ぼんやりと天井を眺めていたウォッカは目を閉じると深呼吸するようにゆっくり息を吐いた。

「少し、気が楽になったよ」

 目を開けたウォッカはカティを見た。毒気も力も抜けるような笑顔だった。

「ありがと」

 どうして頬が熱くなるのか自分でも判らなかった。でも、手袋の中にある指先が少しずつ熱を帯びていくように気持ちがほんのりと温かくなった事も確かだった。

 ここにいる理由はもう何処にもない。定休日でなければすぐに出ていくところだろう。でも、実際どうしているかと言うとウォッカの隣に腰を下ろしたまま起き上がった彼の横顔を黙って見詰めていた。ウォッカは目の前にある壁を真っ直ぐした目で眺めている。立ち上がって部屋を後にすると言う選択肢は見当たらない。

 部屋の外、ドアの前に気配を感じた。硬い音が部屋に響く。

「ウォッカさん、いらっしゃいますか?」

「はい」

 ドアが開いた。ホッとしたような父の顔があった。持っているお盆の上に酒瓶が二本載っている。すぐ後ろから母が顔を覗かせた。

「カティ、いたのか」

 驚いたように父が言った。ここにいるなんて事は考えもしなかったに違いない。

「悪いが、席を外してくれないかな」

 口調は穏やかだけど有無を言わさぬものがあった。ベッドから腰を浮かせると、テーブルを移動させていた母に手を貸す。

「悪いわね」

 謝る母に首を横に振った。何の用があるのか聞いたところで応えてくれるとは思えなかった。

「ウォッカさん、ありがとうございました」

「こちらこそ」

 笑ってはいるけど何処か寂しげに見えた。どうしてこんな顔をするのだろう。

「カティはみんなと夕飯の支度を済ませておいてくれないか」

 父が肩に手を置いた。頷くと三人に背を向ける。部屋を出る間際に振り向くとウォッカが小さく手を振っていた。


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