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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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三日目 その拾四

「もう少し、右をお願いします」

「はい」

 泡だらけの手拭いが力強く背中を擦る。背中を上下に何往復もした後、少し熱めの湯が泡を洗い流した。

「随分と久し振りですよ、こうして誰かに背中を流してもらうなんて」

「そうなんですか?」

 意外そうな声が背後から聞こえた。声の主は泡にまみれた手拭いを桶に突っ込んで綺麗に濯いでいる。

「男の子が一人でもいれば違ったんでしょうが」

「成程」

 確かに。苦笑いするのが見えるようだった。案外、ここを利用した客にこうしてもらっていると考えたのかも知れない。今の彼がそうであるように。ここで食事をする人は大勢いるが、泊まる事はまずない。仮に泊まったとしても同じ時間に風呂に入る確率は更に低い。何より、客にそんな事は普通頼めない。ならば何故今こうしてウォッカは背中を流しているのか。

 馬鹿みたいにデッカイい手が背中全体をゆっくりと擦り始めた。肩甲骨の辺りでピタリと止まる。骨に沿った縦の線を指先がゆっくり揉み解して行く。思わず声が出そうになった。

「痛いですか?」

「いえ、大丈夫です。お願いします」

 咄嗟には断れなかった。体は正直だ。

 指先だけでなく掌全体で凝っている箇所を丹念に探している。動きが止まると同時に狙い澄ましたように圧力がかかる。

「凝ってますね」

「はい」

 否定する余地はなかった。凝っている箇所を的確に捉えて刺激を加える。強すぎる事も弱すぎる事もない。実に力加減を心得た指圧だった。

「やっぱり、お疲れですよね」

「そう、ですね。疲れがないなんて事は流石にないかな」

「朝から晩まで動き通しじゃ誰だって疲れますよ」

 そう、確かに疲れる。疲れない訳がない。でもそんな言葉とは裏腹に、凝りを解しているこの男はそんな疲労や凝りとは全く無縁に見えた。年齢もあるとは思うが。

 肩甲骨を這うようにして上がって来た指先が首筋を捉えた。固くなっている筋肉をゆっくりこじ開けるようにして力が加えられていく。目眩がするくらいに効く。気を抜いたら意識が飛びそうだった。今度は両手の親指で首筋を指圧しながら残った指で肩を刺激する。手がデカい事は勿論だが、指に相当力がないとまず出来ない。

 観念するように上半身から力を抜いた。いつもより頭に血が巡っているのは項垂れているせいだけではないはずだ。

「効きますな。実に気持ちがいい」

「光栄です」

 ハキハキとした返事だった。聞いていて気持ちがいい。本当はこちらがしなくてはならないところなのに。

「色々と有り難うございます。今日もすっかりお世話になってしまって」

「え? 俺何かしましたっけ?」

「娘の我が儘にお付き合い頂いて」

 一瞬やるべき事を思い出すようにして手が止まった。すぐさま指圧が再開される。

「別に我が儘だなんてとんでもない。武術をたしなんでる人間の性みたいなもんですよ。そういう事は理解してるつもりです。それに結構楽しかったし」

 だから気にしないで下さい。そうとでも言うようにガガガと笑った。

「本当にすみませんねえ。四人ともナリは立派な女ですが、上三人は昔からどういう訳かやたら血の気が多くて」

「血の気が多いと言うか、妥協出来ない部分がそこなんでしょうね」

 そう、そこだけは絶対に譲らない。普段あれだけ冷静なミリアムですら、勝負事になると目の色が変わる。どうしてそこまで熱くなれるのか、甚だ理解に苦しむ。

「お怪我は?」

「ありません。ご心配には及びませんよ」

 元々脱力していた体から更に力が抜けた。本当に良かった。アリスの胸にアザが出来ただけでそれ以外に怪我をしたと言う話は聞いていない。そしてウォッカにも怪我はない。それだけで実力の程が窺える。

「いかがでしたか? 三人の腕前は」

「下手に油断さえしなければまず負ける事はないでしょうね。現役の兵士や軍人でも余程腕が立たなきゃ相手にならないかな」

 応えに詰まった。素直に喜ぶべきか、それとも平和な時代に全くそぐわない武人としての天賦の才を勿体ないと嘆くべきなのか。

「どうして剣術や武術にそこまで情熱を注ぐんでしょうねぇ」

 安易に才能などとは言いたくなかった。確かに才はあるのかも知れない。三人が他の子達よりも遥かに抜きん出たものを持っている事も知っている。持とうとしても、持ちたくても持てない、それが才能だ。それを三人が揃いも揃って持っていていいものなのか、どういう訳かそこに引け目のようなものを感じてしまう。

「悩みの種みたいですね」

「それで性別が逆ならば多少は違ったのかも知れませんが」

 だがそうでなくて良かったと思う向きもある。幼い頃から可愛いなとは思っていたが、皆が皆ここまで立派に、そして美人に育つとは考えもしなかった。人にそう言われるとお世辞だと判っていても鼻が高くなる。

「贅沢言っちゃダメですよ。みんなあんなに美人で家業もしっかり手伝ってくれて気立ても良くて、何処に出しても恥ずかしくないでしょう」

「ありがとうございます」

 嬉しい事を言ってくれる。口元がむず痒くて仕方ない。

「でも、父親としてあの子達に特別に何かしてやれたかと聞かれると応えに詰まるのも事実でしてね。ただ鍋を振るって床を磨いてテーブルを拭いて、そんな事を繰り返すだけの毎日でしたから」

「充分だと思いますよ」

 気休めで言っている訳ではない。俯けていた顔を上げて首を後ろに捻る。

「いつでもお客を迎えられるように部屋を片付けたり掃除したり料理を作ったり、そんなお二人の背中を見ていたからこそ皆あんな風に育ってくれたんじゃないですかね」

 そうだとしたらこれほど嬉しい事はない。父親冥利に尽きると言うものだ。苦労や大変さが判る事が気持ちを理解する事に通じるなら、皆きっと判ってくれている。それだけでなく、応えてくれている。本当にいい子に育ってくれた。頬がほんのり熱くなった。

 この男は両親から何を学んだのだろう。不意にそんな事が気になった。

「代わりますよ。いつまでもあなたばかりにやらせてばかりいる訳にはいきません」

 ダンの申し出にウォッカはやんわりと首を横に振った。

「飯食って酒呑んで寝れば元通りですから。それに疲れてないですし。だから、」

 首から肩にかけて痺れるような感覚が走った。たちどころに体から力が抜けていく。

「お、お願いします」

 いかんなあと思いつつもそれとは全く逆の事をしている。この感覚には逆らえない。

「按摩は誰かから教わったんですか?」

「独学ですよ。いや、強いて言えば……」

 聞くまでもなかったかな、と思った。妻と娘四人もなかなかの腕前だがこれほどではない。首を捻ると苦笑いしながら頭を掻いていた。思わず視線が下がった。慌てて目を逸らせる。当の本人は全く気にしている様子がない。

「どうかしましたか?」

「い、いや、凄い傷ですね」

 凄いどころの話ではない。一度見たら絶対に忘れない、それくらい人目を引く。皮膚を、肉を無理矢理引き裂いたような傷が右の鎖骨のすぐ下から左の脇腹の辺りにまで続いている。切れ味の悪い鉈か何かで強引に切り裂いた、いや違うな。刃物にしては傷の幅が太過ぎる。刃物で出来たのはもう一つの傷だ。こちらは最初の傷に比べると存在感は薄い。でもそれは二つの傷を比較した場合だ。それもよく見るとかなり深い。それだけでも相当な致命傷だったはずだ。その二つの傷が十字に交差している。忘れようとして忘れられるものではない。印象的と言うより醜悪だった。それを隠す事もせず当たり前のように晒している。

「ただの古傷ですよ」

「どうしてそんな傷が?」

 考えていた事がそのまま口から出てしまった。後悔しても遅い。頬が熱くなった。

「ガキの頃、賊に襲われましてね、その時やられたんですよ」

 ウォッカは伸ばした指先で刀傷をなぞった。切りつけられた、と言う事だろう。でもそれだけだともう一つの傷の説明がつかない。

「斬られた拍子に崖から落ちて、突き出た岩で切ったみたいなんですけどね。俺もよくは覚えてなくて」

 斬られた上に崖から落ちて岩で上半身を切り裂かれるなんてとんでもない重傷ではないか。何故生きているのか。

「いつの出来事なんですか?」

「八つの頃ですけど」

 世間話でもするように言わないで欲しい。物凄い大事なのに取るに足らない出来事のように聞こえる。

「斬りつけられて崖から落ちて突き出た岩で切り裂かれた訳ですよね」

「はい」

 はいではない。先生に質問された生徒みたいに応えるな。

「九死に一生を得た訳ですね」

「そうですね、かなり真剣に死にかけたかな」

 いや、普通だったら確実に死んでいる。そもそも何故生きているのかが謎だ。斬られていなくても崖から落ちただけで充分大事だ。高さにも依るがそれだけで彼岸に行っていても何らおかしくない。

「よくご無事でしたね」

「落ちたところが川だったんですよ。それで落下の衝撃はいくらか緩和されたみたいですね」

 他人事のようにも聞こえる。ひょっとしたら本人もあまり思い出したくないのかも知れない。深入りする前に身を引くのが賢明だろう。人の過去には不用意に立ち入るべきではない。

 それにしても、恐ろしい生命力だ。落ちたところが川だったとしても斬られた直後なら相当出血していたはずだ。水に浸かれば出血もより激しくなるだろうに、どうして助かったのか甚だ疑問だ。

 ふと、自分の左手を見た。元々そうであったかのように三本の指が当たり前のような顔をして並んでいる。右手のように五本の指が並んでいる方がむしろ余程不自然に思えた。

「不便は感じないんですか?」

「もう、慣れましたよ」

 それがいつの事なのか、もう思い出す事も出来ない。それだけ体に馴染んでいた。

「それは、やっぱり戦地で?」

「ええ。でも戦闘でなくした訳ではないんですが」

 想定の範囲内だったのか、返事はなかった。剣や槍が飛び交う戦場で負った傷だとしたら、断面が些か綺麗過ぎる。

 彼は果たしてどんな答えを予想するだろうか。

「統一戦争が終わる二年前でした」

 返事はなかった。ウォッカは変わらず背中を擦り続けている。

「それまでの戦績がどう評価されたのか判りませんが、僅かですが部下の面倒を見るよう上から申し付けられまして」

「将校だったんですか」

「その一番下っ端ですよ」

「それでも少尉ですよね。そこまで早い出世もそうは聞かないですよ」

 実際そうだった。出世どころか生き残る事すら困難な戦地で辛うじて首を繋げながら戦場を駆け回っているうちに、同期に入隊していた連中の殆どはそこにいなかった。昇進を伝えられた時、断ろうとも思わなかったが素直に喜べなかったのも事実だ。

 今思えば過ぎた代物だった。ダンの元にいなければ彼らも若い命をあたら無駄に散らす事もなかったろうに。

「ある時、上から敵の部隊の偵察を命じられまして。お目付け役として当時大尉だった上官と一緒にね」

「偵察ですか」

「はい。元々そこまで規模の大きな部隊ではなかったんですが、その後の拠点にしようとしていた都市への侵攻を計画していたようで、その下見ですね」

 偵察と言う性質上、相手に気付かれる事だけは絶対に避けなくてはならなかった。敵の部隊からかなり距離を置いた位置で兵を止め、ダンの他に何人かが偵察へ向かった。

「首尾はどうだったんですか?」

「偵察自体は無事に済みました。結果について上官に報告したんですが、」

 顔が歪んだのが自分でもハッキリと判った。出来る事なら思い出したくない、いや葬り去りたい記憶だった。

 溜め息が出た。完全に無意識だった。何かを吐き出さないと言葉に出来なかった。

「そこで上官が欲を出しましてね」

「欲?」

「任務は飽くまで偵察のみでした。敵の内情を探りそれを司令部に報告する。我々の仕事はそこまでで終わりのはずだった。ですが、同行していた上官は敵部隊への奇襲を提案、いや主張しました」

「勝算はあったんですか?」

 ダンは首を横に振った。顔に表情が全くないのが自分でも判った。

「相手の兵は優に五百を超えていました。それに対してこちらは百にも満たなかった。元々の任務が偵察でしたから兵の数も必要最低限に抑えていました」

「勇み足もいいところですね」

「功を焦ったんでしょう。将校としての才覚があったかどうかは私には判りませんが、上昇志向だけは人一倍強かった、そんな男でした」

 ただ結果的に見れば人を指揮する器など到底持ち合わせていなかった。自尊心と我欲だけが無駄に肥大したような男だった。

「で、旦那はそれに応じたんですか?」

「勿論断りました。負けると判っている戦に兵は出す馬鹿はいませんよ」

 ホッとしたような溜め息が背後から聞こえた。虫が火の中に飛び込むのはそこが危険である事を知らないからだ。行きたくもないのに強制的に連れていかれた彼らの胸中を思うと今でも胸が痛む。

「その上官はその後も出兵を要求したんですか?」

「ええ、連日のように。これ以上断ると命令無視で上層部に報告するとか査問にかけて階級を剥奪するとか散々脅されましたが」

 それでも死地に赴かせるような真似だけは絶対出来なかった。勝てる見込みがあるならばそれに賭ける価値もまだあるが完全な負け戦だ、死にたくないなら引き際は心得ておくのが筋だろう。

「で、業を煮やした上官が強行手段に出ましてね」

「強行手段?」

「一席設けて酒でも酌み交わそう、お互い知恵を搾ればいい戦術も浮かぶ、そんな風に話してましたね」

「それじゃ、それまで勝つための具体策すらまともに考えてなかったように聞こえますね」

 全くなかった訳ではなかったと思う。こちらには相手の情勢がある程度把握出来ていた。ただ戦力では圧倒的に不利だった。それを引っくり返すような根拠を明示された記憶はなかった。それだけで底が知れた。

 勧められた酒には一切手を着けず、代わりに水を口に含んだ。酒を呑みながらまともな話し合いが出来る訳がない。況してや命がかかっているのだ。そんないい加減な態度で臨む事など絶対に出来ない。

「ですが、おかしな事に次第に意識が朦朧としてきて、気が付いた時には幕営していた場所から少し離れた繁みの中にいました」

「一服盛られた、って事ですか」

「今となっては判りませんが、恐らくそうでしょうね」

 幕営地点にはほんの数人しか残っていなかった。朦朧とした意識を元に戻そうと何度も首を左右に振った。皆困惑し、動揺していた。それを見ただけで絶望した。

「他の人達は旦那が意識をなくしていた間に駆り出されていたんですね」

 思い出すと今でも胸が痛む。果たして自分の選択は正しかったのか、それとも間違っていたのか。未だにその答えは出ていない。

 敗走した仲間が幕営地点に戻って来たのは日が落ちてからだった。戻って来た兵の殆どが深傷を負っていた。助かる見込みのない者を含めると八割以上が命を落とした。戦闘中に逃走しま者も何人かいたようだが、彼らのその後の安否は判らなかった。運良く逃げ切れたとしても仲間に会わせる顔がないとでも思っていたのかも知れない。そんな事はない。   生き残る事、それが全てにおいて優先される。死んだらそれで終わりだ、だからどんな経緯であれ戻って来て欲しかった。

「そろそろ、湯に浸かりましょうか」

 連日夏を思わせるような日が続いているせいで寒くはなかった。ただ肌はすっかり渇き切っていた。

 立ち上がったダンに、ウォッカは何も言わずに従った。手桶に汲んだお湯で体を流すと湯に体を沈める。

「女湯の方はやけに騒がしいですね」

「いつもの事です。大方、五人並んで背中でも流してるんでしょう」

 普段は父親が一人で湯に浸かっている間、五人はかしましく騒ぎながら背中を流し、お湯をかけ合って疲れを癒す。毎日繰り返される出来事に寂しさを感じていたのはもう随分昔の話だ。まさか今更もう一人作ろうなどとは思わない。機会がない訳ではないが。

 帰還する間に負傷していた仲間の大半が息を引き取った。完全な犬死にだった。戦地に身を置く中で誰かの死に触れる事は数多くあったが、これほど虚しく遣り切れない思いに駆られた事はなかった。

「本隊に合流した後、私は拘束されました」

 ウォッカは両目を大きく見開いた。耳を疑ったのかも知れない。

「拘束? どうしてですか?」

「退避命令を無視した上に無理矢理派兵して部隊に多大な損害を与えた、その上奇襲を仕掛けた時には真っ先に自分だけ逃走して部隊に指示を与える事すら放棄したと、造反の容疑をかけられて尋問されました」

 言葉の意味を吟味しているのか、それとも混乱を必死に鎮めようとしているのか、ウォッカは右手で頭を抱えていた。人差し指で忙しなく額を叩いている。

「少し話の流れを整理してもいいですか?」

「どうぞ」

「本来偵察だけが目的だったのに、旦那の上官は奇襲を強行した」

「はい」

「旦那は一貫して派兵に反対していた、にも関わらず強制的に連れて行かれた旦那の部隊の兵、それと上官の兵の殆どが戦死した。それでやむを得ず撤退した、と」

「そうです」

「それでどうして旦那が拘束されて尋問を受けなくてはならなくなったのか、そこが判りません。尋問されるべきなのは旦那ではなく上官の方でしょ?」

「どうしてだと思いますか?」

 言葉を投げ掛けるとウォッカの眉間にシワが寄った。それを聞いているのに何故質問に対して質問で応えるのか、と言ったところだろうか。

「偵察命令を無視して奇襲を強行したのも、無理矢理派兵して部隊に甚大な被害をもたらしたのも全て私が独断で行った、件の上官が上層部にそう報告したようです」

 もっとも、ダンがそれを知ったのは随分後になってからだった。指が切り落とされた左手に真新しい包帯が巻かれていた頃だ。

「自分が仕出かした失敗の責任を全部旦那に押しつけて、後は知らん顔ですか」

「ざっくばらんに話すとそういう事になりますかね」

「下衆ですね、その上官。いやそれ以下か」

 責任や現実から目を背け尻尾を巻いて逃げ出したばかりか他人に罪を擦りつけるような輩をどう形容すればいいのか、ダンには判らなかった。人の風上にも置けない事は確かだ。

「それでどうして旦那の指が切り落とされたのか、それがさっぱり判りません」

「自白を強要されたんですよ」

 湯に沈めていた左手を出すと平らになった指の断面に視線を落とす。

 尋問でも飽くまで事実を報告した。奇襲を強行したのも、仲間を死地に追いやったのも上官の独断に依るものだと、そう何度も主張した。だが、それが事実として聞き入れられるまでの道のりはなかなかに険しかった。

「そもそも旦那に自白を強要する意味が判らない。事実をありのままに伝えるしかない訳でしょう?」

「簡単な話ですよ。ありのままの事実ではなくねじ曲げた事実を自白しろ、要はそういう事です」

「……呆れてものも言えませんね」

 百回殺してもお釣が来る、それくらい物騒な顔つきでウォッカは言った。殺さなくても、鼻っ柱に一発見舞うくらいの権利は間違いなくあった。現実には叶わなかったが。

「お世辞にも頭がいいとは言えませんが、組織に対してある程度発言力はありました。事実そこまでは昇進していた訳ですからね」

 なまじ中途半端にそんな戦績を残していたせいで過ぎた権限を持ってしまったのだから始末に悪い。権限に見合うだけの義務と責任は絶対に全うしていない事は確かだった。むしろ濫用している。

「指を切り落とされたくなかったら要求通りに自白しろ、そう脅迫された」

「ええ」

 当然麻酔などかけなかった。無理矢理開かされた手に抜き身の刃を突き立てられた。敵に捕まって拷問されるならばともかく、仲間を必死に庇おうとした結果無実の罪を着せられて指まで切り落とされた日には泣きたくなるのを通り越して死にたくなった。舌を噛み切って死ぬか着ていた服を裂いて首を吊ろうか真剣に悩んだ事もあった。そうしなかったのは帰る場所があったからだ。だから必死で事実を、そして無実を訴え続けた。今ここにいる事をあの時は想像する事すら出来なかった。指をなくした理由は理不尽極まりないが、それでもここに戻る事を諦めなくて良かった。復員して初めてライザを抱いた時、そして家族が増えるたびに素直にそう思った。

「他にも証人は、生きて帰って来た人達はいた訳ですよね。彼らから証言を得る事は出来なかったんですか?」

「私と同じですよ。保身しか考えないような人間が我が身を守るのに躍起になればどんな事をするか、おおよそ想像はつきますよね?」

 その上官の息のかかった人間から、或いは本人から直接声をかけられた。釈放されてからそう聞かされた。事実を把握していなかった者、知っていた上で要求を飲んだ者、それぞれいた。誰を責める事も出来なかった。彼らに責任はない。

「でも、旦那が無実だった事を知っていた人もいた訳ですよね」

「上官の命令は絶対ですから。それを拒む事は口で言うほど容易じゃない。一歩間違えたら私と同じ憂き目に遭うとでも吹き込まれれば首を縦に振ったとしても不思議はないですよ」

 人はそこまで強くはないし、公明正大には生きられない。人であるが故に我が身を可愛く思う。それを投げ打ってまで誰かを庇うほどの勇気を持ち合わせた人間など、そうそうお目にかかれるものではない。

「嘘の証言をした奴らを全員洗い出して、ってのも、考え方の一つですかね?」

「否定はしません。実際事実を知らされるまで私の中にもそういう気持ちはありました」

 ただ行動には移さなかった。ダンと同様、彼らにも立場や事情がある。その時はそこまで考えるだけの余裕がなかった。それだけの話だ。

「完全に八方塞がりですね。その状況を引っ繰り返すなんて一筋縄じゃいかないですよ」

 まず嘘の報告が伝わり、こちらの主張も聞き入れられず証人も当てにならない。完全な孤立無援だった。そして絶体絶命だった。そんな状況をダンの力だけで覆す事はまず不可能だった。

「主張が真っ向から食い違っているところに疑問を感じた上官の一人が関係者全員から丁寧に事情聴取したそうです。その中で脅迫されていた事や嘘の証言を強要するよう迫られた事が明るみになりました」

 結果的に彼らがダンの指を切り落としたのは完全な勇み足であり、最大の愚策だった。嘘の証言を自ら認めるも同然だったからだ。

「当初私に尋問していた連中は最初に受けた報告が全てだと頭から決めてかかっていた。おまけにその上官とも裏で通じていた。そうでなければ嘘の自白を強要したり指を切り落としたりなんて真似はまず出来ない」

「でしょうね」

 最初から彼の筋書き通りに事が運んでいた。それだけに過ぎない。奇襲が失敗した時も最初からダン一人に罪を擦り付ける事が決まっていた。そうでなければここまで手際よく事が運ぶ道理がない。

「奇襲を仕掛けた時と同じですよ。功を焦ったばかりに自分から進んで地雷を踏んでくれたんですから」

飛んだお笑い草だ。それで完全に身を滅ぼした。

 牢屋の鍵が開けられた時、ようやく処分が下ったのかと改めて絶望的な気分に襲われた。手枷を外されいつもの取調室とは違った部屋に通されても、目は虚ろなままだった。

「君の主張を承認する」

 言葉の意味が頭に浸透するまでかなりの時間を要した。それから一切処分がない事、直ちに釈放される事が手短に伝えられた。本来ならばその場で詳細を説明する義務と責任が彼らにはあるが、そうしたところで耳には入らなかっただろう。それだけ唐突だった。

「事実がハッキリした訳ですね」

「はい。命令無視から奇襲の強行、嘘の報告や偽証の強要、私に対するこれも含めて全てが明るみになりました」

 一体どのくらいの期間拘束されていたのか、ダンには全く判らなかった。ただ途方もないくらい長い時間だったように感じた。生きているのか死んでいるのかさえ判らなかった。そんな時、無意識に左手を見るようになった。指が二本欠けた左手を見て生かされている事に気付いた。指の欠けた左手が完全に体に馴染んだのがそれから何年先の事なのか、ダンにはその記憶すらなかった。

「長くなりましたね」

「いえいえ」

 ウォッカは首を横に振ったがかなりの時間が経過しているはずだ。もうすっかり日が落ちている。

「だから、これは彼らを死なせた証拠みたいなものなんです。せめて墓標にでもなればいいんですが」

 人の命と指二本、天秤にかけるにはあまりに不釣り合いだ。どちらに傾くかは一目瞭然だった。でも、そんな風に考えないと気持ちの収まりがつかない事も確かだった。ダンが彼らを死に追いやった事は紛れもない事実だからだ。少なくとも死地に追いやるのを食い止める事くらいは出来たかも知れない。

「時折、思う事があるんです。私もあの時一緒に闘っていたらどうなっていたのか、と」

 生き残っていたか、或いは死んでいたのか。どちらを望んでいたかは考えるまでもなかった。だが後ろめたいものを感じるのも事実だった。たとえ利用されたとは言え生き残った事に対して罪悪感を覚えずにはいられなかった。

命が繋がった事に感謝すると同時に、それまで以上に積極的に戦場へ赴くようになった。誰も行きたがらないような戦地へ足を運び、そして必ず生きて帰って来た。生きていていいのか、それを確かめていたのかも知れない。

「無能な上官はその後どうなったんですか?」

「失脚したそうです。私が釈放された時には何処にも姿はありませんでした」

 当人は元より、関わった連中も例外なく処分された。自業自得と言えばそれまでだが、それ以上に人を見る目がなかったと言う事だろう。そんな男と一蓮托生など愚の骨頂以外の何物でもない。

「私としては面くらい最後にもう一度拝んでおきたい気もしましたんですが」

「目が腐りますよ」

苦笑が漏れた。確かにそうかも知れない。

 軍を止めた後、件の上官がどうなったのかは全く知らない。多少の噂話くらい聞こえても良さそうなものだが、そんな気配すらなかった。野垂れ死んでも誰一人気にかける事もない、そんな男だ。由緒ある軍人の家系に生まれたそうだが軍に残れなかったところを見ても事の重大さが窺える。事実それだけの事をしている。

 欠けた指の断面から滴が落ちた。戦争が終わってここに戻った時、左手を見たライザは何も言わずに涙を流した。指が五本揃っていたら、もっと思い切り家族を抱き締める事も出来たろうに。いや、それは贅沢と言うものか。生きて還れただけでも充分に有り難い事なのだ。その上妻をめとり、子宝にも恵まれた。家業もしっかり手伝い気立ても良く、人並み外れた武術の才もあっておまけに街一番の、掛け値なしの美人だ。やっぱり恵まれている。少し過大評価し過ぎかなと言う気がしないでもないが、親の贔屓目を抜きにしてもそれくらいの美貌を備えている。

「そろそろ上がりますか」

「そうですね」

 長湯だった割には逆上せた様子もない。そういう事すら体が忘れているかのようだった。

「ウォッカさん、お食事前に少しお時間を頂けますか?」

「? 別に構わないですよ」

 首を傾げるウォッカの顔がようやく年相応に見えた。事に於いて動じず常に泰然としている。年齢以上に老けて見えるのは見かけだけでなくこういう面もあるのだろう。

「支度が出来ましたらこちらから伺います」

「はい」

 飯時に手ぶらで彼を付き合わせるのは気が引ける。恐らく一日で一番楽しみにしているはずだ。

 これから話す事を彼が聞いたら一体どう思うだろうか。一介の宿屋の主人が客に対して話すような事ではない。明らかにそれを踏み越えている。だが躊躇いは感じなかった。今のこの街には彼の力が必要だ。ダンでなくてもそう考えるに違いない。例えばガイデルなら、三人の師匠なら真っ先にそう考えるはずだ。

 彼は呑気に鼻歌を歌いながら体を拭いていた。刃物を突き付けられても顔色を変えるどころか動揺すらしない男だ、彼ならば大丈夫だろう。そう思う事にした。


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