三日目 その拾参
西の空が茜色に染まり始めているが、日が落ちるまでにはまだかなり間があった。秋ならばこうは行かないだろう。元々あまり長居する気もない。ただ場合に依ってはそうなるかも知れない。
ガイデルはポケットに両手を突っ込んだまま首を曲げて教会の方を見た。来客がないとは言い切れないが、少なくとも昨夜のように馬が木にくくられている事はなかった。
勝手口の前に立つ。息を殺して耳を澄ませた。物音は聞こえない。だが微かに人の気配があった。握り込んだ拳で戸を叩いた。硬い音が響いてしばらくすると、弱々しい足音が少しずつこちらに近付いて来た。
「よう」
家主よりも先に声をかけた。司祭、ジェイクは虚ろだった目を少し大きく開いてガイデルを見た。
「随分久し振りだな」
「それはお前が引きこもってるからだろ」
相好を崩すと硬かったジェイクの表情がようやく少し解れた。顔色は決していいとは言えないが。無精髭の目立つやや土気色の顔を掌でズルリと撫でた。この外見だけだととても聖職に就いているようには見えない。自分の身なりに思いが至る程の余裕はないのだろう。
「そうだな」
無理矢理拵えたような笑顔だった。だが笑えるだけまだマシだろう。完全に塞ぎ込んでいたらそんな事は出来ない。辛うじて体裁を保つ程度の客観性は維持出来ているのか。かなり危うい事に変わりはないが。
釜戸に薪をくべようとしていたジェイクの右手に手を添えて首を横に振る。
「座って楽にしててくれよ」
「どっちが客か判らないな」
水差しの水を適当なグラスに注ぐ。椅子に深く腰を下ろしているジェイクはやはり酷く疲れているように見えた。
「調子はどうだ?」
ガイデルはジェイクの向かい側に腰を下ろした。虚ろだった目に微かに光が蘇った。
「前に比べればいくらかマシになったよ。そうは見えないかも知れないけどな」
自嘲気味に笑う表情が既に痛々しかった。頬はこけているし目の下にも隈が目立つ。食事も満足に喉を通らない事に加え、夜もよく眠れないのだろう。
「飯は食えよ。食うもの食わなきゃ死んじまうからな」
「ああ、判ってる」
伏せていた目を上げるとぎこちなく笑った。それが今出来る最大限の気遣いなのだろう。
「皆心配してるんだぜ」
彼の養子二人がこの家から消えた時からあまり人前に姿を見せなくなった。塞ぎ込むようになった。
「重々承知してるよ」
深い溜め息と一緒に吐き出した言葉は濡れた砂のように重苦しく聞こえた。
「出来る限り前を向くようにはしたいんだが、どうしてなかなか上手くいかない」
かける言葉が見つからない。俯き加減になったジェイクは寂しそうに笑った。
「私にとって、二人の存在はこんなにも大きなものだったんだな」
半開きにしていた拳をグッと握り込む。だがその拳とは裏腹に眼光に力はない。
「なくして初めて気付いたよ」
「そういう事もあるさ。誰だって身近にいる人が突然いなくなるなんて普通考えない」
そんな事はまず起こらない。だが眼前に突きつけられたものこそが紛れもない現実だった。ジェイクはまだそれを受け入れられずにいる。
「人質に手を出すような真似はまずしないだろ。別に楽観して言ってる訳じゃない。人質がいなくなったら奴らに手出し出来ない理由がなくなるからな」
「判ってる」
それでも彼らが危うい立場にいる事に変わりはない。それが判っているから余計不安になるのだ。だからでこそ今置かれている現状を一刻も早く打開する必要がある。
「さっきまで道場で弟子達が組手をやっててな、久し振りに見てるこっちまで熱くなったよ」
「誰と、誰がやったんだ?」
「イリナ、ミリアム、アリスの三人、それと一昨日ここに来た旅の男だよ」
ジェイクが少しだけ目を丸くした。話には聞いていただろうが、それ以上に興味もあるようだった。
「ここに来て早々に兵士二人をぶちのめしたとは聞いているが」
「ジェイクはどういう結果を予想する?」
「あの三人が相手ならそう容易く事は運ばないと思うが」
ジェイクの二人の養子は剣と武術でそれぞれ街一番の実力者だ。その二人と互角に渡り合えるのはあの三姉妹だけだった。小さな街だが実力は折り紙つきだ、簡単に負けるなどとは想像もしないに違いない。
「怪我はなかったのか?」
「ああ、お互いにな」
「それは何よりだ」
ここに来て初めてジェイクの表情が弛んだ。幼い頃から息子と切磋琢磨して来た仲だ、成長を耳にするのはやはり嬉しいのだろう。気持ちはよく判る。
「で、結果は?」
「勝負になってなかったな。ありゃお前の息子二人を遥かに凌ぐぞ」
今度は驚いたように目を見開いた。たとえ男が相手であってもあの三人が負けるとは考えもしなかったに違いない。つまり三人がそれだけの実力を備えている事の顕れでもある。
「ちょっと信じ難い話だな。あの子達が負けるところなんか想像も出来ないが」
「俺も驚いてる」
目の前で見ていたにも関わらず、それ全てが現実に起こった出来事とは思えなかった。地響きのような震脚、寸止めした衝撃で人一人を吹っ飛ばす正拳突き、間合いを一瞬で侵略する踏み込み、どれを見ても到底真似が出来るような代物ではない。そして、筋力や持久力とは違い人にはどうしても鍛えられない部分がある。その一つが反応速度だ。目で見た情報を頭で理解してそれが行動に移るまでの速度には厳密に限界がある。ウォッカの反応速度はそれを遥かに凌いでいる。そうでないとあそこまで速く反応出来る事の説明がつかない。加えて動きそのものも速いせいで余計に速く感じる。人を超えている、いや人ではないような気さえしてしまう。だとすれば一体何なのだろうか。異常さは身体能力に止まらない。細かい突きにもしっかり腰が入っていたし、蹴りを支える軸足にも体重が残っている気配はなかった。胴に食らえば内蔵が破裂するだろうし、頭にもらえば首から上が弾け飛ぶ。アリスの猛攻を前にしても一切動じず突きも蹴りも綺麗に捌いていた。弾幕のように乱打された突きの全てを折り畳んだ両腕で事もなく防ぎ切る防御力も相当なものだ。見た目こそ老けているが年齢にはそぐわない経験を積んでいる。単に誰かから教わっただけで身に付くものではない。間違いなく実戦を経験している。
溜め息が出た。二十歳そこそこの若造がこれまでどんな経験を積んで来たと言うのか。一昨年までは極普通に学校に通っていたようだが殆ど冗談としか思えない。従軍した経験がある者でもあれだけの技術を養う事は困難を極めるだろう。いや、不可能と言い切っていい。
戦地にいた頃、人の姿をした化け物の話を何度か聞いた事がある。曰く、俊敏な動きで相手を翻弄し、素手で人間を引き裂き、いくつもの戦場を血で染めた。不死身との説もあった。全身を剣や槍で刺し貫かれても一向に倒れる気配もなくむしろ嬉々として闘い続けたとも。地肉を喰らうと言う話も聞いたが、それは明らかに疑わしかった。信じ難い話に尾鰭や背鰭が加わるのは判らないではないが、それが事実を霧の中に隠している事も確かだった。一つハッキリしているのはそんな人の姿をした化け物が実在したと言う事だけだ。ほんの数人の集団が数千の軍勢をほぼ全滅に追い込み、数々の戦場で多くの武勲を上げた。全体でどのくらいの人数だったのかもよく判っていない。ただ百人には満たなかった。それが数人、十数人、ないしは数十人の集団に分かれて多くの敵を殲滅、彼らの言葉を借りれば皆殺しにした。統一戦争の早期決着に大きく貢献したが、彼らは戦争の終結と同時に姿を消した。その後の行方は杳として知れなかった。様々な憶測が乱れ飛んだ。何処に消えたのか、何故消えたのか。そもそも何故彼らは共に闘ってくれたのか。敵対していたら敗北は避けられなかった。そうでなくて良かったと思うと尚更その疑問が大きく膨らんでいく。得体の知れない相手に対して得体の知れないものを無理矢理当て嵌めようとしていた安直な発想にうんざりするものを感じた。確かに身体能力はずば抜けているし年齢には不相応な技術と経験がある。だからと言ってその二つを即座に同類項で扱うのは些か乱暴だ。
「どうかしたのか?」
声をかけられて我に返る。少しだけ目を丸くしていたジェイクは、視線がぶつかると穏やかに笑った。
「考え事か」
「ま、そんなところだ」
最早ウォッカは立派な、そして貴重な戦力だった。本人がどう考えているかは判らない。だが奴らをどうにかしない事にはウォッカもここから先には進めない。ウォッカがどんな目的で、何のために旅をしているかなど当然知る由もない。だがこの街に骨を埋めるつもりは絶対にないだろう。ここに来た以上、彼も一蓮托生なのだ。最後まで付き合ってもらうしかない。
「良からぬ事、って訳じゃないよな」
「付き合わされる本人から言わせれば迷惑以外の何物でもないだろうな。だが彼にしてもそうせざるを得ない、そういう立場にいる事も確かだ」
「言わんとしたい事はよく判るよ。そこまでの力を備えているなら是非ともお力添えをお願いしたいところだ」
それは街の住民の願いだなどと大層な事を言うつもりはないが、仮に聞いたとしても絶対に首を横には振らないだろうなと思う。他力本願と言われてもいい。奴らに対してこちらから直接手出し出来ない以上、誰かに頼る事も選択肢の中に含まれるのは必然の成り行きとも言える。少なくとも、ウォッカにはこの街に足枷になるものが存在しない。こちらの足枷が排除されれば、やり方次第では事態を大きく好転させる事も不可能ではないはずだ。
「ところで、昨夜は何処かに出掛けてたのか?」
「いや、ずっとここにいたが」
受け答えに不自然さはない。カマをかけるつもりはないが、出来る事なら事実を知りたい。
「昨夜、日が暮れるか暮れないかって頃ここに来たんだが、気付かなかったかな」
「済まなかったな。ひょっとしたら横になっていたのかも知れない」
「突然来たのは俺の方だからな」
気にしなくていい。首を横に振るとジェイクは力を抜くようにして笑った。今はそれだけで精一杯なのだろう。
「誰かが来てた、って事はないか?」
ジェイクの両目が焦点を失った。黒目が行先を探して宙を泳ぐ。僅かに沈黙があった。間を置くように椅子から腰を浮かせるとゆっくり息を吐いた。
「いや、誰も来ていないが」
「そうか。いや、表の柵に馬がくくられてたから来客中だったのかなと思ってな」
「だったら、ガイデルがここに来た時に戸を開けてるよ。居留守を使うなんてそんな失礼な真似はしないさ。況してや来客中にだろう?」
おかしそうに笑った。来客中に戸が叩かれたら対応するように促すのが普通だ。その流れで考えればジェイクの弁ももっともだろう。
だが、そうでないとしたら。誰かに来られる事が不都合だった場合はどうなるのか。それがジェイクか客のどちらの意向に依るものかは不明だが。
本人は平静を装ってはいるが、確実に嘘を吐いている。疑問なのは何故嘘を吐く必要があるのかと言う事だ。知られたくない、考えられる可能性の一つはそれだ。ならば何を知られたくないのか。それを追及する気にはなれなかった。これ以上ジェイクを追い詰めるような真似は出来ない。それに、人に知られたくない事の一つや二つくらい誰にでもある。
「悪かったな、突然来ちまってよ」
「こちらこそ大したお構いも出来ずに申し訳ない」
「いや、顔を見られただけで充分だよ」
とても元気と言えるような状態ではないが、それでも顔を見ただけで随分ホッとした。これでもっと笑ってくれたら、元気が出てくれたらこれほど嬉しい事はない。
コップの水を空けるとガイデルは椅子から腰を浮かせた。
「邪魔したな」
「待ってくれ」
戸口の方へ向かって歩き出そうとしたガイデルをジェイクが呼び止めた。
「どうした?」
「旅の方の都合は判るかな」
「ウォッカの? 本人に聞くなりしてみりゃ判るとは思うが」
或いは人を介してその意思を伝えるか。それにしても、一体どんな用件があると言うのか。
「何だ? 噂の有名人の面でも拝みたくなったか?」
「まあ、そんなところだ」
「何だったら今呼んで来てやろうか? まだ道場にいると思うんだが」
「いや、悪いが今日はちょっと。時間も遅いしまだ調子が優れなくてな」
言葉にも表情にも力がないのはさっきと変わらない。息も絶え絶えと言うほど深刻ではないにしても、事態が好転する要素がなければ日増しに悪化していく事は明白だった。
「話したい事でもあるのか?」
「ああ。ちょっと頼みたい事があってな」
「伝えておいてやってもいいぜ」
ジェイクは淡く笑うとゆっくり首を振った。
「自分が頼む事を他人様に任せるのは流石に気が引けるな」
肩を震わせるとジェイクはまた笑った。こういう冗談で多少なりとも雰囲気が和むなら今日ここに来た意味は充分にある。
「ミリアムにでも伝えておこう。あいつに任せておけばまず問題ない」
「助かるよ。そうだな、夕方の五時にここに来るよう伝えて欲しい」
「判った」
目を伏せたジェイクの表情が一気に暗くなった。さっきまで笑っていたのが嘘のようだった。
「申し訳ないな。用があるならこちらから出向くべきなのに」
そういう意味か。あまり驚かさないで欲しい。考えた事がうっかり口から出そうになった。迂闊に口を開くと奈落の底にまで突き落としそうな恐怖がある。色んな意味で胃が痛い。
「今はそこまで気を遣う必要はないよ。自分が楽になる事だけ考えればいい」
肩に手を置いた。ジェイクは項垂れたままだった。どうしてここまで落ち込むのか。さっきまでと落差があり過ぎる。
「お言葉に甘えて、そうさせて頂くとするかな」
ようやくジェイクは顔を上げた。酷くやつれて見えた。やはり、まだ万全と言うには程遠い。いや全く回復していない。むしろ更に悪化している。
「色々気を遣わせたな。来てくれて、話が出来たお陰で随分楽になったよ」
信じられないくらい朗らかな顔で笑っている。たった今まで貼り付いていたあの表情は何だったのか。感情の振幅が激しくなって来ている。兆候としてはあまりよろしくない。
関わっている人間の一人として、いや一人の友人としてジェイクとどう向き合うべきなのか。今考えるべきなのはそれだった。一人にすべきか側にいるべきか、どうすればいいか判らなくなる。
「一つだけ、いいか?」
目が合った拍子に笑ってみせた。虚を突かれたのか、一瞬呆けたような表情を見せたがジェイクもつられるようにして笑った。
「一人で抱え込むな。これはお前一人で解決すべき問題じゃない。今俺達が抱えているものは関わっている全員で 解決するもんだ。一人で太刀打ち出来るような代物じゃない。それくらいは判るだろ?」
ジェイクは何も言わずに頷いた。俯けているせいで表情は窺えない。
「ああ、それは重々承知してるよ」
表面上の言葉の意味だけ理解しても仕方がない。行動が伴っていないならば、周囲にいる誰かがそれを矯正するしかない。
「また明日も来るよ」
軽く肩を叩いた。返事はなかった。
「そうだ、飯はちゃんと食えよ」
「ああ、判ってる」
とても判っているとは言い難い雰囲気だった。こういう時、酒が呑めるような輩はそこに逃げ込むのだろうな。かつての自分がそうであったように。それも随分昔の話だが。
戸にかけようとしていた手をポケットにしまった。椅子に深く腰を据えているジェイクの前を素通りすると台所に向かう。戸棚を開けて中を見る。肉に野菜に魚に米、予想に反して必要な食材は一通り揃っていた。野菜にしてもジャガイモや玉葱のように常温で保存が利くものが主だし、肉も魚も干物にしてあった。
「皆さん気が利くな」
「全くだよ」
いつの間にか台所の入口にジェイクが立っていた。片手に酒瓶でも持っていたらそれなりに絵になりそうな構図だった。
「みんな、何日かに一度は顔を見に来てくれるよ」
そして手ぶらで来るような事もないのだろう。これがその証拠だ。
「落ち込むのも程々にして、少しは元気だせよ」
「そうだな」
気にかけてくれる人がこんなに大勢いるのだから、それだけ慕われている、愛されている顕れだろう。元気だった頃は奉仕活動の一環で農作業をよく手伝っていたし、学校では道徳を教える事も多かった。子供を預かる事もあったし、預ける親もかなりいた。そういう時は教会が託児所に見えたものだ。街の住民にはそれだけ身近な存在だった。その姿がめっきり見られなくなれば誰でも心配する。世話になった経験のある人からすれば尚更だろう。
確かに非常に小さな街だ。だがその分人と人の繋がりは強固だった。この街に来た事は間違いではなかった、改めてそう思った。
まな板を水で洗うと玉葱の皮を剥く。
「おい、何を……」
「ここまで来てるんだから何をするかなんて想像つくだろ」
こうでもしないと飯を食わない。まるで大きな子供の面倒を見ているようだった。ま、悪くはないな。全く、いつからこんな世話好きになったのか。そんなに古い話ではないか。
「酒のツマミが出て来そうだな」
「そんなところだ。この際だから贅沢は勘弁してくれ」
ここに酒がないのが残念だが、少し多めに作って余りを少し頂くとしよう。こういうのも悪くはない、そんな風に考えながら鍋に油を落とした。




